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主に毛利元就から浅野長勲までの戦国~幕末までの安芸の歴史について語るサイトです。
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2月20日「永禄聞書~毛利元就の謀~」追記

2月22日 一葉様、コメント遅くなり申し訳ありません。
       記事のページにコメントを返信いたしました。
2月20日 18・19日拍手ありがとうございます。
       ちょっと追記したいことがあったので蛇足かと思うのですが書いてみました。
       一葉様(反転して御覧下さい)
       すみません、玉木氏のその後の流れは萩なので私も詳しくは調べたことはないのです。
       萩藩閥閲録の中に恐らく玉木氏についての何らかの書状などが残っているかと思います。

2月18日 ううん、ブログの記事が証明書エラーだとか何とかで困っているんですが
       まあ、大きな問題はないというか運営の方での仕様みたいのなので
       ちょいと調べてみます。
2月17日 かわし様、コメントありがとうございます。返信致しました。
       13日拍手ありがとうございます。
2月12日 かわし様コメントありがとうございました。返信致しました。
       11・12日拍手ありがとうございます。
2月10日 4・5日拍手ありがとうございます。
       色々と悩むことが積み重なってて、色んな方に迷惑をかけてしまいました。
       解決していないことはまだまだありますが、
       それでもこの道を歩く以上責任をきちんと果たそうと思います。
       あの頃はまだ年齢制限があったので、
       私がこの道に就いた時に、誰かは夢を諦めた。
       何百人という人を蹴落としてまでなったのですから責任は果たします。
       「大友ぶっつぶそうぜ!」戦国時代の島津と毛利」
2月4日  29・30・31日1日拍手ありがとうございます
       くれーしーごなくれーしー
       「まって呉~瀬戸内海は美しい~」
1月29日 25・28日拍手ありがとうございます。
       「吉川家文書収録毛利元就和歌短冊2首」
1月14日 9日、13日、拍手ありがとうございます。
       それからツイッターの方にもいいねありがとうございます。
       「「息子から遊ぼうって誘われたんじゃ、ええじゃろ~!」by毛利元就
1月9日  こーじ様コメントありがとうございます。
       返信致しました。
       8日拍手ありがとうございます。
1月8日  つねまる様、コメントありがとうございます。
       返信いたしました。
       5・6・7日拍手ありがとうございます。
       「父さんへの贈り物by吉川元春」
1月5日  あけましておめでとうございます。
       本年も宜しくお願いします。
       とし様、コメントをありがとうございます。
       返信しました。
       12月30日、1月1日拍手ありがとうございます。
        織田と毛利の入魂「あけましておめでとうございます、ところで山中鹿之助って知ってます?」

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更新記録と雑記
更新記録と雑記その2

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永禄聞書「毛利元就の謀」


私が毛利元就を好きになった、惚れたきっかけは
その戦略の手際良さです。

丁度、碁を習い始めた頃でした。
最初はどんな地も殺したくなくて必死に打って石を助けようとしていました。
でも、アテられた1目を助けようと石を置けばおくほど、大石が取られて投了。
そういうことを繰り返すうちに、盤面の全ての石を救う事は無理で、
諦めなければいけないこともあると学びました。
株の世界でも何でも人は損をすればするほど
損を取り戻そうとのめり込んで引き際を見誤ってしまいがちです。
「小を殺して大を活かす。」
というのは勝負の世界の格言ですが、実行するのは至難の業です。
そもそも小を殺すと言っても、
本当に見捨ててよいものか、
無駄死にさせるのではないか
後々使えるように手をいれるべきか、
その見極めがとても難しいのです。
それにタイミングを逃せば小だけでなく大が死ぬことにもなりかねない。
生き死にの大切さを知ったぐらいに、ちょうど大河の毛利元就があり、
その戦略の凄さに戦慄してはまったのが最初です。
まだ中学生だったので今の様に専門書をかじることもできず
簡単な本しか読んでいませんでしたが、
できるだけ多くの国衆を味方に取り込んで穏便に進んでいく一方で
本城常光の誅殺による石見勢の進退の見極めなど
「小を殺して大を活かす」を実に鮮やかに行っていて
ああ、凄いなと真田幸村並みに感嘆しました。

当時は戦略とはいわずに謀と言っていたようですが、
謀という字は今ではあまりいい意味ではありません。
しかし、本来、政治も戦略も全てひっくるめた意味であったんだろうと思います。
だから、この書を残した隆景もこの部分を一番他人に知られてはいけないと思っていたのではないかと思います。
そして、これを手に入れようとした黒田官兵衛はここが一番知りたかったのではないか。
そう思います。

永禄聞書
小早川隆景が父・毛利元就の言葉を書き遺した書より


書き下し文
「敵国の謀
 敵国へ交わりを結ぶものは我が国に引き成す手立て肝要也
 敵国譜代の臣下にはあらず唯時の威に従ひ旗下に属する時自他ともに多し
 皆時を得ては立身せん心掛け也
 弓箭有りて末々頼もしき家に従ふ者也
 味方に引き成す謀有るべし
 敵国の臣下其の君を恨み或いは君臣下るを疑ひ
 或いは臣下と和ならず謀をかこすへし
 右三ヶ条人を使う者に非ずんば如何そ他国を我謀に従へんや」


私訳
「敵国への戦略
 敵国へと通じているものをわが国に引きこむことはとても大事である。
 
 敵国の譜代の家臣ではなく、権勢がある家だからただその下についているだけ
 というのは自分もそうだし、みんな大抵はそういうものだ。
 そういう者達は戦などで時を得ればそういう状態から抜け出したいと思っている。
 そして戦があったときに先々まで頼れそうな家に従うものである。
 だから味方に引き入れる調略を練るべきなのだ。
 
 敵国の家臣で主君を恨んでいる者や
 主君から疑われている者、
 家臣と家臣で仲が悪い時も調略を画すべきである。
 この3つの条件は人を使ってどうこうできるものではないから
 どうやって他国を私の戦略通りに従えるというのだろうか。
 そういうことでもない限り、私の思う通りにはいかない。」

国人衆の多くは境目なので、強き者に従うだけで
忠誠心はあまり高くはありません。
そもそも、大内にしろ尼子にしろ、他所の国。
ですから本来仕える筋合いはないのですが、
どっちかに従ってないと潰されるかもしれない。
そう思って傘下に加わっているだけであって
機会があれば今の状況を脱したいと思っている。
それは自分も他の国衆もそうだ。
と元就さんは言ってます。

・・・まあ狭間で苦労してますからね安芸国人。
それこそ南北朝から厳島合戦まで200年近く
二つの勢力のどっちに属するか常にニ者択一迫られてますから
そりゃあそんな状況から抜け出したくなるだろうなあと。

で、「弓箭有りて末々頼もしき家に従ふ」
戦国の世の習い、守護とか守護代のように力を持たない国衆は
ここぞというときに頼れるところに従う。
当たり前の事ですが、逆にこういう国衆は
駄目だと思ったら手のひらを返す様に離反します。
でも、こういう離反しやすいものたちを引き入れるべきだと
元就さんは言っています。
権威も血筋も特に秀でたものがない場合、数がものを言います。
一揆のように、みんなで力を合わせれば幕府にも対抗できる。
だから、離反しやすい国衆こそ味方につけて数を増やす。
「敵国へ交わりを結ぶものは我が国に引き成す手立て肝要也」
というのはそういう意図であるかなと思います。

元就さんの場合、分郡守護武田、守護大内、守護尼子という
国単位の相手が敵で、数倍の兵力差で戦うことが多かったのですが
いずれも勝っています。
兵力差がたった2倍でも2対1になるわけですから、
よっぽど優れた武芸者でもなければ勝てません。
「毛利が剛弓」という言葉が残っているように
弓兵が異様に強かった可能性もありますが、
元就さんが指揮していない時は布野崩れのように大概大敗していて
兵士が抜きんでて強かったというわけでもなさそうです。

よって数倍の兵力差を少しでも削り、
敵を同等かそれ以下の兵力にするためには
敵同士が潰し合いしてくれれば一番良いのです。
「孫子の兵法」にあるように本来城攻めは一番愚策。
攻めずに敵を滅ぼすのが上策。
よって、主君と家臣の間や家臣同士の不和というのは
内部崩壊を起こすためのよい切り口となります。
が、そもそもそういう諍いは人同士の関係なので
「人を使う者に非ずんば如何そ他国を我謀に従へんや」
人を使ってできるようなことではないので
他国を自分の戦略通りに動かすことはどうにも難しい。
と言っています。

離間の策は一番用いれば効果的であるけれど
それを自分から始めることはできない。
綻びがなければ攻める隙はない。

逆に、自分が守る時には綻びがないように
主君と家臣の間、家臣同士の間、
それぞれが上手に行くように心を砕いていた。
だから、宍戸隆家が見た毛利元就は
こまめに筆を取って、気遣いを怠らない
細やかな人間
に見えたのだろうなと思います。

あ、だからといってそういう風にわざわざ振る舞ったというのではなく
細やかな気遣いこそ国を守るものだという信条として行ったのではないかなと。
こう書くとまるで元就さんが人心掌握のために気遣いある人間に見せかけたように感じるかもしれませんが
ううん、何と言うか本当にその人を思って気遣いは行わないと
却って不信感を招きます。心の底から本気で思って気遣うよう心がけた。のかなと。

人と関わる時に一番難しいのは褒めること、良好な関係を築くことです。
特に大人で微妙な上下関係だと尚更・・・。
相手は大人ですから、下手なおべっかは見透かしますので
本当にタイミングを見極めて、心の底から褒めないといけないので
本当に難しい・・・。駄目出しする方がはるかに簡単です。

あと、元就さん離間の策をここぞという時に使っていますが
積極的に使って相手を滅ぼそうとしていたわけではないです。
そんなわけではないけれど、そうせざる得ないんだ。
と言い訳じみてますが、それが本心だったろうなと。

余談ですが、仕事モードと素の自分って分けない場合もあるのですね。
割と周りは仕事は仕事、自分は自分ときっちり分ける人ばかりなので
てっきり普通かと思ってたんですが・・・。県民性?なのでしょうか?
私も職場の自分と素の自分ではかなり差があります。
上に立つ者としての職責職務を果たせるほど
素の自分なんて偉くもなければ立派な人間でもありません。
でも、陣頭指揮するからには自分の振る舞いこそ正すべきですし
感情も極力コントロールして何が相手にとって最適なのか
一言一言考えて話しているので性格もかなり違います。
ううん、仮面かぶるわけではなく、そのものになる感じ?でしょうか。
そうでもしなければ、「戦場並みのストレス」と評された中で
まともな神経では働くことができませんでした。
戦国時代のストレスが全く同じとは思いませんが
似たようなストレスを抱えているならば
オンオフ切り替えないとやってはいけないだろうなと思います。

内面を書いた手紙も史料も豊富に残っているのに
昔から研究者に元就さんはよくわからん性格だと評価されてますが
オンオフ切り替えて仕事していたと思えば
分かりやすいのではないかなと思いました。

前:戦国時代の人質と統治
次:巫女の使い方・五謀

「大友ぶっつぶそうぜ!」戦国時代の島津と毛利

島津家久が
「八木の渡しで迷子になった!!」
といいながらも天正前期のどんぱちしている時に
安芸の国内を徒歩で旅行してる話や
隆景が有馬温泉で休養中に島津家宛てに
「有馬なう。秀長殿と一緒に湯治中。」
と手紙を書いていたり、
九州平定の仕置きでは島津との交渉は
恵瓊と隆景があたっていたりと
意外と島津と毛利は仲が深そうだなあと思ってちょいと調べました。

が、国デジの大日本古文書家分けの公開になくて
東編のデーターベースにしかないため、
著作権上、書き下し文のみで検討します。
独学の書き下し文なので非常に怪しいと断言しときます。

島津家文書1423号
書き下し文
「島津義久書状案

 毛利殿へ御返礼 御判之在り
 去る夏の礼廻しが為、今度遮って御使書、
 また重候抑えに就き、御入洛の儀
 東北士卒忠勤粧遂げられるべく、もっとも専要候
 然るところ、大友家、上意疎懐ゆえ
 来春到り豊・筑一戦御催し、快然の儀候
 幸い去る月6カ国の兇徒、
 日州表於いて悉く誅伐致しの上、
 更々御帰京の妨げ、その甲斐あるべからず候や
 まことに遼か遠しと雖も、公私混じって
 倍申し談ずべきこと、本悦候
 よりて太刀一腰、銀子祝着候、猶五戒坊演説べくため候
 恐々謹言
  12月10日     修理大夫義久」

現代語訳
「島津義久 案

 毛利殿への御返事だが、判つきの手紙である。
 夏の時の御礼をまだ返していないので今回使者を待たせて書いた。
 また重ねて言うが諸公の抑えとして将軍を助け、上洛されるとのこと。
 東はもとより北の武士までもが将軍に忠義を尽くすことを遂げることこそ
 一番大事だと思う。
 そう考えると大友家は上意に従うこともなく都とも疎遠なので
 来年の春になったら豊後・筑後で戦でも行おうとの誘いを喜んで受けましょう。
 幸いといいますか、先月6か国の兇徒を日向表で悉く誅伐してきましたので
 将軍が京都に帰るために毛利が東征しても、
 大友が中国を攻めることなんて更々できないはずです。
 本当に薩摩と中国は遠い所にあるとはいえ、
 公私混じって色々申し合うことができ、本当に悦ばしいことです。
 そういうわけなので太刀一振りと銀子を有り難く頂きました。
 なお、五戒坊というものが演説するためにそちらに伺います。

 恐々謹言
  12月10日     修理大夫義久」


年月未詳で、毛利家文書には見当たらず、
案とあるので実際には送られなかった可能性もありますが
後の事を考えられると返書を送ったのは確かだろうなと。

それから、毛利家の方から通信があったのは確かなようです。
元の手紙の存在ははきとしませんが、
義久さんの書状案に
「御入洛」
とあることから、将軍義昭が鞆に滞在中であること、
「大友攻め?おう任せな!!」
とあるので織田と戦争中である天正年間であること、
また、
「先月、6か国を治める大友が攻めてきやがったけど
 日向表で大勝したぜ!」

と述べているので、恐らくこれは天正6年11月の耳川合戦と呼ばれるもの。
よってこの手紙案は天正6年12月のもの。

当時の毛利の状況としては
天正6年3月・別所長治が織田から離反し毛利方として三木城に籠城。
        ・秀吉、三木合戦開始
      7月・第二次上月城合戦で尼子勝久を滅ぼす。
     10月・荒木村重、織田から離反。
     11月・第二次木津川口の戦い。

備前ところか播磨まで進出し、宿敵尼子の残党を滅ぼし、
摂津の荒木まで味方につくほどの一番勢力が強かった時期。
第二次木津川口の合戦は織田も毛利も勝ちだと両者言ってますが
こんな勝ち進んでいる時に
「これは風前の灯が最後に明るく燃えるようなものだ。」
と悲観的な事を思う隆景すら
「木津川口の合戦は勿論、我等の勝ちだったが。」
とまで言っていますし、その後も兵糧を入れていた記録があるので
織田方が勝っていたとしても完勝とまではいかなかったのでしょう。
しかもいくら遠いとはいえ織田と戦をしたことぐらい知っているはずの島津が
先祖代々そこまで悪い仲ではなかった大友と決裂し
毛利との同盟関係を崩そうとしていないので多分大敗はないかなと・・・。

とはいえ、心配性な隆景としては織田との戦を一気に形を付けたがっており、
全軍で織田とぶつかって、良いところで和睦を結びたがってました。
基本隆景が発案、元春がんんまあしようがないなと認め印を押す仲なので
こころおきなく戦うために島津との協力を仰ごうとしたのかなと。

そしてさすが島津と思うのが
「日州表於いて悉く誅伐いたし」
・・・耳川の合戦後は大友家が傾く原因になるほどと聞いたことがるので
まあ凄まじかったのだろうなあと・・・。
ただし、実際には天正7年春に島津が豊後まで攻めた記録はないはずです。
代わりに竜造寺が台頭していたので攻めるまでもないと思ったのか?
でも竜造寺は反島津のはず・・・。

まあ、でも遠い島津とも始まった接点。
これが今後どう続いて行ったのか。
それも面白いなあと。

まって呉~瀬戸内海は美しい~

とりあえず、何も言わずに見てほしいのです。
呉市の広報を



・・・・・。
いや、衝撃過ぎて
まって呉!!
状態でした。

母方はしかたなく呉市に吸収合併された広なので
えええ!!呉?呉?
と何と言うか
ライバルのアイツが何かとんでもないことしやがった!!
という広の血が騒ぐんですが・・・。
いえ、呉からすれば広なんて
ライバル視すらされないのわかってんですけど
広とすれば呉は好騎手と思ってんですよ!!

なので聞いた初日から
頭ん中で「くれーしーごなくれーし」がぐるぐると・・・。
そもそもが中毒性ある曲ですけど
ものすごいしっくりくる替え歌と
瀬戸内海の風景・・・。

灰ヶ峰とか呉ポートとか
要所に散りばめられる名所・・・・。

その中できれっきれに踊る
呉氏!!!

何なんだ!!
アサキタクに匹敵するのだしやがった!!

っていうかラップの所が笑えて笑えて・・・。
平氏が「HEY氏!」
そして「~くれ」が「呉」

もう笑えてしょうがない動画なんですが
景色がまた綺麗だからギャップが・・・!!

そうか!音戸も呉か・・・。
っていうか、日本一安くて短い渡し船!!
呉氏が大きすぎて一瞬どこのぽんぽん船かと思ったわ!

2番目からの御手洗も呉か!!
ええ??愛媛との県境まで呉になったの??

歌詞も結構つっこみどころがあって
例えば
「夢のような瀬戸内 ここ呉ば現実と思える」
・・・・呉が現実・・・。
いや、呉ほど瀬戸内海で非現実的な港はないと思うんですが。
造船ドックがあるのは瀬戸内海の風景じゃけど
神戸で「潜水艦が見られるんですよ!」と自慢されるぐらい
潜水艦、普通ないですからね?
護衛艦も、小さい頃私あれが戦艦だと思ってましたよ??
いや、でもそうか現実といえば現実・・・。
そしてその背景にある
ゆめたと潜水艦・・・・。
うん、まぎれもなく呉の現実!

あ、ついでに潜水艦がらみでいえば
「潜水艦は明日も潜るよ」
瀬戸内は航海法かなんかで潜っちゃいけないから
半分浮かんで操行せんと引っかかる!!
でも面白いから許す!!
と頭固い私でも、もういいやもっとやれと思ってます。

「あたためた海自カレーも」
海自カレーをあたためるんかい!!
普通に作りたて出してやれよ!!
と思うんですが、元歌考えるとこれがベスト。

元歌知っているだけに何ていうか
歌詞が完璧すぎる・・・!
替え歌的に。

っていうかどこの浜辺だそこ!!
ちらほら出てくる景色が
見憶えあるのに出て来ないもどかしさがちょいとあります。

同僚に見せるまで
呉ポートピアのあまりのギャップに気付かんかった・・・。
そうか観覧車は今、松山にあるもんなあ・・・。

そして多分見た感じ、
広が出てない!!
ねえ!呉!
広も呉市じゃろ??
ライバル視とかしてたの謝るから
広も出してや!

大崎下島とかあがいな島よりも
近いじゃろ?
うちらの仲じゃろ?
見るとこないとか言わんといて!!
わかっちょるけえ!!
M社の工場しかないけどあれでもつこうてや!
あそこはうちの土地じゃったけえ許す!
戦争中に軍需用に取り上げられたけど
うちの土地じゃったけえ許す!
じゃけえ第2弾では是非広も!!

あ、あと瀬戸内海の曇った時に
日がさして海がきらきらするのも素敵なんだけど、
やっぱり晴れた日に浜辺からみた風景も入れてほしいな。
小春日のうららかな海と
透き通る空、
緑と霞む島影のその美しさも。

車があったら車かっとばして行きたい。
呉から先は本当に瀬戸内海のぎりぎりに道があるから
晴れた日は最高なんだ・・・。
ああ、呉に行きたいなあ。

ついでにおまけ動画もあります。

吉川家文書収録毛利元就和歌短冊2首

元就さんの和歌が何故か吉川家文書に入っていたので
何かの足しにと。

吉川家文書1271号
「山里に きくらむ物を ほととぎす
 うちねぬ空に 待ぞ詫びぬる」


吉川家文書1370号
「おも影にたたすはなににしたはまし
 花ちるあとのみねのしら雲」


ううん、何でこの2首だけ吉川家文書にあるのか?
広家が詠んだ歌に
「百年の 花の春待つ 八重桜」
という歌があったので
「身はひとつ 駆けて野山の 花の春」
の歌があるなら不思議ではないのですが。

あ、でも広家は元就おじいちゃんの事を相当慕っていて
貰ったお守りを関ヶ原に持っていき、
手を焼いた元春が
「お前は元就の孫なんだから!」
と元就さんの名を持ちだして説教状を書くほど。

で、他に広家の詠んだ和歌で
元就さんの和歌から取った歌らしきものがないかと探すと
1首ありました。

吉川家文書1425号
「植添て 八千代乃春も つきつきに
 こすえ盛らむ花の下陰 
                   広家」

意訳
「植えて添えて、八千代の春も
 次々に花ざかりを迎えているように
 木の梢にももっと花を盛ったなら
 おじいちゃんが昔詠んだあの歌のように
 そこに寝っ転がって見てほしい。
 おじいちゃんの頃から
 植え継いで、繋げてきたこの家の
 繁栄が永久にと続くことを。」


なぜか吉川家にあった歌2首の続きが
広家の詠んだ歌の本歌になります。

「けふの日はよしさに暮れねくれてこそ
 枕もからめ 花の下陰
                    元就」

それから多分もう1首

「梓弓 春の光の玉椿 
 八千代もおなし盛りをやみゆ
                    元就」


この2つを本歌として作った感じです。
「八千代も同じ盛りを見ゆ」ことは無理でも、
代わりに孫の俺が見ているぞ、じいちゃん!
代わらずこの地もじいちゃんの守りたかったものも
続いてるんだ!

という感じでしょうか。

兄の元長とは違い、
元就じいちゃんと一緒に住んだことはなくても
孫として爺ちゃんのことを心から慕っていたんだなあと
分かる歌です。

プロフィール

トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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