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主に毛利元就から浅野長勲までの戦国~幕末までの安芸の歴史について語るサイトです。
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更新記録と雑記
更新記録と雑記その2

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「吉見氏VS益田氏」感想

2月9日に益田で開かれた「戦国の両雄激突 益田VS吉見」のシンポジウムに行って参りました。
秋に「益田氏」関連の展示が開かれるみたいなので
感想をあげときます。

まずは基調報告をされた中司さんのお話。
パワポ全てがカラーコピー。
これだけでも凄い資料でした。

で、益田さんと吉見さんですが
益田さんはもう地元の方もかなり詳しく御存じなので
今回はライバル吉見さんに焦点を当てつつ
両家の対立について講演されてでした。

・・・私の中で吉見さんと言えば広頼さんなんですが、
妻にも,頼りにしていた長男にも先立たれ,
長男の嫁にも先立たれ,娘たちも先立ち,
当主になった次男は出奔するし,
何とか養子を迎えて家を継がしたのに断絶。
方や、ライバル益田さんは最終的に
長州藩永代家老として幕末まで家名を存続。
日本史の教科書にも名前が残るほどなのに・・・。

と、吉見さんは終始益田さんに押されっぱなし
なのかと思っていたら全然違いました。

まずは益田さんと吉見さんの比較。

まず、益田さんは地元石見の根っからの武将。
源平合戦以前からの石見国人なんだそうです。
西国は平家になびいたものが多いので
根っからの地元国人は少なく,
安芸はほとんど西遷御家人なんだと秋山先生が仰ってでした。
あと、地元なので庶家も結構広がってます。
庶家は割と反抗的で,三隅・周布は結構自由に生きてます。
幕末に名前をよく聞く周布政之助も周布一族

対して吉見さんは源頼朝の弟・範頼の子孫
いわゆる西遷御家人で,津和野を中心として根付きます。
西遷御家人の割に、地元に根付いて影響力もあったらしく
そもそも何で津和野に来たのかも不明なんだそうです。
ただ、範頼の子孫であるのは詐称ではなさそうだと
後のディスカッションで他の先生が仰ってました。

・・・範頼さん、地味に安芸にも痕跡があるんですよね。
兄の義経は海路を行きましたが、
弟・範頼はどうも陸路で平家追討をしていたらしく
山陽道沿いにいくつか伝承が残っています。
それこそ近所の大塚には範頼が休息に腰かけた岩が伝わっていますし
佐伯区臼山八幡神社は陣所として伝わっています。

で、両者の対立ですが、私はてっきり戦国時代に入ってから
大内さんとこでやりあったぐらいから
と思っていたら意外と根深くて驚きました。

初見の資料は応永32(1425)年頃
吉見氏は能登に本家がありました。
本家から独立しようとした木部(石見吉見)の衆が
山名氏や大内氏の力を借りて独立します。
が、その時に既に高津川の中流まで領地を伸ばそうとしてらしく
益田と吉見の間で紛争があったことが分かるんだそうです。

・・・・。江戸初期(慶長18年)までと考えれば
200年近くに渡る抗争
最終的には益田さんと吉見さんは婚姻するので
和睦したと言えばそうなんですが、長い戦いだったんですね。

続く応仁・文明の乱も,
東軍に吉見氏、西軍に益田氏と対立。
乱の後の大内氏内部でも
陶・益田VS吉見となり
吉見氏は大内氏と婚姻を結ぶことで対抗。
大寧寺の変で陶が下剋上を行うと
陶・益田で吉見攻めを開始。
ところが,厳島合戦で陶晴賢が破れ,
勢力図が大きく変わります。
益田さんは日本海側に勢力を伸ばし,
萩の辺りまで領地拡大していました。
ところが今度は吉見さんが反撃開始。
一気に山口まで進撃したようです。

・・・毛利が山口に入るまで意外と時間がかかっていて
入った時にはすでに山口の都は落ちていたという記録があり
内部争いで自滅したのかなと思っていたんですが
吉見さんが先に入っていたのかと納得しました。

で、吉見さんはそのまんま今度は萩方面から日本海側をぐるっと遠征。
益田さんは尼子攻めに向かう毛利氏と協定を組みます。
・・・ああ、例の元春が勝手に同盟組んで、元就さんに怒られていたアレですね。
「俺は、親父の言うことをきちんと聞いてたんだぞ」
って元春は広家説教状に書いてますけど、
結構勝手なことして怒られてますよね・・・と思います。
元就さんが怒ったのは、先に同盟を組んでいた吉見さんの心情を考えたから。
下手したら後の宇喜多・三村のようになるので、
仇敵同士をそのまんま陣営に組み込むってかなり無謀な事。
元春としては、孤立無援な益田を放っておけなかったんでしょうが・・・。

とはいえ、吉見有利な状態には変わりない。
須佐だけは攻め込まないように頼んでいたんですが
結局占拠され、周防北部は全て吉見氏の領地になりました。
この時期の毛利氏とほぼ同じぐらいの勢力です。
なので吉見さんが戦国大名化することも可能だったんですが
そうはならなかったのが歴史の不思議。
大内の旧領も、大内義隆さんとこの血筋考えると
養女と結婚した隆元よりも、姉と結婚している吉見さんのほうが
よっぽど近いんですが・・・・。

・・・まとめとして「吉見さんTUEEE!」でした。
さすがは益田さんのライバル!
強敵だったんじゃなあと考えを改めました。
それと吉見さんの行動理念は「海に出たい」
吉見さんとこは材木が資源。
昔は切った木を川を使って運搬してましたが、
川はただではありません。
川下で関税掛けられてしまうので、どうしてもいざこざが起きる。
だから海まで領地を広げたかったんじゃなあと思いました。

次に源氏物語「大島本」のお話でした。
京都歴史文化博物館の長村さんのお話でした。
以前、戦国時代展でお邪魔した博物館じゃと聴講してました。
源氏物語の大島本は現在日本で一番よく読まれている写本
・・・センター試験とかに出てくるのもこの大島本が元になってます。
この源氏物語の「大島本」は吉見さんが持っていたようで
注釈もしているんだそうです。
津和野はかなり奥まった場所なのですが
吉見氏の文化の高さを伺えるんだそうです。
何で、吉見さんが持っていたのか、いくつか流路が考えられ
大内さんが飛鳥井家より貰ったものが吉見さんとこに渡ったか
そもそも吉見さんは京都に伝手があったのでそれ経由だったのか。
それが何で佐渡が島に渡ったのかも謎。

ただ、吉見さんの手にあったのは事実で
「吉見正頼」の印が本の裏にでかでかと押されています。
どれぐらい大きいかというと、掌サイズ
しかも篆刻の文字ではなく、漢字そのままなので
恐らく本人手彫りでしょうと仰ってでした。
・・・よっぽど嬉しかったんでしょうか。
俺の物感が半端なく強いです。

正頼さん、基本持ち物には名前を書きたいタイプらしく
自分が彫った琵琶の内側にも名前書いてるし
木彫りの花押印を自ら彫って押しているし、
かなり主張しています。
そのおかげで石見の文化について知れるので、
ありがとう吉見さんでもあるわけですが・・・。

で、グラントワの学芸員さんが吉見さんの文化財について
お話されてでした。
写真が多かったのであまりメモできなかったんですが
雪舟関係のものが吉見さんとこにはないのが印象的でした。
大内さんと仲が良いはずなんですが。

そんな感じでその後はパネルディスカッションでした。
興味深い話も色々とあってあっという間の1時間でした。
秋の展示で今回の話が出てくると思うので
今から楽しみです。


「戦国期伊予河野氏と女性たち」講義感想

岡山県で開催されていた「伊予の戦国時代」で
西尾先生の講演会が開かれていたので聴講してきました。

西尾先生は中世の女性を研究されており,
「戦国期の権力と婚姻」(清文堂出版)などの著書があります。
今回は、その本の中で論じられている伊予河野氏最後の当主
通直(牛福)の母についての話を中心の講演でした。

河野通直(牛福)の母は,宍戸隆家嫡女。
つまりは毛利元就の孫娘。

・・・地元岡山の方々は、え?毛利??って
ざわざわっとされてましたが
私にとっては予想通り。
むしろ新幹線使ってまで聞きにいった甲斐がありました。
ひゃっほいです。
主な話は「五竜嫡女・ゆつき」と同じなので
今回は講演会の感想のみを上げておきます。

まずはざざっと河野氏の略歴を述べられていました。
河野氏は源平合戦では珍しく源氏方についた武将。
西国の多くの武将は平家についたために、没落します。
戦国時代に安芸で活躍している国衆のほとんどは西遷御家人。
・・・・それを考えると平安末期から安土桃山までの500年間
伊予生え抜きの国衆かつ守護にまでなったのは
結構すごいことじゃなあと思います。

で、牛福通直。伊予の最後の当主なのですが
通直は2代前にもおり、判別するために牛福とつけています。
・・・私は今まで(ぎゅうふく)と読むのかと思ってましたが
先生は(うしぶく)って読んでらっしゃいました。
古文書には基本「濁点」がないので、
そう読むのかと今回勉強になりました。

あ、で先生が研究されている「戦国期の婚姻」について
婚姻や養子や人質(証人)は
戦争回避や、立場を有利にするため
何かあった時に殺されるような現在のような意味の人質ではなく
縁を繋ぐ役割を持ち,家中でも大事にされる存在なんじゃと
おっしゃってでした。

・・・うん、毛利家中ならすんなり当てはまるんですが
ここ岡山は宇喜多じゃけぇ、
地元の方はイメージしにくかろうなあと思いました。
娘の嫁ぎ先を族滅しとる宇喜多は多分特殊なパターンじゃろうけど・・・。

まあ、そこはおいといて、
女性は嫁ぎ先でもそこそこ力を持っていたのは色んな例から見てとれます。
御家再興したり、幼い息子の代わりに家政を担っていたり、
アクティブに生きている気がします。
そもそも「女は三歩下がって歩け」のような男尊女卑が強くなったのは
江戸時代、徳川幕府が儒教を主流な学問としてから
一昔前の時代劇の非力なお姫様像は
この儒教が大幅に影響していると考えると
戦国期の女性の生き方は従来イメージされていたのと
少し違うのではないのかなと私も思います。

で、今回のメインは「牛福通直の母」
元就の娘の「しん」の長女
本名は不詳ですが、寅年生まれではないかと仰ってでした。
海を渡って島に嫁ぐ娘のために「しん」が乳母に頼んだ手紙や
「しん」の菩提を娘が高野山で弔った記録などがあるそうです。

・・・お母さんと仲が良かったんじゃなあとしみじみ思いました。
あと隆家父さんの手紙も、娘と孫を心配していて
家族思いな話が多くてほっこりします。
先生のお話、もう少しここ詳しく聞きたかったです。

河野氏最後の当主の母として
秀吉による四国平定の後、
通直亡き後も河野の家臣団を引き連れていた彼女ですが
晩年の消息はあまりはっきりしないんだそうです。
高野山も詣での記録の後、
文禄3年に亡くなったとされるようですが
寛永年間没の記録もあるそうです。

同じように嫁ぎ先で旦那がなくなった次妹(吉川元長室)は
末妹の輝元室の側で暮らしていたようで
お互い便りを交わした記録が残っているそうなのですが
牛福通直の母はそういう記録が無いんだそうです。

・・・姉妹三人じゃと複雑じゃろうなと思います。
特に牛福母以外の妹達は子どもがいない、
あるいは夭折なので話も合わんじゃろうなあと・・・。

あ、でも隆景叔父さんは多分全力で牛福母を支援してると思います。
例えば高野山の通直墓所。
母は逆修墓ですが、母子の墓標は珍しいらしいです。
熊谷聖のすぐ側、入って大きな石塔が2人の墓標。

1440043607261_20190217221352605.jpg

隆景夫妻のと比べると断然大きいです。
このサイズは大体江戸時代の大名家サイズで
現存する墓標で比べると建立当時は最大級のはず。
織田信長よりもはるかに大きく、武田信玄レベルです。
建立した時には伊予河野は滅びており、
国も既にない状態。
費用や段取りは恐らく隆景が援助したのだろうなと思います。

なので、隆景が領内のどこかに所領を与えて
そこで残りの半生をすごしたんじゃろうなあと思います。

あと、河野通直(大弼弾正)と
その娘の手紙のやり取りもほっこりしました。
娘を心配する父の手紙。
息子・晴通との長年の対立を考えると、
いつの世も父親は娘には甘いのだなと。

最後に、
これが正しいというものではなくて一つの考えですと
先生は最初に述べられていました。
でも、中世の女性は史料が少なく
生没年も本名も判明しない方が多いのに
そこから論を導き出すのはとても大変だと思います。
女性だから考えつく観点もあると思うので
先生の今後のご活躍を楽しみにしています。

伊達政宗のファンレター?

文書は家が違うと様式や用語が違い、毛利家文書だけでは偏ってしまうなと
伊達さんとこの文書を見とります。
理由としては、直筆が多く、家臣や家族間のやり取りが多いこともあるんですが
ただ単に、同じ片目なので親近感があるなあというのが一番の理由です。

以下の文書は「市史せんだい」の27巻補276号です。
著作のこともあるので引用はせずに書き下し文と私訳のみ打ちます。

書き下し文
「一昨日は御城に於いて御目に懸り、大慶存じ候。
 以て参るべく宜しく申し候得ども
 寸隙得ず候条、罷り過ぎ候
 何様以て貴面御意得るべく候、恐惶謹言

 9月11日     政宗
            松平陸奥守
 毛利甲斐守様 人々御中 」


私訳
「一昨日は、江戸城にて御目にかかりまして大変喜ばしく思いました。
 宜しくお願いしますとこちらから参って言いたかったのですが
 声をかけるわずかな暇がなく、そのまま立ち去ってしまいました。
 そのようなわけですので、一体どのようにしたら
 貴方様にお会いすることができるでしょうか。
                                     かしこ
        9月11日   政宗
 毛利秀元様 御中」


・・・・。
えええと。
政宗さんが江戸城に出仕した時に、廊下か部屋かで
秀もっちゃんを見かけたから
「わああ!秀元さん!!」
となったけど、声をかけなきゃと思ってたけど
声をかけることができず、2日間悩んだけど
やっぱりお会いしたいから御手紙書きました!!
ってことですね。

・・・何だろう。
・・・・ファンレター??
二日も経って書いてますし、
その間会えたら今度こそと思っていたのに会えず
もうこうなったら手紙を書くしかない!!
と思ったんでしょうな。まーくん。

秀元は孫世代では元就さんに一番よく似とると言われます。
とはいえ、母は村上家出身なので海賊の血が混じっており、
肖像画で見ると秀元はややごつめの元就さんのような感じです。
なので、初対面の人にも好かれる顔相を受け継いだためか、
家光にも気に入られていて、藩翰譜(新井白石による聞き覚書)でも
「僕の友達はお前が一番相応しい!」
とか言われとります。実際かなり贔屓にしていたようで
直筆のあの下手うまいミミズクの絵も貰ってますし
子孫に至っては外様ではまずつけない要職までゲットしてます。

・・・まーくんにも家光さんにも好かれている理由は
ひょっとしたらアレの可能性もありますが
あの2人の趣味はこの際置いときます。

毛利は受けが多いとかそこ言わない。

家光曰く御伽衆に召しだしたのは
「朝鮮の役や関ヶ原など歴戦に参加している侍で
 和歌にもお茶にも精通しているから」

って言ってるので信じてやりましょう。

で、この手紙の差し出しの日付。
藩翰譜(巻8上 毛利)によれば
秀元は元和8(1622)年10月に隠居し、
寛永2(1625)年に家光の御伽衆となります。
市史せんだいの批定は元和7年~8年
政宗の場合は花押で年代を特定することができるので
まず間違いないと思われます。

とすると、まだ家光の御伽衆として活躍する前。
スーパー宰相・益田元祥とすらバトルを行い
本家との仲の悪さは幕末まで尾を引くほどです。
対抗策として幕府とは密な関係を築いてはいますが
秀元の領地である長府はあくまで毛利の領土。
御家騒動を起こせば取りつぶしも十分起こり得るのに
なんで、まーくんは接触を謀ったんじゃろ?

年齢で言えば元和7年時点で
毛利秀元・・・42才
伊達政宗・・・52才
徳川家光・・・18才

あ、あれ?全然年代がかみ合わない。

そもそも政宗は秀元の叔父・小早川秀包と同い年。
秀元は徳川秀忠と同い年なので、家光とは親子ぐらい離れとる。
年齢からしても、領地からしてもまーくんの方が上なのですが
官位でいうと秀元は正三位、政宗は正四位下。
なので、政宗の方が下手に出たのかもしれません。

とりあえず謎ですが、伊達政宗とは仲が良かったらしく
「今日は御茶会どうする?」
とか色々やり取りした書状が残っています。
趣味仲間として声をかけたかったのかもしれません。

・・・そういうことにしておきましょう。

あげときます

今週中にガンバリマス
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トロロヅキ

Author:トロロヅキ
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