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主に毛利元就から浅野長勲までの戦国~幕末までの安芸の歴史について語るサイトです。
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3月12日「益田の毛利元就饗応膳

3月11日 2・3・4・5・6・7・8・9日拍手ありがとうございます。
       益田市文化財課様、コメントありがとうございました。
       返信が遅くなり申し訳ありません。
       メールにて返信させて頂きました。
       ・・・なかなか更新できず申し訳ないです。
       夏休みまで激務なのはもう覚悟の上なのですが
       お盆に講師依頼が2件きた・・・。いや、いいんですよ理科好きじゃけえ。でもお盆・・・。
       更に今年は免許更新・・・・。
       万単位の講座費用は自腹で、
       受けない場合問答無用で失職とかふざけn
・・・
       ・・・さようなら夏休み。
3月 2日 21・22・23・27日拍手ありがとうございます。
       陽光が煌めき、空がすっかり春模様。
       早くさくらが咲かないかなと待ち遠しくあります。
       「歴食サミット於益田・「毛利元就饗応膳」感想
2月22日 一葉様、コメント遅くなり申し訳ありません。
       記事のページにコメントを返信いたしました。
2月20日 18・19日拍手ありがとうございます。
       ちょっと追記したいことがあったので蛇足かと思うのですが書いてみました。
       「永禄聞書~毛利元就の謀~」
       一葉様(反転して御覧下さい)
       すみません、玉木氏のその後の流れは萩なので私も詳しくは調べたことはないのです。
       萩藩閥閲録の中に恐らく玉木氏についての何らかの書状などが残っているかと思います。

2月18日 ううん、ブログの記事が証明書エラーだとか何とかで困っているんですが
       まあ、大きな問題はないというか運営の方での仕様みたいのなので
       ちょいと調べてみます。
2月17日 かわし様、コメントありがとうございます。返信致しました。
       13日拍手ありがとうございます。
2月12日 かわし様コメントありがとうございました。返信致しました。
       11・12日拍手ありがとうございます。
2月10日 4・5日拍手ありがとうございます。
       色々と悩むことが積み重なってて、色んな方に迷惑をかけてしまいました。
       解決していないことはまだまだありますが、
       それでもこの道を歩く以上責任をきちんと果たそうと思います。
       あの頃はまだ年齢制限があったので、
       私がこの道に就いた時に、誰かは夢を諦めた。
       何百人という人を蹴落としてまでなったのですから責任は果たします。
       「大友ぶっつぶそうぜ!」戦国時代の島津と毛利」
2月4日  29・30・31日1日拍手ありがとうございます
       くれーしーごなくれーしー
       「まって呉~瀬戸内海は美しい~」

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更新記録と雑記
更新記録と雑記その2

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益田の毛利元就饗応膳

今回、試食できたのは饗応膳のほんの一部です。
大内さんが将軍御成りの食事を出した献立数に比べると少ないのですが
それでも7献35菜3汁にもなる豪華なものだったようです。
全てを復元するには今では捕獲できないものも含まれているので難しいのですが、
レプリカの展示がありました。

まずは初献
饗応1

手前の土器(かわらけ)にはお酒とそれから御湯漬けが入っていたそうです。
例のお年寄りには固くてよう食べれんと言われたアレ・・・。
ええと、永禄11年ってことは元就さん71歳ぐらいでしょうか。
おじいちゃん、大丈夫だったんかなぁといらぬ不安がよぎります。
まあ、でも当時の人は今と比べて固い物をばりばり食べているから
大丈夫じゃったのかもしれません。

で、まずは右の御式から。
のはふくめ鯛
干した鯛を焼いて、身を取り出してデンプにしたものだそうで
ようは鯛のほぐし身かなと。
のは塩引き
飛魚(あご)と書かれているようで
鮭ではなく飛魚が使われていたようです。
下はあわび
干しアワビを味噌汁で煮て戻した煮貝なのか、
生のアワビを使ったふくら煮なのか、
調理方法まではわからないそうです。
んん、でも永禄11年の2月なので
生でも持っていけるといえば持っていける範囲です。
今でも浜田のおばちゃん、北広島まで行商くるぐらいですから。
ただ益田となるとやや遠いのでううん・・・。
左は貝。
としか書いてないのですが、吉田に運んだ貝は
あわびとにし貝、サザエなので
サザエではないかと推測されてサザエにしたみたいです。
サザエは干して食べないと思うので刺身か焼きものか・・・。
余談ですが、瀬戸内海のサザエは角なし、日本海は角あり。
郡山城を掘り返してどっちが出てくるかで
普段海の幸は日本海側のを食べていたのか、
瀬戸内海側のを食べていたのかわかるので
サザエ出て来ないかなと思います。

次に左の御式
赤いのが酒浸(さけびて)。
吉田に持っていった荷物一覧に鮭があるので
鮭を干したものを酒で戻したのか、
あるいは塩引きを飛魚で作ったぐらいなので
飛魚を戻したものなのか。
再現料理で食べたのは鮭だったのですが
飛魚の可能性もあるみたいです。
それから茶色のは香の物。
なら漬けはこの当時からも食べられていたんだそうです。
で、丸いのは「はむ」
試食した時にかまぼこよりもやおい感じだったですが
もう少し食べないと違いが分からん・・・。
今度は4月に広島から食べに行くツアーがあるんだそうですが
日程が・・・・。
それと「かまぼこ」
あご竹輪に見えるんですが、追記にかまぼこ用とあるので
鯛かまぼこらしいです。吉田の元就膳食べた時に鯛があって
元就さんの好物だと聞いた記憶があるんですが
あごでなく鯛を使うあたりさすが益田さん。
できる男です。

どれも精巧なレプリカでよくわかったのですが
気になるのが、4皿ずつ置いてあること・・・。
4というのは縁起が悪く、あまり和では用いないので
見た瞬間に違和感があったのです。
絶対にないというわけではないと思いますが、
実際、1~7献まで漢数字を使っているのですが
4献だけは平仮名で「よこん」と書いています。
なので4という数に対する禁忌意識はあったはず。
とすれば基本3・5・7の奇数・・・。
で、文献を見ると


   しおひき   ふくめたいかいさざえ
     さけひて
   かうの物   はむ   かまほこ


とあります。
わざわざ間を開けているところは
きちんと横が揃っているので何らかの意図があったのでは?
と考えると、真ん中に酒漬てがあって
その左右に3皿ずつ、
塩引き、ふくめ鯛、貝サザエ
香物、 はむ   、かまぼこ
が並んでいた可能性もあるなあ・・・と
そうすれば7皿になります。
なので貝とある皿は、貝とサザエが一緒に盛っていた?
あるいはサザエ単独?の可能性もあるのではないかなと思いました。
ただ、それだと御折がかなり大きくなります・・・。
ううん、わからん!
素人の戯言だと看過してください。

で2つ目、文献では


すし    きし       あつめに
  にし        御志る
いか    さけ      引し幾


写真
饗応2
魚はすしとあり、
鮎鮨だったようです。
・・・・隆元。
と鮎が出るたびに条件反射で思ってしまいます。
山口行った時もみんなで固まったなぁ・・・。

それから
戦国時代は肉食ってます。
焼き鳥よく出ます。
でも鶏ではないです。
で、鶏はいつから食べるようになったのか。
と調べるとウィキだと江戸時代半ばからのようです。
それまでは鑑賞用として飼われることが多かったようで、
ああ、あれ!ペットだったんだね、元就さん!
と合点がいきました。
うん、ごめん、てっきり卵食べずに大事にあたためて
還したから大事にしてたんだと思ってました。
いや、子どもって食用なのに関係なく
卵還そうとしたり、飼って大事にしたりするので
元・食用かと思ってたら最初っからペットだったんですね。
そりゃあ食べた狐を燻り出すのもしょうがないねとなりました。
解決です。

で、にし。
こりこりしていて刺身が私は好きです。
続いて、いか。
いかも刺身だったのでしょうか。
というか、いかってどうやって戦国時代に取ってたのでしょうか
当時から夜中に漁をしていた??
ということなんでしょうか・・・。
ううん、牡蠣の養殖方法なら詳しいんですが
その他の食に関することの知識が薄いので
もっと勉強せねばと思います。

鮭は鮭。
でも、この時代鮭は江の川でも獲れたので
地物なのだろうなと。

で、汁はひじきとあつめにが入っていたみたいです。
あつめには干物や野菜などを入れたもののようで
味噌や出汁で味をつけたようです。
いりこ(干し海鼠)が持っていくものに入っていたので
いりこやあごで出汁をとったのかなあと思います。



かとのこ             かん
   このわた     御しる
くらけ               川おそ
   御くわし7種
   御さかな
小くし 
              御さうに
けすり物



・・・。
あれ?写真撮ったはずないのにない!!
ああ、しまった!!
お菓子7種とか後で調べようと思ったのに・・・。
ということで是非益田へお出で下さいませ。です。
御さうには御雑煮。
大内さんとこで食べたのとほぼ変わらなければ
餅だけでなく、干しあわびとか豪勢なものが入っているんだろうなと。
けすり物は・・・・。あれかな・・・。
食べにくかったあれかな。
御汁はカワウソ。
4つ足の動物を食べることはなかったのですが
カワウソは水にもぐったりすることもあるので
魚と同じ!よってセーフ!
という考えで食べてたみたいですが
匂いが凄いので処理をどうしていたんだろうと思います。



二こん
むしむき  御そへ物白鳥


むしむきは細うどん。
白鳥が添えものってことは
鴨南蛮のはしりかなと。



三こん
さしくらけ  
            たい
こうるか


こうるかは鮎の卵等を塩辛にしたもの。
さしくらげはくらげのさしみ。
当時はくらげをよく食べてたみたいです。



よこん
とりのあし へつかん 御そへ物ささゑ


饗応3

クリスマスによく食べる鳥足。
ですが、多分鶏とかじゃないです。
が、塩焼きしたものに添えものが
「へつかん」は甘い羊羹みたいなものとサザエ
時々分からない戦国食の組み合わせ。
酒があれだけ甘いからまあありかなと。



五こん
しほひき
             きし
いか


塩引きは再現食にあったもの。
イカも雉もさっきも出てきたので
多分調理方法が違うんだろうなあと。



六こん
くさひら
       まんちう
は□□          御そへ物うけいり


くさひらは草饅頭というか草御焼みたいなもので
中に餡子が入っているみたいです。
饅頭のあんは餡ではなく野菜や肉などのあん。
はの下は切れ目なので解読が難しい・・・。
添えもののうけいりは、つみれのことらしいです。



はむ
        あゆ
からすみ


はむも再現料理にでてきました。
それからまた出てきた鮎。
からすみは多分今と同じからすみかなと。

益田さんの作った御膳を見ると
 ・ 鮎とイカとあごなど海産物がやはり多い。
 ・ それから昆布など交易でないと手に入らないものがある。
 ・ からすみやうるかのように保存がきくが手間暇かかる食べ物が多い。
気がします。
何より、益田から運んだ数も凄い・・・。
もう永禄なので中国地方全域制覇しているので
家臣団も初期よりも大分拡大しているので
上の座敷用、150人の家臣と
部屋に上がれない家臣がいる幕内にも70人。
益田元祥の元服式なので家臣も総出ではなく
関係者のみだとは思うのですが、結構な人数がいます。
っていうか、200人規模の宴会を郡山城のどこで開いたのか。
それも気になりました。

最後:歴食シンポジウム

歴食サミット於益田・「毛利元就饗応膳」感想

歴食サミットというものが出来ておりまして
去年は発祥地・山口で大内御膳が食べられたのですが
今回は益田、毛利元就を益田氏がもてなした時の再現料理を食べんがため
益田まで行ってきました。
匹見峡まではよく行くのですが、益田までとなると遠いので
高速バスで行きました。

・・・益田行きの高速バスで加計や千代田に行くこともできるんですね。
じゃけ~、予約いらんのかあと納得しました。
ていうか、途中で津和野市通るので、市内循環バス使えば津和野も行ける・・・。
益田行きの高速バス、意外と使えます。

道中も、また結構楽しかったです。
加計の辺りから雪が残っていて
わ~雪じゃあ!!一ヵ月振りに見る!!
と内心テンションあがってたんですが
吉和に近づくにつれてどんどん辺りが白くなり
田んぼも山も一面の雪景色・・・・。
東北ですと行っても信じてくれそうなぐらい雪が残ってます。
夕焼けのスキー場がとても綺麗でした。

で、六日市インターから北へ向かいます。
高速を降りてひたすら下道。
日原別れを益田方面へ。
・・・ここを津和野に行けば隆元娘・つわのの嫁ぎ先、
益田へ行けば元春娘・ななおの嫁ぎ先、
両方、実家に帰ってこない?とか聞かれているけど
いや、冬にこの道は無理じゃなあとしみじみ思いました。
どの道、益田からだったら浜田抜けたほうが近いから
まずこっち側は通らない気もしますが。
・・・ていうか、戦国時代なのに
婚家から実家戻っておいでと気軽に言っている毛利さんち。
「姉ちゃん、爺さまが危篤だから姉ちゃんも帰ってくる?」
by輝元

「旦那が出張中だろ?ひまだろうし実家帰ってこいよ。」
by元春

・・・・。うん、そういう所好きだ。

で、次の日、グラントワに移動です。
途中、図書館で益田氏の資料集をと思ったら
図書館が閉館中・・・。
勿体ない、購入したいという人もいるだろうにと思いました。
あの手の自治体史、もっと販売して欲しいなあと思います。
いや、高いの分かってます。
でも欲しい人は諭吉払ってでも買いますので
町史や市史の販売は是非して頂きたい。
千代田も以前、道の駅で売ってましたが
役場だと土日閉まるので、道の駅の方がいいです。

で、会場に入ると、何だか人がいっぱい。
大ホールのエントランス付近で出店がたくさんあります。
入口には「益田家の膳」という漫画を無料配布していたのでゲット。
今回の歴食の目玉は益田家文書に残っている毛利元就饗応膳の再現です。

益田氏というと、マイナーかもしれませんが
第一次長州征伐後に幕府へ恭順するために
腹を切った長州藩の三家老の1人です。
当時家老であった国司(くにし)、福原(ふくばら)、益田(ますだ)ですが
国司と福原は毛利氏代々の家臣筋、古参中の古参です。
益田だけが唯一外様、それも石見出身です。
益田氏は代々萩藩の永代家老の職に就いていたのですが
そのきっかけを築いたのが益田元祥(ますだもとよし)です。
元祥は関ヶ原後、石見銀山に近い益田を領地としていたので
徳川家康から大名として請われるのですが断固拒否。
輝元と共に萩に移ってきます。
が、毛利の家計は火の車。
120万石から4分の1まで石高下がったのに
ほとんどの家来が就いてきたので大幅な減給。
・・・まあ、お父さんと長男以外は地元で帰農していることが多いですが、
それでも何千人とついてきました。
特に石見国人は益田に限らず家康の誘いを悉く断って来てます。
加えて秋に戦があったせいで、農民からも米を前借りしており
福島正則がその分を返せと言うてきて、
そんなん返せるか無茶言うな状態。
・・・義勇米に近い状態で農民出してますから、
返す筋合いは本来無いんですけど。
加えて徳川から姫を嫁に貰ったり、普請を手伝ったりと
もう出費が多すぎて輝が思わず
「もう嫌じゃ!!領地を返して大名やめる!!」
と黒田さんに泣きつくぐらいでした。
そんな財政状況を救ったのが益田元祥
彼の財政手腕は凄まじく、産業奨励・農地開拓など
様々な手段を用いて借金全て返済、
余剰米の備蓄ができるほど好転。
そういう経緯もあって益田氏は永代家老になります。

が、益田氏はもともと陶氏と関係が深く、
隣の津和野・吉見氏とたびたび揉めていました。
吉見氏は吉見正頼の時に大内義興の娘を妻に貰ったので
大内義隆の義理の兄弟にあたります。
そもそも正頼は大内義隆の一言で還俗して当主になれたので忠義心が高く、
陶氏とは数代前に殺人事件を起こすほどいがみあっている仲。
なので、大寧寺の変が起きると「打倒陶!!」を合言葉に立ちあがります。
1人で。
この時、毛利は吉見と陶の両方から援軍を頼まれました。
初めは陶に加勢するしか生きる道がないと元就さんは頑固に言い張ってたんですが
隆元が「親父を陶に渡すもんか!!」となったので最終的に陶と断交し、
厳島合戦へとなります。

で、厳島合戦終了後、益田氏最大のピンチが訪れます。
頼りにしていた陶氏は滅び、
隣の吉見さんは毛利軍と一緒に攻めてくる気満々。
ここで隆元が石見攻めの総大将であったならば
滅ぼされていた可能性大なのですが、
石見は吉川の持ち分。
なので、元春が総大将で攻めてきます。
が、この子、侵攻軍なのに戦いらしい戦いもせず、
投降してきた将を次々に「兄弟一分」で配下に加えます。
ようは、
「俺達、今まで敵だったけど、今からは兄弟だと思って仲良くしようぜ!!」
「アニキ!!」

という、体育会系のノリで国人衆を従えていき
ついでに益田さんもその波に乗っちゃいました。
怒ったのは、元就父さん。
勝手に仲間に従えて、しかも毛利と仲の良い吉見氏の旧来の敵、
益田氏まで誼を交わしたものだから
「勝手に何しょ~るんじゃ~!!」
という父さん怒りの書状が今でも残ってます。

で、勿論、益田氏は他の石見国人よりも不利な立場は重々承知。
家宝の刀やら虎の皮やらなんやらで必死に貢物作戦を展開します。
で、極めつけがこれ。
益田家文書に残っている
「益田藤兼・元祥安芸吉田一献手組」
と呼ばれる書状です。
これは、益田藤兼の息子、元祥の元服を吉田で行う際に
わざわざ食材から何から何まで吉田に運んで饗応した膳。
益田氏の家運をかけた全力の「お・も・て・な・し」。

そんな命がけの料理をちょこっと試食してきました。

P2261468 (640x480)

会場にはどどんと大きな益田家の家紋の旗。
陣幕?でしょうか。

P2261472.jpg

本日の献立

P2261469.jpg

まずは一献。
前の席のおばちゃんが車じゃけえと
一杯譲って下さったので有り難く頂きました。
・・・・甘い!!ぶち甘い!!
何と言うか、甘口で有名な酒のどれよりも甘いです。
ううん、米の甘さを密にしたようで
さらっとしていてアルコール分をあまり感じません。
デザート酒?というものに近いかもしれません。
中世の酒は、現在よりもかなり甘かったようでー100度と
現在の10倍以上も甘口だったみたいです。

続いて、ご飯。
本当は米強飯(お湯漬け)といって、
蒸した強飯にお湯を注ぎ、
お湯で洗ってから出すものなんだそうですが
おこわよりもちょいと固いらしく
噛みにくいということもあってご飯に替えているんだそうです。
ご飯か蒸し飯のどちらかが選べたらいいなあと思いました。

で、式の中。
まずは右上。
赤いのは酒浸て(さけびて)
鮭の塩引きを煎り酒で戻して食べるんだそうです。
ようは鮭トバを酒で戻したもの。
鮭の塩っけが強かったせいかあまり煎り酒の味はしなかったのですが
鮭トバよりも塩っけが和らいでなかなか美味でした。
手前の魚は鮎の白干し
白干しというのは、そのまま干したもの。
干し魚と言うと固いイメージがあるますが、
今回のは戻してあったのか
柔らかくておいしかったです。

次に右下。
白いだんごみたいなのは「はむ」
はんぺんの語源となった「鱧」(はも)からきているそうです。
はんぺんに近く、自然薯をつなぎに
飛魚(アゴ)と豆腐を混ぜて作った練りもので
煎り酒がかかっていました。

次に左下。
白い刺身はイカです。
日本海の漁火は宇宙からでもはっきり見えるほど。
その漁火で釣れるのがイカです。
当時も今も名物は同じなんだなあと思ったんですが
益田から吉田までイカを生で運ぶ・・・・。
いや、行商のおばちゃんとか浜田から来るけど
ううん、当時からなんでしょうか?
でも吉田の雑煮にはハマグリやブリなどの
海の幸が入っているのが多いと聞いたし・・・。
あ、それと中世のこの頃はまだ醤油が一般的ではなく
代わりに煎り酒をかけて食べていたようです。
煎り酒とは、お酒に梅・鰹節などを加えて寝かせたもので
醤油とは違い、甘くてダシの味がふわっと香り、
おいしかったです。
この煎り酒は現在市販されていて、
物販ブースにも売っていました。

次に左上。
茶色2つは、上がごぼうの煮物で下がなら漬け
ごぼうはかなり味がしみていて、
あの昔ながらのきちんと煮しめた味わいでした。
で、なら漬けはちょっと甘い感じ。
酒自体が甘かったので、酒粕もやはり甘かったです。

で、今回のメニューにはなかったんですが
鮎鮨。

P2261471.jpg

鮎の馴れずしも元就さんに出していたようです。
馴れずしというと近江名物、鮒鮨の強力な匂いを思いますが
同じ製法で作っても鮎だとあの独特の匂いが全くしません。
まだ漬けて浅いので食べることはできなかったですが
いつかよばれたいなあと思いました。


次:元就さん饗応膳の全再現

永禄聞書「毛利元就の謀」


私が毛利元就を好きになった、惚れたきっかけは
その戦略の手際良さです。

丁度、碁を習い始めた頃でした。
最初はどんな地も殺したくなくて必死に打って石を助けようとしていました。
でも、アテられた1目を助けようと石を置けばおくほど、大石が取られて投了。
そういうことを繰り返すうちに、盤面の全ての石を救う事は無理で、
諦めなければいけないこともあると学びました。
株の世界でも何でも人は損をすればするほど
損を取り戻そうとのめり込んで引き際を見誤ってしまいがちです。
「小を殺して大を活かす。」
というのは勝負の世界の格言ですが、実行するのは至難の業です。
そもそも小を殺すと言っても、
本当に見捨ててよいものか、
無駄死にさせるのではないか
後々使えるように手をいれるべきか、
その見極めがとても難しいのです。
それにタイミングを逃せば小だけでなく大が死ぬことにもなりかねない。
生き死にの大切さを知ったぐらいに、ちょうど大河の毛利元就があり、
その戦略の凄さに戦慄してはまったのが最初です。
まだ中学生だったので今の様に専門書をかじることもできず
簡単な本しか読んでいませんでしたが、
できるだけ多くの国衆を味方に取り込んで穏便に進んでいく一方で
本城常光の誅殺による石見勢の進退の見極めなど
「小を殺して大を活かす」を実に鮮やかに行っていて
ああ、凄いなと真田幸村並みに感嘆しました。

当時は戦略とはいわずに謀と言っていたようですが、
謀という字は今ではあまりいい意味ではありません。
しかし、本来、政治も戦略も全てひっくるめた意味であったんだろうと思います。
だから、この書を残した隆景もこの部分を一番他人に知られてはいけないと思っていたのではないかと思います。
そして、これを手に入れようとした黒田官兵衛はここが一番知りたかったのではないか。
そう思います。

永禄聞書
小早川隆景が父・毛利元就の言葉を書き遺した書より


書き下し文
「敵国の謀
 敵国へ交わりを結ぶものは我が国に引き成す手立て肝要也
 敵国譜代の臣下にはあらず唯時の威に従ひ旗下に属する時自他ともに多し
 皆時を得ては立身せん心掛け也
 弓箭有りて末々頼もしき家に従ふ者也
 味方に引き成す謀有るべし
 敵国の臣下其の君を恨み或いは君臣下るを疑ひ
 或いは臣下と和ならず謀をかこすへし
 右三ヶ条人を使う者に非ずんば如何そ他国を我謀に従へんや」


私訳
「敵国への戦略
 敵国へと通じているものをわが国に引きこむことはとても大事である。
 
 敵国の譜代の家臣ではなく、権勢がある家だからただその下についているだけ
 というのは自分もそうだし、みんな大抵はそういうものだ。
 そういう者達は戦などで時を得ればそういう状態から抜け出したいと思っている。
 そして戦があったときに先々まで頼れそうな家に従うものである。
 だから味方に引き入れる調略を練るべきなのだ。
 
 敵国の家臣で主君を恨んでいる者や
 主君から疑われている者、
 家臣と家臣で仲が悪い時も調略を画すべきである。
 この3つの条件は人を使ってどうこうできるものではないから
 どうやって他国を私の戦略通りに従えるというのだろうか。
 そういうことでもない限り、私の思う通りにはいかない。」

国人衆の多くは境目なので、強き者に従うだけで
忠誠心はあまり高くはありません。
そもそも、大内にしろ尼子にしろ、他所の国。
ですから本来仕える筋合いはないのですが、
どっちかに従ってないと潰されるかもしれない。
そう思って傘下に加わっているだけであって
機会があれば今の状況を脱したいと思っている。
それは自分も他の国衆もそうだ。
と元就さんは言ってます。

・・・まあ狭間で苦労してますからね安芸国人。
それこそ南北朝から厳島合戦まで200年近く
二つの勢力のどっちに属するか常にニ者択一迫られてますから
そりゃあそんな状況から抜け出したくなるだろうなあと。

で、「弓箭有りて末々頼もしき家に従ふ」
戦国の世の習い、守護とか守護代のように力を持たない国衆は
ここぞというときに頼れるところに従う。
当たり前の事ですが、逆にこういう国衆は
駄目だと思ったら手のひらを返す様に離反します。
でも、こういう離反しやすいものたちを引き入れるべきだと
元就さんは言っています。
権威も血筋も特に秀でたものがない場合、数がものを言います。
一揆のように、みんなで力を合わせれば幕府にも対抗できる。
だから、離反しやすい国衆こそ味方につけて数を増やす。
「敵国へ交わりを結ぶものは我が国に引き成す手立て肝要也」
というのはそういう意図であるかなと思います。

元就さんの場合、分郡守護武田、守護大内、守護尼子という
国単位の相手が敵で、数倍の兵力差で戦うことが多かったのですが
いずれも勝っています。
兵力差がたった2倍でも2対1になるわけですから、
よっぽど優れた武芸者でもなければ勝てません。
「毛利が剛弓」という言葉が残っているように
弓兵が異様に強かった可能性もありますが、
元就さんが指揮していない時は布野崩れのように大概大敗していて
兵士が抜きんでて強かったというわけでもなさそうです。

よって数倍の兵力差を少しでも削り、
敵を同等かそれ以下の兵力にするためには
敵同士が潰し合いしてくれれば一番良いのです。
「孫子の兵法」にあるように本来城攻めは一番愚策。
攻めずに敵を滅ぼすのが上策。
よって、主君と家臣の間や家臣同士の不和というのは
内部崩壊を起こすためのよい切り口となります。
が、そもそもそういう諍いは人同士の関係なので
「人を使う者に非ずんば如何そ他国を我謀に従へんや」
人を使ってできるようなことではないので
他国を自分の戦略通りに動かすことはどうにも難しい。
と言っています。

離間の策は一番用いれば効果的であるけれど
それを自分から始めることはできない。
綻びがなければ攻める隙はない。

逆に、自分が守る時には綻びがないように
主君と家臣の間、家臣同士の間、
それぞれが上手に行くように心を砕いていた。
だから、宍戸隆家が見た毛利元就は
こまめに筆を取って、気遣いを怠らない
細やかな人間
に見えたのだろうなと思います。

あ、だからといってそういう風にわざわざ振る舞ったというのではなく
細やかな気遣いこそ国を守るものだという信条として行ったのではないかなと。
こう書くとまるで元就さんが人心掌握のために気遣いある人間に見せかけたように感じるかもしれませんが
ううん、何と言うか本当にその人を思って気遣いは行わないと
却って不信感を招きます。心の底から本気で思って気遣うよう心がけた。のかなと。

人と関わる時に一番難しいのは褒めること、良好な関係を築くことです。
特に大人で微妙な上下関係だと尚更・・・。
相手は大人ですから、下手なおべっかは見透かしますので
本当にタイミングを見極めて、心の底から褒めないといけないので
本当に難しい・・・。駄目出しする方がはるかに簡単です。

あと、元就さん離間の策をここぞという時に使っていますが
積極的に使って相手を滅ぼそうとしていたわけではないです。
そんなわけではないけれど、そうせざる得ないんだ。
と言い訳じみてますが、それが本心だったろうなと。

余談ですが、仕事モードと素の自分って分けない場合もあるのですね。
割と周りは仕事は仕事、自分は自分ときっちり分ける人ばかりなので
てっきり普通かと思ってたんですが・・・。県民性?なのでしょうか?
私も職場の自分と素の自分ではかなり差があります。
上に立つ者としての職責職務を果たせるほど
素の自分なんて偉くもなければ立派な人間でもありません。
でも、陣頭指揮するからには自分の振る舞いこそ正すべきですし
感情も極力コントロールして何が相手にとって最適なのか
一言一言考えて話しているので性格もかなり違います。
ううん、仮面かぶるわけではなく、そのものになる感じ?でしょうか。
そうでもしなければ、「戦場並みのストレス」と評された中で
まともな神経では働くことができませんでした。
戦国時代のストレスが全く同じとは思いませんが
似たようなストレスを抱えているならば
オンオフ切り替えないとやってはいけないだろうなと思います。

内面を書いた手紙も史料も豊富に残っているのに
昔から研究者に元就さんはよくわからん性格だと評価されてますが
オンオフ切り替えて仕事していたと思えば
分かりやすいのではないかなと思いました。

前:戦国時代の人質と統治
次:巫女の使い方・五謀

「大友ぶっつぶそうぜ!」戦国時代の島津と毛利

島津家久が
「八木の渡しで迷子になった!!」
といいながらも天正前期のどんぱちしている時に
安芸の国内を徒歩で旅行してる話や
隆景が有馬温泉で休養中に島津家宛てに
「有馬なう。秀長殿と一緒に湯治中。」
と手紙を書いていたり、
九州平定の仕置きでは島津との交渉は
恵瓊と隆景があたっていたりと
意外と島津と毛利は仲が深そうだなあと思ってちょいと調べました。

が、国デジの大日本古文書家分けの公開になくて
東編のデーターベースにしかないため、
著作権上、書き下し文のみで検討します。
独学の書き下し文なので非常に怪しいと断言しときます。

島津家文書1423号
書き下し文
「島津義久書状案

 毛利殿へ御返礼 御判之在り
 去る夏の礼廻しが為、今度遮って御使書、
 また重候抑えに就き、御入洛の儀
 東北士卒忠勤粧遂げられるべく、もっとも専要候
 然るところ、大友家、上意疎懐ゆえ
 来春到り豊・筑一戦御催し、快然の儀候
 幸い去る月6カ国の兇徒、
 日州表於いて悉く誅伐致しの上、
 更々御帰京の妨げ、その甲斐あるべからず候や
 まことに遼か遠しと雖も、公私混じって
 倍申し談ずべきこと、本悦候
 よりて太刀一腰、銀子祝着候、猶五戒坊演説べくため候
 恐々謹言
  12月10日     修理大夫義久」

現代語訳
「島津義久 案

 毛利殿への御返事だが、判つきの手紙である。
 夏の時の御礼をまだ返していないので今回使者を待たせて書いた。
 また重ねて言うが諸公の抑えとして将軍を助け、上洛されるとのこと。
 東はもとより北の武士までもが将軍に忠義を尽くすことを遂げることこそ
 一番大事だと思う。
 そう考えると大友家は上意に従うこともなく都とも疎遠なので
 来年の春になったら豊後・筑後で戦でも行おうとの誘いを喜んで受けましょう。
 幸いといいますか、先月6か国の兇徒を日向表で悉く誅伐してきましたので
 将軍が京都に帰るために毛利が東征しても、
 大友が中国を攻めることなんて更々できないはずです。
 本当に薩摩と中国は遠い所にあるとはいえ、
 公私混じって色々申し合うことができ、本当に悦ばしいことです。
 そういうわけなので太刀一振りと銀子を有り難く頂きました。
 なお、五戒坊というものが演説するためにそちらに伺います。

 恐々謹言
  12月10日     修理大夫義久」


年月未詳で、毛利家文書には見当たらず、
案とあるので実際には送られなかった可能性もありますが
後の事を考えられると返書を送ったのは確かだろうなと。

それから、毛利家の方から通信があったのは確かなようです。
元の手紙の存在ははきとしませんが、
義久さんの書状案に
「御入洛」
とあることから、将軍義昭が鞆に滞在中であること、
「大友攻め?おう任せな!!」
とあるので織田と戦争中である天正年間であること、
また、
「先月、6か国を治める大友が攻めてきやがったけど
 日向表で大勝したぜ!」

と述べているので、恐らくこれは天正6年11月の耳川合戦と呼ばれるもの。
よってこの手紙案は天正6年12月のもの。

当時の毛利の状況としては
天正6年3月・別所長治が織田から離反し毛利方として三木城に籠城。
        ・秀吉、三木合戦開始
      7月・第二次上月城合戦で尼子勝久を滅ぼす。
     10月・荒木村重、織田から離反。
     11月・第二次木津川口の戦い。

備前ところか播磨まで進出し、宿敵尼子の残党を滅ぼし、
摂津の荒木まで味方につくほどの一番勢力が強かった時期。
第二次木津川口の合戦は織田も毛利も勝ちだと両者言ってますが
こんな勝ち進んでいる時に
「これは風前の灯が最後に明るく燃えるようなものだ。」
と悲観的な事を思う隆景すら
「木津川口の合戦は勿論、我等の勝ちだったが。」
とまで言っていますし、その後も兵糧を入れていた記録があるので
織田方が勝っていたとしても完勝とまではいかなかったのでしょう。
しかもいくら遠いとはいえ織田と戦をしたことぐらい知っているはずの島津が
先祖代々そこまで悪い仲ではなかった大友と決裂し
毛利との同盟関係を崩そうとしていないので多分大敗はないかなと・・・。

とはいえ、心配性な隆景としては織田との戦を一気に形を付けたがっており、
全軍で織田とぶつかって、良いところで和睦を結びたがってました。
基本隆景が発案、元春がんんまあしようがないなと認め印を押す仲なので
こころおきなく戦うために島津との協力を仰ごうとしたのかなと。

そしてさすが島津と思うのが
「日州表於いて悉く誅伐いたし」
・・・耳川の合戦後は大友家が傾く原因になるほどと聞いたことがるので
まあ凄まじかったのだろうなあと・・・。
ただし、実際には天正7年春に島津が豊後まで攻めた記録はないはずです。
代わりに竜造寺が台頭していたので攻めるまでもないと思ったのか?
でも竜造寺は反島津のはず・・・。

まあ、でも遠い島津とも始まった接点。
これが今後どう続いて行ったのか。
それも面白いなあと。
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主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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