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主に毛利元就から浅野長勲までの戦国~幕末までの安芸の歴史について語るサイトです。
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更新記録と雑記
更新記録と雑記その2

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企画展「安芸宍戸氏」感想

安芸高田市の歴史民俗博物館で現在行われている
宍戸隆家生誕500年記念の
「安芸宍戸氏~毛利一族、4本目の矢~」

に行って参りました。

毎週土曜日の11時から、展示解説をなされているので
それに間に合うように走りました・・・。
10時45分吉田病院着のバスが着いたら11時。
「うおおおお!間に合え!!」
と走って何とか解説に間に合いました。

まずは宍戸氏の系図から。
宍戸氏は八田知家を祖とし、常陸を本領とする鎌倉武士。
時代は下がって安芸に下向したのが安芸宍戸氏なのですが
戦国期に常陸宍戸氏出身の元家が本家を継いで
幕末まで続くと今までの系図では紹介されていました。

しかし当時の他の文献を調べるとどうも
安芸宍戸氏の中でお家争いがあったのではないか。
常陸から招いたのではなく、大内派と細川(幕府)派で
家中が分かれ、結果として元家ら安芸守系が残ったのではないか。
その証拠として義興書状や陶氏の書状が紹介されていました。

・・・系図はごまかせても他家に伝わった書状の内容はごまかせない。
なるほどなあと思いました。
それと、元就以前の段階で宍戸氏と手を組んでいたのは初耳でした。
それと五竜城が陥落したのも初聞きで、
城の造りがやけにしっかりしているなと思ったのは
落城経験があるせいなのかと納得しました。
もっとも同族の争いなので東ほど激しくないとは思いますが・・・。
あ、それとそもそも名乗る名前が違ったので一目で分かります。
元家から以降、「弥三郎」の名を名乗る方が後の筆頭家老の血筋。
それ以前の名乗りを引き継いでないので明らかです。

あ、あと書き下し文は全部「完戸」ってなってますが
これは間違いじゃない
んだそうです。
後ろでみようた御夫婦がこれは間違いじゃない?
て言ようちゃったので後で学芸員さんに質問したんですが
そもそも原文が「完戸」だよと教えてもらいました。
見るとほんまに「完戸」って書いてある!
大発見でした。

あ、あとこの間訳した幕府からのお手紙
毛利家文書289号「郡山合戦報告書の注進について」
が、ありました!
わあ現物~と感動しました。
今回書状関係が充実していて、
元就さん直筆書状が出てました!
それも「水魚の交わり」のやつ!!

・・・一応リンクはっときますがもう6年も前の訳なのでまた今度手直します。

この書状最高!!ぜひ現物を見て頂きたい!!
あの、最初の前文が、これでもか!!
とこまかくびっしり書いてあって、
それでもスペース足りなくて、
上の方に斜めに書いて
それでもスペース足りなくなって、
終には本文の合間にまで書き足してる!!
それも「五竜は女だから聞きわけが悪いこともしょうがない。
元春、お前が折れてやれ、男じゃろ。」(意訳)
を。

うわあ、これは現物見ないと分かんない発見だなと思いました。
それと文章が変なところで墨が代わってるのと
やや雑な印象を受ける字でしたので
本当にもういい加減にしてほしいという元就さんの気持ちが
にじみ出ているような感じでした。

この文章で元就さんは
元源さんとは兄の代までは争っていて
 兄が亡くなった時にも戦をしていたが、
 父からの遺言では仲良くしろと言われていた。
 さあどうしようと思っていたら、
 私と元源殿は水魚の思いに成り
 縁を結んだのだ。」
(うろ覚え)
と書いています。
宍戸元源は息子の元家を早くに亡くしており、
元就さんと息子の元家を重ねていたのかなと思っていたんですが
入り口の宍戸年表を見れば、元家と元就は生まれが1年しか違わない
ああ、やっぱり亡くなった息子とほぼ同い年じゃった。
そして元就さんは母も父も姉も兄も亡くなり、頼れる家族はいない状態。
・・・妹や弟は庇護しなきゃ!って燃えてるので多分甘える存在はいないです。
そんな状態だったから、「水魚の思い」の情を抱きやすく
親子みたいな状態だったんだろうなと思います。

で、ここで結んだ縁ですが、
今までは高橋氏滅亡の時に五竜局(おしん)が嫁いだ時に
宍戸と毛利は同盟関係になったんだと考えられていました。
しかし、陶さんの手紙から享禄2年には同盟関係になっており、
高橋氏を滅ぼした天文年間よりも前のことだと分かったんだそうです。

この婚姻は元就とっては心強いもので
娘の嫁いだ五竜、すなわち宍戸を大事にしてほしいと
先の書状でもこんこんと説いています。
なので今回の副題に4本目の矢としたのは
元就本人も三子と同様に扱うようにと言っているところから
来ているんだそうです。

・・・4本目といえば元清のイメージなんですが
確かに隆家も義兄として元就の葬儀のときには
隆景達からも頼りにされていて、
自分は一人っ子なのに兄として面倒をよく見てくれているなと思います。

・・・恐らく隆家直筆?らしき書状もありました。
備後山内氏に当てた手紙です。
字と字がきっちりまっすぐで、同じ大きさ、
やや小ぶりで真四角の経のような字です。
右筆にしては行間が空きすぎなので
恐らく直筆かなと思うのですが・・・。
・・・筆からは小まめな性格だなと伺えました。
備後山内家は備後守護であり元は
「3分の1衆」と呼ばれた名門山名氏の守護代。
そのため備後の国人達よりも頭一つ高く、
時世から毛利氏に従属したものの不満に思うことはあったようで
隆家がその都度調整していたようです。

隆家の母は山内氏と伝わるのですが、系図にもなく
この書状が唯一、隆家が幼少時に山内氏に
養育されていたことを証明するものなんだそうです。
・・・元就さんといい、きちんと手紙に過去を書くって
大事なんじゃなあと思いました。

っていうか宍戸氏は萩藩筆頭家老の家柄なのに
史料が圧倒的に少ないんだそうです。
途中の系図改変もですが、隆家の次代も謎な子です。
宍戸元秀は五竜の息子で、隆家とともに軍事行動にも参加しているのですが
後世には元秀は病弱で家督を継いでいないとされます。
しかし、実際には行軍しているし、子どももいる。
そして墓所は井原・・・・。
ううん、これって何かやらかしちゃんじゃないか。
誠しやかに囁かれているのが、子のない輝元の養子として
宍戸元秀が本家乗っ取りを企んだのではないか。
とか色々言われていますが、実際史料に出てこないんそうです。
・・・ただ、もし何かやらかして書状を消したとしても
先ほどの様に他家の書状から出てきそうなものなのになあ
と思わんでもないです。

因みに井原の秀元墓所の側に五竜局の墓と伝わるものがあります。
不憫に思った息子の側で暮らして亡くなったと伝わります。
・・・ただ、今回の五竜局の墓所と伝わる写真パネルと見比べると
浅塚に伝わるものの方が明らかに毛利の墓です。
見て頂ければ多分一目で諒解されると思います。

隆家も灰塚は石で囲った場所ですが
宍戸は五輪塔を立てるようです。
それも石灰岩で建てているので庄原との交流が
石造物からもわかるんだそうです。

隆家墓所に関しては、江戸時代に
三上さんが残した紀行文に詳しく載っています。
この三上さんの手記が面白い!
ついつい10ページ読んでいたら30分以上かかったんですが
江戸の甲立のようすが分かって面白かったです。
伝承で屋敷跡と思われるところへ尋ねても
百姓の方が住んでおり、由緒を聞いても分からないことが多く
それでも時々お寺などに行くと詳しい人がいて
御馳走を振る舞って貰いながら、伝承話を聞く。
・・・ああ、現在の史跡調査と変わらんことしとる!!
と感動しました。
その後、三上さんは無事同族の人とも再会でき、
遠くからよういらっしゃったと親戚?と仲良く話ができたようです。

今回解説を聞いてらっしゃる方は地元の方や関係者が多く、
「家紋が家と一緒だね。」
とか
「あの宍戸さんとこの親戚なのかな。」
とか仰られていて、ああ地元で知ってもらうことは
本当に大事なんだなと思いました。

それと安芸の三上さんは長州藩からきた藩士の親戚の影響をうけてか
後に天叟院の墓所の絵を描かせたようで、
その図がわしの寺にあるよと企画展の新聞記事を見たお寺から連絡があり
今回初出展、っていうか未確認だった史料が新たに見つかり
急遽展示されることになったそうです。

江戸時代の終わりに御先祖様ブームが湧きあがり
その影響で、動いた地元の方のお陰で今こうして史料として
在りし日々の様子が伝わっているので、
歴史ブームは次に歴史を伝承するためにも
必要なんだなと実感しました。

江戸時代はきちんと手入れされていたようですが
現在は天叟院跡は荒れていて灰塚の場所も
何度も行かれてようやく見付けられたんだそうです。
元秀の墓は住職さんが居られても無残なことになっています。
地元の方に知っていただき、興味を持ってもらうことは
本当に大切なんじゃなあとしみじみ思いました。

それと、外伝スペースに羽柴秀勝の妻の真相
解説されていました。
ははあ、なるほどそういうことならば説明がつくなあと。
今回、書状がほんま充実していたし、
地元の方の暖かい雰囲気で解説聞けて良かったです。
質問も色々と答えて下さり、ありがとうございました。

・・・・だから最後の最後展示室を出る前に思わず
隆元!!!!
と地面に拳打ちつけたくなりました。
黒田長政書状とか、秀吉書状とか、
そりゃ有名書状が今回来てますがそれを上回る大物です。
何これ!まさかこれ出るとは思わなかった!
「隆元のデスノート!!」
いや、実際殺しちゃいないですが、
ここまで負に満ちて淡々とした書状ってない。
いや、そもそもこれは日記?不満日記??
細かいんです、ほんまに。

 ○月△日 私がいるのに立ったまま小者に靴を脱がせた奴がいる。
 ○月□日 私がまだ脚絆を解いていないのに、
        座に上がった奴が2・3人もいた。
 ○月▲日 私がいるのに立ったまま(以下略)」

怖い!怖いよ兄さん!
流れ的に
宍戸さんちに泊って仲良くしているんだね!
からのその先怖いよ!
もっとポジティブに生きようよ!

・・・こんな兄弟達をまとめてくれた隆家さんは
本当に偉大な方だったんだなと心底実感しました。

毛利家文書290号「室町幕府の内部事情?」

毛利家文書290号
書き下し文
「堯仙書状

 はたまた軽妙候と雖も、折節現つ来たり候はば、油煙5挺進み入り候。
 いよいよ御満足の儀共遊ばれるべく候
 久河興見苦しき所に留まり申し候、面目失い候かな。
 さりながら、別して申し承るべき候はば、一世御縁よ存じばかり候。
 屋形より太刀参られ候、木左進み入り候、
 太刀馬代御使いへ渡し申し候

 未だ申し承らず候と雖も、先年別所方より申し伝え
 ただ今の御使い相越され候き、以てその筋目、
 河内興三次郎寄り御尋ね候の間、
 木澤長政方へ御音信の趣、慥申し聞き、
 御要害に於いて、毎度軍利得られ
 殊去る正月13日の雲州衆敗北せしめる由
 以て御一書御注進の旨、公儀奉り始め、
 右京兆、右金吾、佐々木霜台へ披露せしめ候の條
 比類なき御高名、末代の御名誉、天下静謐の基、
 珍重の由、もって直書き申され候はば、
 拙身迄も大慶に候。随分長政馳走致し候。
 それに就き、義隆の儀も別して申し談じ候。
 土州一條殿儀、これまた我々子細有り、入魂の御事共候。
 久しく御使い此方逗留候はば、御覧及ぶ義は、定めて演説申されるべく候。
 次播州の儀、赤松殿働き、家中衆の覚悟依って相揃わず
 今において然々敷き無くの候、涯分此方自り力相副え、
 異見申す儀に候、いよいよ其の方の儀示し合わされ
 戦功励むられるべき事、専ら用に存じ候。
 近日義隆、同陶五、杉民以下へ、使者以て申し入るべき用意候
 彼方より京都に至り差し上げられ候使い衆も、
 悉く此方へ案内在るの儀共候、
 向後は、差したる義無しと雖も候、
 宍戸方合い仰がれ、左京亮より御入魂あるべく候
 似合いの儀は、疎略に存ぜず馳走申し候様に、取り成し致すべく候
 我々方迄も、相應の儀は承るべく候。
 近国の儀は大略相談候て、何方の儀も届け申すべく候
 心の底残らず申し入る義、憚り入り候。
 去りながら、遠路の儀候はば、具さに啓せしめ候
 必ず深重奉り申すべく候。御同心本望為すべく候。
 猶河内興三次郎殿へ、申し候はば、省略しめ候
 恐々謹言

       5月20日        堯仙
       毛利右馬頭殿 
               御宿所」

私訳
「堯仙書状
 
 これまた丁度良い具合にとでも言いましょうか。
 そうは言ってもこれも時節到来というわけなのでしょう、油煙墨を5挺送ります。
 欲しがっていらっしゃったものですのでご存分にお使い下さればと思います。
 長い間、河内興三次郎殿のような狭くるしい所に
 使者を引きとどめてしまい、申し訳ありませんでした。
 そうは言いましても、一言申し上げさせていただくならば
 これも何かのご縁と思います。
 屋形様より太刀が届きましたので、木澤が受け取りました。
 太刀と馬は使者へ渡しました。

 こちらから初めて御手紙をさしあげることになりましたが、
 そうは言いましても、昨年別所氏から貴方の事を申し伝えてきたので、
 現在、使者の方が伝えに来らるより前に既に知っていました。
 ですので、河内興三次郎に
 木澤長政へ御報告があったことをしっかりと聞き、
 吉田郡山城にて、毎回勝利を得られ
 特に1月13日に出雲の尼子衆を敗北させたとのこと
 その報告を披露し、将軍・義晴は元より
 細川晴元、畠山在氏、佐々木定頼へも披露しました。
 比べることもできないほどの高名。末代までの御名誉となるでしょう。
 天下が静謐になる基となることですので、将軍自らが書を認めると
 これまた特異なことになりましたので、披露した私まで喜んでいます。
 詳しいことは木澤長政が駆け付けて述べるでしょう。
 
 そういうわけですので、大内義隆の事ですが、
 別件で話し合いを行い、土佐の一条殿の儀について
 これまた私たちに子細を説明下さり、同盟の事もありますし
 久しく使者を此方に留めておいたので
 お会いになる場合はきっと演説申し上げようと思います。

 次に播州のことですが、赤松殿の戦は家中衆の覚悟が揃わず
 はかばかしい動きができておりません。
 こちらからも援軍を出し、意見を申そうとは思いますが
 尼子を追い返したそちらとも連携しいきたいので、
 戦功に励むことが一番大事なのではないかと思います。
 
 近々、大内義隆、陶晴賢、杉民部少輔らへ使者を使わせて用意させます。
 山口から京都に在中していた使者からも
 ことごとくこちらへ案内がありました。
 今後は大した義理もないとはいえ
 宍戸氏と一緒に相談し合い、木澤長政とも同盟を組んでください。
 顔合わせなどのことはこちらでも疎かにはしませんので。
 我々のほうでも相応のことを行いましょう。

 近畿地方の状況については大まかなことについては
 どんなことについても知らせようと思います。
 本当に心底残らず申します。
 ただそうは言いましても遠いので詳しいことを知らせるのは
 間違いなどないように慎重にしなければいけないと思います。
 この事に賛成して頂きましたら本望にございます。
 なお、河内どのが申しますので詳しいことは省きます。
 恐々謹言
         5月20日        堯仙
       毛利右馬頭殿 
               御宿所」


「郡山城籠城日記」を提出した先は幕府で、
大内氏を通さずに宍戸氏が直接持ち込んだ。
というのが前回の書状からわかったことです。

なので、この書状は天文10年5月の事。
御宿所なので元就さんは戦中。
恐らく武田銀山城を攻めている頃です。

で、差出人の堯仙さん。
石清水八幡宮の狭山郷に関する書状が数点残るので
恐らく幕府の中枢にいる人だとは思いますが、
名からして宍戸興仙の弟子。畠山義堯からの偏諱だと思われます。

今回出てくる人物があまり安芸に馴染みのない人たちなので
簡単にまとめてみます。


木沢長政
河内畠山氏の家臣でありながら、管領細川家に取り入り
主家畠山を影から操った人。
乱世をとても巧みに生きていらっしゃる。
ただし、天文10年頃には畠山家中は遊佐氏が優勢で
10月には将軍義晴を擁立しようとして失敗。
天文11年3月の大平寺の戦いで没。

河内興三次郎
河内の畠山氏の一族かもしれない。

細川晴元、
細川吉兆家当主の座を細川高国と争った。
室町幕府の最後の管領だったかもしれない人。
晴元は阿波を拠点に近畿の高国を攻め入った。
分家の野洲家は尼子晴久に敗れ、備中から追い出されている。
播磨の赤松氏は高国を一緒に討った仲間。
近江の六角氏は山科本願寺を攻めた仲間だけど微妙。
家臣の三好は下剋上するのでおちおちしていられない。
この頃は三好同士で争っている。

畠山在氏、
畠山義堯の次代。畠山総州家当主。
三管領家の一つであったが内紛が勃発。
応仁の乱の引き金にもなった家。
越中・河内・紀伊守護。
家臣の木澤長政に傀儡政権にされているが
最近遊佐氏も台頭してきて家中は分裂気味。

六角(佐々木)定頼
近江守護。
尼子氏の本家筋にあたるが
尼子経久が本家より独立した動きを取ったため
仲は微妙。
永正4年、細川政元暗殺時に
大内氏に匿われていた義植が上京し将軍に復職。
定頼は政元に推戴されていた将軍・義澄を匿った。
その時に後に将軍となる義晴が生まれている。
天文3年、対立していた細川晴元と将軍義晴を仲介。
天文6年、晴元に猶子を嫁がせ義父となる。

将軍・義晴
近江で生まれ、播磨で育つ。
最初は赤松氏に養育されていたが、
赤松氏がライバル浦上氏との戦いに敗れ、
浦上氏の元へと渡る。
永正18年、前将軍義晴が京都を出奔したため
高国に呼び寄せられ、11歳で将軍に就任する。
大永7年、高国が晴元(この頃まだ六郎)に敗れる。
晴元は義晴の弟の義維を将軍に擁立していたため
朽木へ逃れ、若狭武田氏の武力を背景に対立
天文3年に晴元と和解し、京へ戻る。
天文10年秋の晴元と長政の戦いは中立。



・・・・えええと。何この魔窟?
元就さん謀が上手とか言われますが、
いや京都には遥かに及びません。
ていうか、宍戸のおじいちゃん(元源)の行動が分からない。
なんでこんなところに手紙を送らせようとしたのか。

とりあえず、分かるのは敵の敵は味方です。
六角氏は尼子の本家筋ですが、
勝手に独立されてあまりよく思っていない。
そもそも経久を一度追放してます。
細川氏は親しい分家が所領を追われている。
将軍義晴も縁ある播磨が荒らされている。
よって幕府の中枢の三人はあまり尼子氏を快く思っていない。
木澤さんが取り次ぎをしていたようですが
木澤さんはこの頃、家中で台頭してきた遊佐氏に追いおとされそう。
できるだけ味方を増やしておきたいところでしょう。

ということで、郡山城で尼子を敗退させたことは
幕府にとっても有意義なことだった。
幕府っていっても、義晴、晴元、定頼、長政だけで
動いているような状況なのでほぼ総意かと。
・・・まあ、そうは言ってもこの時期に尼子詮久に
「晴久」の偏諱を上げているので上手にやっているなと思います。

とはいえ、地方で起こった戦の1つに過ぎず、
本来一々幕府に報告しなくてもよいものなので
この4人に披露されたというだけで名誉。
加えて、将軍自ら親書をしたしめたので
破格の栄誉だと述べています。

・・・・。
まあ、細川高国なんて船岡山合戦を引き起こした当事者。
元就さんが城から追い出されて困窮することになったのも
安芸の国人達も京都遠征させられたのもこの人が関わっています。
一介の国人の次男坊からしたら天上人。
その高国と争い、討ち取った政元なんて声もかけれないほど
身分差が有ります。
なので将軍など恐れ多いでしょうに今回は特別に親書まで
したためるほどお喜びですよと言われてもしようがない。
・・・まあ、本来、大内氏を通さなければ奏上できないので
それは仕様がないんですが、
畿内しか掌握してないのに幕府かなり上から目線じゃな。

そして唐突に出てくる「土佐一條殿」。
大内氏と一條氏は親戚関係。
この頃の土佐一條氏は一条房冬。
天文10年11月に病気で亡くなるので、
病床から幕府との連携を強め、家中を統率しようとしたのかもしれません。
実際、天文11年に謀反が起きてるようですし。
ただ、この入魂が毛利氏なのか大内氏なのか幕府なのか。
そこがよくわからないです。
大内氏とはこの時、房冬の息子が時期当主なので
入魂を改めて申すまでもない。
ですが、大内氏に従っている毛利氏と入魂するような家格でもないので、
ここはやはり幕府、讃岐・阿波を治める細川氏
と考えるのが筋かなと。

なので、四国は土佐と阿波・讃岐が結びつき、
播磨は赤松氏が苦戦中。
安芸と播磨から挟撃して尼子を追い払うべき、
そのことは大内氏や陶、杉にも伝えるので
これからも宍戸氏と木澤長政を通じて
幕府とやり取りをしてほしいというのが本音でしょう。

既に全国を治めるほどの実力もなければ
近畿すら同族争いで分裂。
少しでも権威をつけようと必死なのかもしれません。

で、毛利側のメリット・・・。
現況は武田銀山城を攻めて・・・。
ああ、なるほど、若狭武田か!

若狭武田氏の武田元光は足利義晴の懐刀で
六角定頼と一緒に近畿を戦場として動き回り
将軍からの信頼も厚い人物
その息子の信実は安芸武田の光和亡き後
最後の当主として安芸に入ります。
この書状が出た時には出雲に逃れていますが
武田金山城は元々若狭に移る前に武田が本領を置いていた地。
それを無断で攻め滅ぼすのはまずい。

大内氏経由で伝えるよりもより早く確実な
宍戸さん経由のほうが奏上しやすい。
元源さんは元就さんと「水魚の交わり」ですので
幕府を背後に背負う武田に対抗するため、
わざわざ元就さんに一筆書かせたのかもしれません。

畿内情勢は疎いのでどこまであっているかはわかりませんが
郡山籠城日記とされる記録集は
将軍に披露する目的で作られたのだなあと思いました。
その割には事務的で、もっと話を盛ればいいのにと思いますが。

元就さんを巡る出雲旅行~満願寺の椿~

元就さんが御手植えしたのは
温泉津の梅と満願寺の椿というのが分かってます。
・・・とは言うても
北の森の弟の墓標とか隆元の墓標は手植えしてそうじゃし、
月山富田の周りの柿の木の一本ぐらい接ぎ木してそうじゃし、
そもそも、あの時代に珍しい樹木葬しとって方ですし
「木を植えた男」を異名にしてもおかしうないぐらい
植樹しとるので他にもあるのかもしれんです。

で、温泉津の梅は1代目が枯れたので2代が側に
満願寺の椿のみ元就さんの御手植えとして残っています。
よっぽどこの椿を植えたことに思い入れがあるのか

春霞集にも
「まんくはん寺にて椿を見侍りて

 俤は 深山木なからはなそとも けさ白露の玉椿かな

 梓弓 春の光の玉椿 八千代もおなし盛りをやみゆ」


の2首あります。 
最も満願寺は吉田郡山城にもあったので、
2首ともが出雲のほうか安芸の方かは分からないのですが
玉椿~の方は広家も和歌で詠んでいるので出雲の方で間違いないようです。

で、行き方ですが、車ないので公共交通機関。
松江駅から授産センター行きのバスに乗って約30分。
本数は1時間に1本なので行き帰り時間も要確認しました。
「満願寺前」というバス停で降りればすぐです。

ローソンの奥に見える小高い丘。
そこに満願寺があります。

2まんがんじ

おお、さすが!椿がころんころんと出迎えてくれました。

まんがんじ

お寺の名前は金亀山。
・・・金亀って元清の幼名候補じゃなかったっけ?
まあそこは置いといて、階段てくてく上がるとお寺に着きました。

まんがんじ3

境内も椿の鉢植えが隙間なく並べてあり、お寺ですがとても華やかな感じです。
奥に大きな木があります。

まんがんじ10

まんがんじ4

ありました!
ぴょこんと一部伸びて見えていますが、これは途中で幹が折れてるから。
そんな状態でも元気に花を咲かせています。
恐らく第二次月山富田攻めの永禄5年~6年に植えたので
樹齢は約460年。

まんがんじ7

花をたくさん付けていました。
卯月になって行ったので若干花が色褪せてきていましたが
春の青い空に赤い椿の花が鮮やかに見えました。
お寺の方にお話を聞くと、やはり一番綺麗なのは冬。
「雪の降っている時が一番綺麗ですよ。」
と言われました。
・・・うん、綺麗じゃろうけど無理。冬の赤名峠は無理。
なので想像だけで楽しみました。
雪がしんしんと降る中、赤い椿と常緑の葉がさぞや美しかろうと。

きちんと句碑もあります。

まんがんじ5

「梓弓 春の光の玉椿 八千代もおなじ盛りをや見ゆ」

この椿が植わわっている満願寺は満願寺城という宍道湖の湖畔。
湖岸沿いに白鹿城があり、更に奥の山並みの中に月山富田城があります。
それを踏まえて歌意を取れば
「弓を鳴らし、今から敵に攻め入る。
 春の光の中で光る玉椿よ、
 私はこの戦に勝ち、何百年何千先年も
 この地で花が満開と咲くような平和な世をつくりに行く。」

と読めます。

元就さんにとって尼子は当主になった時から苦しめられた相手。
「俤は 深山木なからはなそとも けさ白露の玉椿かな」
歌が景色の通りであれば

「湖畔に植えたまだ若い椿だが、
 まるで深い山の中に生えているような花に見える。
 明朝の白露が付いている玉椿だなあ。」


ですが、「俤」「深山」「白露」を深読みすれば

「椿を見ていると弟の面影と重なる。
 深い山奥で大国の狭間で苦しんだあの時代。
 私の涙が夜の内に露となったのだろうか。
 植えた椿に今朝は白い露が落ちている。」

となるかなと。
三子教訓状を書き、兄弟の仲をおろそかにはしないようにと散々言っているのは
弟の元綱のことが響いているからとも言われますが、
30年近く経とうと心の中で引き摺っていたのが歌から分かります。
そして今から因縁の相手を倒しに行く。
だから「梓弓~」という珍しく武張った歌を詠ったのかもしれません。

更に近づくとお花が落ちていました。

まんがんじ9

まんがんじ8

意外にも八重咲きのかわいい椿でした。

で、玉椿という品種名になっているのですが、椿図鑑をネットで見た限りない。
しかも八重咲き・・・。
多分新品種?というよりも希少な原木の一種かなと思います。

西日本に多く自生するのはヤブツバキの品種で一重のすっきりした花です。
椿に限らず、園芸分野は江戸時代に盛んになったので
戦国時代の八重咲きはあまり例がないはず・・・。
でも、樹齢や寺社の由来からこの木が戦国時代なのは間違いありません。
とすると、この八重咲きの椿はどこから来たのか?
1種類目の椿図鑑を見ていると「龍門」という品種があります。
これは赤の八重咲きで、花弁の巻き方もほぼ同じ。
説明を見ると
「中国昆明植物研究所との学術提携 により、
 舞鶴自然文化園に導入され た唐椿」
ということは、昆明あたりの原生椿なのかもしれません。
で、調べると玉峰寺という1661年建立のチベット系寺院
天下一とされる椿があり、その写真を見ると花は八重咲き。
花をたくさんつける所もよく似ています。
枝の張り具合は世羅の椿に似ていて
太い幹から細い枝がいくつも分かれて派生しています。

んーでも、世羅の椿は一重・・・。
500年近くなった椿はみんな同じような樹勢になるのか?
でも、龍安寺の椿は樹高が高くひょろっと伸びるタイプの様ですし
そもそもが侘助なので一重。

ううん、考えられるのが途中で幹が折れたことにより
昆明や世羅のように円形にならなかった。
あるいは昆明の唐椿と日本のヤブツバキが混じって実生し、
ヤブツバキの樹高の高さ、唐椿の八重の特徴を備えたか。
残念ながら世羅の椿は枯れてしまったので検証のしようがないです。
枯れ始めるとあっという間だったらしいです・・・。
満願寺の椿も所々枯れてきている箇所がありました。
加えて今年は猛暑。
貴重な種だと思うので、できるだけ増やした方がよいと思うのですが・・・。
ううん。

あ、でもこの椿が昆明産もしくはヤブツバキとの混血種というのは十分ありえます。
元就さんの墓標のハリイブキも崑崙山脈が原種の木で日本には自生しません。
毛利氏は大内氏の跡を継いで勘合符を元に明との交易を開始しようとしたものの、
明の衰退や宗氏の妨害などにより上手くできなかったとされていますが、
江戸時代初期に輝元が太泥国(パタニ王国)との通商を求めていることを考えると
大内氏が交易していた寧波よりもさらに南の昆明や太泥まで足を伸ばしており、
大陸交易との交流を行っていたことと、元就さんの時代に少なくとも
昆明までは航路と通商路ができていたと思われます。

・・・毛利家あんまり物欲ないのか、南蛮渡来品がそんなにないんですよね。
「お城に行くなら浴衣で上がれ、お城は皆浴衣」
という歌が吉田に伝わるぐらいですし。
それに美術館で講演を聞いた時にも
歴代の藩主に熱狂的なコレクターがいなかった
と聞いたので血筋なんだろうと思います。

なので品が残ってないので南蛮交易をどの程度していたのかが分かりにくい。
一応厳島神社には、襟ぐりにレースをつけた陣羽織とか
孔雀の羽根をつけた甲冑とか、ビロードの鎧とかあるんですが
なんせ吉田郡山城が未発掘なので物も出てない。
でも、こうやって植物を見て行くと交流の証は残っているものだなと思います。
隆景のソテツも父の代から植物の輸入をしていたから扱いにも慣れており
秀吉から頼まれたのかもしれません。

・・・食糧になる柿を植えつつ出雲へ進軍し、
平和になったら花見ができるように輸入した椿を進軍前に植える・・・。
ある意味本当に「木を植えた男」だなあと。



参考サイト様
椿の図鑑
なごみの庭様
日本の椿リスト様
世羅の椿
和風景様
写真紀行風に吹かれて様
昆明の椿
年に一度は海外旅行様
アリヤン様
昆明の椿の花
中国バックパッカ―観光旅行記様


前 鰐淵寺の投げ入れ堂
続 満願寺城跡

鰐淵寺の投げ入れ堂

あれから随分更新してなかったのですが、中途半端はいけんので
続きをたちまち仕上げます。

まずは鰐淵寺の続き。
一旦お寺を出て更に奥の道へ。

CIMG0581.jpg

この石橋を渡ったところも広く整地されていて
なにかしらの建物があったげです。

それから石垣。

CIMG0583.jpg

CIMG0585.jpg

隅の所は算木積みに近いですが、横をみると石の目が通っているので
石づきのものどもの仕事かと思います。
基本古い石造物が多いのですが所々に新しいものがありました。

CIMG0584.jpg

階段。

CIMG0587.jpg

階段。

延々と登り道なのでスニーカーじゃないときついです。
奥に屋根がちらっと見えたのであれが投げ入れ堂か
と思ったら東屋でした。
道は段々険しくなってきて、水も流れているので足元が危ない。
カメラ撮る余裕もなかったです。

CIMG0588.jpg

オウケツ。

CIMG0589.jpg

ふいに前方が行きどまりになって滝が見えました。
急な崖の中腹に目当ての投げ入れ堂を発見です。

CIMG0591.jpg

さすがに堂の中に入るのは無理ですが、できるだけ側によりたくて
ぎりぎりまで近付きました。

CIMG0593.jpg

岩壁の真上から滝が細く落ちてきていたのですが
水源はどうなっているのか不思議でした。

タクシーの運転手さんに待っていてもらっていたので
きっちり1時間という時間制限内にできるだけ回りました。
かなりの強行軍で久々に時計を見ながらの行動でした。
時間ぎりぎりに戻ってきて、
最後にこれだけ!!と頼みこんだのが門の撮影。

CIMG0594.jpg

これも随分古そうなので輝元が建てたものかもしれません。
中には立派な仁王さんがいらっしゃいました。

CIMG0597.jpg

CIMG0598.jpg

輝元が建てた本堂と同じ色をしているので多分戦国時代のものなんでしょう。
ああ、ここも剥げています。
ここは秋に紅葉の名所として地元の人がよく来るんだそうです。
でも運転手さん曰く、
今まで無料で開放されいていたのにお金を撮るようになったと不満そうでした。
でも、この現状を見ると維持管理がかなりぎりぎり。
国の文化財???と疑問符たくさんつくぐらいのレベルです。

輝元の建てた本堂や、今修復中の弁慶の鐘、投げ入れ堂など
魅力あるものが多くあるのでもっと多くの人に知って頂きたいと思いました。

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