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主に毛利元就から浅野長勲までの戦国~幕末までの安芸の歴史について語るサイトです。
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6月29日 ようやく元気になりました。休校中は自律神経失調症で体調を崩しておりました。
       学校に行かないことがストレスだったようです・・・。

       ・ご指摘ありがとうございました。
       ・井上様返信いたしました。

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更新記録と雑記
更新記録と雑記その2

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明智光秀「宮島参り?御年を考えてください!御年を!」

厳島神社の本殿は戦国時代に建てかえられたもので、回廊の床板などもその当時のものが今でも使われています。

・・・じゃけぇ、板の痛むやたら尖ったヒールとかコロコロとか見るとおおふとなるんじゃけど。

本殿は元就さんが汚したお詫びにと新築を始めたんですが完成した時には既に亡くなっており、孫の輝元の時に完成します。その時に京都から神社のトップ吉田家を迎えて式典を行うことになりました。

ところがすんなりとはいかなかったようで、吉田兼見の日記、「兼見卿記」には以下のようなやりとりがあったと記述されています。

兼見卿記(元亀2年11月28日)
書き下し文
「芸州厳島社の造営の儀、森方より申しつき、今度首尾也。
 然らば正迁宮の事、森方より家君へ申し上げ了ぬ。
 御老身遼遼の海陸御労煩の宗仰ぐ也
 細兵・三太・明十来り、今般の御下向無用なり
 近日以外の老衰なり、旁各達して異見せられ了ぬ、
 予尤も同心なり。
 
 然れども、連々申し上ぐるの條既に許容あり
 去る月にて以来御用意の旨也、
 各々是非に及ばず、今朝御発足也、
 妙心院、舜侍者、兵庫助、右近允允、甚九郎、福松(加茂のもの也)
 中間孫六、孫四郎、與四郎、人夫一人、
 東寺邊り至り、各罷り出で、御暇乞い申し罷り帰り了ぬ。」


私訳
「芸州、厳島神社の造営のことについて
 毛利方より報告があり、もう少しすれば完成するとあった。
 よって正しく遷宮を行いたいと毛利方より言ってきていると
 父・兼右へ伝えた。
 「御年を召されているのだから、遠路はるばる海を渡り、
  陸を歩くのはお体に響きますよ。」
 ということを言って私は父に止めるように判断を仰いだ。
 
 細川藤孝、三淵藤秀、明智十兵衛が来て
 「今回の御下向は兼右様が行く必要はありません。
  最近は思っているよりも御年のせいで弱っていられるではありませんか。」
 と説得した。
 
 みんな父に厳島行きを取りやめるように言いに来た。
 私も、もちろん彼らの意見に大賛成である。
 
 けれども、父は、
 「既に行くと言ってしまっているのだし、
  先月から用意もしてきたんだ。」
 と言い張った。
 
 結局、父を説得することはできず、
 父は今朝安芸に向かって出発してしまった。
 父に従ってついていく者たちは妙心院文慶(?)、梵舜侍者、
 鈴鹿右正、安田右宗、甚九郎、福松(これは加茂神社のもの)
 中間の孫六・孫四郎・與四郎と人夫一人である。
 
 東寺あたりまで見送り、そこで暇乞いを告げて家に帰った。」




「父さん!行かないで!」
どこかで見たような親子間のやりとり。

そして、父親が行く言ってきかないときは、周りの人を巻き込んで何とか意見を変えようとする息子・・・。厳島合戦前の隆元も同じような手段で父・元就の石見行きを引き留めようと必死だったなと思いだしました。

文中の「もり」ですが、「お湯殿日記」や「女房奉書」などには毛利氏のことを「もり」と記述しています。毛利家側の記録集の「もりのしげり」も「もり」なので当時は「森」も「毛利」もよく似た発音だったのかもしれません。

で、ひっかかるのが
「御老身遼遼海陸御労煩之旨仰也」
「仰」は古文書では「仰す」で出てくることが多いです。
尊敬語なので本来、父の兼石が「仰せ」になったと訳すべきなのですがそうすると
「もう年で遠い安芸まで船や馬で行くのは大変だな。」
と兼右がつぶやいたことになるのですが、その後に麒麟トリオが来て
「年が年ですし行く必要はないですよ。」
と言ったり、兼見が
「私も彼らに大賛成!」
という流れになりそうにないなと思いました。何より「異見」とあるので父・兼右と兼見の意見が違うはず。なので「仰」はこの場合「仰ぎ」ではないかと訳しています。

因みに「麒麟が来る」でお馴染みの細川・三淵・明智の三人衆が当たり前のようにトリオ扱いされています。
明智光秀の前半生はよくわかっていないのですが、この資料から元亀2年は京都にいて将軍側近の細川藤孝の側にいたことがわかります。そしてはっきりと「近日以外之老衰也。」と言い切っている・・・。

ドラマのせいか、これって明智光秀が言ってそうだと思ってしまいました。
そして始まりそうな十兵衛おつかいクエスト。
「旅立った父・兼右の後をこっそりつけてほしい。」
そして始まる中国地方編!
・・・なんてことはないんでしょうけど。

因みにご老体と心配されている吉田兼右は永生13年生まれなので、
この時55歳。
・・・?あれ50代ってそんなにご老体じゃないじゃろ??
毛利家では60代や70代は結構当たり前のようにいますし、兼右よりも9つ上で、永正4年生まれの熊谷信直なんて、まだまだばりばりの現役で戦場駆け巡っとります。

毛利のご長寿一団に触発されたのか、
安芸に来た吉田兼右は元亀3年の春まで約半年も滞在し、宮島から離れた吉田まで来て、雪の中で「源氏物語」の講師を務めたりと、「御老身」「近日以外之老衰」が嘘のように活動しています。

「人生50年」

と戦国時代は言われていたようですが、毛利で見ていると60代だろうと70代だろうと、豊臣政権に下るまでは生涯現役が当たり前だったので、そんなわけはないだろうと思っていたんですが、兼見の日記を見る限り、50代は老境という認識が当たり前なのだなと思いました。

小早川隆景の誕生日

戦国武将の場合は多く、生没年月日が不明なことが多いです。
生没年まではわかっていても、誕生日がはっきりしていることは少ないです。
毛利家の場合、なぜか元就さんだけが3月14日とされますが
その根拠にあたるものは不明です。
長生きをしたので長寿の祝いは何度か催しており
その際の記録によるものなのかもしれませんが。

ただ、三男隆景だけはおよその検討をつけることができます。
天文2年、隆景が生まれたときに毛利元就は清神社を改修しました。
その時に棟上げをした際に、札を残しています。
書き下し文
「棟上上葺を奉る その意趣は 
 一天泰平 四海安全 奉じるため
 殊には護持大旦那丁巳歳 
 壽福増長 如意吉祥
 並びに女大施主己未歳
 息災延命 恒受恒楽 所生愛子等 所願成就
 別には社頭安穏 威光自在 当所豊穣故也而巳
 天文二年 癸巳 大工藤原朝臣 六月吉日」

私訳
「清神社の瓦ぶきを奉ります。
 その意趣は、天下泰平、四海安全を奉じるためですが
 特に今回大旦那として多くの喜捨をなされた
 丁巳(ひのとみ)生まれの毛利元就の
 幸せがます増すこと 吉祥が意のままにあることを護持すること
 同じく女大施主である己未(つちのとび)生まれの
 無事と命が長らえること その人生が常に楽しみを受けるものであること
 愛し子が我等の所に生まれた事など
 諸々の祈願が成就するよう祈るものである。

 これも偏にこのお社が安穏と御威光をもち
 この吉田の地が豊穣であるが故である。

 天文二年 癸巳 大工藤原朝臣 六月吉日」


戦国武将の生年はこのように神社の棟札や祈祷書の類から分かります。
例えば、丁巳は1497年なので毛利元就は明応6年生まれ
女大施主とあるのはこの場合、元就さんの正室妙玖
己未は1499年なので明応8年生まれ。

この棟札は天文2年(1533)なので、
毛利元就、36歳、その妻34歳
普通、神社は国家安泰などの国規模の大きな願い事をするのですが
時代が下ると地元の有力者と結びつき、神前の願いも個人的なものになっていきます。
ただ、棟札に名前が載るのは当主のみのことが多いです。
時々熱心な女性がいる場合は女大施主として残りますが
清神社の棟札で女性の祈願をしているのはこれだけ。
奥さんを大事にしていた隆元の時の棟札にも
女大施主のことはありません。

女大施主に願う一番のことが「息災延命」ということは
逆に言えば「息災延命」を願わなければいけない危ぶまれる状況があったと言えます。
この棟札より前のものは「幸松 息災延命」「弘元 息災延命」とあり、
いずれも病弱で早くになくなった当主の延命祈願でした。
妙玖さんはこの後天文14年まで生きますので病弱であったというよりも
「所生愛子」とあることから、生命の危機が出産がらみであったと考えられます。

因みに「所生愛子」とあるのは天文2年生まれの徳寿丸(後の隆景)のこと。
「所生」とは「生まれる所」という意味ですし、女大施主の願かけが「安産」ではないことから
この棟札が奉じられた6月吉日までには隆景は生まれていたことになり、
6月か5月頃の誕生ではないかと考えられます。

因みに「愛」という字を現代のような意味で使うようになったのは明治時代、
外国から「LOVE」という概念が入ってきてから使われるようになったと言われます。
例えば有名な「月がきれいですね。」は「Ⅰlove you」を
当時の日本人が理解できるようにした名訳と言われています。
それまでは「愛」という言葉は仏教用語の中で執着のように人間の業の一つとして
あまり良い意味では使われていなかったとされます。
実際、文書を読んでいて「愛」の字は見たことありません。
しかし、「愛子」という意味は「愛しい子ども」以外には意味が取れませんので
戦国時代からも「愛」という字は現代と同じ意味でも使われていたのではないか。
と思いました。

松永久秀書状

吉川家文書(家分け9の2)

1483号(デジタルp431)
書き下し文
「當春の御吉兆、重畳蓋し期あるべからず候
 今度敵出張の處に仍って、信長則ち馳せ参られ候
 境筋、濃州へ罷り下り候の条、同道しめ候
 然るに早各々懸け合い、一戦及び、切り崩し
 数千人討ち捕らえられ、相果て候
 公方様相叶えられ天道奇特にかくの如くに候
 はたまた豊筑の様体如何候や
 承りたく候定めてご存分如く
 仰せつけられるべくこと察しめ候
 織田信長別して公儀の段仰せられる通り
 御馳走おいては。天下ご静謐なすべく候
 委細日乗承認演説なすべく候、恐々謹言

 正月十九日 久秀
 吉川駿河守殿 
        御宿所」

私訳
「今年も良い年となりそうな気がするような春を迎え、
 満ち足りた年になるべきであると強く思っています。
 
 この度、敵が出陣してきましたので
 信長は即座に駆け付けて参りました。
 堺の衆らは、美濃につくことになったので、私も一緒に行きました。

 そうすると、早々と敵が攻めかかってきましたので
 一戦を交え、敵を切り崩し、数千人を討ち捕らえられ、
 敵は相果てました。

 公方様の願いが叶えられましたこと
 天道奇特とはこのことにございましょう。
 
 さてさて、大友と戦っている豊前や筑前の様子は如何でしょうか?
 詳しいことを教えて欲しいです。
 きっとお望みのように仰せつけることができますでしょう。
 織田信長はとくに公儀のことは公方様が仰られるように
 動かれますので、天下は治まるでしょう。
 詳しいことは日乗が承認演説をしますので
 これにて失礼いたします。

 正月19日 松永久秀
 吉川元春殿  御宿所」


年未詳の手紙ですが、
 ①松永久秀が織田信長の陣営にいた時期
 ②大友と毛利が戦っていた時期
の2つから推定できそうです。

まず、①松永久秀が織田信長の陣営にいた時期ですが、
松永久秀が信長と接触したの永禄11(1568)年9月の信長の上洛とされています。
そして袂を分かったのが元亀3(1572)年です。

永禄12(1569)年の正月
 5日に三好三人衆が足利義昭の御所を取り囲み、
 10日に信長が上洛。
 なので正月早々穏やかな様子ではないので違います。

永禄13年(1570)の正月
 前の年の10月17日から信長は義昭と対立しており、
 正月の23日に義昭に条書を送って
 義昭の下知や恩賞付与を規制するなど、
 義昭との仲が平穏無事ではありませんでした。

元亀2(1571)年の正月
 前年の元亀元年から始まった朝倉と織田の戦いが
 12月に和議を結び、ほっと一息ついたところです。
 
元亀3(1572)年の正月
 正月早々から近江の六角承偵が信長で戦。

正月に美濃へ行く途中で敵と遭遇して一戦交えているのは元亀3年。
とすると元亀3年の可能性が高いと思われます。

次に、大友と毛利が戦をしていた時期です。
永禄2(1559)年から北九州をめぐって争っていたのですが
上記から永禄12年~ 元亀3年までの間に絞ります。

永禄12年
 5月18日  立花山城の戦い
 6月     山中鹿之助の乱勃発
 9月     本太城の戦い(阿波三好VS村上武吉)
 8月     毛利元就、織田信長へ山陰への援軍要請
10月11日 大内輝弘の乱勃発
10月25日 大内輝弘自害、乱終結

永禄13年(元亀元年)
 正月5日   輝元、出雲へ出向
 6月頃    尼子方の城はほぼ全て落城
 9月頃    元就が体調を崩し、輝元と隆景は吉田へ帰還

元亀2年
 正月    村上氏離反
 8月     山中鹿之助、吉川元春に降参

元亀3年
 毛利・大友・浦上に和睦周旋を義昭と信長呼びかける。

途中に山中鹿之助や大内輝弘、浦上氏と三好氏を入れましたが
いずれも大友氏の後方かく乱に乗っかった人物なので対大友に
入れています。

毛利と大友は何度か和睦の話が出ており、
いずれも足利義昭から斡旋されてきました。
しかしながら筑前の国人達の多くは毛利氏を頼みに大友氏と戦い、
毛利氏も国人衆の安全や関門海峡の守りのために手を抜くことはできません。
なので、永禄年間は大友氏と毛利氏は常に対立している状態なので
この松永書状はどの年でもあり得るかと思います。

ただ、元亀3年は義昭と信長により和睦が成り立ちそうな雰囲気になっていたので
この手紙は和睦交渉の一環の可能性があります。

最後に、松永久秀を取り巻く状況からも元亀3年の可能性が高そうです。
基本、織田と毛利の手紙のやり取りは羽柴(木下)秀吉と小早川隆景です。
しかしながら、今回、松永久秀が織田方の動きと将軍家の動きを手紙で書いています。
松永久秀は元亀3年から信長と距離を置くようになりました。
信長と対抗できる人物を探すために毛利に手紙を出し、
幕府の重要人物として様子を伺ったのかもしれません。

榎本武揚のご先祖?安那郡の細川氏①

幕末、幕府軍として最後の五稜郭の戦いまで戦い抜いた榎本武陽
明治維新の後、赦されて政府の中心的人物となりました。
彼のお父さんは箱田良助といい、備後安那郡箱田村の出身でした。
家は代々、箱田村の庄屋で今でもお屋敷が残っています。
箱田良助は兄と共に伊能忠敬の弟子となり、
天文方へ出仕、日本地図製作に携わります。

詳細は「かさおか遊歩」さんをご覧ください

で、この箱田さん、箱田ではなく細川が実名。
ひょっとして毛利家臣になった備中細川家の流れではないかなあと常々思っていました。
というのも、備中細川は浅口の鴨山城主で神辺とかなり距離が近いのです。
徳川の謀略に負けて防長封じにあった際に多くの家は次男以下が残って帰農、
家を継ぐものは山口へ移りました。
県北では
「いつか幕府を倒す時がきたら一緒に戦おう。」
と言って今生の別れを惜しんだと言い伝えられています。
なので、もし箱田良助がそのまま備後に残っていたら
榎本武揚も長州側だったんじゃないかなととりとめもないことを考えてたのです。

で、県史中世資料編Ⅴを冬休みに読んでいた時に面白い書状を見つけました。
書き下し文
「足利義政袖判宛行状

 備後国安那郡 山名兵部少輔同親類被官以下跡所
 細川下野守教春宛行なり

 応仁2年 5月6日」


応仁・文明の乱と呼ばれる大規模な戦が始まったのは応仁元年。
なのですでに戦が始まっています。
山名兵部少輔は伯耆・備前守護だった山名教之
山名氏は6分の1衆として強力な力を持っており
西軍の主力として東軍の細川と激しく対立します。

この書状は細川から見れば敵の山名教之の親類衆の家来が戦死したので
持っていた土地「跡所」が細川下野守教春に上げますよという書状です。
教春は備中浅口と伊予宇摩の分郡守護を務めており
備後はすぐ隣り町。
備後は敵の山名氏が守護なので橋頭保としても使えますし
海沿いは港町もあるので交易の権限もゲットできる
二重においしい場所です。

因みに、備中細川氏は宗家の吉兆家に何度か養子を出すなど
中央と密接に結びついていました。
なのでおいしい報償ももらいやすかったのかもしれません。
しかし次第に没落し、伊予に逃れていた一派が再び備中細川氏として
浅口に戻りますが、その後は毛利氏の家臣として秀吉と戦い
長門下関の長府藩家老として代々続いていきます。

で、次に備後安那郡の位置を確認です。
現在でいう神辺や加茂、駅家の辺りでした。
明治の時点では備後福山藩27村と豊前中津藩の飛び領であった2村を合わせて
安那郡としていますが、恐らく安那郡自体は戦国時代から大きさを変えていないと思われます。
この備後福山藩27村の中に箱田村が含まれます。

安芸や備後で庄屋や島名主をしているのは大体が元国人衆です。
没落しない限り自分の領地をそのままもっている場合が多いです。

・・・と考えると、榎本武揚はこの備中細川氏の末裔である可能性が
かなり濃いいのではないかなと思いました。
推論なのでまだまだ今後も研究の余地があると思いますので
調べていきたいと思います。

すみません吉兆ではなく京兆でした。ご指摘ありがとうございます。
プロフィール

トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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