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主に毛利元就から浅野長勲までの戦国~幕末までの安芸の歴史について語るサイトです。
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9月21日「「瀬戸の鷹 小早川隆景」を読んで」

9月21日  31日、3・4・5・8・9・24・25日拍手ありがとうございます。
        こーじ様、コメントをありがとうございました。
        返信いたしました。
8月29日  29日拍手ありがとうございます。
        コメントありがとうございます。返信いたしました。
        8月30日「「清盛・元就と宮島」感想」
8月28日  27・28日拍手ありがとうございます。
        私も秋山先生の様に穏やかな語り口調で授業をしたいものです。  
        「『郡山城と城下の構造を再考する』講義録
8月26日  21・22・23・24・26日拍手ありがとうございます。
        「『長宗我部元親と四国』感想」
8月20日  11、14、16、19日拍手ありがとうございます。
        「石見銀山展感想」
8月 8日  24・25・27・31・8月2・3・4・5・6日拍手ありがとうございます。
        ぼちぼちガンバリマス。
        匿名様、コメントありがとうございます。返信いたしました。
        「「新出・隆景書状と厳島合戦前夜の山里合戦」感想」
7月23日  9・10・12・17・20・22日拍手ありがとうございます。
        アカデミーは魔窟ですね・・・。
        隆景の全てを手に入れたら諭吉先生がふっとびかけたので
        泣く泣く本を一冊諦めました・・・。
        お父さんもお兄さんも定価だったのに、8000円・・・。
        さすが景様・・・・。人気でいらっしゃる(涙)
「父・毛利元就危篤につき」

7月 8日  1・2・3・4・5・6日拍手ありがとうございます。
         1103和様、Yutaka様、コメントありがとうございました。
         拍手の所に返信しています。
7月 1日  6月23、24、25、26、27、28、29、30日拍手ありがとうございます。
        ぼちぼち書きあげます。
        「「小早川隆景と名島城・博多」感想」



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更新記録と雑記
更新記録と雑記その2

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「瀬戸の鷹 小早川隆景」を読んで

友から「瀬戸の鷹 小早川隆景」という本を借りました。
(泉 淳著 叢文社 1989年発行)
元就さんが広島弁だし、基本登場人物が広島弁(正確には備北言葉?)。
と聞いていたので、わくわくしながらページを開きました。

物語は郡山合戦の少し前から。
武田氏家臣熊谷氏の話からスタート。
元春の嫁さんの叔母さんの腰入りが
熊谷信直と武田光和の間にひと悶着を起こします。
そんな感じで、全国的にはマイナーな安芸国人達の名前が
ばんばん出てくるんですが、
当時の安芸の流れを知るには分かりやすいかと思います。

このごたごたの後、毛利家が出てきます。
そして元就さんの最初の一言

「はあ、はぶてちょらいな。」

・・・・おお!広島弁じゃ!!
ちょいと違和感あるけど広島弁!!

「はぶてる」は、「むくれる」という意味なんですが、
これを使うとは作者の人は広島の人かな。
そう思って裏のカバーを見ると、
高知県生まれ

・・・・あれ。

でも、文中の広島弁にそこまで違和感ありません。
同じ西日本だからでしょうか。
あ、でもやっぱり作者が土佐の人だなと思う箇所は何箇所かありました。
例えば、創作人物の船大工の従兄弟
彼らは土佐と紀州生まれながら、
紀伊水道を通じて親戚関係という設定です。
・・・船は今も昔も瀬戸内海の方が盛んですが、まあそこはおいといて。
なんで南蛮のガレオン船を作れるんだとかそこもおいといて。
水軍の将の隆景に大きな影響を及ぼす人物として出てきます。
瀬戸内海とは違う外洋の広さ。
補陀落渡海という慣習。
世界はどこまでも続いていると根っから思う土佐人気質と
島に囲まれ、穏やかに守られている安芸人気質は違うんだなと思いました。

話を元に戻して、このお話の元就さんについて。
当時の毛利家は尼子と大内に挟まれた地方領主。
隆景の誕生時はまだ隣の甲立すら敵対状態。
元就は幼馴染の世鬼茂十郎と共に戦国の世を駆け抜けます。
この茂十郎と元就さんのやりとりが、いい!
多治比時代からの幼馴染で元就さんを「松様」と幼名で呼ぶ仲。
実際のモデルは平佐就有・就之と本物の世鬼さんと志道広良を合わせて
親友パラメータをマックスにし、
忠義メーターがふっきれて、
お前は越南で米国と戦でもしてきたのか、
と思うぐらいゲリラ作戦が得意な人物です。

この茂十郎と元就さんで始めたのが
「ぼくの考えた最強の籠城戦」
郡山の全山要害化は尼子攻めの後と今は言われていますが、
尼子の来る前にこれでもかと山を切り開き、
罠を至るところにしかけ、2人で尼子を追い出します。

作者の方は戦前生まれ。
戦争による人間の醜い部分や悲惨な部分も胸に迫るものがありました。
もっとも、戦後生まれが半数を超えてかなりたった1989年発行の本なので
大分オブラートにされちゃったんだと思いますが、
戦争を経験した人の描写は真に迫っています。
特にこの尼子が郡山に攻める前の播磨侵攻。
ついつい忘れがちですが、この頃畿内まであと一歩
のところまで尼子は東進していて領土最大域。
ただ、播磨に攻め入った尼子はそれ以上進むことができませんでした。
尼子氏研究で有名な長谷川先生が
「尼子は何をしたかったのかよく分からない・・・・。」
と頭を抱えるほど本当に謎に満ちている播磨攻め。
この播磨攻めの時に小寺氏などが出てくるのですが
ああ、そうかまだ黒田官兵衛のお父さん世代だと
改めて隔世の感を感じました。

郡山合戦の後、隆景は養子に行きます。
後に両川体制と言われる小早川との養子縁組ですが、
最近は資料から、大内氏が主導し、元就はあまり乗り気でなかった。
という説が有力なのですが、古い本や古い引用を率いた物は
未だに雪合戦ネタを引きずっていることが多いです。
が、この隆景本は他と違って竹原にし殿と幼少期の隆景のからみがある!
竹原にし殿は興元の娘で、幸松丸の姉(だったはず)。
隆景にとっては従姉です。
ただ年の差は結構あります。
幸松丸誕生が永正12(1515)年、興元没年が永正13年(1516)で、
隆景誕生が天文2年(1533)なので少なく見積もって17歳差
親子でもおかしくないぐらいです。
実際、杉の大方と元就の年の差は15歳ですし。
竹原入城後、1年足らずで実母の妙玖が亡くなるので
このお話のようにお母さんのように慕っていたのかもと思いました。

毛利さんとこらしいというか、どの家族も仲良しで
その何気ない家族の会話があったかくていいです。
隆景と問田の大方も初々しくて、
この二人なら高野山で逆修墓を夫婦で建てるだろうなと思いました。
この夫婦でいる時の隆景が可愛いです。
あとは、景様でした。
初っ端から景様でした。

軍の規律を乱した輩は一刀両断、
体は子ども、頭脳は大人、どんな相手も論破する。
父さんのやることもおかしいものはおかしいときっぱり。
・・・まあ少し作者の思いを代弁しているような箇所もありましたけど、
やるべきことはためらわない。

あ、景様だ。これ。と思いました。
隆景が主人公の小説は、あの長い人生を小説化するにあたって
かなり端折られて物語が進むことが多く、
内面描写が少なかったり、登場人物も絞られていたりすることが多く
物足りないことが多いです。
でも、この小説は隆景の心情も追随できましたし、
人数も多く出てくるのですが、さらりと流れるのでさほど苦にはなりません。
読んだ本の中ではかなりお薦めの部類です。
ただ、難をいえば、「郡山合戦」から「厳島合戦」まではとてもボリュームあるのですが
それ以降はかなり駆け足です。
前半のペースで進むと鈍器レベルの厚さになるので仕様がないのでしょうけど
でも後半ももっとじっくり書いてあれば司馬さんを優に超えるベストオブ歴史小説。
だったのに、そこが惜しいなと思います。

言うても、隆景以外の人物も魅力的に書かれているので
読んでも損はないと思います。

「熊より簡単だな。」
と、千人切りする元春
がおります。
赤ちゃんだった隆景をおんぶして子守りする隆元がいます。
冷めた視点からの戦の愚かさ、人の醜さもある一方で
家族の温かさや人のぬくもり、
少し前にはありふれていたちょっと懐かしさを感じるような
そんな本でもあります。

「清盛・元就と宮島」感想

秋山先生が宣伝なさっていた県立大学で開かれている
「清盛・元就と宮島
 -名誉教授菅原範夫先生収集近世資料を読み解く-」

を出張がてら見に行きました。

詳しくはこちら
PDFファイルです。
きよもちもちなり


因みに扇で招いているのが清盛さん。
女性に導かれている子どもが松寿丸時代の元就さんです。

毛利元就の浮世絵であれば厳島合戦が有名です。
陰徳太平記は江戸時代に三大軍記物と呼ばれるほど
ベストセラー。
なので浮世絵にも結構題材として使われています。
が、松寿丸時代のものは珍しいです。
というかその存在を今まで知りませんでした。
面白そう!ということで行って参りました。県立大学。

広島駅からは広電宇品行きに乗り、
県病院前で降りて8分ぐらい歩けば着きます。
バスなら八丁堀から仁保沖町行きに乗り、
県立大学前で降りればすぐ。
丸い大きな建物が図書館です。

図書館の階段を上がればそこが2階で、
ゲートのすぐ横から展示が始まっています。
ちょっとお洒落な展示ケースなので
最初は気付かなかったんですが
本棚と通路の仕切りになっているガラスにも展示がありました。
間が空いているので番号が振ってあって、
その順に見ていきました。

結論としては・・・・。
これは本当に学生さんが展示したんだろうかと思うほど分かりやすくて
みやすかったです

資料も面白いのを集めていて、どれも一見の価値がありました。
市内から30分かかるんですが、行って良かった!!
本当に。
浮世絵や絵、本の展示が主なので、
ちょっとこの感動を言葉にするのは難しいんで
是非足を運んで頂ければ共感してただけるかと思います。

近世のものが主なのですがそうは言っても江戸時代。
200年近く前のものもありました。
清盛の展示では、平家物語図絵。
高野山のお話や後白河法皇御幸など
絵でみて楽しめます。
人物説明も分かりやすく、
「建春門院って誰だっけ?」
となっていた私も説明を見て、ああ、この人か!と理解できました。
白糸の滝は、高倉帝が実際に見た滝の写真も飾ってあり、
昔と今を比較しやすかったです。

それから清盛神社。
昔は紅葉谷の方にあったのですね。
知らなかったです。
近代以前からきちんと祀られていたんだ清盛さんと思いました。

それから絵ハガキ。
山下清の絵ハガキがある!!
頭の中で「野に咲く花のように~」が流れました。
点描で描いた紅葉谷の風景は今とさほど変わっていません。
そういえば、今は住んどっていない町屋にも山下清の絵があって
ここに泊ったんじゃという話を聞いたのを思い出しました。
あそこで描いたんですね。

それから「管弦祭」
清盛が初めて、毛利氏が保護して今に繋がる流れを
説明してありました。
墨で刷ったものなのですが、月が描かれていたり
鳥居を今にもくぐりぬける船など祭りの様子がよく描かれています。

意外だったのが、歌川広重の「宮島」
広重も宮島まで来ていたのですね。
巴水の絵よりも、広重の絵の方が
宮島らしさがあります。
この絵をポストカードにされていて記念にどうぞ
とあったので遠慮なく貰って来ました。

そして、あった!!
松寿丸と大方様の絵!
・・・・何と言うか、大河を思い出します。
V6森田くんからの、宮島高舞台で橋本さんにバトンタッチして
隣に大方様役の松坂慶子さんがいたあれです。
ああ、あの場面そっくりだと説明を読むと
「何を願ったのですか?」のあのお話。
大方様関係ないやん!
道の真ん中歩きなさいとかええ話あるやろ?
と思ったんですが、まあ絵としては良い絵です。
うん。

で、その隣に予想外の人物が。
月岡芳年の「小早川隆景彦山之天狗問答之図」
・・・・。
ええ!父さんの横で何しよるん隆景!
誰だ、この浮世絵配置を考えた人!
素晴らしい!ぶちええ!!

司書カウンターのまん前だけど!!
9月7日から本物が展示のようで
残念ながら今日はこぴー。
ああ、江戸で展示会があったからあっちいってるんでしょうなあ。
これセットで見れるってなかなかないなとじっくり見ました。
司書さんがおるカウンターのまん前だけど。

それから「湯屋」にあった石。
今、宮島の民俗資料館に展示してある石ですが
ああ、転がされている・・・。
清盛さんはともなく、元就さんの名前を刻んだ石を・・・。
長州藩士に見つからんでよかったなあこの人たちと思います。
湯やが壊れた逸話も伝わっているのですね。
それも知らなかったので興味深かかったです。

宮尾城の合戦の、堀切。
ああ、これ名前があったんだと初めて知りました。
いっつも通るたんびに、ここ岩盤なのに削るのぶち大変じゃったろうに。
と思うあそこです。
・・・まあ、温泉津のお寺に比べるとまだましですが。

そらから「西遊雑記」
江戸時代に書かれた諸国漫遊記。
これ意外と面白かったです。
広島の城下町に溢れていた動物は犬ではなく豚。
・・・豚?え?食用??
筆者も驚くほど多かったようで、
長崎でも豚を見たけれどそれより多い。
と記してありました。

それから初公開!隆景書状!!
・・・すみません初見じゃないです。
あ、でも講義の時と違ってゆっくり見れました。
詳しい解説も付いていたので読みやすかったです。
隆景の若い時の字なので、
割と文末はこまごましています。
それから音戸の城跡推定もありました。
ふむ、あそこなんですね。
音戸行った時に良く見てみようと思います。

それから清盛さん関連であった経塚。
現在はただの丘で、石碑がぽんとあるだけなんですが
経石がきちんと出てきていたんですね。
知らなかったです。
伝承だけかと・・・・。
他にも祭器も出てきたようで今どこにあるんだろうと思いました。

それから千畳閣。
太閤秀吉が宮島訪れた時の様子は
竹中さんの書いた本に寄るようなので
原本読んでみたいなと思いました。

そして近代。
厳島は山陽鉄道が開通することで観光化が進みます。
明治・大正の頃の宮島観光マップとでもいうべき図は
史跡も全て書かれてあって今でも十分使えそうでした。

それから山口でもみた吉田初三郎の鳥瞰図、宮島周辺。
頭の中で鉄道唱歌が自動再生されました。
山口に行った時に講演会で何故かみんなで歌う
「みんなの歌」状態だったんですが、
あれ戦前の歌なので歌えるおじいちゃんおばあちゃん70越えのはず・・・・。
日清戦争後なので軍事色がちらほら見えるため
戦後すぐは確か禁止された歌なので知らない方の方が今は多いと思います。
見どころ要素も入っていて節も単調なので
歌いやすくて好きなんですが、まあ時代上しょうがないかなと。
ところでこの歌、普通は1つの駅で1~2番だけなのですが
宮島については異例の4番使い。
しかも歌詞に元就さんが出てくる歌なんです。

「己斐の松原五日市 いつしか過ぎて嚴島
 鳥居を前にながめやる 宮嶋驛につきにけり 

 汽笛ならして客を待つ 汽船に乘れば十五分
 早くもここぞ市杵島 姫のまします宮どころ

 海にいでたる廻廊の 板を浮べてさす汐に
 うつる燈籠の火の影は 星か螢か漁火か

 毛利元就この島に 城をかまへて君の敵
 陶晴賢を誅せしは のこす武臣の鑑なり」

平清盛が造営し、元就も篤く信仰した宮島。
近世江戸時代から浮世絵の題材になり
近代明治時代以降も列車の開通で多くの観光客が訪れるようになった。
1000年以上変わらない場所もあれば
変わって行く様相もある。
展示会場はこじんまりとしていましたが
本当に資料も展示の仕方も面白かったです。

9月7日までの展示と7日から展示のものがありますので
7日以降に行ける日があれば、隆景VS天狗の浮世絵も見たいなと思います。

「郡山城と城下の構造を再考する」講義録

今日は秋山先生の講義を聴きに吉田歴史民俗博物館にいって参りました。
先生が講座を吉田で開かれるようになられてから、もう27年も経つんだそうです。
その中で「郡山城」をテーマに話をされたことが過去にも何度かあり、
今回は過去のものをベースに城と城下町について再考されちゃったことを
お話されてでした。

確かに吉田郡山城はテーマになることが多く、
過去の吉田の公開講座では、
三浦先生の「毛利の城」1
山城シンポジウム
「興元とその時代」中の木村先生のお話
等、がありました。
でも、秋山先生の郡山城話を聞くのは多分私は初めて。
どんなお話かなとわくわくしてきました。

因みに、過去のものは吉田歴史民俗博物館の図録に記載されているそうです。
で、先生11月に城下町科研グループのシンポジウムで報告されるそうで
その内容を話すにあたり、今回再考したことを講座ではお話されちゃってでした。
郡山城は全国の戦国期の城郭の中でも、
城と同時期に書かれた文献資料が多く残る。
その量は全国でもっとも多いのではないか。
加えて村山檀那帳にある家臣団の記録から、
誰がどこらへんに住んでいたかも推測できるそうです。

1.郡山城の構造
(1)元就・隆元・輝元の郡山城
皆さんに話すまでもないでしょうが、
・・・・と先生仰ってでしたが、いや、でも基礎って大事だと思うんです。
今回先生の説明はかなり詳しくて、初心者の方でも分かりやすかったのではないかなと。

天正9年まで
  旧本城が郡山城、尼子が攻めてきた後全山城郭化。
天正10~16年
  輝元による大改造
  (例)麓の改造・・・堀の整備、城下町を分限に相応しく大通り沿いの家は白壁に
     城の改造・・・入口に大門、2の丸から3の丸に石垣。
天正16年
  輝元、上阪。
  広島城築城へ
  ただし、広島城ができても郡山城は使用。
  →隆景や元清が吉田を訪れている。


ということで、今我々が見ているのは輝元の郡山城。
・・・そういえば、ずっと前の講座で郡山城に瓦拭きの建物があったかどうか。
という質問がありましたが、多分あっても蔵ぐらいではないか。
と仰られてましたが、輝元時代なら瓦拭きあってもおかしくないですね。

それから先生の若い頃は山城は戦時の時に籠る城で
不便だから普段は麓の屋敷で暮らしていた。
という説だったそうですが、毛利家の場合を見てみると
元就も隆元も輝元も書状からすると、全員山の上に暮らしている。
そして、それを裏付けるのが「村山檀那帳」

(2)村山檀那帳と絵図
伊勢の御師・村山さんが「吉田・沼田・中郡」を訪問した記録。
61の地域別に1087人の名前が記載されているんだそうです。
ようは営業エリアと顧客名簿

・・・・と、先生、例えられてました。
おお、なるほど!分かりやすいです。
因みに、この営業エリア。
毛利氏の拡大と共に広がったようで
後に山口、富田、備中の地名が出てくるようになったそうです。
・・・ああ、だから小早川さん担当の御師で
竹原担当VS本郷担当で揉めていたのか。
営業エリアかなり変わりますからなぁ・・・。

で、吉川が入っていないのは担当者が違うから。
吉川さんは橋村さんが担当者なんだそうです。
・・・よくある元春だけはぶられていたんではないんですね。良かった。
ってことは橋下さんとこに檀那帳があれば日の山城付近も
家臣配置が分かるんでしょうか。

村山檀那帳は、吉田→下吉田と回っており、
1番初めは輝元。
2番は御かみさま様。
3番は御つほね様。


御局様が誰なのかは謎なんだそうです。
・・・この村山檀那帳は天正9年。
カサ付近には、輝元夫婦ともう一人女性が住んでいた。
ですが、輝元の母は元就死後の1年後、元亀3年没。
姉は元亀2年に亡くなっています。
なので、輝元の家族筋で該当する女性はいません。
先生はこの局は輝元の側室では。
と推測されていました。

・・・ううん、中の丸らしき人名がないんですが
東の大方と呼ばれていたのでカサにはいないか。
名前一覧を見ていると当主の母は「大方」ではなく
「大かみさま」と記載されているようです。
ですが、やっぱりそれらしき名はない。
ううん。

4番は満願寺。
5番は桂就宣
6番はその妻


桂就宣は桂元忠の跡継ぎ。
・・・元忠は桂元澄の弟で、元就派の奉行衆。
元亀3年に引退し、その息子が輝元の側近として仕えた。
ので、恐らく元就さん時代には桂元忠が住んでおり
その屋敷を就宣が引き継いだのでしょう。

このように郡山城は、家臣と家臣の家族が住んでいることが分かるんだそうです。
戦国期の山城で家臣がどこに住んでいるかが分かるのは
郡山城だけではないか。村山檀那帳はそれだけ価値ある史料なんだそうです。
因みに県史古代中世Ⅴの県外文書の目玉ではないか。
と先生仰ってでした。

そしてこの名簿に加えて、郡山城は絵図が残っています。
江戸時代に書かれたものではありますが、
城に住む家臣の名前が書いてあるので
この2つを使えばかなり再現できるんだそうです。

(3)城と里・麓
先生曰く、往来、郡山城は「城」と「山麓」の2つに区分されていると思っていた。
なぜかといういうと閥閲録の有福宛ての文章に
「出雲出兵したいと言われているが、吉田が手薄なので
 麓在番をして頂きたい。」

と書かれてあることから、
郡山城は城の部分と麓を合わせて城内なのだろうと思われていたそうです。
しかし、三浦家文書を見ておかしいと思われたそうです。
書状には
「彼の丸御つほね」を福原に返して、
「あはいさま」を丸へ登らせることはできないか。
城が窮屈なら麓に遊びに行くこともできるようにし
城と麓の区別なく寛げるように・・・

とあることから、麓は城とは違うのでは?
と気付かれたんだそうです。
ついでに、あはいさまが檀那帳の町の御局様ではないか。
故に、城の御局様は輝元の側室ではないだろうか。
と推測できるんだそうです。
よって郡山城は堀で麓部分と仕切られ、
堀内だけが城の範囲として考えられていたのではないか。
と仰られていました。

・・・・堀は山の際に沿って掘られており、
そこで城と麓の区別がされている。
郡山城がそうであれば、安芸の山城も多くはそれに基づいて
城基準になっていそうです。勉強になりました。
まあ、でも一番インパクトでかかったのは輝元ですが・・・。
何人いたんだろう側室。

ううん、でも「あはい」さんってどこかで聞いたことがあるような・・・。
井上衆が打ち果たされた時に、今は物騒だから落ち着くまで帰ってくるな。
と難波にいる井上さんに手紙をだした女性が「あはい」さんだった気がします。
屋敷の位置的に、井上さんの可能性もありますし、
ころころ側室は替えれるものでもないでしょうし・・・。
ううん、質問すれば良かったかも。

(4)城の山上構造
「かさ」・・・嵩、高い場所という意味で漢字では「山ヘンに登る」
      山の下に登る。どの道高い場所。
      元就もここに住んでおり、桂元忠も住んでいた。
      「かさのほうし」と呼ばれる子が髪置きする時に、
      四郎と六郎が麓へ行っているから帰ってくるように。
      とあることから、カサには三吉氏も住んでいた。
「尾崎」・・・旧城から隆元夫妻が移った場所。
「丸」・・・・・乃美氏が住んでいた。
       余談ですが、カープの丸が乃美に行ったり、
       吉田郡山の丸に上がったりしてくれませんかね。
       と先生仰ってました。うん、素晴らしい考えだと思います!
       してくれたら話題になると思うんですが。
「中の丸」小幡氏が住んでいた場所。

(5)記載者の内分
記載されている名前は山頂から山麓へ向かっているそうです。
合計で74人の人名が載っており、
彼らは「年寄」「奉行」「近習」の3グループに分けられそうです。
年寄衆は御4人の次に命令を伝える役割で
在城を申し付けられていた。(毛利家文書404)
年寄衆・奉行衆の下に近習衆がいて、彼らは事務方。
郡山城が政庁として使われていることが分かり
在城することは宿舎と同じだと考えられるんだそうです。

この他にも「里衆」「里近習衆」もおり、
例えば宍戸元親
替地について揉めていたようですが、それはもういいから
在城ではなく「里居」したい。
と言っていると隆元が書状で述べている。
娘が亡くなってからやる気がなくなったようです。
それから佐藤元実
隆元が信頼していた人物で仲が良く、
彼宛ての直筆書状が多く残っているんだそうです。
彼は「里居」しており、息子が亡くなって気落ちしていていたようで
落ち着いたらでいいから登城してほしいと隆元が述べています。
これら、「里居」から里に暮らしている近習衆がいたことが分かるそうです。
郡山城絵図では国司や東、佐藤は堀内のように書かれていますが
書状などから彼らは掘外の麓に住んでいたのが正しいのだそうです。

・・・ふむふむ。
城と麓・里は堀で仕切られ、
城に住むのは在番。
里は里居と分けていた。
書状を読むに在番よりも里居の方が気楽だった気がします。
替地よりも里居したいと望んでいるようなので。
まあ、城=仕事場ですから、仕事場で暮らしたくはないか。
里に住んでいて、登城するほうが楽です。うん。

3.城下町吉田の構造
(1)吉田の上下
郡山籠城日記から上と下の様子がわかるそうです。
まずは上吉田。
尼子が吉田の上村に放火して家が少し焼けた。
よって上吉田は家が少なく農村であったのでは?
因みに今の相合らしいです。
それから下吉田。
檀那帳には本城の南から東の人物が書かれている。
それから郡山城籠城日記には太郎丸其外町屋放火とあるので
町屋が広がっていたことがわかるんだそうです。

(2)市
吉田には三日市、六日市、十日市がありました。

三日市は太郎丸と呼ばれた辺り。
城から見て多治比川の南。
井上衆が通交税を取っていたようで元兼の息子が屋敷を構えていた。
その屋敷跡は郡山城図では渡辺が住んでいるとあり、
檀那帳も渡辺肥後守が出てくるんだそうです。

・・・ゆめタウン吉田のあたりなので
ゆめタウン吉田の店長と例えられるあれですね。
ううん、でも多治比川の流れが今と少し違うのでしょうか。
位置的には川向こうであれば、むしろ
ジュンテンドー吉田とユアーズ吉田っぽいです。
あ、ていうか地図見るときちんと太郎丸という地名が残っています。
ふむ、400年間変わっていないのですね。

続いて十日市
ここは武士の名前が出て来ない。
商人や職人らしき名前がある中、
佐藤源七郎だけ名字がある。
ここは郡山図では元清御宿となっています。
この佐藤は元々井上氏で、
天文21年に隆元の命で改名しているんだそうです。
背景には天文19年の井上一族の誅伐があった。
それから井上七郎次郎は同姓同名がいて、
この中河原の井上七郎次郎と呼んで区別していた。
これらから、中河原は十日市と推定できる。
河原は誰の土地でもないので市が立ちやすい。
この中河原は自然発生的にできたまちではないか。
と仰られていました。
なので、武士が移転した後も町として残っている。
これは現在の市役所付近だと推定できるんだそうです。

・・・確かに今でも町の中心になっています。
そういえば、元就さんがかわた頭を300石で召し抱えた。
という記録もあるそうですから色な人が集まっていたんだろうなと思います。
・・・佐藤さん、宿屋さんしていたんですね。
戦国時代にも宿屋さんあるんだ。
桜尾城主元清が泊るってことは相当大きかったんでしょうなあ。
っていうか、やっぱり同姓同名とかいたんですね。
井上さん、ここのところクラスに2人いる状態続いていましたし、
今みたいに名前がきらきらしていなかった頃はそりゃあ同名も
珍しくないだろうなあと。

最後に六日市。
「まち」には目代が置かれていて、八か国分限帳には同じ石高で
後藤与三郎の名前が挙げられています。
また村山檀那帳に載っている返章には後藤種重と種盛とあることから
目代は後藤さんで一致。
また、「まち」と時折あるのは、道順から
郡山城に一番近い六日市ではないかと考えられるんだそうです。
・・・・実際、六日市は今も字で残っています。
この「まち」は惣構を隆元が命じており、
「堀のしきり」に端が繋がるようになったので
堀まで繋がっていたと分かるんだそうです。
人夫に縄を持たせているので恐らく柵もあったのだろう。と。
それから「人質」
三村少輔五郎という備中三村氏の人質が宿所で口論になった。
と閥閲録で児玉小次郎が述べています
どうも児玉氏が人質や町の番をしていたようで
児玉若狭守宛ての書状には「人質番肝要之儀につき」
「ふもと廻りの儀」等を元就から指示されています。
人質と言っても、割と自由に過ごしているらしく
例として隆元のことが挙げられていました。

・・・宿所で口論。
三村さんか・・・。永禄8年ならまだセーフですね。
それと、三原城では隆景が城下見回り班を作っていましたが、
そうか人質の管理と町の見回りを兼ねていたのかと気付きました。
まあ、六日市の辺りまで子どもの元清達が遊びに出かけているぐらいですから
治安は良かったんでしょう。
十日市は止められてそうですけど。

・・・・それと、元就さんの言葉を隆景が後に記したとされる
「永禄聞書」にも人質や出陣している時の留守番について書かれてありました。
今回の書状を見ているとやはり永禄聞書は
隆景が書いた可能性がかなり高いのではないか。と思います。

感想としては、村山檀那帳一覧と郡山城図の合わせ技で
郡山城と城下町の様子が再現できるのは素晴らしいなと思いました。
吉田の町並みは基本的には変わっていないので、
道も郡山図とほぼ同じ場所もあります。
これに明治の地図を重ねれば現代の位置に落とすことができそうだなと思いました。

それから、ひたすら配って回られている「のし」。
今年は旅行で伊勢神宮に行って来たので
「のし」の説明を聞いたのですが、
おお、ほんまに「のし鮑」を配って回っている。と驚嘆しました。
というか、
あの距離を吉田まで歩いてくる&こんだけ熨斗を運んでくる。
すごい道中だなあと思います。
でも、そのおかげでこうして城のマップができるので
本当に感謝の一言だなと思います。
ううん、ただ伊勢神宮よりも出雲大社の方が近いはず。
出雲大社も遷宮をするために歩きまわっているはず。
出雲大社にもこういう寄付した人の名前一覧はないんでしょうか。
もし、あれば天文年間の建て替えがあったはずだから
大内さんも毛利さんも尼子さんも全て分かるんじゃないでしょうか。
ふむ、まだまだ眠っている史料もありそうです。

「長宗我部元親と四国」感想

今、伊予で月に1回ほど戦国時代の歴史講座が開かれているのです。
「芸予土」の瀬戸内海挟んだ戦国時代のお話。
石谷家文書など新出書状がまだまだ出てくるように、
伊予と土佐と安芸の三国関係はまだまだ研究途上。
そもそも長曽我部氏が四国統一したのかどうか、
河野氏は毛利氏とどこまで連帯していたのか。
まだまだ謎は尽きず、講座に行きたいのですが、
10時までに松山行けない・・・。

まあ、歎いていてもしかたないので、
そういやまだ読んでいなかった本の中に
長宗我部さん関係の本があったよなあと引っ張り出してみました。
「長宗我部元親と四国」
(津野倫明著 2014 吉川弘文館発行)

著者の津野先生は高知大学の先生で
以前比治山大学で安国寺恵瓊の講話をされたことがあります。
御専門が戦国から織豊期。
織豊政権との絡みと地方に関して、偏りのない視点でお話されちゃったので
とっても分かりやすかったのです。
この先生の本を是非読んでみたいなと思って買ったまま、はや1年。
丁度よい機会なので読んでみました。
以下感想です。

第1章は、長宗我部元親とはどんな人物なのか。
近年、ゲームなどで有名になったけど
正しい人物像が伝わっていないと先生歎かれてました。

・・・・大丈夫です。どこもそんなです。
そもそも元就さんに至っては、
研究すればするほどようわからん性格だ
と先生方にも言われとりますんで・・・・。
でも、そんなとっかかりから歴史の沼にはまって行かれる方もいますし、
先生もそれを意図されてか、歴史学的な論拠で分かりやすく書かれていたので
すらすら読めました。

まずは、長曽我部なのか長宗我部なのか。
長曽我部の方が今まで一般的で、実際歴史書でもそちらの表記をよく見ました。
が、山本大氏の『「長宗我部」苗字考』から
「『長曽我部』は豊臣秀吉など他者が使用」
「元親や盛親は~『宗』と書いてあった」
             (参考文献引用p20)

・・・・元親と聞くと毛利脳では三村さん出てくるんですが、大分慣れてきました。
まあ、それは置いといて。
長曽我部と長宗我部、どちらも間違いではないようですが
苗字の地名や、本人たちの表記から「長宗我部」の方が推奨されるようです。
実際、職員名簿に載っていた長宗我部さんは
こっちの名前で使っていらっしゃいました。

で、次にどう読むか。
「ちょうそかべ」と読んでいますが、当時の記録からすると
「ちょうすかめ」と最初思われていたけど実は違って、
「ちょうそうがめ」ではないかと書かれてありました。
実際、毛利家家臣の玉木さんの記録には「長曽亀」と表記されてます。
同盟国だった相手方の名前を間違えるなんて玉木さんは失礼なことを
と思っていたんですが、発音上の当て字としてはあっているみたいです。
・・・へえ、なるほど!間違いじゃあなかったんだ!
と目からうろこでした。
因みに、陰徳太平記は「長宗我部」。
きちんとした表記です。
書いたのは吉川家家臣になった香川さん
まあ、香川さんは親戚が讃岐にいたので、
正しい表記を知っていたのかもしれません。
というか、元親の次男が讃岐の香川家継いでいるので
陰徳太平記は割と四国の動きも細かく書かれています。
・・・それを考慮すれば、陰徳太平記も元親記ぐらいの信憑性で
四国情勢は読みとれそうです。
今度改めて読み返してみようかなと思います。

それから性格。
朝鮮出兵の折りに各武将の性格を和歌にしたものでは
「しとしと」と評されており、物静かで慎重であった。
のではないかと書かれてありました。
この「しとしと」は先生がよく使われる表現で、
石谷家文書のコラムにもありました。
この「しとしと」した性格は花押にも現れていて
最後に長く細く伸ばして書く。
そこから慎重な性格が読みとれるのではないか。
と結ばれていました。

それから四国統一。
先生は統一ではなく制覇論です。
根拠としては伊予・讃岐・阿波の三カ国のうち
いずれも完全に統一したとはいえず、
支配の及ばない部分もあった。
なので、統一とは言い難く、制覇ではないか。
・・・さすが先生論拠が分かりやすい。

ただ、土佐を統一したことは間違いない。
しかし、それは往来の様に一領具足の軍事力ではなく
子弟を国人家へ入嗣をさせた戦術が効いたからではないか。
ということで、毛利元就の三子の例の後に、
長宗我部元親も同じように香宗我部・吉良・津野などの
有力土佐国人の家に弟を入れていった事例が紹介されていました。
・・・・「西国合戦」の本でも、
毛利元就と長宗我部元親の類似点が挙げられてました。
広島も高知も似たように山が7割占める山岳地帯なので
気質もやや似ているのかなと思います。

ただ、土佐の場合は守護一条氏がおり、
長宗我部元親はこの一条氏に仕える立場。
この状態は御所体制と名付けられているそうです。
このままではトップに立てません。
なので一条氏に娘を嫁がせ、できた子どもを一条家の当主に擁立。
元々当主であった一条兼定を豊後に追い出し、
一条家を主家に仰ぎながらも実質は自分の支配下に置いたそうです。
ただ、兼定を追い出したことは、織田信長の政策に沿わず、
それが四国出兵の一因になったのではないかと書かれてありました。

・・・・御所体制、
一条氏を放逐しておしまいだと思っていたんですが
なるほど、残して置いたんですね。
娘が産んだ子を当主に。
やり方としては藤原さんによう似とります。

そして豊臣大名時。
長宗我部氏の場合、3人奉行が主に裁決を行っていたようですが
更にその奉行衆の上にいたのが「非有斎」。
長宗我部元親らの帰依する僧侶であり、
元親らがいない時には最高決定権を持っていた。
・・・・毛利と安国寺恵瓊、同じ政治機構。
こうしてみると結構類似点が多いんだなと思います。
実際、一対坊主と称されるようです。

そして滅亡。
長男が戦死した後、4男の盛親が継ぐのですが、
偏諱は増田長盛からではないかと考えられているんだそうです。

・・・え、土佐一国の大名なのに奉行衆からの偏諱。
そりゃあなめられているきが・・・・。

しかも官位は土佐守を正式には与えられなかった。
豊臣政権から盛親が重視されていなかったのではないか。
それは書状から見られる性急な性格から、
支配者としての器を軽く見られたからではないか。

・・・確かに引っ越し命令だして、翌日までに移動しないと
首を切るはちょいとやりすぎです。
ふむふむ、大分性格が違うんだなと思いました。

そして関ヶ原
ただ、長宗我部氏が滅びたのはこの戦い破れたのが原因ではない。
戦いの後に、「減転封」で話がついていたのに、
「浦戸一揆」が起きた為に改易

・・・・ええええ!!滅びたの浦戸一揆のせいなん!?
土佐衆、幕末にこれでもかってぐらい安芸衆に恨みぶつけてきてるんです。
戦いの時に声掛けなかったり、称賛独り占めしたり、最大は大政奉還の先廻り。
いや、まあ関ヶ原で滅びているからまあしようがないか。
こっちにも責任がないわけではないですし・・・。
恨むんなら何で長州藩じゃないんだと思いますが、
まあこっちも分家は結構残っているから仕方ない。
って、思ってたんですが・・・。
まあ、でも滅びた原因はあちら側でも
負けた原因はこりらにもありますからね。
輝だからしょうがないんです。すみません。

あー、と落ち込んでいたら
次のページに相関図がありました。
長宗我部氏の一族、四国衆の関係ともう一つ、
友好関係、毛利、島津。

・・・おおお!!
友好関係に毛利が入っている!!

うわあ、嬉しい。何だか凄く嬉しい。
いや、いっっつも敵なんですよ!!
大友、尼子、宇喜多、織田、豊臣。
時には何故か景様信者の黒田からも
味方として酷使された大内からも白眼視。
わあ、ありがとうございます!!
これで幕末のいじりに耐えられる!


第2章からは四国制覇に関わる論述で、
とても面白いんですが、初見ばかりなので
感想というよりまとめになってしまうので
ここで筆を置きます。
予想通り、津野先生の本面白かった!!
やはり、専門書の方も買っておけばよかったと後悔しています。
お取り寄せしようかどうか・・・。
プロフィール

トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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