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主に毛利元就から浅野長勲までの戦国~幕末までの安芸の歴史について語るサイトです。
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1月26日 市子様、返信いたしました。


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更新記録と雑記
更新記録と雑記その2

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戦国時代の安佐南区

そういえば、戦国時代の安佐南区(旧佐東町・安古市町・沼田町など)は
元就さん直轄領なのである程度貫高がわかるなあとちまちま調べることにしました。
なのでちょっとずつ更新していきます。ついでに他のも載せときます。
安佐南区は山がちなの低地はほぼ変化なしのはず。
併せて現在地も特定していこうと思います。
以下は広島県史資料編古代・中世Ⅳからです。

●単位
1町=約10000㎡   (1辺が100m) 学校の運動場ぐらい
1段=1反=約1000㎡(1辺が31.5m) 学校の体育館ぐらい
更に「大」や「半分」「小」といった区分けが安芸では使われていたようである。

(1)佐東郡
①安佐南区祇園
  下安
  内 田1町8段大         佐藤就綱         天文23年3月14日(元就書状)
②安佐南区長束
  内 中須賀 田6段       伊藤半左衛門景尚   天文23年8月5日(奉行人連署)
  内      田8段半分     伊藤半左衛門景尚   天文23年8月16日(元就書状)
  
不明
 北庄
 内 黒瀬脇かな口 畠5段    伊藤半左衛門景尚   天文23年8月5日(奉行人連署)
 内 畠9段分             伊藤半左衛門景尚   天文23年8月16日(元就書状)
 南部
 脇ひはくひ 畠1段         伊藤半左衛門景尚   天文23年8月5日(奉行人連署)
 同 脇 宗清畠2段         伊藤半左衛門景尚   天文23年8月5日(奉行人連署)  

③安佐北区後山
  内 西名 田1町9段大     佐藤就綱         永禄4年6月28日 
  同 迫名 内田1町2反小    佐藤就綱         永禄4年6月28日

(2)阿南郡(東区~呉市)

不明   
山ノ内西名田1町1段小      佐藤就綱 天文23年3月14日

「江戸時代の天文学」展感想

「江戸時代の天文学」
という天文&歴史という私の関心を思いっきり揺さぶる企画展を広島城でやっているのでお正月に行って参りました。
広島城。
外国人観光客が以前よりも増えていて驚きです。
英語表示がないので日本人が体験しているのを見て真似されてそこそこ楽しんでるようなので、
体験の所だけでも英語表示があるとよいかもなあと思いました。

それと、お正月休みだったので里帰り民や親戚の付き合いで来られたような方が多く、
「初めて来たけど、意外と広島城楽しいね。」
「久しぶりに来たけど、広島城すごいね。」

と他所の城と比べても面白いと言っていらっしゃる方が多くて嬉しかったです。
歴史にあまり興味無いけど他に行くとこないからとりあえず来てみた方が多かったです。

さて4階企画展示のフロアです。
まず目に着いたのがでっかい星図。「天文分野の図」
全天の星を描いたものですが、これ江戸時代前半のもの。
良く見ると星座名や星座線が全然違っていて何が何やらよくわからないことになっています。
一等星も二等星もごっちゃだから見えにくいんだろうなあと思います。
所蔵は山口県立山口博物館・・・・・。
ええ!こんなんあったんじゃ!知らんかったです。

書かれた方は渋川春海1639年生まれ。
・・・おおう、幕府が出来てまだ30年ぐらいの頃かあ。
ううん、でもこの名前どこかで聞いた気がするんじゃけど。
説明には
「幕府の囲碁指南役の安井算哲の息子として生まれ・・・」
あ、確かこれ小説で読んだ!そうじゃ「天地明察」じゃ!!
この小説面白いよ!と碁会所で薦められて一気読みしたんですが確かに面白かったです。
そして私が「初手天元の元祖の御方!!」と尊敬した方でした。
最近天元打たなくなったから忘れてました。
そうだ、初手天元で始まる打ち方を宇宙流というのはこの方から来ているんじゃった。

その隣には「天文成象」、これは横にびらんと星座を並べたもので、
天の川付近のサソリ座やいて座の南斗六星はみつけやすかったです。
星座線がこれは変わらないのだなあと思いました。

そして江戸時代に出された天文書「天文瓊統」も展示されていたんですがこれぶちすごい!!
太陽と月の位置や、月の満ち欠けは公転によるものだと説明してあって、
これが江戸時代前半!!1600年代!!
と驚きました。というのも、「春霞集」が編さんされた1570年頃、
元就さんが
「地上は曇りだが雲の上に行けば月が煌々と明るいのだろうな」
と詠んだ和歌を三条西さんは
「月が見えない時は雲のどこかに宿っているからでしょうに、不思議な歌ですね」
と批評しているのです。
つまり三条西さんは月は雲と同じ高さにあるものと思っていたようで
当時の都人ですら天文知識は平安時代となんら変わることがなかったようです。

ところが、その100年後には月は雲どころか宇宙に浮いていて、
丸い地球の周りを周っていると西洋や中国の天文学を交えてそこまで理解できるようになった。
ガリレオガリレイが月が天体であると発見したのが1609年。
渋川さんのわずか一世代前なのでガリレオにつけられた異端者の烙印はまだ消えていません。
1737年まで葬儀が行われなかったことからそこまで禁書に近い扱いだったはず・・・。
しかも当時は鎖国により西洋の書物は手に入りにくかった時代。
そんな中、奇跡的にもガリレオの「天文対話」を手に入れることができたのはすごいなと思います。

ただ、この「天文対話」は地動説を唱えてはいけないと言われた後に書きあげたものなので
「天文瓊統」は太陽系の図が妙なことになっています。
太陽を中心に地球以外の全ての惑星が公転し、月も地球の周りを公転してるのに
地球だけが公転せずに書かれています。
ガリレオが泣く泣く削った箇所がそのまんま出ているのだろうなあと思うと切ないです。

その横には出ました伊能忠敬の日本地図。
広島に伊能忠敬が来て測量した時の様子を描いた絵巻が残っています。
海沿いを渡ってきたので、三津浜、竹原、鹿老渡となど風待ちの港の名前があります。
宮島では大願寺に泊ったようで、勝海舟も大願寺で講和会談をしていますし、
当時幕府の関係者は大願寺が宿所になったのかなと思いました。

何故測量が天文に関係あるかというと、星の見える位置は緯度によって変わります。
見えている星の高度が1度変わった場合、その間に南北に移動した距離が分かれば
地球全体の1周の距離が分かることになり、正確な地図を作ることができます。
なので伊能忠敬も天文学を学んでおり、その関係で今回展示されているようです。

・・・一般の方はこの日本地図は「わあすごいね」と見てましたがあとのは素通りしていて、ああ勿体ない!
「そこに宮島の地名があるんですよ。」「ほらここにおり姫星ってありますよ。」
と言いたくてうずうずしましたが我慢しました。
会期が2月まであったらお子様達を連れてきたかった・・・。絶対楽しいと思うんですが・・・。
翻刻文が多いのでまた主任に却下されそうだなと。

あと象限儀の説明で萩の明倫館所蔵のものは鹿老渡の人が作ったものらしいです。
写真撮っとけば良かった・・・。
明倫館のは写真撮り放題なんです。
で、何で倉橋島の突端の小さな町の鹿老渡の人が象限儀を作ったかというと
伊能さんが立ちよった場所だというのもあるそうですが
色んな交流から生まれたもののようです。

天文学に限らず研究は色んな意見を交えることで深まります。
だからなのか測量図の次に伊能忠敬と研究者との交流ということで
頼春水とのやりとりの手紙がありました。
伊能さん元の身分もあって純朴な人柄がにじみ出る字でした。
他にも伊能忠敬の師、高橋之至やその息子の景保、
月のクレーターに名を残している麻田剛流や
計測機器を開発した間重富ら天文の歴史学で出てくる方がいっぱい。
大学でちらっと本で見たなあというレベルだったので
解説が分かりやすくて助かりました。

ただそれらは主に大阪の話。
広島はどうであったかというとわずかに資料に残るのが武田さんらしいです。
彼は大阪の書店でふらっと立ち寄ったときに間さんに出会い、
話が弾んで他の研究者仲間に紹介してもらったそうです。
師としても慕われていて私が探していた厳島神社の算額は
彼の功績を伝えるために弟子らが奉納したようです。
算額!!
図形問題じゃ!!

と解こうと思ったんですが字が小さいのと薄れて私は読めませんでした・・・。

あと桑原卯之助さんも彼の弟子らしく、通りでベルヌーイの定理を理解しているはずだと納得しました。
八木用水は取水口と用水路の幅が均等ではないのです。
水の流れをよくするために出口を細く設計していて
一介の大工(先祖は武田家臣?)にしてはすごいと思っていました。

あと気になったのが月面スケッチ
妙なんです。これ。
月の裏側は細かなクレーターに覆われ、海のような大きなものはありません。
通常、月の裏側は見ることはできないのですが、江戸時代にスケッチされた2枚のは
真ん中に細かなクレーターの山脈があり、片側はのっぺらでもう片側は海が見えます。
江戸時代の月も裏側は見えるはずないのですが、裏側が半分見えているような図で
いなげじゃなあと思いました。

江戸時代の天文学すごいなあ!!
と感動していた私を最後にがっくりさせてくれたのが三球儀。
ペリーから送られたものではないかとされるものですが、
これ、理科室にある!全く同じじゃん!
ろうそくを電球に変えただけじゃろ!!
200年も教具が変わっとらんってどういうこと!?

しかもこれ月の満ち欠け分かりにくくてうちよう使わんやつ。
と科学技術の進歩と教具の進歩のなさに愕然としました。
まあそうですよね。
この時代に未だにカセットCDラジカセが現役、
図書カードも未だ記入式、理科室にエアコンないですから。
うん・・・。

「毛利と織田戦争と備後の国人」感想

10月18日に福山の県立歴史博物館の講座に行ってきました。
「毛利と織田戦争と備後の国人」という題で、
講師は毛利博物館の館長代理の柴原直樹先生です。

先生は地元、福山出身。
「広島県の場合、歴史が西高東低で、
 安芸の方は毛利氏を中心に盛んに研究されている一方、
 備後はあまりぱっとした国人が浮かばない
 そもそも軍記物にも登場することが少なく、
 それは現代のゲームを見ていても同じだ。
 地理で見ると高梁川が備後の唯一の防壁で
 ここを崩されると秋まで一気に攻め込めるので崩壊してしまう。
 備後の国人達は戦国大名毛利氏にとってどのような位置づけだったのか。」

と仰られてでした。
確かに、最近戦国系のゲームで毛利も大分出るようになりましたが備後の国人ってほぼいません。
そもそも誰が備後にいたのかよくわからず、私が知っているのは宮氏、杉原氏ぐらい。
幕末の長州藩で高須さんが出てくるので高須はわかります。
それでもどんな活躍をしたのかは具体的にはよくわかってません。

ということで初めに毛利元就が隣国・備後をどう思っていたか。
「我等の事、数年芸備石国衆申し合い、すいちく仕り候」
(毛利家文書549号)

から元就さんは安芸と同様、石見も備後も枢軸となる国だと考えていたようです。
元就さんの本拠、吉田はどちらかと言えば備北に近く、
備後の甲山や吉舎の人も病院は吉田まで行くぐらい。
町の人も文化も吉田に近いんだそうです。

あ、ついでにこの549号ですが、
文字が斜めで細いので体調が悪かったのだろうと先生仰ってでした。
輝が
「僕も大友攻めしたい!!」
と言い出したらしく、じいさまの元就さんが
「いや、みんな行っとるんじゃけえ行く必要はないけえ。」
と説得している手紙なんだそうです。

・・・・輝。じいさま休ませてやりんちゃいや。

ところが、4男の元清は
「備後衆者表裏なる衆にて候」
(毛利家文書847号)

と不信感丸出し。

・・・広島県民を分断する例の書状
いや。そがいには思っとりませんけえ。
方言もイントネーションも違ってても同じ県民じゃと思いよりますけぇ。
備後民の先生に言われると何だか心が痛みます。

元清のは天正7年に出したものですが、何でそう思ったのか。
それには和智さんの事件が関係するようです。
和智さんは陰徳じゃと隆元を毒殺したから後に誅伐されたとあるのですが
「隆元は当主。当主が殺されたのに何もしないのはありえない。
 和智氏の事件は5・6年後なのでそこまで放っておくことはない。」

と仰ってでした。
和智氏は備後山名氏と交渉可能な家で備後衆の取りまとめ役。
毛利とも早くから同盟を結んでいた家で、高橋討伐の頃からの仲です。
あまり強引なことはしない元就さんが珍しく強引な手を使っており、
時期的にも、隆元死去、元就さん自身体調を崩し、
跡継ぎの輝元はまだ16歳。
和智氏の扱いが輝元には重いかもと消したのかもしれませんが
まだこの事件の時に20代だった元清が多大な不信感を抱くような
何かがあったんではないかとのことでした。

・・・元就さんは家臣の粛清は一番してはいけないことだと手紙で述べているんですが
和智兄弟も最初から殺すつもりではなかったようで
棚守さんの話を聞く限りでは、
何らかの事件を起こした兄弟が証人喚問を受けて厳島神社に抑留され、
拘留場所から逃げ出して本殿に立てこもったので仕方なく番兵たちが討ち入り、
兄弟は討ち果たされたらしいです。
なので何か事件を起こしたのは確かなのですが、
殺してしまったのは不慮の事故だったのかなあと。
で、この時期で毛利を裏切るようにそそのかしたのは誰かというと大友かなあと。

で、織田との戦いですが、備後自体は平和で
甲山や世羅の国人が織田との戦いに駆り出されたようです。
対尼子の籠城戦の時には領地から交代で城番を出しており、
無理はしないでねといいつつも無理しながらの持久戦。
それは上杉も同じで似たようなことは全国でしていたようです。

で、その出張のとりまとめをしていたのが和智さんの代わりに台頭した上原さん。
湯浅家文書36号隆景書状によると、
対織田戦争で岩山(場所不明。庭瀬の側?)城に籠っていた
備後国人の湯浅氏が
「仕事しとるんじゃけえきちんと褒賞をください・・・。」
と所領の要求があったそうです。
嘆願手順は湯浅→上原→隆景→輝元で、
上原氏が備後衆の取りまとめをしているのがわかるんだそうです。

そこで毛利方は宇喜多の備前・美作を落としたら300貫やると約束。
ようはまだ敵の領地なので戦に勝ったら褒賞をやるという約束手形です。
負ければただ働き。
今までの大内・尼子の時にはこのようなことはなかったそうですが
対織田は約束手形を出すことで戦いを乗り切ったそうです。

因みに、織田や秀吉は国人衆の離反を促すために
味方になれば1国をやると豪華な報酬をちらつかせてきます。
しかし、毛利は300石、村1つ分の地味な約束手形。
それでも境目の国人は毛利のつくことが多く、
織田&秀吉は調子が良すぎて信頼されなかった
んではないか。
と仰ってでした。

・・・確かに、黒田官兵衛などは逸話からすると播磨一国を約束されたようですし
秀吉のやり口だと絶対そう誘っているんでしょうが、結局一国を貰うことはなかった。
そもそも日本は60カ国しかないので、侵攻する国々でそんな約束していたら国が足りんなあと思います。

また、毛利方は備中の城に備中の国人衆だけではなく備後の国人も一緒に入城させています。
備中方は裏切ることがしにくく、備後も周囲に近所の国人衆が在城しているので
1人抜け駆けすると地元に帰れなくなる。
人間関係によるしがらみで防御していたのですが、意外とこれが効いたようで
岡山に入ってから秀吉の進撃は止まり、備中に入るのに2年もかかったんだそうです。

・・・きちんと調べてみると意外と秀吉は快進撃ではないんじゃなあと思います。
三木や鳥取などの敗戦が歴史上は大きく取り上げられるから一方的に圧されて見えますが、
備前・備中は一進一退ではあるようです。
こないだも美作と美中の境目城の論文みましたが毛利方が勝っていましたし・・・。

ところが、天正10年、上原元将は秀吉の調略になびきます。
上原が寝返ったために備後衆も動揺したようで
備後国人の湯浅さんも守っていた岩山城を命令なく放棄し
後に詮議されたようで書状で弁明しています。
それが湯浅家文書90号。それによると
「岩山城を引いたのはしかたない。
 長井(吉田衆・毛利家の直臣で検臣)に上原から
 裏切るよう命令された手紙を見せたのだから私が裏切る筈がない。
 岩崎(輝元のいた場所)に送った使者が戻るまで待とうと私は言ったのだが
 長井は周りが全て寝返ったのかもしれないし逃げるべきだと言ったのだ。
 長井に念書も書かせている。」

とあり、上原は裏切る時に周辺の国人である湯浅らも誘ったことがわかります。
ただし、誰1人として上原にはなびかず、どの城も落ちませんでした。
備後衆の取り次ぎ役だった上原元将ですが
検臣である長井や口羽が思っていた以上に人望が無く、
和智ほどの家格も高くなかったため、
取り次ぎ役として上に立てたのも毛利の威光あってのもの。
逆に裏切った備後勢を備中勢が奮戦して追いだしたところもあるそうです。

・・・上原さん、己の牽制が毛利の威光有りきだと理解できんかった時点で
ああ、そりゃあ備後衆の頭目として認められんかったんじゃろうなあと思います。
だからこそ、器量不足を埋めるために元就さんも娘を嫁がせたんでしょうが
やっぱり駄目じゃったんじゃなあと。

・・・それと、「人は石垣~」で始まる言葉がありますが、ほんまにそうなんじゃなあと思いました。
先生は国人達のことを
町内の自治会長だと考えてもらえればいい。
 お役目御苦労さまの手紙は草取りに来た人にジュース配っているのと同じ。
 隣の町内会との関係があるから1人抜け駆けなんかできない。
 もし勝手に帰国したら「あいつんとこ帰ったらしいよ。」と孤立する。
 そして、如何に地域が活性化するか、地域を守るかのために考えている。」
と仰ってましたが、なるほど言い得て妙だなと思いました。

最後に、毛利から見た備後国人ですが、
基幹国ではあるが、一心同体ではない
如何に裏切られずに味方にするか考えなければいけない相手だと
先生はまとめていらっしゃいました。

あ、あと裏切った上原さんは草野さんに討たれたそうです。

・・・別説だと元就さんの娘が旦那の上原を刺したという話も残っています。
まあ、「私がいるのに毛利を裏切るの!!」となるでしょうなあ。
人質にされたらその時点で戦終了ぐらいの重さですし。

あ、因みにこの娘さん、「こうざん」(甲山)という名で書状に出てきます。
上原氏の居城があった備後の所の地名です。
ですが、戦争中の備中に夫と一緒に在陣していたようで、
元清が姉妹である「かうざん」の事を心配しています。
そういう元清も奥さんと一緒に備中猿掛城におり、
秀元はそこで生まれています。
毛利家唯一の岡山県生まれの武将です。
長期出張とはいえ戦線に近いとこに夫婦で行くって
対大内・尼子の頃には文献で見られないので
対織田は何故そんな危険なことをしているのか謎だなあと思いました。

今回は備後出身の先生だからこそ語られる視点がいつもと違って勉強になりました。
同じ広島県としてもっと備後のことを知らねばと思いました。

「小早川隆景と乃美宗勝」講義録

6月8日に三原の市民福祉会館であった秋山先生の「小早川隆景と乃美宗勝」の講義録です。

1 小早川隆景と乃美宗勝の概要。

まずは2人の概要からでした。
「もう皆さん詳しく御存知でしょうからわざわざ言うまでもないのですが。」
と先生言われてましたが、まずは隆景の説明からでした。
小早川隆景は(1532~1597)で関ヶ原の3年前に死去しています。
織田信長は(1534~1582)、秀吉は(1537~1598)でほぼ同世代にあたるそうです。
毛利元就の3男で、毛利両川の1人、天正10年以降は豊臣大名として活躍しました。

隆景の家臣団は
   ①竹原小早川や沼田(ぬた)小早川の家臣
   ②毛利からつけられた家臣
   ③新参の家臣
など様々出自から成り立っています。
今回はその筆頭にあげられる乃美宗勝についても詳しく話をされてでした。

乃美宗勝ですが、天文16年、隆景がまだ徳寿丸と名乗っていた時代から仕えています。
忠海(ただのうみ)の賀儀城城主で菩提寺の勝運寺が今でも忠海にあります。

・・・豪雨で被害を受けた地区でもあり、寺社の復興が未だできていません。
何とかできれば良いのですが・・・。

乃美宗勝は浦宗勝とも呼ばれます。
地元の人は「浦」と呼ぶそうですが、史料で出てくるのは「乃美」だそうです。
ですから乃美が呼び名だろうと仰ってでした。
乃美宗勝と隆景は
「主従関係というよりも、二人三脚に近かったのではないか。
 宗勝には様々な顔があり,勇将であり智将であり交渉の名人であった。」
今回の講座はそういうわけで宗勝さんを中心に話が進みました。

今回の講座で使っている史料ですが、
宗勝の家は萩藩主に仕えた次男景継が浦家文書72通を持っており
それは「小早川文書」に附録で載っているんだそうです。
また、「閥閲録」には浦図書家が107通持っているものが載っているそうですが。
この2家は重複する文書もあって単純に足し算した数が書状数になるわけではないようです。
最後に景継の弟・景義が細川家に仕えた関係で「新熊本新史」に
「乃美文書」が収録されており上の2家と1通が重複しているのだそうです。

・・・・「新熊本市史」が時々出てくるので、何でじゃろうと思いよったんですが、
なるほど宗勝さんの子孫がおったけえ何ですね。知らんかったです。

次に乃美氏の複雑な系図のお話がありました。
乃美氏には大きく分けて3系統あるそうです。

まずは初期乃美家(乃美①)
豊栄町乃美(吉田に近い)を本拠にした沼田小早川の庶家で
嘉吉元(1441)年、乃美三郎が存在するのを書状で確認できるのだそうですが
小早川の誰の子から分かれたのかは不明なんだそうです。
後に乃美から浦と名をかえる原因ではないだろうかと仰ってでした。

次に「乃美大方」の実家の乃美家(乃美②)
初期乃美家は文正元(1466)年、乃美員平が総領に反抗し
領地は没収され没落します。
乃美の地は小早川煕平の子、是景に渡され、
彼が乃美を名乗ります。
是景の後、家氏→弘平→隆興と続き、
隆興の妹が毛利元就後室の乃美大方にあたります。

当然、初期乃美家(乃美①)の一族はこの扱いに納得できず、
長亨元(1487)年まで長いこと抵抗したそうです。
沼田小早川家と戦う員平の子「乃美家平」を大内政弘が応援していたようですが
家平は領土復帰することができず、政弘から熊毛80石をもらい、
竹原小早川家に親類扱いをしてもらったそうです。

それから「乃美宗勝」の乃美家(乃美③)
瀬戸(音戸の橋のあたり)に本拠を移した乃美で、
乃美の家が瀬戸の名を持つのはそのためなんだそうです。
宗勝はこの瀬戸の乃美家なので「瀬戸新四郎」と名乗った時期もあるそうです。

以上3つの乃美家があるのですが、
どうして乃美が浦を称するようになったのかは謎に包まれているんだそうです。
因みに、浦というのは三原から竹原までの海沿いの地域をさすんだそうです。
丁度、忠海もそこに含まれ、「浦」を領地にしていたのは間違いないようです。

そして乃美家には系図の謎があります。
1つ目は、宗勝祖父の家氏
彼は後世、寄組浦家の系図(乃美③)では、小早川宣平7男が浦を名乗ったとされ
浦家氏が乃美家の養子になって乃美を継いだとされています。
一方、寄組乃美家の系図(乃美②)では、家氏は是景の息子となっており
宗勝父の賢勝が浦の養子になったとあります。
  
2つの系図に食い違いがあるのですが、
「家氏は浦家出身で乃美を継いだほうが正しいのではないだろうか。」
と先生は仰ってでした。
というのも「氏」は浦家の通り名なんだそうです。
 
2つ目は宗勝の父・賢勝です。
寄組浦家(乃美③)では、賢勝は家氏の息子で浦の養子になっています。
しかし養子に入ったのに、養家の浦ではなく実父の乃美を名乗ったと系図には書いてあります。
「浦ではなく乃美を名乗ったとあるが、これはおかしいのではないか。
 賢勝が浦を相続した事実はないのでは?
 江戸時代に浦家が系図合わせのために作ったのでは?」
と先生仰ってでした。

というのも「浦興氏」という人物が存在するのです。
京都の下級貴族で鋳物師司の真継家文書にでてくる人物で
乃美③の系図には名前が出て来ないんだそうです。
沼田又鶴丸を巡る事件に巻き込まれ浦は隆景に討たれ断絶したのではないか。
「浦」の領地を宗勝が貰っており、そのせいで「浦」と混同したのではないか。
と仰ってでした。

・・・ううん、編諱からすると「興」は大内方のような気がするのですが
途中で尼子に鞍替えする方もいらっしゃったし・・・。

で、「浦」だった乃美③は宗勝の孫・元種から浦に戻っているんだそうです。
萩藩は早くから歴史編纂をしてきており
乃美家は小早川家から分かれているとは伝わっていても
系図で証明できなかったのですが、
先祖(賢勝)を浦の養子にすれば宣平7男まで繋がるので
「浦」と「乃美」の混同が起きたのではないかと仰ってでした。

乃美一族についてもう少し詳しく見ると
  ①家氏
    明応2(1493)年~天文5(1536)まで乃美備前守を名乗る。
    天文12(1543)~備前入道と名乗る
    ※天文11(1542)年段階では賢俊の名で出てくる。
      時期的に、興景の死を悼んで出家したのではないかと仰ってでした。
  ②賢勝
    小太郎
    備前守を名乗るのは父の出家後天文11年以降
    天文22年11月~天文23年9月の吉見攻めに参加し
    天文23年10月23日 大内義長から恩賞
           11月18日 石見での戦いで軍忠状を貰っている
    これを最後に書状から姿が消えているんだそうです。
    石見の戦いが最後の書状ですが、軍忠状が残っているので
    陶に殺されたわけではないだろうと仰ってでした。

  ③宗勝
    賢勝4男(大永7年~天正20年)隆景より6才年上
    幼名は「万菊丸」
      ※閏3月大内義隆の書状に「万菊丸」の名があります。
        閏3月があるのは天文11年。
        また、義隆花押も天文11年頃に使っていたものなので
        元服前の宗勝16歳のものと考えられるんだそうです。
    元服後、新四郎と名乗る。「瀬戸新四郎」の名でも見られる。
    「宗勝」の名は天文15年徳寿丸書状が初見
    天文18年「兵部丞」と官命を名乗る。
    ※備後南部で大内方として戦い、手柄を立てたので
      褒賞として官位が上がった。

[2]隆景の小早川相続
  ※元就が進んで小早川家を継がせたという風潮が強いがそうではない。
    むしろ望んでおらず、本当は嫌だった
    何度か断っているのはポーズともいわれるがそうではない。
    竹原小早川は大内と尼子の最前線であり
    10才になるかならないかの末っ子を送りだしたくはなかった。
    母親はもっと心配していたのでは。
    大内義隆は月山敗退後、弘中を安芸支配のトップとし
    隆景を竹原に送り元就の力を借りようとした。

  〈1〉相続から厳島合戦までの流れ
    天文10年 小早川興景の死
    天文12年 12歳の徳寿丸が竹原小早川相続     
    天文16年 徳寿丸初めての書状
            元服前なのでまだ感状は出せず花押もない
            鞆と手城を根拠とし、神辺の尼子方と戦っていた
            大内より竹原小早川は水軍としての機能を期待されていた。
    天文17年 10月以前  隆景と名乗る。
            神辺の戦いは大内から期待する以上の働きをした
            恩賞は家臣に分け与えられた
            →伝達は乃美宗勝
              恩賞を与えるのは軍事指揮権と同じ。
              宗勝は隆景の代わりを務めていた。
    天文23年 5月12日  防芸引分
            6月19日 吉見後巻として水軍200~300艘で富田若山城を攻撃
                   ※厳島から100kmぐらい。
                     攻撃後すぐに引き返す電撃作戦
            6月22日 晴賢は浅海(在番)に感状を出している。
    
    ※注目すべきは厳島合戦よりも前に富田若山城(周南)を攻めているところです。
      厳島合戦より前に宮島よりも西の海域にも攻撃を加えることはできないのでは?
      長いことそう思われていたので、 6月19日の攻撃は弘治2年以降のものとされてきたそうです。
      一応、天文23年に富田若山城を攻めたというのは「棚守房顕覚書」にも書いてあるのですが、
      房顕の記憶違いではないかと往来思われていたんだそうです。
      おじいちゃんなので記憶違いが時々ある。
      しかし、富田若山城は弘治3年3月8日に落城しており、
      浅海に宛てた陶晴賢感状には天文23年とあることから厳島合戦以前に
      毛利の水軍が富田若山城を攻めたということが証明できるそうです。
      
      富田若山城は陶の水軍基地でもあり、本拠です。
     厳島から100kmぐらい離れており、攻撃の後すぐに引き返しました。
      この電撃戦は宗勝の考えではないかと考えられるそうです。
      というのも弘治2年3月の閥閲録の赤川家の書状に
      富田若山城を海から攻めるべきだと提案があり
      「乃美物語子細候つる」とあることから、
      恐らく宗勝の考えだろうと仰ってでした。
    
    弘治元年 厳島合戦
            宗勝、来島水軍の来援に成功する。
            ※しかし村上武吉は来ていない
    弘治3年 須々万城攻め
           岩国から玖珂まで一気に攻め入れたが須々万城で足止めされる。
           弘治2年4月から攻めるが1年近く落とせなかった。

           3月 3日 落城
            隆元は隆景と乃兵の調略の結果だと述べている。(毛利家文書584)
            降伏した陶家臣の江良弾正忠はその後、山口攻めで大活躍した。
    
           3月 8日 山口進軍
           3月12日 義長、内藤隆世(隆元の義父)と共に長門へ
                  宗勝が追討。
           3月15日 下関・勝山城に義長立て籠るの報を宗勝が届ける。
           3月19日 元就、長府・赤間関の軍勢狼藉禁止を宗勝、志道、福原に命じる。
                  ※宗勝はいち早く赤間関に到着し、海峡を封鎖したのでは?
           4月 2日 内藤隆世自刀
           4月 3日 大内義長自刀
                  大内氏滅亡

・・・海峡封鎖や、海からの電撃作戦。
ちぎれたるもののふのイメージでしたが、
調略もできるしすごい人だったんですね、宗勝。

で、防芸引分で活躍した宗勝ですがその後も水軍の要として活躍します。
永禄年間になると中国地方だけではなく九州や四国とも戦になります。

門司城(古城山)は関門海峡を支配するために必須の城で
大友からしつこく攻められますが、そのたびに押し返しています。
残された感情は偽文書ではないかと疑いたくなるほど宗勝は大活躍をしました。

北九州が少し落ち着きかけた頃、今度は伊予・河野氏から救援依頼を受けます。
この時宗勝は門司城に在番しており、隆景は
「安芸に来て伊予の事を一緒に話したいが、
 あなたが門司から抜けることはできないし
 私からは絶対に来いとは言えない。」

と宗勝が大友の抑止力になっていることが分かります。

永禄7年に立花城を毛利が取ると
大友氏は尼子勝久、大内輝弘を中国地方に送りこみ
尼子・大内の残党軍を挙兵させます。
能島村上もこの時離反し、毛利は危機的状況に陥りますが
宗勝は殿を務め、長門まで無事に戻ることができました。

・・・立花城の戦いでの宗勝の活躍は知っていたのですが
門司城の在番も宗勝だったのですね。知らなかったです。
門司城含め北九州の攻防は本当に激しく、
最後までよく耐えきったなあと思っていたのですが
宗勝の活躍あってのものだったのだなあと改めて思いました。

結びに、
「海軍とは制海権と戦力を上陸させるためにあります。
 アメリカの場合でいえば空母などがそれに当たります。
 乃美の水軍は機動隊であり、
 例えるなら小早川警固打撃軍ではないでしょうか。」
と仰ってでした。

・・・毛利の場合、水軍は吸収合併して数を増やしているのですが
広島湾周辺だけでも川内水軍、白井水軍、野間氏、
多賀谷氏など中小規模の水軍がひしめいており、
それらの水軍は合図も隊形も異なっていたのではと思います。
なので弘治年間~永禄年間のわずか10年では
大軍を動かすよりも自軍の統率力の取れた水軍を使う方が効率が良いと
宗勝も思っていたのかもしれません。

それから最後に
大内が補強のために無理に組ませた隆景&宗勝のコンビが
大内を滅ぼしたのは歴史の皮肉のような気がしますと仰ってでした。
元就さんは隆景を養子に行かせるのは反対だったと伝え話ではきちんと残っています。
書状からも確認でき、よくある「雪合戦」の逸話は後世に作られたのだろうと思うのですが
そう思われるぐらい隆景は大活躍をし、
その活躍を支え続けたのが宗勝なんだなあと思いました。

水軍はやっぱり面白いです。
           
         
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