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主に毛利元就から浅野長勲までの戦国~幕末までの安芸の歴史について語るサイトです。
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7月5日 つねまる様、お久しぶりです。
      御栄転おめでとうございます!!
      近くに寄りました際には是非伺いに参りたいと思います。
      「織田信長と毛利の入魂まとめ(仮)


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更新記録と雑記
更新記録と雑記その2

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「小早川隆景と乃美宗勝」講義録

6月8日に三原の市民福祉会館であった秋山先生の「小早川隆景と乃美宗勝」の講義録です。

1 小早川隆景と乃美宗勝の概要。

まずは2人の概要からでした。
「もう皆さん詳しく御存知でしょうからわざわざ言うまでもないのですが。」
と先生言われてましたが、まずは隆景の説明からでした。
小早川隆景は(1532~1597)で関ヶ原の3年前に死去しています。
織田信長は(1534~1582)、秀吉は(1537~1598)でほぼ同世代にあたるそうです。
毛利元就の3男で、毛利両川の1人、天正10年以降は豊臣大名として活躍しました。

隆景の家臣団は
   ①竹原小早川や沼田(ぬた)小早川の家臣
   ②毛利からつけられた家臣
   ③新参の家臣
など様々出自から成り立っています。
今回はその筆頭にあげられる乃美宗勝についても詳しく話をされてでした。

乃美宗勝ですが、天文16年、隆景がまだ徳寿丸と名乗っていた時代から仕えています。
忠海(ただのうみ)の賀儀城城主で菩提寺の勝運寺が今でも忠海にあります。

・・・豪雨で被害を受けた地区でもあり、寺社の復興が未だできていません。
何とかできれば良いのですが・・・。

乃美宗勝は浦宗勝とも呼ばれます。
地元の人は「浦」と呼ぶそうですが、史料で出てくるのは「乃美」だそうです。
ですから乃美が呼び名だろうと仰ってでした。
乃美宗勝と隆景は
「主従関係というよりも、二人三脚に近かったのではないか。
 宗勝には様々な顔があり,勇将であり智将であり交渉の名人であった。」
今回の講座はそういうわけで宗勝さんを中心に話が進みました。

今回の講座で使っている史料ですが、
宗勝の家は萩藩主に仕えた次男景継が浦家文書72通を持っており
それは「小早川文書」に附録で載っているんだそうです。
また、「閥閲録」には浦図書家が107通持っているものが載っているそうですが。
この2家は重複する文書もあって単純に足し算した数が書状数になるわけではないようです。
最後に景継の弟・景義が細川家に仕えた関係で「新熊本新史」に
「乃美文書」が収録されており上の2家と1通が重複しているのだそうです。

・・・・「新熊本市史」が時々出てくるので、何でじゃろうと思いよったんですが、
なるほど宗勝さんの子孫がおったけえ何ですね。知らんかったです。

次に乃美氏の複雑な系図のお話がありました。
乃美氏には大きく分けて3系統あるそうです。

まずは初期乃美家(乃美①)
豊栄町乃美(吉田に近い)を本拠にした沼田小早川の庶家で
嘉吉元(1441)年、乃美三郎が存在するのを書状で確認できるのだそうですが
小早川の誰の子から分かれたのかは不明なんだそうです。
後に乃美から浦と名をかえる原因ではないだろうかと仰ってでした。

次に「乃美大方」の実家の乃美家(乃美②)
初期乃美家は文正元(1466)年、乃美員平が総領に反抗し
領地は没収され没落します。
乃美の地は小早川煕平の子、是景に渡され、
彼が乃美を名乗ります。
是景の後、家氏→弘平→隆興と続き、
隆興の妹が毛利元就後室の乃美大方にあたります。

当然、初期乃美家(乃美①)の一族はこの扱いに納得できず、
長亨元(1487)年まで長いこと抵抗したそうです。
沼田小早川家と戦う員平の子「乃美家平」を大内政弘が応援していたようですが
家平は領土復帰することができず、政弘から熊毛80石をもらい、
竹原小早川家に親類扱いをしてもらったそうです。

それから「乃美宗勝」の乃美家(乃美③)
瀬戸(音戸の橋のあたり)に本拠を移した乃美で、
乃美の家が瀬戸の名を持つのはそのためなんだそうです。
宗勝はこの瀬戸の乃美家なので「瀬戸新四郎」と名乗った時期もあるそうです。

以上3つの乃美家があるのですが、
どうして乃美が浦を称するようになったのかは謎に包まれているんだそうです。
因みに、浦というのは三原から竹原までの海沿いの地域をさすんだそうです。
丁度、忠海もそこに含まれ、「浦」を領地にしていたのは間違いないようです。

そして乃美家には系図の謎があります。
1つ目は、宗勝祖父の家氏
彼は後世、寄組浦家の系図(乃美③)では、小早川宣平7男が浦を名乗ったとされ
浦家氏が乃美家の養子になって乃美を継いだとされています。
一方、寄組乃美家の系図(乃美②)では、家氏は是景の息子となっており
宗勝父の賢勝が浦の養子になったとあります。
  
2つの系図に食い違いがあるのですが、
「家氏は浦家出身で乃美を継いだほうが正しいのではないだろうか。」
と先生は仰ってでした。
というのも「氏」は浦家の通り名なんだそうです。
 
2つ目は宗勝の父・賢勝です。
寄組浦家(乃美③)では、賢勝は家氏の息子で浦の養子になっています。
しかし養子に入ったのに、養家の浦ではなく実父の乃美を名乗ったと系図には書いてあります。
「浦ではなく乃美を名乗ったとあるが、これはおかしいのではないか。
 賢勝が浦を相続した事実はないのでは?
 江戸時代に浦家が系図合わせのために作ったのでは?」
と先生仰ってでした。

というのも「浦興氏」という人物が存在するのです。
京都の下級貴族で鋳物師司の真継家文書にでてくる人物で
乃美③の系図には名前が出て来ないんだそうです。
沼田又鶴丸を巡る事件に巻き込まれ浦は隆景に討たれ断絶したのではないか。
「浦」の領地を宗勝が貰っており、そのせいで「浦」と混同したのではないか。
と仰ってでした。

・・・ううん、編諱からすると「興」は大内方のような気がするのですが
途中で尼子に鞍替えする方もいらっしゃったし・・・。

で、「浦」だった乃美③は宗勝の孫・元種から浦に戻っているんだそうです。
萩藩は早くから歴史編纂をしてきており
乃美家は小早川家から分かれているとは伝わっていても
系図で証明できなかったのですが、
先祖(賢勝)を浦の養子にすれば宣平7男まで繋がるので
「浦」と「乃美」の混同が起きたのではないかと仰ってでした。

乃美一族についてもう少し詳しく見ると
  ①家氏
    明応2(1493)年~天文5(1536)まで乃美備前守を名乗る。
    天文12(1543)~備前入道と名乗る
    ※天文11(1542)年段階では賢俊の名で出てくる。
      時期的に、興景の死を悼んで出家したのではないかと仰ってでした。
  ②賢勝
    小太郎
    備前守を名乗るのは父の出家後天文11年以降
    天文22年11月~天文23年9月の吉見攻めに参加し
    天文23年10月23日 大内義長から恩賞
           11月18日 石見での戦いで軍忠状を貰っている
    これを最後に書状から姿が消えているんだそうです。
    石見の戦いが最後の書状ですが、軍忠状が残っているので
    陶に殺されたわけではないだろうと仰ってでした。

  ③宗勝
    賢勝4男(大永7年~天正20年)隆景より6才年上
    幼名は「万菊丸」
      ※閏3月大内義隆の書状に「万菊丸」の名があります。
        閏3月があるのは天文11年。
        また、義隆花押も天文11年頃に使っていたものなので
        元服前の宗勝16歳のものと考えられるんだそうです。
    元服後、新四郎と名乗る。「瀬戸新四郎」の名でも見られる。
    「宗勝」の名は天文15年徳寿丸書状が初見
    天文18年「兵部丞」と官命を名乗る。
    ※備後南部で大内方として戦い、手柄を立てたので
      褒賞として官位が上がった。

[2]隆景の小早川相続
  ※元就が進んで小早川家を継がせたという風潮が強いがそうではない。
    むしろ望んでおらず、本当は嫌だった
    何度か断っているのはポーズともいわれるがそうではない。
    竹原小早川は大内と尼子の最前線であり
    10才になるかならないかの末っ子を送りだしたくはなかった。
    母親はもっと心配していたのでは。
    大内義隆は月山敗退後、弘中を安芸支配のトップとし
    隆景を竹原に送り元就の力を借りようとした。

  〈1〉相続から厳島合戦までの流れ
    天文10年 小早川興景の死
    天文12年 12歳の徳寿丸が竹原小早川相続     
    天文16年 徳寿丸初めての書状
            元服前なのでまだ感状は出せず花押もない
            鞆と手城を根拠とし、神辺の尼子方と戦っていた
            大内より竹原小早川は水軍としての機能を期待されていた。
    天文17年 10月以前  隆景と名乗る。
            神辺の戦いは大内から期待する以上の働きをした
            恩賞は家臣に分け与えられた
            →伝達は乃美宗勝
              恩賞を与えるのは軍事指揮権と同じ。
              宗勝は隆景の代わりを務めていた。
    天文23年 5月12日  防芸引分
            6月19日 吉見後巻として水軍200~300艘で富田若山城を攻撃
                   ※厳島から100kmぐらい。
                     攻撃後すぐに引き返す電撃作戦
            6月22日 晴賢は浅海(在番)に感状を出している。
    
    ※注目すべきは厳島合戦よりも前に富田若山城(周南)を攻めているところです。
      厳島合戦より前に宮島よりも西の海域にも攻撃を加えることはできないのでは?
      長いことそう思われていたので、 6月19日の攻撃は弘治2年以降のものとされてきたそうです。
      一応、天文23年に富田若山城を攻めたというのは「棚守房顕覚書」にも書いてあるのですが、
      房顕の記憶違いではないかと往来思われていたんだそうです。
      おじいちゃんなので記憶違いが時々ある。
      しかし、富田若山城は弘治3年3月8日に落城しており、
      浅海に宛てた陶晴賢感状には天文23年とあることから厳島合戦以前に
      毛利の水軍が富田若山城を攻めたということが証明できるそうです。
      
      富田若山城は陶の水軍基地でもあり、本拠です。
     厳島から100kmぐらい離れており、攻撃の後すぐに引き返しました。
      この電撃戦は宗勝の考えではないかと考えられるそうです。
      というのも弘治2年3月の閥閲録の赤川家の書状に
      富田若山城を海から攻めるべきだと提案があり
      「乃美物語子細候つる」とあることから、
      恐らく宗勝の考えだろうと仰ってでした。
    
    弘治元年 厳島合戦
            宗勝、来島水軍の来援に成功する。
            ※しかし村上武吉は来ていない
    弘治3年 須々万城攻め
           岩国から玖珂まで一気に攻め入れたが須々万城で足止めされる。
           弘治2年4月から攻めるが1年近く落とせなかった。

           3月 3日 落城
            隆元は隆景と乃兵の調略の結果だと述べている。(毛利家文書584)
            降伏した陶家臣の江良弾正忠はその後、山口攻めで大活躍した。
    
           3月 8日 山口進軍
           3月12日 義長、内藤隆世(隆元の義父)と共に長門へ
                  宗勝が追討。
           3月15日 下関・勝山城に義長立て籠るの報を宗勝が届ける。
           3月19日 元就、長府・赤間関の軍勢狼藉禁止を宗勝、志道、福原に命じる。
                  ※宗勝はいち早く赤間関に到着し、海峡を封鎖したのでは?
           4月 2日 内藤隆世自刀
           4月 3日 大内義長自刀
                  大内氏滅亡

・・・海峡封鎖や、海からの電撃作戦。
ちぎれたるもののふのイメージでしたが、
調略もできるしすごい人だったんですね、宗勝。

で、防芸引分で活躍した宗勝ですがその後も水軍の要として活躍します。
永禄年間になると中国地方だけではなく九州や四国とも戦になります。

門司城(古城山)は関門海峡を支配するために必須の城で
大友からしつこく攻められますが、そのたびに押し返しています。
残された感情は偽文書ではないかと疑いたくなるほど宗勝は大活躍をしました。

北九州が少し落ち着きかけた頃、今度は伊予・河野氏から救援依頼を受けます。
この時宗勝は門司城に在番しており、隆景は
「安芸に来て伊予の事を一緒に話したいが、
 あなたが門司から抜けることはできないし
 私からは絶対に来いとは言えない。」

と宗勝が大友の抑止力になっていることが分かります。

永禄7年に立花城を毛利が取ると
大友氏は尼子勝久、大内輝弘を中国地方に送りこみ
尼子・大内の残党軍を挙兵させます。
能島村上もこの時離反し、毛利は危機的状況に陥りますが
宗勝は殿を務め、長門まで無事に戻ることができました。

・・・立花城の戦いでの宗勝の活躍は知っていたのですが
門司城の在番も宗勝だったのですね。知らなかったです。
門司城含め北九州の攻防は本当に激しく、
最後までよく耐えきったなあと思っていたのですが
宗勝の活躍あってのものだったのだなあと改めて思いました。

結びに、
「海軍とは制海権と戦力を上陸させるためにあります。
 アメリカの場合でいえば空母などがそれに当たります。
 乃美の水軍は機動隊であり、
 例えるなら小早川警固打撃軍ではないでしょうか。」
と仰ってでした。

・・・毛利の場合、水軍は吸収合併して数を増やしているのですが
広島湾周辺だけでも川内水軍、白井水軍、野間氏、
多賀谷氏など中小規模の水軍がひしめいており、
それらの水軍は合図も隊形も異なっていたのではと思います。
なので弘治年間~永禄年間のわずか10年では
大軍を動かすよりも自軍の統率力の取れた水軍を使う方が効率が良いと
宗勝も思っていたのかもしれません。

それから最後に
大内が補強のために無理に組ませた隆景&宗勝のコンビが
大内を滅ぼしたのは歴史の皮肉のような気がしますと仰ってでした。
元就さんは隆景を養子に行かせるのは反対だったと伝え話ではきちんと残っています。
書状からも確認でき、よくある「雪合戦」の逸話は後世に作られたのだろうと思うのですが
そう思われるぐらい隆景は大活躍をし、
その活躍を支え続けたのが宗勝なんだなあと思いました。

水軍はやっぱり面白いです。
           
         

「親父の言うことを聞いてくれ」吉川元春の教訓状

毛利元就の書状で一番長いのは俗にいう三子教訓状ですが、
子は親の鏡というか何と言うか元春も隆元も輝元も同様に
息子達に教訓状や諌め文を書き残しています。
中でも元春は父・元就超えの7m近く。

元就さんの手紙は長いとよく言われ、
読む側の息子も大変だったろうとされますが、
その息子達も自分の息子達に同様のことをしています。

なので、大儀いとは思わずに素直に言うことを聞ける方法だと
認識していたのかもしれません。

以下、がんぼったれの広家(元棟)とよく喧嘩している兄の元棟への教訓状を
長兄元資(元長)へ送った手紙。

吉川家文書1221号 240p
書き下し文
元春の状
「もと資御返 申給へ
                もと春
 返す返す、失念も候はんと存じ候。御すいりやう候て御よみ候へく
 此の状御返し候へく候

 少しの儀付きてこれ承る通り、その心得候
 その御事我等彼のものに何共申す儀も之無く候
 御方内々御存知のように、物毎気任に仕候て
 餘公儀も内儀も従者一理罷りなり候やうに候間
 その段然るべからず之通り申す事候、
 
 早17・8に罷りなり時は、
 思案遠慮もこれ有るべきの程候ところ
 心なし様に人も申し沙汰し、
 吉田などにもさよう思し召し候へば
 何を申し候て曲無き候、
 
 我等童部の時は、
 寔主人にもまた親にも日頼をおそろしく存じ
 何事も仰せ候ようにとばかり存じ候
 輝元はさようには仰せ聞き候ましく候
 
 時にはふきようの親にて候へはとて
 申すべきことは縦心にはあたわぬ分別事
 おかしきように候共、
 君臣親子師弟のさほうまで候あひだ、
 さのみあなくり候事は有るまじき事候
 
 この間中も、我等よりてを入り候て
 分別なき者に申し候べき事は一向あるましく候
 彼者我等申し候こと余儀無く存じ
 致し納得申し候は、尤もしかるべく候
 我等目のまへえ罷り出まじく共申し聞かず
 彼者心のまま次第に候
 何となりともなり次第に仕るべくとの我等心事候
 異見立ても申しまじく候と執り置き候
 
 かように存じ候事も、
 子候へはよきようにとこそ存じ候から
 笑止にさの事に付きの申し事候
 少しの事我等何をかとにくみ候はん事もこれ無き候
 その身きすがたわにもうまれつき候へは
 我等心中にはうれしくこそ存じ候。
 その心持悪しき候事は、
 我等せつとく申し候はては、
 他人に申すべき事候か、
 親の目にさへせうしと見候からは
 他人のためにはさそと申し候事も
 かように申し候事を
 我等へみひかみ候て申すようにとりさた候はんと存候
 
 只今社さように申し候共
 元棟為には以て連々当存ずべく候はん思し候
 彼者以て後まで涯分心持直し候はんと申し候ように
 仰せおとされ候て然るべき候
 この間中も、我等存じ候所は一向いたます候て
 なお以ていたつら者になりふし候
 我等せっかん候て置き候ところ
 侍ども存ぜず、まり共けありき候て
 一段心安く身持ちのように心得候かな
 是非に及ばず候と存じ居り候
 
 かように申し聞き候事も、
 彼の身退きよく候ようにと申し事候
 次第別には誰申すべく候やと存じ申しこと候
 以てこの上於いては御方承り候ように
 我等事其の心得なし候へく候
 くわしく申したく候へども
 てふるひ候てかかれす候まま
 さり乍ら次申したくこと共、申し得ず候。吉事。
    
    卯月九日  もと春    
    もと資ら御返し申したまへ」

私訳
元資へ返却するように伝えてください

                       元春」
「返す返す、忘れてはいけないと思ってください。
 私の心中を察して読んでほしいと思います。
 この手紙は私まで返してください。
 
 ちょっとしたことだがこれから言うことをよくよく心得てほしい。
 例の件だが、元棟にも何度もいっているのだが、ちっとも良くならない。
 お前もよく知っているように、あいつは物事を気ままに考えている。
 あげく、公の事も内々の事も、1つの事を知ったら
 それしか基準にせずに判断するようになってしまったが
 そういうことではいけないと私も言っている。

 もう17・8歳になるのだから、
 思案遠慮ということもできるようになるべきであるのに、
 いつまでもそのような具合なので
 先行き心配だと人の噂にもなっている。
 吉田の本家からもそう思われてしまっては、
 いくら親戚だからといっても
 何を言っても、もうどうにもならなくなるだろう。
 
 私が子どもの頃は、
 城主として父親として父・元就のことを畏れていた。
 何事も仰ったようにしなければいけないとばかり思っていた。
 輝元は父・元就の事をその様に思ってはいなかっただろうが。
 
 時には親として力不足だから
 私の言っていることが
 例え心の中では納得できずおかしいと思うこともあるかもしれないが
 主君と家来、親と子、師匠と弟子の作法なのだから
 何を訳のわからないことを言っているのだと
 侮るようなことは決してしてはいけない。

 このように、私がわざわざ手をかけて手紙を送っているのは
 分別のない愚かな者に言いたい事は全くないからで
 お前がそうではないと思っているからなのだ。
 元棟は私から言いたい事を十分にわかったようで
 納得したと言ってきたが当然のことだろう。
 私の目の前に出頭しにくいとかそんなことを
 言ってきても私は聞かない。
 あいつの心に任せることにする。

 どうなろうとなるようにしかならないかもしれないが
 きちんとできるはずだと私は思っている。
 異論は申すべきではないと言い伝えている。
 
 こんなことを言うのもお前が私の子どもだからこそ
 良くなって欲しいと思っているからなのだ。
 だから今回のことを笑止千万と言うことが無いように
 少なくとも私を憎むようなことは無いように。
 
 あなたが五体満足で生まれてきたので
 私は心より嬉しく思っているのだ。
 だから人として間違ったことをすれば
 私はお前たちを説得したりするのだ。
 そんなことを赤の他人にしたりするものだろうか。
 しないということはわかるだろう。
 
 親の目にもおかしいと思うようなことなのだから
 他人からみたらもっと変だと思うようなことも
 このように小言をいったりすることも
 私が貴方を僻んでいるから言っているのだと
 そう受け取らないようにと思っている。
 
 今、社(?)がこんな風に言ってるのも
 元棟の為にも、もっとたくさん戒めなければいけないと思うからなのだ。
 あいつは今ここで身分にあった相応しい心持ちを直さないといけない
 と威しつけられても当然の行いをしている。
 このあいだも、私が知っている所では一向に堪えておらず
 もっといたずら者になっているようだ。
 
 私が説教していたのに、
 侍には相応しくない蹴鞠などもしていたようで
 前よりもいっそう酷く身分のことなど軽く心得ているようだ。
 もうどうにも仕様がないと思っているところだが
 こんなふうに悪いことを色々と聞くが
 あいつ自身が物事を弁えて一歩退くようにと言っている。
 次第に言いたくなくなってくるが、それでも私の他に
 誰があいつに注意をするのかと思うとそうも言ってられない。
 
 そんな状態だから、この上はお前にもあいつに注意をしてほしい。
 わたしには上手く説得する心得がないのだが
 詳しく申したくても、手が震えて書くことができないので
 まだ言いたいことがあってもいうことができない。

  4月9日       元春」

・・・長い
くわしく申度候へ共、てふるひ候てかかれず候まま
とあるので腱鞘炎になったのもむべなるかなです。

現物は何メートルあるのか今度吉川史料館で見てみようと思います。
そしてこんだけ長いのにほとんど話題が次男元棟のこと。
宛名は長男元資なんじゃけど・・・。

元春は元棟(のちの元氏)に手を焼いていたらしく
他にも色々と説教状が残ってます。
まあ、律儀に残している広家も広家ですが・・・。

で、元棟が17・18才ぐらいなので天正4~5年ぐらい。
織田との戦争が始まりそう、あるいは開始しているぐらいの時期です。
この頃は毛利有利で戦況が進んでおり,
天正4年の木津川合戦は大勝利でした。

しかし、そうはいっても戦で大忙し。
長男の元長に次男の教育を頼んだようです。

こんな時期に説教くらうようなことするって
元棟はいったい何をやらかしたんでしょうか・・・・。

元春曰く「物毎気任に仕候」らしいです。
餘公儀も内儀も従者一理に罷成候やうに候間
・・・何とかの一つ覚えという諺がありますが、うん。
他にも
いたずら者になりふし
侍共不存、まり共けありき候て
と元棟の行動を歎いています。

・・・武士はサッカー禁止


広家の場合は蹴鞠の最高位の免状貰ってるので将来役に立ちます。
元棟がしていたということは広家も一緒に兄弟でしていたんでしょうか。

元春は館造りに見られるように伝統的なことにこだわるタイプ。
よって武士らしくあるべきという考えが強かったようです。

ですので元春は自分は至らない親かもしれないが
「君臣親子師弟のさほうにて
説教を聞いて欲しいと説いています。
「我等童部の時は、真に主人にもまた親にも
 日頼をおそろそく存、何事も仰候ようにとはかり候

「わしだって、子どもの頃には父上をおそれていたんだぞ!
 言われたことは何でも言うこと聞かなければと思っていたんだ。」


・・・・・えええ!ほんまに!?

いやいや,熊谷さんとの結婚話とか益田さんの件とか
結構自分勝手に動いて父上から怒られてますよね??

いや、元春的には父上のお役に立つと信じてたのかもしれません。
・・・大分空回りしている感ありますけど。

輝元はさようには被仰聞候ましく候」とあり
同じように父・元就と一緒に暮らしていても
 輝元はそんなふうには思っていないだろう。

とわざわざ書いています。
ようは「昔の父上は厳しかったんだぞ!」と言いたいんだと思います。
逆に言えば、今は孫に優しいおじいちゃんになっている。
ということでしょう。

元棟はあまりおじいちゃん大好きエピソードが残っていないのですが
広家は祖父・元就のことが大好きだったようで、
和歌で祖父を偲んだり,関ヶ原の時には祖父から貰ったお守りを持って行ったりと
おじいちゃんっ子だったようです。
元春もそれがよく分かっていたようで他の説教状にも
事あるごとに父・元就の名を出して説教しています。

あと元春口下手だったんでしょうか。
書状なのに所々話がつながってない感じです。
頭で思いつくままにばばっと書き尽くしている感じで
相当広家のことが心配だったのだなあとわかります。

今回訳しにくかった言葉が
きすかたわ」。
「傷」と「かたわ」という意味であれば
障害という意味なのかと思うのですが
其身きすがたわにもうまれつき候へは
 我等心中にはうれしくこそ存候

否定する言葉が無いので妙なことになります。
なので五体満足という言葉で濁しました。

それから「折檻」
そのままの「折檻」で意味を捉えるとおかしいのです。
我等折檻候て置候
このまま訳せば、
折檻している最中に蹴鞠したということになり
とんでもなく大物になりますが、多分そうではない。
とすると折檻は「きびしく意見すること」(古語辞典より)
の意味のほうで「説教」と訳するほうがよいのかなと思います。

・・とすれば輝元の手紙に出てくる「せっかん」も「説教」
になるのではないかなと思います。
「折檻」は今では叩くなどの体罰を伴うものですが
そもそも体罰するような家だったらこんなに長い手紙なんか書きません。
・・・色んなご家庭を知っているだけにそれは保証できるかと。

力技ではなく言葉で心を動かそうというのは書状の中からも読みとれます。
「我等よりてを入り候て、分別無き者に申し候へき事は一向あるましく候
「こんなふうに手をいっぱいかけているのはどうしてだと思う。
 何を言っても理解できない愚かな子にはこんなことは絶対に言わない。
 できる子だと信じているから言うのだ。
。」

かように存候事も、子候へはよきようにとこそ存じ候から
こんなことを言うのも、あなたが私の子どもだから言うのだよ。

かように申候事を我等へみひかみ候て申しようにとりさた候はんと存候
お前のことが憎くて叱っているわけじゃないんだ。それはわかってくれ

・・・わりと現代でも親が子を叱る時に言うセリフだなあと思います。
元春の親として一生懸命な気持ちがひしひしと伝わってくる書状だなと思います。
しかし、親の心子知らず。
この手紙を以てしても元棟はなかなか改心せず、
すぐ下の弟の広家と喧嘩をしょっちゅうしていました。
困った元春は父・元就のように「三子教訓状」を作ることを思い立ちました。

次・元春の三子教訓状

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

織田家から毛利家への書状まとめ1覧表

四国を攻める前にたちまち織田さんとの関係整理をしておきます。
両者の関係は永禄10年以降のことなので

毛利氏                            織田氏
永禄9年                          永禄9年
 尼子氏降参                          美濃攻め開始
 →よく滅亡とされるが、当主・尼子義久らは降伏し、 
   後に家臣として仕えているので降参。
 安芸・備後・周防・長門・石見
 出雲・伯耆・因幡・隠岐が一応支配下
永禄10年                         永禄10年
 北九州の国人が反・大友を掲げて一斉挙兵、      尾張・美濃2カ国制覇
 伊予に土佐勢が攻め込んできて              北伊勢出兵
 両者から援軍を頼まれた。            
永禄11年                         永禄11年
 伊予出兵                             北伊勢出陣
 北九州支援                            上洛
                                    畿内平定


まず書状を日付と差出人、受取人で並べると
永禄12年(?)
2月13日  信長、織田との取次役になった隆景に挨拶状
        (小早川262号)
3月18日  藤吉郎、信長から毛利氏の取次を任じられたので隆景に挨拶状
        (小早川394号)
元亀2年
4月11日  信長、元就の要請を受け、丹波但馬へ軍を使わすことを隆景へ報告
        (小早川269号)
        秀吉、信長に元就からあった出兵要請を取り次いだことを隆景に報告
        (小早川395号)
        信長、出雲在陣中の元春に挨拶状
        (吉川家76号)
9月17日  信長、元就の死去を聞き、隆景へお悔やみの手紙
        (小早川273号) 
元亀3年
△4月 5日 信長、隆景に鷹の御礼と頼みごと
        (小早川266号)
        信長、元春に宇喜多・浦上との和睦を要請。
        (吉川家77号)
△5月 2日 信長、隆景に鷹の御礼と大友宗麟上洛の許可を求める。
        (小早川270号
天正元年
●4月 5日 信長、隆景に年始の挨拶の返事
        (小早川家267号)
10月12日 信長、朝倉浅井父子を討ち、次は伊勢を攻め落とすことを隆景に報告
        (小早川274号)
        秀吉、隆景に返礼。北庄を手に入れたことを報告
        (小早川403号
11月 7日 秀吉、隆景に上洛を請う?
        (小早川404号)
天正2年
 3月 2日 信長、聖護院下向について感謝の謝辞を輝元、隆景に送る。
        (小早川家御什書写1号)
 5月17日 信長、朝廷に働きかけて東大寺で切り取った蘭奢待の一部を輝元へ贈呈。
        (小早川家御什書写1号
天正3年
○3月30日 信長、隆景に正月の返事
        (小早川265号)
○4月 1日 秀吉、隆景にお年玉の御礼
        (小早川396号)
 8月15日 蘭奢待、厳島神社に奉納。             
天正4年
 1月17日  信長、隆景に昇進祝いの返礼
        (小早川259号)
 1月19日  秀吉、信長昇進祝いを寄越した隆景と輝元へ感謝の手紙を送る
        (小早川393号)
 3月 4日 秀吉、信長昇進祝いを寄越した元春に返信。
        (吉川家562号)
        武井妙云、信長への年始挨拶について御礼と聖護院下向の報せ。
        (吉川家561号)
 3月11日 聖護院、元春へ因幡の尼子騒乱に信長は加わっていないと弁明。
        (吉川家571号)
 3月18日 信長、元春へ正月の挨拶の返礼と入魂を願う。
        (吉川家1470号)
 4月 5日  信長、隆景に元就以来の入魂継続を願う。
        (小早川267号)
        秀吉、隆景に英賀合戦のことは知らないと報告。
        (小早川397号)  

年未詳のもので特定できなかったのは△と○で区分けしました。
暫定ですのでこの後改変する場合があります。
永禄13年は4月までありますし元亀元年がないのも否げなです。
なお、東大史料編纂所には元亀年間と思われる元就宛ての信長書状があり
浅井氏に背後を突かれて憤懣を露わしているものがあるそうですが
未確認のため入れていません。

天正4年4月以降から織田と毛利は断絶。
三木合戦,上月城の戦い,備中表,鳥取城の戦いと続いて行きますが
当初は毛利の方が優勢でした。
焦った信長は和議を結ぼうとしたらしく

天正8年 
5月12日 信長からの和議申し出について安国寺恵瓊の案
              (厳島文書81号)

があります。
これ以降は信長と毛利とのやりとりは絶えますが
天正10年の本能寺以降再び書状のやり取りが始まります。

天正10年
11月朔日 織田信孝、旗印を貸してほしいと元春へ頼む
       (吉川家文書78号
天正11年
2月13日 柴田勝家、援軍を元春に求める手紙
       (吉川家文書1471号
4月26日 秀吉、柴田勝家を倒したと隆景へ報告
       (小早川家文書386号
5月15日 秀吉、備中境目についての案
       (毛利家文書980号)

毛利と秀吉の和睦後、隆景は秀吉の懐刀として五大老にまで上り詰めます。
秀吉は隆景をかなり重用しており,家康に対抗できる人物として高く評価していました。
「隆景と秀吉」参照
・・・の割には面白いくらい秀吉の態度が変わっていくんですが
景様も景様で自由気ままにしているのでお互いさまかもしれません。
有馬温泉湯治紀行
秀吉が止めたのに難工事着手、見事完成
秀頼の守を頼まれたのにしんどいからと隠居・・・。
うん、天下人秀吉に対しても我が道行くときには行ってます。

織豊政権と毛利はよく敵対して描かれますが、
このように織田信長と毛利元就の代から同盟が築かれていました。
残念ながら毛利側から織田側に送った書状は残っていないようですが
他家と織田との同盟を見ると

●武田と織田の同盟が永禄8年~元亀3年
●上杉と織田の同盟が天正2年(?)~天正4年
●浅井と織田の同盟が永禄10年(7・8年説もある)~元亀2年
●毛利と織田の同盟が永禄12年(?)~天正4年

と毛利は割と長く同盟を保っていますし、
天正4年の引き分けでは信長は入魂継続を望んでおり
後の天正8年にも和議を申請するなど
積極的に潰そうという意思はなかったようです。
本能寺の変もあくまで四国出兵の準備のためで
中国地方へは明智光秀を送ることにしましたが
光秀は天正8年に毛利との和議に動いた使者
本当に毛利へ進軍させるつもりだったのか?
色々と考えさせられる所ではあります。

それから隆景と秀吉
2人は入魂が破たんするまで7年間やり取りがありました。
天正10年の備中大返しができたのも
両者ともにある程度気心がしれていたからできたのかもしれません。

「三矢の訓対談」感想

3月25日に三原で開かれた「三矢の訓対談」行ってきました。
会場には30分前に着いたんですが、すでに100人近い列が・・・。
今回は再現料理もあるので再現料理目当てのために端っこ陣取りました。
で、対談の流れですが、
まずコンセプト
「平成28年に三矢の連携協定が締結」今年はその3周年目を記念し、
御三家の御当主の対談、各地域の三家に纏わる郷土芸能、
県立大学によるおもてなし再現料理を企画。
ってことで各市町の関係者と防府・竹原からも来られてました。

ってことで御三家で早速対談。
・・ええと小早川さん
交通科学館で大学生の頃バイトしていたんで
私的には「ロータリーエンジンの方!」
「ル・マン日本初優勝のチームの方!」

っていう刷りこみが大きいです。はい。
ロータリーエンジンとは何かと語ると長いので割愛しますが
広島の自動車会社マツダが開発に力を入れているものです。
詳しくはプロジェクトXを是非ご覧ください。泣けます。

まずは秋山先生からざっとした「三矢の訓」についての解説でした。

○毛利元就が3人の息子を呼んで矢を折らせたというのは史実ではない
 兄弟の大切さを説いたのは事実
 それが「三子教訓状」と言われるもので、国の重要文化財。
○防府の毛利博物館に現在はある。
 2m80cmもの長さの手紙で
 元就の孫、元長が写したものも残っている。
 それには弘治3年と書かれてあり、元就61才の時の手紙。
○三本の矢の話は世界中に色々とある。
○「三子教訓状」毛利家文書450号の
  第3条 3兄弟の仲が疎遠になっては滅びる
  第4条 隆元は弟を、弟たちは毛利をもりたてていくこと
  とあり、3兄弟に仲良くすることを説いている。

・・・うん、「三本の矢」は寓話ですが「三子教訓状」は事実。

ここで司会の方が話を振りました。
「「三本の矢」や「三子教訓状」など聞いたことはありますか」
毛利さん
「小さい時から知っていますね。」

吉川さん
「元長が写したのは元春の命で写したもので
 吉川家は教訓状の精神を継ぎ
 協力して毛利を守ることを継承してきました。
 (関ヶ原の戦いの)広家の申し開き状に元就公の訓えが出てきています。
 その中に、5~10カ国を取ったのは実力ではなく運だから
 天下を狙ってはいけないと父・元春が家中にいつも言い聞かせていた。
  
 明治維新でも、経幹は第一次長州戦争(四境戦争)の時には
 毛利重臣たちは主戦論を唱えていたが、
 広家のことを引き出し何度も和睦を主張しました。
 敬親公は後ろ盾してくれて和睦となりました。
 西郷なども協力してくれました。
 
 明治25年には家憲を制定しました。
 メインのものは元範(毛利)小早川も共に助け合うこととあり
 「親族共済法」が大事にされてきました。

 戦前までは「三矢教訓状」の訓えが守られており
 300年は生きていました。」

三原副市長
「家が続くのは子孫につたえていくことが大事ですね。」

秋山先生
「戦国時代、親子兄弟と争うのは当たり前でした。
 武田も上杉もそうでした。
 毛利は元就以降家督争いがなくなりました。
 元就は(三子教訓状の精神が)孫の代まで伝われば良いが・・・
 と思っていたが300年に渡ってその精神が受け継がれていくのは
 稀有なことだと思います。」

安芸高田市長
「安芸高田市民にとって「百万一心」「三子教訓状」は
 広しく知られたことです。
 我々市民もその精神をいかしていきたいです。」

北広島町長
「吉川墓前祭が64回目を迎え
 鳥取、石見、相模、岩国、北広の関係者が集まって行っています。
 9つの史跡が国史跡になり、吉川に関するものが多いです。
 今回は羽衣石城を攻めた花笠踊りを後で披露します。」

三原副市長
「三原も6月に(隆景の)墓前祭と(隆景に因んだ)やっさ踊りがあります。」

安芸高田市長
「アベノミクスの時に首相が3本の矢を理念にしたので
 その記念に三本の矢を送りました。」

小早川家
「隆景の息子はいないので秀秋が引き取りました。
 秀秋は21才でなくなり断絶しました。
 今の小早川は明治に毛利から養子を迎えています。
 ですので小早川だというと
 秀秋と思われる方が多いようですが
 私は隆景公のほうが思い浮かびます。

 「プレジデント」で石田三成のご子孫と対談しました。
 その時に
 「秀秋は立派な武将だったと思います。
  裏切り者といつまでも言われることは可哀想だ。」

 と言ってくれました。今では親友でよく飲みに行っています。

 毛利から養子を貰った小早川家ですが元範3男は早世し、
 4男が引き継ぐのですが男子がいなかったので
 再び毛利から養子を貰いました。
 ですので毛利家当主の元あつさんとは従兄弟になります。

 明治になって再興した家なので家訓はないのですが
 トップ自分1人が考えるのではなく多くの人で考えるようにしています。
 3代目RXー7の開発や、ル・マンは優勝の1年前から携わっていました。
 その時にチームのメンバーを信頼すること
 目標を明確にする大切さ
を感じました。
 90年はル・マンにひたすら挑戦しましたが惨敗。
 最後の1回になった時にレーシングチームとメーカーが
 相互信頼するようになり、91年の24時間耐久で優勝できました。」

三原副市長
「昨年7月の豪雨災害では市内に多くの被害が出ました。
 その時にボランティアの方が多く駆け付けて下さり
 協力することの大切さを実感しました。」

●歴史について
毛利さん
「報恩会の会長として毛利博物館の運営に携わっています。
 大河『毛利元就』の時にはシンガポールにいたので
 ビデオで見ていました。
 『花燃ゆ』の時にも取材が2・3回来られました。
 (毛利の名前が)全国レベルでその時(大河で)広がりました。
 博物館にも10~20代の人が増えました。
 若い人たちの関心が高まっているのかもしれません。」

吉川さん
「吉川史料館の館長をしています。
 錦帯橋の麓にあるのですが、(先ほど仰られたように)
 若い入館者が増えています。特に女性が増えています。
 実に熱心で、文章を読み下し文にしたのも熱心に読んでらっしゃいます。
 読むのに1つ30分かかるのですが。
 ゲームの影響が大きいのでしょうか。
 元春は猛将のイメージが強く、64戦22引き分け
 隆景は智将、頭がいいというイメージでしょうか。
 
 広家のテーマを今していますが、
 (広家以外にも)元春の尼子攻め、永禄5~6年中の
 「太平記」写本も展示しています。
 元春は文武両道の武将です。

 広家が輝元に出した案文も展示しています。
 読めば「関ヶ原」のイメージが変わってくると思います。
 秀秋はあそこ(南宮山)に陣を置いた時点で東軍だったと言われたが
 小早川に戦う意思はなかったと書いてあります。」

小早川さん
「今回は兜と鎧を展示しています。
 車一筋の人生なので、歴史はあまり詳しくないのですが
 450周で昨年から勉強しだしました。
 小早川は戦時中に蔵が全焼してしまい
 その焼け残った兜と鎧なのですが
 我が家で持っていてもとなりまして今回三原に寄付しました。
 
 石田さんとは雑誌の取材が縁で今は飲みにも行く仲なのですが
 石田さんと明智さん水野さん長曽我部さんと会食したり、
 因島村上さんにも知りあえました。
 細川ガラシャさんの末裔さんとも対談しました。
 
 雑誌の取材を機に歴史対談が増えました。
 もっと歴史を知らないといけないと勉強中です。」

安芸高田市長
「『一心劇』を小学校でしています。
 毛利氏の訓話を伝えています。
 大河ドラマで困ったのは中世のものはあるのですが
 形あるものは残っていない。
 勝手に作るわけにはいけないし、となった時に
 市民が語り部として訓えを伝えていくことにしました。
 
 今後は山を整備するので見に来て欲しいです。
 中世と自然を大事にしながらいきたいです。
 語って行くことを続けていきたいと思います。」

●三原の今後
小早川家
「今後も協力していきたいです。
 三原を中心に史跡を巡れるバスツアーを作ったり
 観光を外国の人も分かりやすくすること
が大切かもしれません。
 外国語パンフレットなどもあればよいと思います。」

三原副市長
「当主のご要望なので検討させて頂きます」

毛利家
「吉川さんと小早川さんがよくしゃべるのであまり語らないようにしています。
 当館は防府にありますが、墓前祭には出されて頂いています。
 
 (他との協力)萩では薩長の剣道トーナメントが開かれています。
 高杉晋作杯などもあります。観光対策もしています。
 山口は商工会を中心にパネルディスカッションを
 徳川と島津と行いました。
 
 (今後の要望)専門家の講演も聞きたいですね。」
 三市(三原・北広島・安芸高田)で連携されていますが
 防府もいれて欲しいです。」

感想としては
吉川さんは流石館長だけあって
歴史関係のことをすごく詳しくお話して下さりました。
講座があるのならば聴講させて頂きたいぐらいでした。
小早川さんは、モノ作り一筋、交友関係の広さと
血は遠くとも隆景さんによく似ているなあと思いました。
石田三成さんのご子孫のお言葉、心に響きました。
我々安芸の民だと小早川=隆景=三兄弟か両川ですが
他所だと小早川=秀秋=裏切りのイメージなんだなあと。
毛利さんは何と言うか輝元さんらしさがあふれてました。
血筋で言えば小早川さんとそう変わらんのに不思議でした。

●饗応食の試食
秋山先生
「戦国時代、相談事は多くの場合食事中にされました。
 永禄4年、新高山城では9日間、隆景は父の元就と
 兄の隆元を饗応しています。」

三原副市長
「復元のバックアップをしました。
 小早川氏(に関連するもの)は観光資源ですので。」

安芸高田市長
「大河の時にはおもてなしで「元就弁当」を再現しました。
 元就さんの好物を中心に作りました。
 資料などを参考にレベルを上げました。」

杉山先生
「今回は3市に実際に足を運び、食材を考えました。
 学会で関係研究者と話し合いました。
 史料に書いてあることを中心に復元しています。
 今回は学生が考え、復元が論理的かどうかを中心に
 まとめています。」

学生さんの発表
「お湯漬けは、だしは当時のものを再現しました。
 ふくめだいはでんぶ、
 雲月羹は、たんぽぽと白魚を寒天で固めました。
 鳥は、ゆずみそをつけています。
 あはひは、あわびの白あえです。

 今回のは山口御下向、身自鏡を参考にしています。
 文献をみると鶴は最高のものだったようです。
 白鳥に関する書状もあり、
 「元春に送ってもらった白鳥がおいしかった。」
 と書いてありました。
 獣はカワウソだけです。
 五食は五色に関係し、春は青きすっぱきこととあります。
 ですので雲月羹は青菜をいれました。
 鳥は調理方法や種類は書いていません。
 羹は魚や菜を寒天で固めたもの。
 時代は違いますが作り方を書いてあるものがあったので
 作り方はわかりました。」
●試食して
毛利家
「・・・。この間キング提督が三田尻に来た時の饗応食のはもうちょっと
 ステーキがあったりと豪華だったんですが。」

吉川家
「英長戦争の和解のものが豪勢なのは時代がかなり違いますからね。
 大内(と藩では)レベルが違いますよ。
 江戸の末期と中世のものですし。
 神明市(三原の道の駅)で提供しては如何でしょう。」

三原副市長
「はい。いずれは神明市で提供するつもりです。」

小早川家
「昔は粗食だったと思います。
 味は薄いですが、口当たりはいいですね。
 (もう少し味を濃いくして)日本人や外国人の口に合うものにしては如何でしょう。
 食を三市で活用して饗応しては如何でしょうか。」
 
と言う感じで、え、味薄い?と驚かれてらっしゃったんですが
後で試食するとそんなでもなかったです。
山口で食べた饗応食よりは味がしっかりしていました。
普通においしかったです
限定100食なのでわざと評価を辛口にされたのかな?と。

DSC_3920.jpg

1人1品だけだったので友と分担して3種類集めました。
雲月羹とあはひ、おいしかったです。
鮑入りの白あえとか贅沢じゃなあと食べました。
私は家でも薄味なのですが、薄くても平気なのですが
周りの友達もおいしいと言っていたので
多分普通においしいです。
三原神明市で提供されるのを楽しみに待ってます。

この後、
三原は「やっさ踊り」
北広島は「本地の花笠踊り」
DSC_3930.jpg
安芸高田は神楽の「元就公」
備後じゃけえあんまり神楽見たことないのかなあと拍手してて思いました。
くるくる回るところとかで拍手送っている人が少なくて・・・。
あ、あと、今回頑張って衣装の早替え撮れました!
元就さんと元春と尼子の晴久さんと尾張守のくるくる演武。
DSC_3937.jpg

の演目がありました。

・・・衝撃だったのが「本地の花笠踊り
え?え?銭太鼓って太鼓のばちじゃったん??
うちらそれが太鼓で運動会の時には
小石の散らばるグランドで正座して演奏したよ??
え?立って太鼓叩くん?嘘じゃろう!!

と衝撃でした。
周りの友達は理解してくれなかったんですが
職場の友達は同じように驚いてくれました。
ていうかそもそも銭太鼓を知らんかった・・・同じ県内なのに。

あと、紹介も「伝統の女装芸です。」という説明も衝撃でした。
女装。うん、いや女装といったら女装じゃけど。
まあ、どう考えても化粧しても女っぽくないから
顔を隠すのに笠をかぶったけど
それでもちょっとどうかなと思ったから
あの周りの花をつけたわけじゃろうし
そこまでして女装したかったのか吉川軍となりますが。
あ、でもおっちゃんが踊っているとは思えないほど
綺麗な踊りでした。
神楽も「姫」があるけえ慣れとるんかなあと。

同じ県内でも民俗的な芸能も全然違うなあと思います。
それは気候や暮らしから来る差であり、
その差を踏まえた上で同じ県民として
三矢の訓えは今も守るべきことだなと思いました。
プロフィール

トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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