FC2ブログ

目次

主に毛利元就から浅野長勲までの戦国~幕末までの安芸の歴史について語るサイトです。
これまでに作ったコラムについては下のつづきをクリックしてみて下さい。

1月26日 市子様、返信いたしました。


※全体の感想でもし何かありましたらこの下の緑の拍手をおして
 感想をお書き下さい。
拍手コメントの返信を読むには、もう一度拍手ボタンを押してください。
※個々の感想は、その頁にコメントして下さると嬉しいです。

更新記録と雑記
更新記録と雑記その2

過去のコラム一覧は下の続きを読むをクリックして下さい。



続きを読む

スポンサーサイト



榎本武揚のご先祖?安那郡の細川氏①

幕末、幕府軍として最後の五稜郭の戦いまで戦い抜いた榎本武陽
明治維新の後、赦されて政府の中心的人物となりました。
彼のお父さんは箱田良助といい、備後安那郡箱田村の出身でした。
家は代々、箱田村の庄屋で今でもお屋敷が残っています。
箱田良助は兄と共に伊能忠敬の弟子となり、
天文方へ出仕、日本地図製作に携わります。

詳細は「かさおか遊歩」さんをご覧ください

で、この箱田さん、箱田ではなく細川が実名。
ひょっとして毛利家臣になった備中細川家の流れではないかなあと常々思っていました。
というのも、備中細川は浅口の鴨山城主で神辺とかなり距離が近いのです。
徳川の謀略に負けて防長封じにあった際に多くの家は次男以下が残って帰農、
家を継ぐものは山口へ移りました。
県北では
「いつか幕府を倒す時がきたら一緒に戦おう。」
と言って今生の別れを惜しんだと言い伝えられています。
なので、もし箱田良助がそのまま備後に残っていたら
榎本武揚も長州側だったんじゃないかなととりとめもないことを考えてたのです。

で、県史中世資料編Ⅴを冬休みに読んでいた時に面白い書状を見つけました。
書き下し文
「足利義政袖判宛行状

 備後国安那郡 山名兵部少輔同親類被官以下跡所
 細川下野守教春宛行なり

 応仁2年 5月6日」


応仁・文明の乱と呼ばれる大規模な戦が始まったのは応仁元年。
なのですでに戦が始まっています。
山名兵部少輔は伯耆・備前守護だった山名教之
山名氏は6分の1衆として強力な力を持っており
西軍の主力として東軍の細川と激しく対立します。

この書状は細川から見れば敵の山名教之の親類衆の家来が戦死したので
持っていた土地「跡所」が細川下野守教春に上げますよという書状です。
教春は備中浅口と伊予宇摩の分郡守護を務めており
備後はすぐ隣り町。
備後は敵の山名氏が守護なので橋頭保としても使えますし
海沿いは港町もあるので交易の権限もゲットできる
二重においしい場所です。

因みに、備中細川氏は宗家の吉兆家に何度か養子を出すなど
中央と密接に結びついていました。
なのでおいしい報償ももらいやすかったのかもしれません。
しかし次第に没落し、伊予に逃れていた一派が再び備中細川氏として
浅口に戻りますが、その後は毛利氏の家臣として秀吉と戦い
長門下関の長府藩家老として代々続いていきます。

で、次に備後安那郡の位置を確認です。
現在でいう神辺や加茂、駅家の辺りでした。
明治の時点では備後福山藩27村と豊前中津藩の飛び領であった2村を合わせて
安那郡としていますが、恐らく安那郡自体は戦国時代から大きさを変えていないと思われます。
この備後福山藩27村の中に箱田村が含まれます。

安芸や備後で庄屋や島名主をしているのは大体が元国人衆です。
没落しない限り自分の領地をそのままもっている場合が多いです。

・・・と考えると、榎本武揚はこの備中細川氏の末裔である可能性が
かなり濃いいのではないかなと思いました。
推論なのでまだまだ今後も研究の余地があると思いますので
調べていきたいと思います。

「明智光秀の城下町・福知山」~丹波探訪②~

黒井を堪能したあと、一旦福知山に戻ります。
電車の乗り継ぎ考えると福知山を起点にすると便利なのです。
で、行って参りました福知山城。

駅から歩いて15分。
至る所に「明智光秀」推しの旗が立っています。
福知山は明智光秀が城を建て、作った城下町
また、善政を施いたため、領民からはかなり慕われていたようで
町の人たちは今でも明智光秀を「我が殿様」と思っています。
かつて、「平清盛」が大河になったときに福知山の友が

「明智光秀はほんまはええ殿様やったんで。
 町の人もみんな慕っとるんや。
 いつか大河にならへんかなと思うんや。」


と言っていましたが本当に町中があたたかい雰囲気でした。

さて、そんなこんなで福知山城。

CIMG2405.jpg
おお!立派な城構え!!
登城していくと

CIMG2386.jpg

おお、何と分かりやすい転用石・・・。
五輪塔の下の四角い部分でしょうか。
しかし、これはまだまだ序の口でした。

CIMG2391.jpg

ええ!転用石だらけじゃないですか??
拡大するとこんな感じです。

CIMG2392.jpg

では問題です。次の中で転用石はどれでしょうか。

CIMG2394.jpg

わたしが見つけたのはこれです。

CIMG2393.jpg

が、間のくり石とかにも五輪塔の先っぽ使っているような感じなので
本当はもっとあるのかもしれません。
そして石垣の角。
一番四角い石が必要とされる所・・・・。

CIMG2395.jpg

おおう。こんだけ立派な墓石全部引っこ抜いて石垣に・・・。
ひょっとしてそのせいであんな末路になったんではと思ってしまいます。

CIMG2413.jpg

看板説明を読むとどうやら、安土城も同じく転用石が多い城らしいです。
あ、うん。察し。
まあ、これだけ立派な石垣を短期間で作ろうとしたら
貴重な石材は使わなければ損だと思ったのでしょう。
滅ぼした相手なので弔う人もいないでしょうから・・・。

CIMG2403.jpg

城跡に建っているのは復元天守で、中はちょっとした資料館になっています。
今回は明智光秀と福知山のつながりを示す展示でした。
地元の方から愛されているんだなあとひしひし伝わりました。

どうせなので図録をと尋ねたら、ボランティアさんに

「??図録?すみません少々お待ちください。」

とわざわざ学芸員さんを呼んで来られたようで申し訳なかったです。
あれ?図録って専門用語??
と思いながらあれこれ教えてもらい、お勧めの本をゲット。
時間がないのでゆっくりお話しできなかったのですが
色々と楽しかったです。
広島から来ましたと言うと、この方も先週郡山城に来られていたようで
「毛利元就が人柱を救った話にとても感動して
 バッチを思わず買ってしまったんです!」

と百万一心のことを熱く語って下さいました。
それから受付のお姉さんがとても親切に教えてくださって
感動したとも仰っていました。
安芸高田に行ったときにはお伝えせねばと思います。

そんなこんなで麓まで下りて閉館まで40分のところで
資料館?に入ることができました。
大河ドラマの資料館になっていて宮島の民俗資料館の蔵のような展示でした。
まあ、予習代わりに見とくかとざっと回って出ると5時。

ううん。急ぎ足だったのでお城の外側だけもう一度見ようと上へあがりました。
でも誰もいません。ライトアップもあるし夜間も入れるはず。
鎖も張ってないしと誰もいない中びくびく上がりました。

CIMG2408.jpg

あ、広場の奥に何かある。

CIMG2410.jpg

明智光秀の自販機!

CIMG2412.jpg

CIMG2416.jpg

CIMG2418.jpg
夕日に照らされて綺麗でした。
さて、電車が出るまであと1時間。
どこか関連して見れる場所はと探すと、
近くに明智藪というものがあるので足を延ばしてみました。

城から北にわたる橋を渡ると突き当りにもう見えています。

CIMG2422.jpg

明智藪とは由良川の洪水に悩まされる城下町を救うために
光秀が築いた堤のことなんだそうです。
ううん。どこかで見覚えがあるような・・・。

CIMG2423.jpg

あ!思い出しました!
福知山の友達の結婚式!
新婦の思い出の写真の中に、ここを背景にした家族写真が出てきた!
さすが古文書分析学のレジュメを流してくれていた友。
渋い所を地元の思い出写真に選びますなあ。

もうちょっと時間あるようなので、ついでに御霊神社にも足をのばしてみました。

道中の街並みがとても素敵でした。

CIMG2426.jpg

CIMG2428.jpg

CIMG2427.jpg

CIMG2431.jpg

映画館で「この世界の片隅に」をしていたようです。
なんだか嬉しいです。

それから福知山音頭。

CIMG2429.jpg

明智光秀が福知山城を作った時に働いていた人夫達が
木材などを引っ張るときに囃したところから生まれたそうです。
今年は盛大に行われそうだなあと思いながらまっすぐ歩きます。

というのも目指す目的地は道路の真正面。

CIMG2432.jpg

神社が優先で道が途中で曲がっています。
中世は辻に祠を置いて御まつりしてたようですが
ここもそういう古い町並みのままなのかもしれません。

CIMG2433.jpg

CIMG2434.jpg

CIMG2435.jpg

神社自体は江戸時代になって地元の人たちが建てたもの。
何百年前で、謀反人とされていた光秀のために
こんな立派な神社を建てられていたんですなあ。

それと神社の後ろに見つけた戦国時代の遺構。

CIMG2436.jpg

戦国時代の城下町ではこのように、道と道をわざとずらして交差させていました。
光秀の行った町割りが今も町に生きているのだろうなとしみじみと思いました。

「来ないで麒麟」~丹波探訪①~

「麒麟が来る」で今、熱い視線を浴びているのが丹波。
丹波は京都府と兵庫県にまたがる旧国名で、
明智光秀が攻めて拠点とした国です。
丹波の国衆は織田に従うものと対抗するものに分かれました。
対抗する者の代表は、「丹波の赤鬼」とされた赤井直正。
彼は、織田と対立する毛利に援軍を救援し、
侵攻してくる明智光秀を食いとどめようとします。
さあ、勝負の行方は?

・・・・と伝記風に始めたものの、ぶっちゃければ私の最大の謎は
「織田と毛利の入魂」からなぜ戦争になったのか。
なのです。
丹波方面の歴史の詳細については安芸ではほとんとつかめず、
丹波の国衆から出された手紙の年月を推定したいなあと思ったのと
元就さんが信長に依頼した
「丹波・但馬の賊船が尼子再興軍を助けないようにしてほしい。」
とあった願いで向かったのは明智光秀なのか?という疑問を解消すべく
丹波黒井と福知山へ行って参りました。

当方、旅に出たのは2月の三連休の初日。
新型肺炎のニュースで世情が騒がしくなりつつあるので
京都と大阪を経由せずに広島から福知山までを目指すルートを考えました。
一つは山陰ルート
赤井直正に援軍を請われた吉川元春が辿ったルートになるんですが
アクセスが片道7時間・・・。
今回は日帰りを考えていたので却下です。
もう一つは山陽ルート
加古川線で福知山を目指すルートです。
と考えると黒田家譜の記述がどこまで正しいかは分かりませんが
丹波や但馬へ向かうのに英賀は結構重要拠点だったのだなと思います。

で、よりによって新幹線が広島駅から停電で始発から大幅な遅れ。
予定していた加古川線には10分間に合わず、仕方なく
播但線→山陰本線→福知山線
と5時間半かけて行きました。
まあ、おかげで播磨の奥の様子を知ることができました。
播磨灘周辺は開けているものの、すこし奥へ行けば
山に囲まれ狭い谷筋がまっすぐ伸びている中国山地の端でよくみられる風景。
あ、これ横の連携無理だなあと悟りました。
逆に谷筋を一気に下れば海で、尼子晴久の天文9年播磨攻め
主要箇所さえ落とせば一気に行軍できるのであんなに破竹の勢いだったのかもしれません。

公共交通機関の旅の醍醐味は地名探し。
バスだと小字まで知ることができるのですが、今回は電車。
八木や氷上など見覚えのある国人の名前が駅名で出てきます。
で、思わず2度見したのがここ。

CIMG2382.jpg

おお!天空の城で有名になった竹田城じゃ!
毛利方国人だった方が詰めとった城!


駅裏が登り口になっているのでアクセス良好です。
しかし、一番山城登山の時期である冬季は登山禁止なのですね。
知らなかったです。今の時期は蜂も熊も蛇もいないので山に登るにはいい時期なんですが。

そんなこんなでお昼過ぎにようやく福知山。
・・・やったあようやく着いた!
大学の友達が福知山出身なので福知山はとても親近感ある地名なのです。
ここが彼女の生まれ育った場所かあと電車待つ間に駅周辺を散策、
駅には観光案内所があり、光秀グッズがたくさん置いてありました。
とはいえ時間がないので本だけ買って再び駅へ。
今度は黒井を目指します。

黒井から降りると目の前にものすごく立派な山城が!

CIMG2385.jpg

麓の館から中腹の山門、本丸の石垣と全部セットで残ってます。
新幹線が通常通りであれば登れたのに!
と臍を噛む思いで展示会場へ。

CIMG2384.jpg

あれ?春日歴史民俗資料館どこ??
と迷いながら入った建物の2階で何やらしているようなので
上がってみました。

ちょうど、大河関連のことをしていたようで
大河の岐阜城のセットをバーチャル体験できるイベントをしていました。
せっかくなのでVRつけたんですが、すごい!!
ゲームの世界に丸ごと入った感じです。
大河ドラマだとあまり一階出てきませんが、武器がいっぱい。
で、ワープポイントまで歩くと画面が切り替わって2階へ。
自分で歩くとその分景色がきちんと変わるのです。
いつも斉藤道三がいる御座所から縁側の方へ出ると
きちんと景色も動く!!
わあ!すごい!!

と思ったより楽しめました。

で体験した後に教えてもらった展示場へ。

黒井の城主、赤井直正を中心に古文書や関連物がありました。
赤井直正、名前は聞いたことはあるけどどんな人だっけ?
と思っていたら歴史マニアの親子がわりと大きい声で解説していたので
ありがたく聞かせてもらいました。

赤井直正は赤松家の末裔で養子に出されます。
しかし養子先の叔父を殺して黒井城を奪い
荻野悪右衛門と改名します。略して「荻悪」

吉川家文書に何度か出てくる名前です。
彼は織田信長に一度は従ったものの、反旗を翻し
丹波統一を進める明智光秀と敵対。
当時信長と敵対していた本願寺とも連携していたようで
下間頼簾書状が展示されていました。

内容は
「加賀の一向一揆と上杉謙信が連携できるよう調整中だ。
 毛利がなかなかはっきり返事をしないが
 あなたが味方についてくれると聞いて心強く思っている。
 紀伊の小倉監物に任せていた城が一つ落ちた。
 安芸の警固衆達が渡海してくれば策の立てようものあるのだが。
 丹波丹後出雲伯耆のことは吉川殿が向かわれるとのこと
 目出たいことである、」
(私訳)
と私には初見の史料で興味深かったです。
上杉謙信と加賀一向一揆が和睦していることから天正4年の9月26日。
とされている書状です。
資料館では丁寧に現代語訳がついていてどの書状も読みやすかったです。
「丹波国史」?を元にされていたようで、非常に気になりました。
どこかで売っていないかなと思いましたが、古本屋さんらしきところがない。
また、検索しても出てこないので本の名前を間違えて覚えてしまったのかもしれません。

あと、吉川家文書なので今回は出てなかったのですが
赤井直正が出した書状に
「詳しくは安国寺恵瓊に述べている。」
と元春に救援を願うものがあるそうです。

・・・恵瓊?え?恵瓊さんここまで来たの?
新幹線も電車も車もないのに!?


と非常に驚きました。現代でも最速で5時間半。
一体何日かかっていたのでしょうか・・・。
余談ですが、イベント会場の方や資料館の受付のお姉さんと話したときに
「広島から来ました~。」
と言うとすごく驚かれました。
いや、でも援軍要請されてたし、恵瓊さんも来てるわけだし
そこまで驚かなくてもとは思いましたが、
やっぱり距離考えるとものすごいのかなと。
それなのに元春に援軍を頼んだのは
上の本願寺絡みで伝手ができたためでしょうか。
まあ、尼子晴久が播磨攻めてるので出雲や伯耆からなら
丹波もすぐに来れるだろうと思ったのかもしれません。

ただ、最初から毛利方かというとどうもそうではないらしく
「山中鹿之助がどのが無事に通ったらしい。喜ばしいことだ。」
という書状を直正の子孫が持っていることから
どうも最初は尼子方に通じていたようです。

結構謎なのですが、
尼子再興軍は山陰でかなり広い連携があったようで
丹波・但馬の海賊衆に限らず内陸の氷上郡でさえ同情的です。
但馬は尼子経久が寄進した名草神社の三重塔があるので
元々関係が深そうだとして丹波は?
以前、講座で尼子氏が安芸武田を支援したのは
武田の本家である若狭武田からの要請だと聞いたのですが
尼子氏はやはり佐々木一族として京とのつながりが深かったのか。

結構意外なものがたくさんあって充実した展示でした。
会期は来週3月8日までだそうですが、
昨今の情勢を鑑みるに厳しそうです。

図録が出ないのか聞きまくったところ、
運よく教育委員会の方にお会いすることができました。
・・・同業者は同じ匂いがするので見分けやすい・・・。
お休みのところ申し訳なかったです。
図録は出す予定なんだそうですがまだ詳しいことは未定なので
とりあえずおすすめ頂いた資料館発行の薄い本を買いました。

春日町の方々はとても親切で
「わが町を盛り上げるぞ!」
と張り切っていらっしゃったので
皆さんにもぜひ訪れてほしいなあと思います。

・・・あれ?作文っぽいな。

戦国時代の安佐南区

そういえば、戦国時代の安佐南区(旧佐東町・安古市町・沼田町など)は
元就さん直轄領なのである程度貫高がわかるなあとちまちま調べることにしました。
なのでちょっとずつ更新していきます。ついでに他のも載せときます。
安佐南区は山がちなの低地はほぼ変化なしのはず。
併せて現在地も特定していこうと思います。
以下は広島県史資料編古代・中世Ⅳからです。

●単位
1町=約10000㎡   (1辺が100m) 学校の運動場ぐらい
1段=1反=約1000㎡(1辺が31.5m) 学校の体育館ぐらい
更に「大」や「半分」「小」といった区分けが安芸では使われていたようである。

(1)佐東郡
①安佐南区祇園
  下安
  内 田1町8段大         佐藤就綱         天文23年3月14日(元就書状)
②安佐南区長束
  内 中須賀 田6段       伊藤半左衛門景尚   天文23年8月5日(奉行人連署)
  内      田8段半分     伊藤半左衛門景尚   天文23年8月16日(元就書状)
  
不明
 北庄
 内 黒瀬脇かな口 畠5段    伊藤半左衛門景尚   天文23年8月5日(奉行人連署)
 内 畠9段分             伊藤半左衛門景尚   天文23年8月16日(元就書状)
 南部
 脇ひはくひ 畠1段         伊藤半左衛門景尚   天文23年8月5日(奉行人連署)
 同 脇 宗清畠2段         伊藤半左衛門景尚   天文23年8月5日(奉行人連署)  

③安佐北区後山
  内 西名 田1町9段大     佐藤就綱         永禄4年6月28日 
  同 迫名 内田1町2反小    佐藤就綱         永禄4年6月28日

(2)阿南郡(東区~呉市)

不明   
山ノ内西名田1町1段小      佐藤就綱 天文23年3月14日
プロフィール

トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
ブログ村の記事
ブログ村の歴史新着記事一覧です。 他所のサイトに飛びますのでご注意を。
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR