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主に毛利元就から浅野長勲までの戦国~幕末までの安芸の歴史について語るサイトです。
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6月22日「小早川隆景展・感想」

6月22日  更新遅くなってすみません。
        6月20日、19日、15日、11日、10日、9日、8日、2日
        5月30日、29日拍手ありがとうございます。

        正直、一旦ブログを休止しようかと思っていたんですが、
        こうして応援して下さる方がいらっしゃるのだから
        続けられる限り頑張ろうと思います。        

        先輩というか友に指摘されたんですが、
        人にも物事にもぐいぐい行きすぎだよ、と。
        そのせいで色々と抱え込みすぎて回らないこともあるし、
        周りにも迷惑かけることもあって、
        ああ全くその通りで駄目だなあと思い悩んでいました。
        小さい頃からこだわりの強い性格や色素の薄い見た目もあって、
        輪から弾かれてばかりで、自分から必死に行かないと居場所が作れなくって、
        それが染み付いていて、本当は数人でこじんまりといたいタイプなのに
        無理していたから距離感や限界も分からず、突っ走ってたんだなと。
        でも、今は子どものころに比べれば居ても良い場所もあるし、
        こうやって応援してくれる人もいるわけで
        そんなに必死にならなくてもいいんだなと。
        だから、ゆっくりのんびり無理せずにいこうと思います。



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更新記録と雑記
更新記録と雑記その2

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2017年歴史講座まとめ(毛利氏や戦国関係、安芸中心)

歴史講座が次から次へと押し寄せてくるので
ここらでちょいと表を作っとこうと思います。
ようはうちの備忘録です。
気になるのをピックアップしたのですが
すでに重なっているので多分全部は無理。


 7月 1日(土) 「志道広良・道良父子と毛利元就の戦国時代史」
           広島大学 岸田先生
            白木公民館 
            13:30から16:30
            申し込み:要 (6月30日まで)
 7月 2日(日) 「安芸高田の山城調査最前線~松尾城の再発見から~」
           安芸高田市教育委員会 秋本氏
            安芸高田市歴史民俗博物館 
            13:30から15:30
            申し込み:要 (6月1日から)
 7月15日(土)「坂本龍馬の生涯とひろしま」
          坂本龍馬記念館 前田氏
           県立歴史博物館 地下講堂
            14:00~15:30
            申し込み:不要 
 7月16日(日)「戦国期瀬戸内の物流と地域権力」
           広島大学 本多先生
            子規記念博物館 1階視聴覚室
            10:00~12:00
            申し込み:要(6月1日から)当日参加は人数による
 7月22日(土)「地表面観察から見た中世山城」
           県立歴史博物館 尾崎氏
            ひと・まちプラザ南棟3階会議室
            14:00~16:00
            申し込み:不要
 7月29日(土)「毛利元就から見た戦国期城郭の姿」
           安芸高田市教育委員会 秋本氏
            県立歴史博物館 地下講堂
            14:00~15:30
            申し込み:不要
 7月29日(土)「石見銀山と戦国武将」
           広島大学 本多先生
            大阪歴史博物館4階講堂
            13:30~15:00
            申し込み:要(7月10日必着)
 8月20日(日)「湯築城跡出土陶磁器からみた戦国時代の流通」
           愛媛県埋蔵文化センター 柴田氏
            子規記念博物館 1階視聴覚室
            10:00~12:00
            申し込み:要(6月1日から)当日参加は人数による
 8月26日(土)「『備陽史研究 第25集』発行記念講演会」
           講演内容:備後渡辺氏の盛衰など
           備陽史研究会 会員の皆さま
            県立歴史博物館 地下講堂
            14:00~15:30
            申し込み:不要
 8月27日(日)「郡山城と城下の構造を再考する」
           県立大学 秋山先生
            安芸高田市歴史民俗博物館
            13:30から15:30
            申し込み:要 (7月2日から)
 9月16日(土)「古文書から見た中世山城」
           県立歴史博物館 木村先生
            ひと・まちプラザ南棟3階会議室
            14:00~16:00
            申し込み:不要
 9月16日(土)「備後の国人領主」
           備陽史探訪の会 田口氏
            県立歴史博物館 地下講堂
            14:00~15:30
            申し込み:不要
 9月17日(日)「江の川の船運について」
           県立歴史民俗資料館 葉杖先生
           安芸高田市歴史民俗博物館
            13:30から15:30
            申し込み:要 (8月27日から)
 9月30日(土)「城郭瓦の出現と展開」
           日本城郭協会 加藤先生
            子規記念博物館 1階視聴覚室
            10:00~12:00
            申し込み:要(6月1日から)当日参加は人数による 
10月 8日(日))「古代の高田郡(高宮郡)を考える」
           広島大学 佐竹先生
           安芸高田市歴史民俗博物館
            13:30から15:30
            申し込み:要 (9月17日から)
10月28日(土)「天文年間の河野氏と来島村上氏」
           愛媛大学 川岡先生
            子規記念博物館 4階講堂
            10:00~12:00
            申し込み:要(6月1日から)当日参加は人数による
11月11日(土)「広島城下絵屏風の337人と18匹」
           広島城 前野氏
            ひと・まちプラザ
            14:00~16:00
            申し込み:要(10月1日から?)通回での参加
11月11日(土)「ふるさとの刀匠法華一乗」
           県立歴史博物館 山本氏
            県立歴史博物館 地下講堂
            14:00~15:30
            申し込み:不要
11月18日(土)「広島近郊のおすすめ中世山城」
           東広島市教育委員会 吉野氏
            ひと・まちプラザ南棟3階会議室
            14:00~16:00
            申し込み:不要
11月18日(土)「南予合戦と山城(永禄~天正期)」
           愛媛県歴史文化博物館 山内氏
            子規記念博物館 4階講堂
            10:00~12:00
            申し込み:要(6月1日から)当日参加は人数による
11月25日(土)「広島藩の殖産興業政策」
           青山学院大学 落合先生
            ひと・まちプラザ
            14:00~16:00
            申し込み:要(10月1日から?)通回での参加
12月 2日(土)「広島県の旧石器・縄文時代の生活」
           県教育委員会 沖氏
            県立歴史博物館 地下講堂
            14:00~15:30
            申し込み:不要
12月 3日(日))「城の壊し方・壊れ方」
           佐賀大学 宮武先生
           クリスタルアダージョ 4階402
           講座      11:00から12:00
           現地見学会  13:00から16:00
            申し込み:要 (11月12日から) 
12月16日(土)「天正年間における芸予土の動静」
           愛媛東温高校 桑名先生
            子規記念博物館 1階視聴覚室
            10:00~12:00
            申し込み:要(6月1日から)当日参加は人数による
 1月20日(土)「考古学から見た中世山城」
           県文化財保護審議会 小都先生
            ひと・まちプラザ南棟3階会議室
            14:00~16:00
            申し込み:不要
 1月20日(土)「広島藩の流行病」
           大和ミュージアム 杉山氏
            ひと・まちプラザ
            14:00~16:00
            申し込み:要(10月1日から?)通回での参加
 2月3日(土)「徳川将軍家と広島藩浅野家」
           尾道市立大学 森本先生
            ひと・まちプラザ
            14:00~16:00
            申し込み:要(10月1日から?)通回での参加
 2月17日(土)「宮島と広島城下の人々」
           県立大学 宮島学センター 大知先生
            ひと・まちプラザ
            14:00~16:00
            申し込み:要(10月1日から?)通回での参加

小早川隆景展:感想

三原で開かれている隆景展に行きました。

三原にあるものだけではなく、
ゆかりの地から色々と出てきていますし、
今回初出品のものなどもあったので、
かなり見ごたえがありました。

特に徳寿丸時代の書状。
きちんと徳寿って書いてあります
初見だったのでじっくり見たんですが、
何と言うか、一文字一文字とても丁寧に書かれていて
ゆっくり書いたせいか所々筆先が揺れてます・・・・。
右筆にしては丁寧過ぎて、
ひょっとしてこれ徳寿の自筆書状なのかなと思って
年月日と名前を見ると、始筆の太さは文面と同じように見えました。
専門家じゃないのではっきりと断定はできませんが
書写の観点から見ると自筆の可能性がありそうだなあと思いました。

あと、レアなのが大阪城所蔵の隆景像
大阪城が持っていて、何かの企画展で出ていたのは知っていたんですが
見たことなかったので大きさと目的に驚きました。
礼拝用?え?やっぱり宗教??
と・・・。
像の寄進者は養子の秀秋の子孫と言われる木下さん。
まろやかな曲線や所々に残る彩色から安土桃山時代のものっぽいです。
彫った方もなかなかいい仕事していて、
表情が本当に柔らかくて、
あたたかい感じが伝わってきます。
何より木目が光るほどつやっつや。
丁寧に磨かれていたんだなと、
大事に祀られていたんだろうなと。
秀秋から見た隆景はこんな風に慈父に見えたんだなあと。
手紙では見えない物が見えてくる気がしました。

隆景像は他にもあり、隆景フェス練り供養で使われた
隆景本人監修、彩色付きの木像もありました。
練り供養とは極楽往生を願って、観音様が迎えに来られるところを
劇にした一種の宗教劇。
講座の時に、
「肩がいかり肩になっていますが、
 これは力を込めて一生懸命合掌をしているからなのです。
 極楽往生したという気持ちがよっぽど強かったのでしょうね。」

と先生が仰られてましたが、確かにぎゅっと肩を寄せて
力が籠っています。
・・・江戸時代になっても練り供養を行っていた。
つまり江戸時代になっても隆景公の極楽往生を願っていた。
慕われてますね。隆景。

あとは肖像画がぽぽぽぽんとありました。
三原だけでも3点あるのですが、
今回は博多のお寺に納められていたものもありました。
中でも珍しいのが隆景の下段に座る井上さんとのツーショット
普通肖像画は法事で使うことが多いので人物は1人なのですが
これは2対人物が書かれています。
隆景の顔などは他の肖像画と共通しているのですが
隆景さんの目が・・・・。
なんというかびしっと鋭い目で見下ろされているような・・・。
そこにぴしっと座る井又さん・・・・。
何だろう、景様主従ここに極まれりというこの構図は・・・。
さっきの木像と180度イメージが違う・・・。

まあ、書状やり取り見る限り、
隆景が一番厳しそうではあるんですよね。父さんよりも・・・・。

というか、家族が作ったわけでもないのに
肖像画がこれだけ残っているのも珍しいのではないかなと。
今回は5枚展示されていましたが
恐らく全て戦国時代末期のもの。
服装や顔立ちがよく似ています。
他の武将も肖像画は5枚あったりする場合もありますが
江戸時代に作られたものも多いです。
しかし、隆景の肖像画は没後間もなく。
賛も色々な人が入れています。
残念ながら、宗光寺のはネズミがかじっているので読めませんが
隆景の像の部分だけはきちんと残っています。
ネズミもよく分かっているなあと思います。
・・・眼光の鋭さか溢れる威光に恐れをなしたのか?
まあ、顔料が塗っているところだけ食べなかっただけでしょうけど。

菩提寺だけではなく様々な場所にお墓が残っているのも
肖像画が増えた原因かなとは思うのですが
菩提寺でもないのに手厚く祀られたのは
寺社を優遇したことや人柄が慕われたのかなと思います。
木村城の跡地では住民が没後に隆景を祀る神社を建てたりしていますし、
秀秋や官兵衛から見た隆景は、人から好かれる末っ子気質を感じます。
・・・・肖像画の目つきは全て鋭いですけど。

九州からの出展には他にも豊前今井・元長合戦図もありました。
対大友戦を大友側から見た合戦図だったんですが、
村上さん勢ぞろいの3000人による包囲網。
・・・・うわあ、村上さんがヒャッハ―してそう。
友達曰く、この元長合戦の軍記物があるらしくて
それによると焙烙による爆破を背景に乃美さん大暴れという
どこぞの戦隊物のノリらしいので今度読んでみようと思います。

それから備中高松城図
清水さんの切腹の日も近かったので
ちょっとしんみりしました。

ええと、それから城といえば名島城図
名島城についての説明は、
駅前のみはら歴史館にある名島公民館の説明が詳しいです。
今ではほとんど残っていない遺構ですが、
黒田さんが筑前に入ったときに色々と書き残しているらしく、
今回のは黒田家臣の配置図と一緒に隆景家臣時代の家臣の控えも
分かるようになっていました。
乃美さん見つけにくかったですが、きちんといました。
ただ、見えにくかったので眼鏡持っていけばよかったなあと悔やんでます。

何だかんだでいっつもじっくり展示見るせいで
最後は駆け足になってしまい、
1時間ではちょっときつかったので
もう少しゆったり見たかったなあと。
展示は結局2回見ていますが
時間があればもう一度見に行きたいなと思います。

隆景講座「小早川隆景の伊予支配」感想

三原で開かれた平成29年度の第一回の隆景講座に行って参りました。
今年が築城450年ということで今年度は最後の講演会・・・・。
どうせなら吉田の博物館のように毎年開いて欲しいなあと思います。
隆景さんはぼちぼち人気が出ているようで、
京都の黄梅院のついったーは隆景の名前が入ってから
りついーとが伸びているのでこういう講座も継続して頂ければと思います。

で、今回の先生は藤田達生先生
三重大学教育学部の先生で
荘園や村落の研究が主だったそうですが
藩の成立や地元の諸大名の研究もされているそうです。
著書も色々と出されており、
私も先生の「秀吉と海賊大名」を以前購入したのですが
分かりやすい本だったので友にも薦めました。
先生は講座前に伊予出身なので領土拡張で被害にあった
その感情が多少入ることはあるかもと仰られてましたが、

・・・・ええ、先生の本にもばっちし入っていたので覚悟しております。

ううん、というか、
戦争で被害を受けたら普通はそうやって根に持つものなんでしょうが、
今一その感覚がわからんのです。
ヒロシマですから色々とあるのですが、
オバマさん来る時に、謝れとか言っていたのは他県の人で
地元新聞の投書などを見る限りは誰も恨みなんか述べていなかった。
そもそも、安芸は大内と幕府、大内と尼子の境目だったので
小競り合いが何十年も繰り返されているのですがあまり恨みは聞きません。
むしろ、大内とか尼子とか攻め返したところでぶつぶつ言われるんですが
「先にしてきたのはそっちなんじゃけど・・・・、
 まあこらえて聞こうか。」
となります。安芸門徒の性質なんかなあと。
あと、戦国時代に攻められて・・・と恨み節を言われるとこって
太平洋戦争で空襲受けていないところが多いのかなあと。
京都なみに先の戦による被害が戦国時代で止まっているからかもとは思います。

で、先生曰く、歴史観にも地域性があるのではないかと。
九州などは歴史を傍観されている方が多いのでは?
逆に中部の人は全国を席巻しているので日本史に関しては
地元などが出てくることもあり興味関心が高い。
四国などは蚊帳の外で、時々酷い目にあっている。
江戸時代に至っては全て外様の殿さまに治められていて植民地だ。
と述べられてました。

・・・・ううん、まあ確かに私が歴史が面白いと思ったのは
やはり地元が関係するところからスタートでしたし、
常に大きな転換期に安芸は必ず関係する。
それに気付いて面白いなと歴史再発見だったので。

あ、あと気になったのが
「隆景は伊予を拝領して独立した大名となった。」
と先生言われちゃったんですが、
ううん、隆景って独立してたんでしょうか?
一応輝元から分けてから伊予貰っているのと
生涯三原を本拠として動く気がない・・・。
でも輝元政権を見ると決定権がある奉行人には隆景は属さない。
むしろ恵瓊のほうに輝元政権の決定権があります。
とすると、隆景はやはり独立とみなすべきなんでしょうか?
ううん。

あ、あと、先生は
「長曽我部元親の四国統一はありえない。
 河野氏が服属はしていないから。」

と述べられてました。
根拠としては3つ。
まず1つ目は土佐側の記述に天正10年春、
長曽我部元親は伊予を手に入れたとされ、
南予と東予が長曽我部に服属したので
中予の河野氏も降伏した。とされているが、
そもそも東予は細川氏の影響力が強く、
西予は西園寺氏や宇都宮氏が強く、
元々河野氏の支配下とは言いづらいので
南予と東予が服属したからと言って
河野氏が降伏したとはならない。

2つ目に、天正12年、中予の新居郡に長曽我部が攻めてきたとあるが
そもそもの史料解釈が違い、この時期新居郡で戦が起こっているのは
来島通総が河野に反乱していたためである。

3つ目に、天正13年春に河野通直が長曽我部に降伏と
「土佐物語」にはあるが、降伏したというのは大きな出来事
それなのにはっきりした年月ではなく、春という曖昧な記述
そもそも「土佐物語」は長曽我部方が書いているもので、
河野氏の降伏時期について他の資料や史料にはない。
むしろ、河野道直は毛利輝元の姪と縁組をするなど
毛利氏との関係を強め、毛利家臣にも礼状も送っていて
毛利と一体化しているので毛利の許可なく
河野氏の降伏はありえない。

よって、河野氏が長曽我部氏に降伏はしていない。

・・・まあ、河野通直は元就さんのひ孫
隆景の義理の孫にあたるので、毛利氏の縁戚。
家族意識の強い毛利家なので河野を見捨てることはないですし、
通直の母のゆづきは五竜の娘だけあって、強いですからなあ。
来島通総の反乱も多分ゆづきが原因っぽいですし・・・。
勝手な予想ですが、河野を見捨てそうなもんなら
ゆづきが毛利本家に殴りこむか、
毛利家陰の当主景様に怒鳴りこむことすらしそうなので、
河野が長曽我部に降伏は毛利側から見てもないかと・・・。

では、毛利と河野と長曽我部の三家の関係はどうであったのか。
石谷(いしがい)家文書の発見により、近年詳しく分かるようになったそうです。

時系列としては天正9年12月
石谷頼辰が長曽我部元親の所へやってきます。
長曽我部元親は明智光秀の縁戚である斎藤家の娘を娶っており、
信長の意を借りて領土拡大をしていました。
信長から四国は切り取り次第と許可を貰っていた元親は
阿波・讃岐と領土を拡大していたのですが、
急に信長から「土佐一国以外は返せ」と言われます。
石谷頼辰は「短慮は起こさないように」と釘をさしに四国へ渡ったようです。

信長の急な方針転換には
織田家の家の拡大に踏み切ったことと派閥争い。
阿波の三好氏は秀吉と手を組み、
信長3男の信孝を養子にする話も出し、
秀吉も信長4男の秀勝を養子にしていました。
信長は信孝を四国三か国の国守に、
秀勝は秀吉の跡を継ぐようにと家の拡大を謀ります。
そのため、元親の土佐以外の返還を求めました。

・・・・。信長さん、大きくなると(?)保守的になっている気がします。
で、元親はどうしたのか。

天正9年12月23日、元親は鞆の義昭の所に使者を送ります。
ここから先生脇道にそれ・・・いえ、背景を詳しく解説して下さいました。
先生のお話はずばっと分かりやすいので、
さきほどの長曽我部元親の四国統一話も然りですが
伊予の統治以外の話も結構面白かったです。
四国から歴史を見ているからか、
一般的な歴史観を本当にそうだろうかと再見していくので
もっと他のお話も聞いてみたいなと思いました。

で、この時の足利将軍は義昭。
室町幕府は織田信長が足利義昭を京から追放したことで滅びた。
と通説ではなっていたが、それは間違いである。
京を追い出された方と言って室町幕府は滅びていない。
と先生は仰られてました。
義昭以前の将軍はほとんど京にいないが、
だからといって幕府は滅びてはいなかった。
また、京を追放されていても五山の僧の任命権限を持っており、
これは信長も手だしする事が出来なかった。
将軍の権威を利用して諸国の大名に決起を呼びかけたり
天正7年までは京での出来事を調停しているので
追放されていても力を持っており、鞆幕府といっても良いぐらい。
加えて信長も将軍家を潰すつもりはなく、
義昭の息子を大切にしていた。
以上から義昭はまだまだ将軍として力を持っている。
ので、織田信長と対立した長曽我部から使者が来たようです。

・・・義昭さん、五山の僧の任名権限とか持っていたのですね。
知らんかったです。
ああ、だから毛利の僧ばっかりが最近五山のトップになっていて
ちょっとよく考えて下さいという手紙があったんですね・・・。

で、義昭と毛利で、河野と長曽我部の和解を試みます。

天正10年5月、
信長は四国国分を提示するなど
信長はこの頃絶頂だったとされるが、
義昭の側近もこちらが勝っている!と言っている。
本当に信長は勝っていたのでしょうか?
と、先生は疑問を投げてでした。
実際には、毛利と長曽我部の同盟は強くなっており
両家で将軍を京へ案内するつもりだったという話もあったようです。

・・・・。
ああ、確かに備中高松攻めは毛利の負け戦とよく小説で書かれますが
何かの歴史書読んだ時に、史料を読み解くと毛利も決して劣勢ではなく、
宇喜多や秀吉とほぼ互角で、ケリをつけようとしていたが、
宇喜多も秀吉もなかなかしぶとくケリがつかない状態だったとあったので
まあ、互角ぐらいが正しい評価かなあと。

で、天正10年6月に本能寺の変。
明智光秀は石谷氏と長曽我部氏と縁戚関係があり、
そもそも天正10年6月の明智光秀が雑賀衆に送った手紙
義昭の命で起こしたと書いているそうです。
なので、本能寺の変の命令者は義昭。

で、毛利と長曽我部の連携は本能寺の後も続きます。
天正10年7月
芸土入魂の仲介者である香川氏の下へ義昭の家臣が来ています。
ところが、
天正10年12月
東予の石川氏の家臣であった金子元宅宛ての隆景文書に
「伊予・土佐は中郡で線引きしようとしたはずなのに
 宇和郡で戦になったらしい。困ったことだ。」

とあり、長曽我部元親が毛利と定めた河野領域を侵犯
結局宇和郡の北之川氏は翌月長曽我部に滅ぼされてしまいます。

・・・うわぁあ、隆景、激怒してそう・・・。

で、第3章伊予国主小早川隆景の章。
天正13年1月
毛利と秀吉は天正10年の仮約束から最終的な中国国分を提示します。
中四国同盟の盟主として毛利は強気の国分けをしようとしますが
色々と押し切られ、紀州攻めに協力をすれば
伊予・紀州を与えると秀吉から約束を貰います。
天正13年5月
秀吉は毛利・長曽我部と四国国分交渉を行います。
天正13年6月
長曽我部の領分は土佐と伊予(領有分)を認めます。
が、この交渉は秀吉と元親だけで隆景抜き。
交渉内容を知った隆景は・・・・。

6月20日の河野氏家臣の平岡さんのところに残る秀吉書状には
「長曽我部のこと、先に申し遣わし候つるは、
 土佐一国予只今長曽我部かたへ進退候分候て
 毛利方小早川方へ安国寺を以て相談しむる。
 もっとも予内に候て、右の通りに予宥免べく申し聞き候ところ
 聞き違い候て、安国寺此方へ罷り上がり、
 伊予円に給わず候はば、外聞迷惑候予小早川申すよし候条」

と、一旦終わっていた和平交渉がもつれます。
結局、勝敗がつかず四国攻めが決定。
伊予一国は毛利氏が攻め取り、
四国攻めの後に輝元から隆景へと渡されます。

ここで先生は伊予は全く関係ないのに
勝手に攻められて領地も分けられて御先祖様は苦労された。
その話をずっと昔から聞かされてきた。
とようちゃったです。

・・・ううん、でもこれって隆景が怒るのも当然かと・・・。
秀吉は伊予を渡すと紀州攻めで約束しながら結局約束を反故
加えて長曽我部も本来毛利と決めた国分を超えて
攻めてきているのに、その領有権を主張。これも約束を反故
まあ、長曽我部としては宇和郡の領主は謀叛を企てた一族の縁戚なので
滅ぼしたのは当然なんでしょうが場所が悪かったんじゃろうなあと。
加えて金子氏のように長曽我部に属する国人も中にはいたから
彼らのためにも譲るわけにはいかんかったんでしょうが・・・・。
ただ、隆景も隆景で長曽我部に滅ぼされた
あるいは毛利方についていた国人衆も守らねばならないわけで
そう考えると伊予も全く無関係ではない気も・・・。
そもそも、河野氏は分郡守護ではなく国主なので
念願の国主に戻れる、一国支配に戻れる!となっていたのに
やっぱり分郡でという事になるそりゃあはぶてるでしょう・・・・。
隆景が外聞が悪いと言ったのは
こういう河野家中の事もあるんじゃないのかなあ
と。

それから来島氏。
秀吉は来島氏にも離反したら伊予一国を約束していたはず・・・。
そもそも来島氏は河野氏に謀叛を企ててますから
河野氏としては許せないはず。
隆景が国分で難色を示したのはもっと複雑な背景がありそうな気もします。

・・・こうしてついつい隆景擁護に走るのは
毛利史観だなあと思います。

で、隆景の伊予統治ですが、秀吉の政策に沿って行われました。
天正13年8月14日
黒田官兵衛と蜂須賀小六が城や人質を取り、隆景へと渡します。
武士は一所懸命が座右の銘。
先祖から引き継いだ私有地を守るために戦う者ですが
城を預かって再編するのは在地性を否定し、
集公、国有地化していることになります。
全国の私有地を公有地にすること、
信長らの目指したのはそれであり、
江戸時代の殿さまというものは領地領民は幕府から預かったもの。
ゆえに、城は個人の持ち物ではないので、国替の時には
城が借りたときと同じかどうかを確認しなければいけなかったそうです。
また、城だけではなく家臣の屋敷も調査範囲に含まれ、
風呂桶の状態など細かく確認されていたそうです。
そもそも家臣の屋敷は個人の家ではなく、
役目によって移っていく、いわば公務員住宅。
豊臣政権は全国を統一することで
私有から公有へと地域社会を変革させたことが大きい。
隆景は伊予にとっては「おうりょう」と評するものもいたが、
伊予の近世化には大きく携わっていたことがいえるそうです。

とはいえ、伊予が豊臣政権下になり隆景の支配を受けていたのですが
隆景の領地替えが行われる天正15年までは河野も西園寺
自分の城に在城していました。
隆景が庇護をしていたからだそうです。
しかし、隆景が移動になると両者は殺害され、滅亡。

・・・その点では、隆景は自分が伊予を手に入れることで
豊臣秀吉の革新的な旧領主のすげ替えから守っていたのではないかなと。

先生にお聞きすると、
東予は長曽我部か毛利かどちらとも関係が深いので
彼らはどっちの下になっていても問題はなかったでしょう。と。
ただ、南予は長曽我部方に降伏していたので
長曽我部方が強かったのではないかと仰られていました。
伊予一国は外聞云々とあったように隆景はどうしても取りたかったが
ここで無理を言ったために九州・関東・朝鮮へと出兵せざるおえなかったのでは
としめられていました。

・・・ううん、なるほど。
でも隆景の庇護した西園寺って南予の国人じゃし、
南予では昔は子どもを脅す文句として
「ちょーそ(長曽我部)がくる」と言われたという話も読んだことがあるので
南予も完全に服属していたのかははっきりしないなあと。
降伏したら、九州と違って四国はまず反乱しません。
その代わり、ずっとくすぶっていくのかなあと思いました。

中央に対して
納得できなかったら勝つ見込みがなくても戦うのが九州
表面だっては従うが心の中までは従っていないのが四国なのかなと。
肝心の中国は・・・・ううん、やねこいです。
意外と自分たちのことってわかりにくいなあと思います。
なので、今回の様に他所から見られた歴史観というのも
大いに勉強になりました。
先生のお話も面白かったので今度は別のテーマでも聞きたいです。

関ヶ原で空弁当その3「関ヶ原と酒と空弁当」

続いて小西さんとこの陣へ

CIMG0219.jpg

かんとり~ろ~ど♪と歌いたくなるような綺麗な景色ですが
この道の先には幟がはためき陣所に続いています。

CIMG0221.jpg

辿りついたのは小西さんの陣所。

CIMG0225.jpg

小西行長も首謀者として処刑された方。
そしてそのまた奥に大谷さんとこの陣所が見えてるはずです。

CIMG0227.jpg

意外と遠いなあ・・・・。
多分田んぼを避けて陣を張ったから
ぽつんぽつんとなったんでしょうが、
街道から一直線に来る相手に対し
包囲網的な布陣・・・。
東軍の魚鱗に対し、西軍は鶴翼なので
網にあたる一つ一つの陣がしっかり連携できていれば
包みこんで撃破できます。

石田さんとこと大谷さんとこと
宇喜多&小西さんがえらい離れていたのは
彼らが西軍で士気が高い軍なので
あえて離して配置することで、
成り行きで参加した士気の弱い軍を高め、
包囲陣が崩れないようにしたのだろうなと思いました。

・・・、まあでも一個撃破されたらガタ崩れなのは
どうにもしようがない陣形なので
例え、秀秋の呼応がなくとも、
士気の弱い軍が一つでも壊滅すれば
西軍の負けです。

西軍が負けたら島さんの御子息が安芸に下向しなかったわけで
そうすると西条が酒都にならなかったわけで
すると安芸津で軟水による酒作りの研究されなかったわけで
まっさんも別の職業に就くから国産ウイスキーもないわけで
・・・・すみません、酒飲みとしては
西軍負けないと日本中の地酒と大吟醸がこの世にないから
やっぱり負けてもらうしかないかなと・・・。
関ヶ原の戦いは歴史だけでなく酒にも大きく関わるのです。

さて、ここで西軍巡りは終わり。
今度は東軍です。

CIMG0230.jpg

最後陣地って何だろうと思っていたんですが
家康が最後に陣を敷いたところだから最後陣地らしいです。

そして細川さんとこの陣。

CIMG0239.jpg

細川さんは奥さんを殺されたので
一番士気が高い・・・。
まあ、でも奥さんがあれだけ宗教にのめり込んだことや残る逸話から
旦那さんから逃れたくもあったんではないかなとも思うんですが、
昨今では仲睦ましい解釈があるようですね・・・・。

それから黒田・竹中陣所。
播磨出身の黒田家の敷いた陣だけあって
やっぱり他よりは小高い場所にありました。

CIMG0245.jpg

うん、これこそ陣。
さすが山陽仲間。ようわかっていらっしゃる。
この場所からは広く関ヶ原が見渡せました。

CIMG0247.jpg

さて、ここで例のものを取り出します。

CIMG0249 - コピー

友から貰った空弁当!
小川新聞店さんという関ヶ原グッズを売られているところで
販売されているんだそうです。

勿論中身は

CIMG0253 - コピー

空。

空弁当になった理由は
ここの陣の主である黒田長政と仲の良かった広家が、
本家をつぶさないために長政に謀ってもらって東軍につき
西軍からの再三の出兵要請に対し動かなかったため
総大将の秀元も動こうにも動けず、
長曽我部家に対して
「今は食事中だから」
と苦し紛れの言い訳をしたのが
「宰相殿の空弁当」


南宮山には登れませんでしたが
空弁当に関係ある場所なので記念写真。

そして最後に本多さんとこの陣。

CIMG0265 - コピー

・・・・。
井伊といい、本多といい、
名前が家紋って珍しいなあと思うんですが
東にはよくあるのでしょうか。

感想としては関ヶ原は本当にただっぴろくて
1日で全部回るのは無理そうでした。
特に南宮山は山なので登るのに時間かかったそうです。

それから家康の最後陣地から秀秋の陣へは
いくら大砲でも届く距離ではないです。
本多勢が東に進んでいれば本多勢であれば可能でしょうが・・・・。

現地へ行くことで分かることがあるなあと
改めて思いました。
次こそ南宮山へ登りたいなあと思います。
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トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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