FC2ブログ

目次

主に毛利元就から浅野長勲までの戦国~幕末までの安芸の歴史について語るサイトです。
これまでに作ったコラムについては下のつづきをクリックしてみて下さい。


拍手ありがとうございます。
コメントもありがとうございました。
9月5日 返信しました。

※全体の感想でもし何かありましたらこの下の緑の拍手をおして
 感想をお書き下さい。
拍手コメントの返信を読むには、もう一度拍手ボタンを押してください。
※個々の感想は、その頁にコメントして下さると嬉しいです。

更新記録と雑記
更新記録と雑記その2

過去のコラム一覧は下の続きを読むをクリックして下さい。



続きを読む

スポンサーサイト

元就さんを巡る出雲旅行~満願寺の椿~

元就さんが御手植えしたのは
温泉津の梅と満願寺の椿というのが分かってます。
・・・とは言うても
北の森の弟の墓標とか隆元の墓標は手植えしてそうじゃし、
月山富田の周りの柿の木の一本ぐらい接ぎ木してそうじゃし、
そもそも、あの時代に珍しい樹木葬しとって方ですし
「木を植えた男」を異名にしてもおかしうないぐらい
植樹しとるので他にもあるのかもしれんです。

で、温泉津の梅は1代目が枯れたので2代が側に
満願寺の椿のみ元就さんの御手植えとして残っています。
よっぽどこの椿を植えたことに思い入れがあるのか

春霞集にも
「まんくはん寺にて椿を見侍りて

 俤は 深山木なからはなそとも けさ白露の玉椿かな

 梓弓 春の光の玉椿 八千代もおなし盛りをやみゆ」


の2首あります。 
最も満願寺は吉田郡山城にもあったので、
2首ともが出雲のほうか安芸の方かは分からないのですが
玉椿~の方は広家も和歌で詠んでいるので出雲の方で間違いないようです。

で、行き方ですが、車ないので公共交通機関。
松江駅から授産センター行きのバスに乗って約30分。
本数は1時間に1本なので行き帰り時間も要確認しました。
「満願寺前」というバス停で降りればすぐです。

ローソンの奥に見える小高い丘。
そこに満願寺があります。

2まんがんじ

おお、さすが!椿がころんころんと出迎えてくれました。

まんがんじ

お寺の名前は金亀山。
・・・金亀って元清の幼名候補じゃなかったっけ?
まあそこは置いといて、階段てくてく上がるとお寺に着きました。

まんがんじ3

境内も椿の鉢植えが隙間なく並べてあり、お寺ですがとても華やかな感じです。
奥に大きな木があります。

まんがんじ10

まんがんじ4

ありました!
ぴょこんと一部伸びて見えていますが、これは途中で幹が折れてるから。
そんな状態でも元気に花を咲かせています。
恐らく第二次月山富田攻めの永禄5年~6年に植えたので
樹齢は約460年。

まんがんじ7

花をたくさん付けていました。
卯月になって行ったので若干花が色褪せてきていましたが
春の青い空に赤い椿の花が鮮やかに見えました。
お寺の方にお話を聞くと、やはり一番綺麗なのは冬。
「雪の降っている時が一番綺麗ですよ。」
と言われました。
・・・うん、綺麗じゃろうけど無理。冬の赤名峠は無理。
なので想像だけで楽しみました。
雪がしんしんと降る中、赤い椿と常緑の葉がさぞや美しかろうと。

きちんと句碑もあります。

まんがんじ5

「梓弓 春の光の玉椿 八千代もおなじ盛りをや見ゆ」

この椿が植わわっている満願寺は満願寺城という宍道湖の湖畔。
湖岸沿いに白鹿城があり、更に奥の山並みの中に月山富田城があります。
それを踏まえて歌意を取れば
「弓を鳴らし、今から敵に攻め入る。
 春の光の中で光る玉椿よ、
 私はこの戦に勝ち、何百年何千先年も
 この地で花が満開と咲くような平和な世をつくりに行く。」

と読めます。

元就さんにとって尼子は当主になった時から苦しめられた相手。
「俤は 深山木なからはなそとも けさ白露の玉椿かな」
歌が景色の通りであれば

「湖畔に植えたまだ若い椿だが、
 まるで深い山の中に生えているような花に見える。
 明朝の白露が付いている玉椿だなあ。」


ですが、「俤」「深山」「白露」を深読みすれば

「椿を見ていると弟の面影と重なる。
 深い山奥で大国の狭間で苦しんだあの時代。
 私の涙が夜の内に露となったのだろうか。
 植えた椿に今朝は白い露が落ちている。」

となるかなと。
三子教訓状を書き、兄弟の仲をおろそかにはしないようにと散々言っているのは
弟の元綱のことが響いているからとも言われますが、
30年近く経とうと心の中で引き摺っていたのが歌から分かります。
そして今から因縁の相手を倒しに行く。
だから「梓弓~」という珍しく武張った歌を詠ったのかもしれません。

更に近づくとお花が落ちていました。

まんがんじ9

まんがんじ8

意外にも八重咲きのかわいい椿でした。

で、玉椿という品種名になっているのですが、椿図鑑をネットで見た限りない。
しかも八重咲き・・・。
多分新品種?というよりも希少な原木の一種かなと思います。

西日本に多く自生するのはヤブツバキの品種で一重のすっきりした花です。
椿に限らず、園芸分野は江戸時代に盛んになったので
戦国時代の八重咲きはあまり例がないはず・・・。
でも、樹齢や寺社の由来からこの木が戦国時代なのは間違いありません。
とすると、この八重咲きの椿はどこから来たのか?
1種類目の椿図鑑を見ていると「龍門」という品種があります。
これは赤の八重咲きで、花弁の巻き方もほぼ同じ。
説明を見ると
「中国昆明植物研究所との学術提携 により、
 舞鶴自然文化園に導入され た唐椿」
ということは、昆明あたりの原生椿なのかもしれません。
で、調べると玉峰寺という1661年建立のチベット系寺院
天下一とされる椿があり、その写真を見ると花は八重咲き。
花をたくさんつける所もよく似ています。
枝の張り具合は世羅の椿に似ていて
太い幹から細い枝がいくつも分かれて派生しています。

んーでも、世羅の椿は一重・・・。
500年近くなった椿はみんな同じような樹勢になるのか?
でも、龍安寺の椿は樹高が高くひょろっと伸びるタイプの様ですし
そもそもが侘助なので一重。

ううん、考えられるのが途中で幹が折れたことにより
昆明や世羅のように円形にならなかった。
あるいは昆明の唐椿と日本のヤブツバキが混じって実生し、
ヤブツバキの樹高の高さ、唐椿の八重の特徴を備えたか。
残念ながら世羅の椿は枯れてしまったので検証のしようがないです。
枯れ始めるとあっという間だったらしいです・・・。
満願寺の椿も所々枯れてきている箇所がありました。
加えて今年は猛暑。
貴重な種だと思うので、できるだけ増やした方がよいと思うのですが・・・。
ううん。

あ、でもこの椿が昆明産もしくはヤブツバキとの混血種というのは十分ありえます。
元就さんの墓標のハリイブキも崑崙山脈が原種の木で日本には自生しません。
毛利氏は大内氏の跡を継いで勘合符を元に明との交易を開始しようとしたものの、
明の衰退や宗氏の妨害などにより上手くできなかったとされていますが、
江戸時代初期に輝元が太泥国(パタニ王国)との通商を求めていることを考えると
大内氏が交易していた寧波よりもさらに南の昆明や太泥まで足を伸ばしており、
大陸交易との交流を行っていたことと、元就さんの時代に少なくとも
昆明までは航路と通商路ができていたと思われます。

・・・毛利家あんまり物欲ないのか、南蛮渡来品がそんなにないんですよね。
「お城に行くなら浴衣で上がれ、お城は皆浴衣」
という歌が吉田に伝わるぐらいですし。
それに美術館で講演を聞いた時にも
歴代の藩主に熱狂的なコレクターがいなかった
と聞いたので血筋なんだろうと思います。

なので品が残ってないので南蛮交易をどの程度していたのかが分かりにくい。
一応厳島神社には、襟ぐりにレースをつけた陣羽織とか
孔雀の羽根をつけた甲冑とか、ビロードの鎧とかあるんですが
なんせ吉田郡山城が未発掘なので物も出てない。
でも、こうやって植物を見て行くと交流の証は残っているものだなと思います。
隆景のソテツも父の代から植物の輸入をしていたから扱いにも慣れており
秀吉から頼まれたのかもしれません。

・・・食糧になる柿を植えつつ出雲へ進軍し、
平和になったら花見ができるように輸入した椿を進軍前に植える・・・。
ある意味本当に「木を植えた男」だなあと。



参考サイト様
椿の図鑑
なごみの庭様
日本の椿リスト様
世羅の椿
和風景様
写真紀行風に吹かれて様
昆明の椿
年に一度は海外旅行様
アリヤン様
昆明の椿の花
中国バックパッカ―観光旅行記様


前 鰐淵寺の投げ入れ堂
続 満願寺城跡

鰐淵寺の投げ入れ堂

あれから随分更新してなかったのですが、中途半端はいけんので
続きをたちまち仕上げます。

まずは鰐淵寺の続き。
一旦お寺を出て更に奥の道へ。

CIMG0581.jpg

この石橋を渡ったところも広く整地されていて
なにかしらの建物があったげです。

それから石垣。

CIMG0583.jpg

CIMG0585.jpg

隅の所は算木積みに近いですが、横をみると石の目が通っているので
石づきのものどもの仕事かと思います。
基本古い石造物が多いのですが所々に新しいものがありました。

CIMG0584.jpg

階段。

CIMG0587.jpg

階段。

延々と登り道なのでスニーカーじゃないときついです。
奥に屋根がちらっと見えたのであれが投げ入れ堂か
と思ったら東屋でした。
道は段々険しくなってきて、水も流れているので足元が危ない。
カメラ撮る余裕もなかったです。

CIMG0588.jpg

オウケツ。

CIMG0589.jpg

ふいに前方が行きどまりになって滝が見えました。
急な崖の中腹に目当ての投げ入れ堂を発見です。

CIMG0591.jpg

さすがに堂の中に入るのは無理ですが、できるだけ側によりたくて
ぎりぎりまで近付きました。

CIMG0593.jpg

岩壁の真上から滝が細く落ちてきていたのですが
水源はどうなっているのか不思議でした。

タクシーの運転手さんに待っていてもらっていたので
きっちり1時間という時間制限内にできるだけ回りました。
かなりの強行軍で久々に時計を見ながらの行動でした。
時間ぎりぎりに戻ってきて、
最後にこれだけ!!と頼みこんだのが門の撮影。

CIMG0594.jpg

これも随分古そうなので輝元が建てたものかもしれません。
中には立派な仁王さんがいらっしゃいました。

CIMG0597.jpg

CIMG0598.jpg

輝元が建てた本堂と同じ色をしているので多分戦国時代のものなんでしょう。
ああ、ここも剥げています。
ここは秋に紅葉の名所として地元の人がよく来るんだそうです。
でも運転手さん曰く、
今まで無料で開放されいていたのにお金を撮るようになったと不満そうでした。
でも、この現状を見ると維持管理がかなりぎりぎり。
国の文化財???と疑問符たくさんつくぐらいのレベルです。

輝元の建てた本堂や、今修復中の弁慶の鐘、投げ入れ堂など
魅力あるものが多くあるのでもっと多くの人に知って頂きたいと思いました。

前:洞春院跡
次:満願寺の椿

織田信長からの毛利への和議申し出(明智光秀経由)

天正4年に英賀合戦で奇襲を仕掛けられ、決裂した織田と毛利の入魂ですが、
天正4年以降に一度、復縁しようとする動きがありました。
それも織田信長の方から。
巻子本厳島文書に納められている書状です。

81号
書き下し文
備後様御覧 安国寺恵瓊状

「隆景よりの書状御被見入り候、御心得為す候

 追って申せ令め候、上口所々儀は上下の船便など具に聞こし召し及ばれるべく候
 さりながら備前表の儀も、1年2年の間には、今の分は隙明く申すまじく候
 殊更一両度楚忽の動きなどに彼方へ競い候はば、是非に及ばず候
 彼家中草臥れ候もの大形ならず候、取り合いたる家来候条召されようにて一城に罷り成るべく候、
 しかりと雖も京都を後ろにあて候、京都寄宇喜多半ばも一圓半熟にて御座候
 この節信長此方の御調い専一候。 操りの趣き三通り到来候
 我等所へも丹羽五郎左衛門尉、夕庵より東福寺僧と中山道安と申す者
 両人指し下され候。直に陣中候差し上げ候、
 一昨日昨日我等にも罷り上がるべく候由、輝元隆景従いて申し下され候
 去年以来大難にあひて外聞失い候条、はたと申し切りて返答仕り候
 申す様など一段しかるべく候
 とにかく何れの道も當方の儀、延々候は、調わず笑止申し存じ候
 京都和平の儀は、なにとぞ調うべく申し、これもこの節存じの候、我等への申すようは

 一 輝元隆景の儀は、弓矢一篇の御覚悟にてしかるべく候

 一 元春子息たち歴々御座候はば、信長息女を1人是非申し請け候すると
    使者1人指し上げられるべく御所望有り候、さ候は丹羽五、夕庵宿所に
    使いのもの置き候て、信長え随分取り成すべく候。
    同心おいては諸公事の儀互いに出入り何とようにも成るべきの由
    申し下し候、これは一段の申す分にて候
    大方の儀なとは、一園信長も申されまじく候
    西国の公方にさせられ候てしかるべきよしの候
    何とて此等ほど申し越し候やと存じと候

 一 私の身上の儀も、今に宇喜多の者より信長以て印形呼び上げられるべく候
    自然我等不慮の覚悟共つかまつり候てはとの儀に
    我等京都にて知音し候中山道安、東福寺僧1人指し下され候
    これも先年使い共し候時、丹波夕庵とべっして入魂し候故にて
    信長へも取り成されたると相い聞き候
    しかる処先々帰国し候はば千秋万歳候

 一 口羽方へ近衛殿、観修寺殿、庭田殿、友閑、村井方より1とおり申し下し候
    これは国切り申し分こだわらず申し下し候

 一 明智より申し下す様、これは日乗子中使いにて申し下され候
    これも国切り過ぎ候はば、返答あるばかりに候て、
    先日我等参陣候みぎり返え指され候
    何れも宇喜多表裏者にて候はば、せめて此方を和議に調えたくと相い聞き候
    第一日本に当家一味候へ者、太平に成り行く殊候条、
    天下持たせ候上げにての分別には尤も候

 一 愚僧帰寺の儀、御上様にも御悦候哉、忝く存じ候
    大夫殿も御使者預けられるべくの由候哉、
    とても近日渡海致すべく候はば、その節万々御意得るべく候
    その内は御使者御無用候、事のほか御繁盛の由
    母にて候は申し候。房顕御正直の儀候条、いよいよ御富貴なすべく候
    万々面して上の時申し述べ候、恐々謹言
          五月十二日       恵瓊
      房顕 参る 人々へ 申したまへ」

私訳
「隆景よりの書状を披露しますので心得てお聞きください。

 追って申し上げます。備前での戦によって堺と下関を結ぶ瀬戸内海の航路が
 滞りがちになっていることについてはもう詳しくお耳に入っていらっしゃると思います。
 そうはいいましても、備前の戦いは1~2年の内に決着が付きそうにありません。
 特に一度でも粗忽な戦でもして相手方に勢いでもつかせれば
 どうなるかは言うまでもありません。
 
 敵方の家中で草臥れるほど戦をしているのは大身のものではなく
 元々の家臣ではないもの達を召し抱え、城を呈しているようなありさまです。
 とはいえ京都の織田信長が背後にいます。
 信長と宇喜多はまだ同盟関係が半熟であり温度差があります。
 この機会に信長方へこちらから調略をするのが一番の道筋だと思います。
 
 具体的は方策としては3つあります。
 私のところにも丹羽   、武井夕庵から東福寺の僧と中山道安と申す使者が
 寄越されました。直接陣中に寄越し、一昨日昨日私たちの所に来られました。
 輝元と隆景にも申しましたが、去年以来大難にあい外聞を失っていますので
 はっきりと申し上げて返事をします。私の言うことですがよく考えて下さい。
 とにかくどの方法を取るにしても延々と決めることを伸ばしていては
 決まる事も決まらず笑止千万です。京都の織田信長との和議について
 なにとぞ調停しますように、これもこの時節のみと思って下さい。
 私の意見ですが
 
 1 輝元隆景は戦をする覚悟で臨むこと

 2 元春には息子達がいるので、信長の娘を1人是非嫁に欲しいと
   使者を1人京都へ送って頼むこと。そうすれば丹羽と夕庵の宿所に使者を置き
   信長へ取り成してもらえる。それに2人は諸々の公事のことで互いに出入りしているので
   公家衆からも口添えしてもらうなり、どうにかすることができるのでこれは一番すべきです。」
   ※将軍のことですが、信長も全く何も言わないということはないでしょう
     西国の公方にさせてはどうかと提案してはいかがでしょうか
     いずれにしろこちらから頃合いをみて申しべきかと思います。
 
 3 私事ですが、ただ今宇喜多の者より信長の印形をもって京へ向かうことができます。
   そうなれば不慮の覚悟をしてでもいかなければと思っていたところ
   私が京都にいた時の知り合いで中山道安と東福寺の僧が此方へ使わされました。
   この2人は先年使いにやった時に丹波と夕庵と特に親しくなったもので
   信長へも取り成されたと聞きました。
   そういうわけで後々帰国した時には千秋万歳でしょう。

 4 口羽道良より武家伝奏方の近衛信基殿、観修寺晴豊殿、庭田重保殿
   友閑、村井方一通り申し下しました。
   国分けのことについてこだわらないように申し下します。

 5 明智光秀より申し下すには、今回のことは日乗の使いから申されたもので
   これも国分けが終わってから、返答をするとのことでしたが
   先日我等の参陣している時に返事をしましたが
   何れにしても宇喜多は裏切り者で信用がおけないため
   どうか毛利と和談を調えたいと聞きました。
   第一日本で我らが毛利家が仲間についたとあれば
   戦のない太平の世になるだろうということは
   天下を我が手に治めたいと思うのであればもっともな考えです。

 6 私こと恵瓊が寺に帰る件ですが、御上様にも喜んでもらえるでしょう。
   かたじけなく思っています。
   棚守元行殿からも御使者を預かるべきだと思うのですが
   どちらにしても近日渡海して宮島に行こうと思っていますので、
   その時にでも色々と話をしたいと思います。
   内は事ですのでわざわざ迎えの使者は要りません。
   それから最近とても繁盛していると聞きました。
   母親が申すには房顕殿が正直に真面目に働いてらっしゃるからだろうと。
   よりいっそうの御富貴が募りますように。
   色々と直接顔を合わせた時に申しあげたいと思います。
                それでは     恵瓊
     5月12日
   棚守房顕様の所へ届けてください。」

毛利と織田の入魂が破れて戦いになるのですが
そもそも信長は毛利家に残る手紙の上では
毛利との戦に消極的であったような感じです。

そしてこの手紙。
信長が和議を申し入れてきた。ようです。
県史では天正4年と推測されていますが、
宇喜多と毛利で争っていることや
宇喜多と織田で同盟を組んだ
ことから、天正7年以降と考えられます。

差し出しの日付は5月12日。
手紙の中で「去年以来大難にあひて」とあるのですが
去る年、天正6年の戦局は
・毛利方が上月城奪回。
・三木城籠城中、
・第二次木津川口の戦いは双方引き分け。

まだそこまで悪くはないのですが
「乍去備前表之儀も、一年二年之間には、今之分者隙明申間敷候」
その予言通り天正9年頃から押されていきます。
また「輝元隆景之儀者、弓矢一篇の御覚悟にて可然候」から
ええかげん兜の緒をしめて気合入れていかんと!
と恵瓊に喝を入れられてる感じです。
なので毛利方から見ても天正7年以降。

三木城の落城が天正7年なので
播磨平定がなった天正8年の手紙よりも
天正7年のまだ籠城戦中と考えたほうがよいかもしれません。

で、信長が宇喜多直家と積極的に同盟を組みたかったというとそうではありません。
宇喜多直家は秀吉で、まず同盟を組みました。
しかしこの勝手な判断は信長を激怒させたようで
信長は報告した秀吉を蹴っ飛ばしたと伝わります。
宇喜多が裏切ったことで信長方はかなり有利になったのですが
まあ彼は恩ある主君を何度も裏切り、殺害、
婚戚は尽く暗殺、娘も妻もそれがもとで自害と
三大梟雄のお一人です。
・・・うぃき見たら綺麗な書かれ方されてますが、
当時からしても相当な人物だったらしく
「京都与宇喜多半ばも一圓半熟にては御座候」
「何も宇喜多表裏者にて候間、せめて此方を和議に被調度」

と信長ですら宇喜多と同盟を組むのを嫌われていたのが現実です。
まあそれぐらいせんとあの状況じゃあ成り上がれんでしょう。
親戚や婚族の族滅なんて信長さんもしてますし。

で、この機会に信長と和議を結ぶのが「専一候」。
そもそも天正4年に向こうから不意打ちかけてきやがってるのですが
隆景も天正7年の春の手紙で「今は勝っているがこの先は・・・」と憂いているので
毛利家首脳で戦をする気運はそこまで高くないです。
そこで恵瓊が提案するのは

 1 元春の子息と信長の娘との結婚
 2 元々毛利と織田のパイプ役だった武井夕庵と再交渉
   義昭は西国公方ぐらいで落ち着かせる。
 3 将軍家もどうにかする。
 4 明智光秀と朝山日乗からも使いがあったが
   信長が宇喜多直家は信用ならないから当家とよりを戻したいといっている
   天下統一を狙うなら毛利の力って当然いるよね?
   恩を売るなら今ですぞ!

です。

安国寺さん、厳島神社の神主・房顕さん宛てとはいえ、
隆景元春輝元呼び捨て・・・。
身内意識だからかもしれません。
というのも、信長に対しても
「ははは!そうじゃろうそうじゃろう!
 毛利の力が無ければ天下統一なんて遠いじゃろう。」

って書いてるし、最後まで毛利の僧であろうとしたし。
毛利家に対する忠誠心はある意味高いのかなと。
武田氏再興しようとしなかったのもそこら辺が関係するのかもしれません。
あと、お母さん思いの優しい方なんです。
お母さんが危篤だからと心配する手紙もあるので
武田滅亡後、僧籍に入っても母を大事にしていた人なのです。

で、恵瓊の策。
まず婚姻。天正年間、元春の息子で未婚なのは広家と松寿丸
天正6年10月に松寿丸は亡くなりますので
歴々を真に受けるなら天正6年ですが、
それだと宇喜多がまだ離反していない。
結局、広家は宇喜多直家の娘と結婚するんですが
直家の娘でありながらかなり大事にされたようです。
柿食べて体壊して亡くなったようですが、そのせいで広家は
「柿の木全部切り捨てろ!!」ってなったみたいですし
黒田官兵衛もわざわざ大朝まで駆け付けてます。

「国切」という聞き慣れない言葉が出てきたのですが「国分」と同義です。
信長方と和議を結ぶ以上播磨などの境目地帯の国境を決めなければいけません。
特に問題は足利将軍。室町幕府
毛利が織田と和議を為すと一番困る人たちです。
お飾りとはいえ影響力はまだあるので京都へ帰れなくても
どこか国を渡すからそれで折り合いを付けて頂こうとしています。
・・・・ぶっちゃけ押しかけ幕府なので出て行って欲しい感じがひしひしと。

気になったのは「自明智」
毛利元就と織田信長から始まった入魂は
天正4年で途切れるまで一貫して羽柴秀吉が担当武将でした。
一方の明智光秀は元就さんに頼まれた丹波平定に派遣されただけで
直接的なつながりは今までありません。
それに一緒に使者を立てようとしているのは朝山日乗。
彼は天正元年頃には失脚しているはずなんですが、
どうしてこの2人の組み合わせなのか・・・。
ただ、この頃の光秀は但馬を平定するなど活躍目覚ましく信長の覚えも目出度い頃。
日乗や光秀が何か企んでいるとかそういうわけではなさそうです。

丹波と表記されていますが丹羽五朗左衛門尉とは丹羽長秀のこと。
丹羽長秀は信長の信頼厚く、秀吉よりも重宝されている家臣です。
よって信長の重臣2人も使者を寄越しているので
信長の本気度が伺えます。
ただ、その後の和議が上手くいかなかったのは歴史の事実。
多分恵瓊が危惧したように「延々候は、不調笑止申存候」となったのでしょう。

ただ何故信長は天正7年の時点で和議を結ぼうとしたのか?
裏切り者宇喜多直家が気に入らないだけなのか?
信長サイドを見てみると
天正6年
 2月 別所氏毛利方へ
 3月 上杉謙信没
 6月 淡路島沖で一向衆撃破
 7月 上月城落城・尼子再興軍壊滅
 9月 越中平定
10月 荒木氏離反
11月 第2次木津川口の戦い
天正7年
 3月 宇喜多、織田方へ


そこまで信長不利ではありません。
どころか、天正7年の正月は安土、2月は京都、
5月まで摂津に出陣しているが名所めぐりもしているほど余裕。
あんまり和睦する緊急性がない。

実はこの手紙天正8年説もあります。
天正7年 
 3月 宇喜多、織田方へ
 6月 明智光秀、丹波攻め
 9月 荒木村重、尼崎へ援軍を乞う
     三木城で合戦、織田方勝利
10月 伊賀攻め失敗
     丹波・丹後平定
11月 有岡城開城
天正8年
 1月 三木城開城
 3月 本願寺と和睦
     高山城・草刈重継の活躍により宇喜多撃退
閏3月 柴田勝家、能登援軍
 4月 美作・は和城が毛利方へ
     宇喜多攻めきれず
 5月 秀吉、鳥取城攻め
 6月 篠葺城毛利方へ
 9月 鳥取城・毛利方へ
     能登平定

天正8年頃の宇喜多・秀吉は毛利に押されていて
4月の時点で宇喜多の敗戦を聞いた信長が
兼ねてから不信感を抱いていた宇喜多と手を切り、
毛利と和睦しようとした。というのはありかもしれません。
この後、毛利方へ服属するものが相次いだので
信長の彗眼ともいえます。
秀吉は鳥取へ出張中で不在、
明智光秀はこの頃丹波・丹後攻めも終わって一息。
むしろ天正7年5月は丹後攻め中だと考えると
この書状は天正8年5月なのかもしれません。

それから明智光秀の登用。
天正7~9年までは芸土入魂なので
長宗我部氏と婚戚の光秀ならば、
長曽我部氏を通じて毛利氏と和睦を計れます。
恵瓊が聞いた情報がかなり曖昧なのも
何人もの仲介者を通したためなのかもしれません。

ただ、本当ならば書状が届いているはず。
毛利方が和睦に素早く動かなかったのはそのせいかもしれません。
色々と悩む書状です。

戦国サラリーマンはつらいよ。

不動院文書を借りる機会があったのでひゃっほうと借りてきました。
夏休みの読書記録です。
やたらきれいな本だったのですが刊行は1983年6月。
この綺麗さで同い年・・・。
因みに収録されている書状のほとんどが恵瓊さん宛てです。
本当はたくさんあったようですが下張りなどに使われた様子・・・。
三原城といい古い建物の壁を崩す時には書状がないかどうか確認する必要がありそうです。

書き下し文
「急度御意得候、路次中御見合いため野村治部殿御下り候て
 関白様尾道へ御通の由候条、尾道へ之道橋可く申し付け由承り候
 はたと驚き入り候。明日ここもとへ御着の由候はば、成り申しまじく候。
 第一御茶屋御覧如く候、三原への路次に仕候、
 これまた尾道へのは仕替え候事儀ならず候
 尾道へ御通候は、道橋御茶屋はたなるまじく候条
 三人越度になり候はぬよう大谷殿へ仰分せられ候て下されるべく候
 最前よって尾道へ御通の段は、承らず候条緩めず候
 其の御意得ん為候、恐々謹言

    3月11日
        桂左次   元綱
        佐々又右  元資
        小兵     元信」

現代語訳
「早急にお願いしたいことがあります。
 関白様が通られる道の下見で野村様が来られたのですが
 尾道を通られるとのことで、
 尾道までの道や橋の普請をするようにと申し付けられました。
 まさかと驚いています。明日こちらへお付きになるとのことなので
 出来るわけがありません。
 第一、御茶屋を御覧になるとのことで我々は三原への道だけ命じられていました。
 尾道への通る道が変更になったことは聞いていません。
 今更尾道への道や橋、お茶屋の準備などできるはずもありません。
 三人の落ち度にならないように大谷殿を説得しておいて下さい。
 このことで関白様が尾道を通られた時に言いつけ通りにできていなかったとしても
 罰せられることがないようにどうか宜しくお願いします。

  3月11日
        桂 元綱
        佐々部 元資
        小方 元信」

注釈では天正15年の九州征伐の事ではないかと推定されています。
内容はものすんごい必死なお手紙。
関白秀吉の初訪問に辺り、道路整備をしていたようです。
道と橋をあるので陸路で山陽道を来ていたようですが
備後に入った後は三原へ寄る予定だったようです。
ところが急遽尾道によることになったようで
道橋の普請をしろと命じられた。
「はたと驚入候」
とありますが、
「明日来るのにできるかぁあああ!!!!
 尾道来るとか知らんし!!
 聞いとらんし!!!」

と渾身の叫びが聞こえてきます。
というか手紙全体がその雰囲気です。

尾道は風光明媚な場所ですが港町。
船で寄るなら問題ないでしょうが、陸路となるとやや厳しいです。
神辺→松永→福山大学の前の山をぐるっと迂回。

・・・ああ、てことは石田三成が「三成」通ったんじゃ。
うちは毎回あそこのバス停通るたびに「みつなり・・・」って思ってるんですが
まさかご本人が通っているとは。
地名を聞いてどう思ったんじゃろうか聞いてみたいものです。

で、道は川沿いに港まで下りていくので当然橋がいります。
が、当然1日でどうにかなるレベルじゃありません。
ですが野村さんに道橋の普請をしろと命じられた。
このままじゃ首がやばい!まじでやばい!
当時の首は本当に首が飛びます。
そこで豊臣秀吉と懇意な安国寺恵瓊に嘆願し
大谷さんに取りなしてもらうように頼んだのがこの書状です。
秀吉を怒らせないように宥める伝手としての大谷さん&恵瓊先生。
毛利家家臣団の中でもそういう認識だったんだなと思いました。


大谷さんは大谷吉継。
永禄8年生まれ説ならばこの時22歳。
なのに秀吉に同行し、勘気を被った場合は回避できるほど
秀吉の信頼が厚かったあったようです。
まあ、お母さんの東殿が実質この頃は大阪城回してる女性の1人で
その影響力もあったんでしょうけど。

この後3人がどうなったのか。
それはまたおいおい調べてみます。

今回の書状の感想ですが、
「越度」は今は「落度」と書き表すので違うなと思いました。
度を越えるという意味自体が今と違うのかもしれません。
それから尾道。
西国街道にこの頃はまだ尾道が入っていなかったことも分かりました。

不動院文書のその2
プロフィール

トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
ブログ村の記事
ブログ村の歴史新着記事一覧です。 他所のサイトに飛びますのでご注意を。
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR