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主に毛利元就から浅野長勲までの戦国~幕末までの安芸の歴史について語るサイトです。
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8月20日「石見銀山展感想」

8月20日  11、14、16、19日拍手ありがとうございます。
8月 8日  24・25・27・31・8月2・3・4・5・6日拍手ありがとうございます。
        ぼちぼちガンバリマス。
        匿名様、コメントありがとうございます。返信いたしました。
        「「新出・隆景書状と厳島合戦前夜の山里合戦」感想」
7月23日  9・10・12・17・20・22日拍手ありがとうございます。
        アカデミーは魔窟ですね・・・。
        隆景の全てを手に入れたら諭吉先生がふっとびかけたので
        泣く泣く本を一冊諦めました・・・。
        お父さんもお兄さんも定価だったのに、8000円・・・。
        さすが景様・・・・。人気でいらっしゃる(涙)
「父・毛利元就危篤につき」

7月 8日  1・2・3・4・5・6日拍手ありがとうございます。
         1103和様、Yutaka様、コメントありがとうございました。
         拍手の所に返信しています。
7月 1日  6月23、24、25、26、27、28、29、30日拍手ありがとうございます。
        ぼちぼち書きあげます。
        「「小早川隆景と名島城・博多」感想」



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更新記録と雑記
更新記録と雑記その2

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石見銀山展行ってきました

ちょっと時間ができたので、石見銀山展に行ってきました。
出雲大社にお参りして、おみくじの結果に衝撃を受けて
ああ、やっぱりかぁと、とぼとぼ歩いていたら看板を発見。
そうか!!銀山展してたんだ!!
ありがとう!!神様!!

と、中へ入りました。

結果、入って良かったぁ!!!
初見の展示品がたくさんあったのです!!
図録と一緒に本多先生の本をゲットだぜ!!
ポケモンNO!GO!の館内だけど!!

これで一気にテンション上がりました。

石見銀山展ではありますが、
展示は主に銀の歴史について。
なので結構幅広いです。
展示会場一番始めにどんっと石があって、
え?石見銀山展ですよね?
何だろう、このロゼッタストーンばりの石は??

近づくと「ハンムラビ法典」が刻まれていました。
え?あ、そこから?ジャンル広いな!
ひょっとしてこれは石見スペース少ないんじゃないんだろうか。
やっぱり出雲で石見の展示するから見えない争いがここにも??
・・・波及しているわけないでしょうがちょいとドキドキしました。

あ、でも古代エリアはお宝いっぱいで見ごたえ十分あります。
主に紀元前の古代オリエント文化の銀器がこれでもかと並んでいて
精密な細工と、きらきら眩い銀の輝き。
美術品に疎い私でも、凄さが分かりました。
一番面白かったのが銀貨並べ。
アテナイ、シャープール一世、アレクサンドロス3世
おおおぅ!世界史で習った人たちだ!!
誰がどの国だったかアバウトでしか覚えてないけど!
極めつけはクレオパトラ!
彼女は肖像画がないので、これが唯一の肖像らしいです。
世界三大美女!
・・・・。
うん、えっと使われてすり減ったからこんなんなんでしょう。
まあ、美人の基準は人によって違いますから。
続くカエサルもなかなかの衝撃。
英雄=イケメンと勝手に補正かかっているのかとしみじみ思います。
真田幸村とか日本人の武将は大概肖像画から入っているので何ともないです。
むしろ、竜造寺隆信の可愛さギャップが今までの一番の衝撃です。


次はアジア。
和同開珎の銀銭。
え?銅銭じゃなくて銀銭??
国内最初の銀銭でこのあと長い間作られることはなかったそうです。
銅銭の方が大陸では流通していたためなんだそうです。
今と同じように世界通貨に合わせて銭も回るんだなと思いました。
それから、元寇の時のてつはう。
村上水軍がよく使っていた焙烙に似ています。
そして南蛮屏風。
これだけ大きい人物の屏風図なので遊べます。
左から吹き出し付けて
「おーい、南蛮人が来たらしいぞ!」
「おい、お前、見てこい。」
「よっしゃいっちょ見にいってくらあ。」
勝手にアテレコして楽しみました。
正直ここらの南蛮屏風とか世界地図。
何度も見たことあります。
が、何度見ても面白いなあと思います。

続いて世界遺産ポトシ銀山
セロ=リコとも呼ばれ、スペインが所有していました。
展示はどちらかというと、
キリスト信仰と現地信仰の融合や
銀の採掘道具、銀器の展示などでした。
アルマジロの銀器が本物そっくりでかわいかったです。
きちんと甲羅の模様まで再現してありました。
銀の採掘道具はぽんっと置かれていたんですが
エンコノミンダ制の説明はないんだなと思いました。

それから、8レアル銀貨!!

カリブの海賊とかでよく出てくるお宝ざくざくの箱に入っているアレです。
おお、これが本物!!
・・・・で、何で江戸時代の日本人の商人の手に渡ったのか。
説明読むと、江戸時代に長崎に行った愛媛の人が貰ったそうです。
長崎で交易していたのはポルトガルですが、
スペインのレアル銀貨が世界通貨として幅広く使われていた
その証拠になるんだそうです。

そして、ようやく来ました石見銀山!!
でっかい棟札が目を惹きます。
清水寺という銀山のお寺らしいです。
輝元が金山師の人と一緒に祈願したもので、
字はかなり薄れてますが、大江朝臣まで読めました。
で、隣に尼子晴久VS毛利元就の肖像画
・・・向かい合わせにできる組み合わせもあるんですね。
知らなかったです。
よく見かける尼子晴久の肖像画は大紋が塗りつぶされています。
尼子氏は降伏後、毛利家臣になったため主家に遠慮して潰した。
と聞いたことがあります。
今回のは、四つ目菱が消してある上に模様が書きこまれていました。
初めて見る肖像画でした。
尼子晴久は2枚、肖像画があるそうで、これでコンプリートです。
次に、元就さん。
これも珍しく鰐淵寺のもの。
普段見かける輝元や隆元が書かせたのとは異なり、
すこし顎まわりがふくよかです。
眼はどちらかというと優しげでした。
ひげは相変わらずぼさぼさ。
じいちゃん剃ろうよ!
っていうか、今まで見た中で一番年寄りに見えます。
何でかなと調べたら、これ元就さんが住職さんにあげた絵らしいです。
ネガティブ思考の元就さんだから、
多分絵師にもネガティブな注文したっぽいです。
しわとか白髪とか、いぼとか老人らしさ満開です。
輝や隆元の作らせた肖像画と比べればふくよかめなのも
痩せているのは貧相だからと注文つけたのかもしれません。
説明には、「尼子氏と戦った長年の労苦が」
・・・実際、これ描かれたのは隆元亡き後の出雲平定なので、
尼子氏よりも隆元の方が多分ぐっときている気はします。

他にも家康やら秀吉やらいらっしゃいましたが、
見たことあるからスル―。

で、ひと際異彩を放っていたもの。

しろがね

・・・・。
え?何だろう。
このど派手な孔雀の羽根。
しかも白金の小札。
銀?銀ってことはこれはRPGで出てくるシルバーメイルかあ!
和風だけど。

っていうか、これ何だかゲームで見たこと有る様な甲冑です。
BASARAの元就さんの白い甲冑にそっくり・・・。
誰が奉納したのかなと説明読むと
厳島神社、伝毛利元就奉納。
え?え?えええ!!

いや、絶対違うじゃろ!!
様式からして、安土桃山じゃろ!!
あ、だから「伝」って付けてるのか。

いや、でも棚守さんいるんだから奉納管理はきちんとして・・・。
待て、そういや厳島神社の隆元奉納鎧もビロードだった。
あれも時代的には妙な気がいつもしていたんだ。
隆景の書き間違いじゃないのかと常々思っていたんだ。
そもそも、家紋がおかしいじゃないか。
菊の文様と桐、これ、隆景の菩提寺で見た。
そうだよ、これは隆景の鎧・・・・。
あの子ならやりかねん。
レース付き鎧が流行っていたし、葡萄の欄間作る子だし、
50過ぎても若ぶりじゃったし、隆景なら似合うじゃろ。
或いは他の大名か。
徳川家康も豊臣秀吉も石田三成も宮島来ているし、
大概の武将は宮島寄ってるから
「この鎧、下さった方の名前をど忘れした!」
とかあってもおかしくない。うん、ありだな。
で、適当に名前あげておこうとなって
元就さんの名前がついたのかもしれない。
いや、でも銀の小札ってことはこれ作るのに銀山もってないとできないから
豊臣系が一番ありそうか。
秀吉あたりなんじゃないのかと思うけど。
そもそも、毛利家は銀の運用は公金に使えって家訓があるはず。
だから、スペインみたいに銀細工発達しなかった。
この展示会場、美術品よりも書状が多いのはそういうことなんよ。
ほうよほうよ。

うん、一回頭を冷やそう。
色んな意味で強烈すぎたこの鎧。
後ろを向けば、私の好きな狛犬さんが!
石見の銀でできた小さな狛犬なんですが
なかなかユーモラスでかわいいのです。
作ったのは銀山の運営を任されていた平佐さん。
元就さんの腹心で、管弦祭の時に奉納されたそうです。
・・あれ?銀を私用している・・・。
いや、毛利氏の場合は銀山は直轄領ではなく、
「勢力下になったけど今までどおりの統治でいいよ。」
が基本統治パターンなので、
これだけ税金納めたらあとは好きにしていいよ。だったようです。
それに平佐さんは銀山奉行。銀の積み出しは船なので
宮島に航行祈願のため、狛犬を奉納したのは
個人というよりも公的なものだったのでしょう。
・・・、じゃあさっきの鎧はやっぱり石見の銀を使った可能性もある?
いや、また迷走始めるから先に進もう。

隣を見ると大きな地図。
石見銀山周辺の領主だった吉見さんと益田さんの領地図です。
これ、萩藩のものじゃないなあ初見だし、益田の字が違うし。
所蔵を見ると宮城県立図書館。
宮城=伊達政宗・・・・。
伊達政宗がなぜ銀山周辺図を?
解説書には検地の時のものではないかとあるんですが
益田さんを増田と書き間違えてるのはおかしいなあと思うのです。
仮に天正年間だとして益田さんは元春の娘を貰っているので
毛利領国で知らない人はいないはず。
他所の人だったら間違えてもおかしくないので
これってひょっとすると伊達さんが作った可能性もあるんでは?
いやいや、はやとちりしてはいかん。
後世になってたまたま宮城県立図書館が買ったものかも。
埒があかんので、所蔵先の宮城県立図書館で検索すると
「涌谷亘理家旧蔵」の分類。
涌谷亘理家は伊達騒動で有名な伊達安芸さん家。
あ、伊達政宗のめっちゃ側近。
とすると、やっぱりこれは伊達さんちで作られた可能性も1割ぐらいはありそうです。
政宗と輝元、幕府倒そうかという手紙があったりなかったり意外と交流あるので。

スペースの割に見どころはがっつりありました。
多分この流れ的に江戸幕府だろうなあ。
幕府はあまり興味・・・・。

おおお!何だ?丁銀が浮いている??
しかも1枚じゃない!
なんだここ!!??

透明のアクリル板に丁銀が何枚か挟んであって
裏表からじっくり見れるように展示してありました。
しかも種類が半端じゃない!

いつもの御公用丁銀もあれば御取納丁銀も!!
御公用丁銀は名の通り朝廷に公用銀として送ったものです。
石見銀山の争いを制した元就は、戦にこれ以上ならないように
朝廷に銀山を寄贈し、現地支配を認めて貰う代わりに銀を納めていました。
朝廷も助かる、元就さんも助かる。双方良しの関係です。
で、最初に銀を納めたのが正親町天皇の即位式。
当時京都は戦で荒廃していました。
今、京都で見る有名な寺社のほとんどが安土~江戸時代に建て直された物。
寺社の復興もままならないほどなので当然朝廷も御所を建て直すのに手いっぱい。
たくさん献上したがこの1枚しか残っていないと説明してあるのも当然の事。
困窮しているんですから、逆によくこの1枚が残っていたなあと思います。

丁銀もいくつか種類があって、秀吉が褒賞用に作らせたものや
江戸時代に作らせたものもありました。
刻印は「一」や「えびす様」など様々。
それから、山口の一の坂銀山のものとされる
「天又に一」の印。これが「一」の初期っぽかったです。
江戸の丁銀と分けてありましたが、
作っているのは同じ職人なので、「恵比寿一」と一緒に展示したら
刻印が同じかどうか分かりやすいのになと思いました。
因みに、天又は天野又右衛門とされ、
山口の復興で使われたようです。
毛利氏の領国内では、御公用銀の大きさよりも
小さめの丁銀が出回っていたようで、
博多の町でも見つかっているんだそうです。
・・・隆景領になりましたからね、博多も。
基本、丁銀は重さごとに切り取って使うので
発掘されて出てきたのは結構こまいです。
室町時代にしろ、江戸時代にしろ、これだけ出回っていた銀。
今ではほとんど見ることはありません。
一体、どこに消えたんでしょうか。

最後に長谷川さんの屏風絵。
金泥の落ち着いた色合いに細やかな秋の草花が
これでもか!と大量に散らされているのですが
離れてみると何だか落ち着きます。
背後に大きく霞む富士山が引き立っていました。

常設展も見て、まだバスの時間がありそうだったので
もう一度観に行きました。
あの鎧・・・。

うん、家紋からして違うし、伝だし。
で、家に帰って毛利元就展の図録を開くと
あ、やっぱりあった。
白銀小札鎧。
ん?対で孔雀の羽根の陣羽織がある・・・。
あれ?それに菊に桐の紋の服を元就さん着用している。
え?ん?
余計に混乱してきました。
ううん。

「新出・隆景書状と厳島合戦前夜の山里合戦」感想

先日、津田で行われた秋山先生の「厳島合戦前夜の山里合戦」を聴講しに参りました。

市電廿日市駅から緑バスに乗って津田まで行きました。
道中、御敷畑山合戦のあった峠を通ったんですが、
すごいヘアピンカーブでした。
その途中に、明石のバス停がありました。
陶方の宮川さんと激戦になった場所で、亡くなったとされる岩
バスの窓から見えるんだそうです。
私は見逃しましたが・・・。
・・・ていうか、こんな急な所で戦ったん??
と驚きでした。
川でも流れていようもんなら滝になりそうなほど急こう配。
てっきり麓ってもっと下の四季が丘ぐらいかと思っていたんですが・・・。
まあ、大軍で下って来る陶を迎え撃つなら、こういう隘路でしょうが、
険しいのに加えて、下から迎え撃つのはかなり不利。
よっぽど地形に通じていなければまず取らない方策です。
ううん?と悩んでいる間に友田について
道は平らになり、高原を縫って行きます。

着いた公民館では、隆景の新出書状が展示されていました。
秋山先生曰く、広島県立大学で8月21日から行われる
「清盛・元就と宮島」で初公開するはずだった書状なのに、
今回持っていくってどういうことですか!と担当の方に怒られ、
その後に、今度NHKである「英雄たちの選択」の番組にも
持って行ってしまって
怒られと何度も怒られたんですよ~
でも、これはこの地元に関係ある物なので是非に皆さんに見てほしくて
とお話されてました。

なので、皆さん、
大学のほうにも是非足を運んでくださいね。
と宣伝されてました。
あ、はい。是非とも行かせて頂きます。翠町遠いですけど・・・。
詳しいリンクを私も貼っときます。PDFです。
「清盛・元就と宮島」

隆景の新出書状ですが、花押と名前が同じ墨なので直筆なんだそうです。
書状の書き出しは「山里表」。
山里は吉和や津田などの廿日市市北部のこと。
・・・市が2回付くのは誤字じゃなく、正式名称です。念のため
中身はここでの戦がひと段落したから今から帰るが
その前に音戸に2つ城の普請を申しつけてからになる。
というのが大体の内容なんだそうです。
この普請を命じられているのは恐らく乃美宗勝で、
来島の調略を命じられて、こっちに来たかと思ったら
今度は城の普請、それも2つも任されて、
大忙しだったでしょうね宗勝。
と先生評されてました。

・・・・こき使われる乃美さん
・・・隆景率いる小早川家って
織田さんちに負けずカリスマブラック経営だな。

と時折思います。

で、講座内容です。
まずはじめに、厳島合戦のあった年号。
弘治元年とも言われますが、天文24年11月に改暦なので
天文24年で通しますとのことでした。
厳島合戦は従来海の方に重点が置かれており、
交易拠点である厳島の争奪戦であったとされますが
実はここ、山里の合戦こそ重要な戦いではないか。
今回、新たに出てきた隆景書状も使ってお話します。
とのことでした。

・・・・秋山先生、今年で退官なんだそうです。
先生のお話が聞けなくなるのは寂しいです。
できれば退官後も講義を続けて頂きたいのですが・・・。

今回は「防芸引分」ですが、
天文23年
5月12日 毛利元就、金山城など4か城を落とし厳島占拠
   以降  宮川甲斐守、浅原か栗栖から津田へ着陣。
 6月5日 御敷畑合戦、宮川甲斐守、明石峠の巨石あたりで敗死
 6月8日 毛利、玖嶋・白砂へ侵攻

当時、山口から安芸へ抜けるには、岩国から大野へ抜けるよりも
錦川の上流から山へ入って、津田へ抜ける道の方が一般的で
大内氏が安芸に攻めてくる時も大抵この道を通っているんだそうです。
なので、陶もこの道を通って攻めてきたはず。
だから津田の辺りに陣を構えたのだろうとのことでした。
因みに、山里は地域によって付くのが異なり

津田(つた)・・・厳島合戦後の天文24年10月4日になるまで
     陶軍が籠っていたと考えられる。
友田(ともた)・・・陶と毛利 半々
玖島(くじま)・・・陶から毛利へ
白砂(しらさご)・・・一番先に毛利方へ付いた


基本、山里は陶方だったようですが
白砂衆がまず毛利方に付きました。 
この時、毛利元就は書状で
「(白砂)が友田や津田の陶軍から攻められるであろうから
 戦火が見えたらすぐに味方に駆け付けるように
そして、友田と津田は武力制圧するしかないが
玖島は落ち着き次第、調略、ようは武力を使わずに
こちらの味方に引き入れたい。」

と児玉就忠に指示しているんだそうです。
原文では「くしまの儀、おちつき候はゞ、おとしつけ度候」
とあるのですが、「おとしつけ」は「脅しつけ」ではなく
「落ち着いたら」の意味なんだそうです。

で、陶軍は天文24年に津田に在陣します。
5月13日には厳島まで渡り、有の浦を襲撃、
6月に晴賢は山里黒滝城に在陣し、
毛利は狼ヵ蔵に迎え城を築いた。
と、棚守覚書にあるそうです。
とはいえ、この情報は厳島神主家の情報。
厳島合戦の4か月も前から陶晴賢が本当に津田にいたのか?
実は、厳島合戦までの1年間、陶晴賢がどこでなにをしていたのか?
よくわからないんだそうです。
元は噂のようですが、これはかなり信憑性が高いのではないか。
と先生は仰っていました。
大内軍も、長州藩も、周防から安芸へ攻め込むには
この道を通るのが一般的なので、多分本当だろうと。

・・・、長州藩、ああ、だから残念山はあんな奥にあるのに
激戦地だったのかと納得しました。
それから、天文23年6月に御敷畑合戦で勝利したからといって
背後の友田や津田がすぐに降伏したわけではなく
山里では厳島合戦が終わるまで陶軍が居続けていた。
昔の本だと厳島合戦の後に、山里侵攻になっていたのですが、
逆だったのですね。
沿岸部の動きが活発だったので、
岩国辺りに陣を置いているのかと思っていました。
棚守さんの話をきちんと聞いていれば分かる事もある。
温故知新なんだなと思いました。

で、8月13日、元就指示、隆元指揮で稲薙を行います。
稲薙とは収穫前の稲を薙ぎ倒すこと。
・・・さすがに刈り取る余裕はなかったんですね。
陶はそこから反撃に出て、沿岸部へ警固船を向かわせます。
(閥閲録巻22 119福井)より、
陶が火立岩から廿日市へ攻めてきたので、
川内衆を広島湾沿岸部まで下がらせるよう命じています。
陶は、沿岸部を攻撃することで毛利軍を分散させることに成功。

・・・おお、やっぱり知能戦ですね。
ただでさえ数で劣る毛利軍を分散させれば
その分だけ叩きやすくなります。
それから、沿岸部での戦、陶は攻めてきてもすぐ引き返していたので
何でだろうと思っていたんですが、陽動作戦なら説明がつきます。
本隊は津田で、あわよくば挟撃するつもりだったのかなと。

で、陶も毛利も譲れない山里は激戦だったようで
山里要害の在番はあまり類例のない命令が出されたようです。
閥閲録に「山里要害城番~」と始まる文が5通あり、
それぞれ別の家に渡されています。

内容は「山里要害」の「城番」をすれば「給地宛行候」と、
どれも同じ。
毛利家の場合、給地宛行状はおおまかに3つに分けられ、

①命令と給地の宛行がセット
②命令はするが、どこが貰えるかは未定
③命令はするが、給地宛行はない。


このうち③は譜代家臣に出されることが多いそうです。
今回のは②のパターンなのですが、文中に
「子孫迄無相違全可知行候」
と、どこの土地をあげるのか書いていないのに
子孫まで知行を約束しているそうです。
これは織田信長と戦った木津要害の在番命令と同じで、
内藤七郎右衛門尉は「彼表在番相屈罷下候者可加褒美候」
「どこの土地をあげられるかわからないけど、帰ってきたら必ずあげます。」
粟屋元信は「討ち死にした場合、子どもの必ず土地をあげます。」
ようは、まず間違いなく戦死するような時の文章。
山里要害在番は、それだけ死ぬ危険度が高い任務だったと分かるそうです。
じゃあ、誰がそこに向かったか。
5通の手紙の宛名のうち、西実世、新屋実満(新山)、蔵田彦五郎、末永の4家は
天文19年の連署に出て来ない。
ようは新しく入った家臣。
そのうち、西は閥閲録に野間隆実から「実」を偏諱から貰っている書状があるので
野間氏の旧臣だと分かる。
実際、末永は吉浦を根拠にしていたが、
元春から所領を安堵されており、後に、吉川家に仕えている。
よって、西、新屋、末永は野間氏の旧臣
蔵田は大内の旧臣。

・・・おお!!すごい!!先生すごい!!探偵みたい!
犯人はお前だ!のように次々に身元が明らかになって面白かったです。

ようは、野間氏の旧臣が山里要害に向かい、
任務を無事に勤めれば在地安堵を認められ、
毛利氏にそのまま仕えることができる。
しかも、川内水軍衆は草津や広島湾の警備を任され、
新参の水軍衆だが、思う存分活躍できる敗者復活のチャンス!!
というわけだったようです。
野間氏は、毛利氏とは縁戚で、吉川元春とも縁戚でした。
ところが、当主の野間隆実は毛利から大内に鞍替えします。
親戚とはいえ、裏切りは放っておくことができず、
野間氏は討伐、殺されたと陰徳太平記は記します。
また、地元でも野間氏は滅ぼされたと伝承されています
ところがどっこい!
野間隆実は元亀3年に死去しているので助かっているんだそうです。
おい!呉!陰徳太平記!!
と思わずつっこみいれました。
宍戸といい、野間といい、勝手に滅ぼすなよ地元!
まあ、野間氏は滅びてないのは以前調べたから知っていたんですが、
粛清はされていたと思っていたのでびっくりです。
・・・・まあ、普通裏切った人間を助けるなんて甘いことしませんからなあ。
誤解されて伝わったんだと思います。
福屋さんといい。尼子さんといい、結構行き残っているもんだなと思います。
じゃあ、誰が殺されたのか。
防州からきた目付だったのでは?と予測されちゃってでした。
・・・・ううん、それか大内側についた家臣かもしれません。

でも、山里に毛利はいつまでも籠っているわけにはいきません。
どうも尼子の動きも気になっていたようで、
新城を築くと、在番衆を残して一旦帰ることになったようです。
今回の新出隆景書状はこの時書かれたもの。
音戸の瀬戸に城を2つ築いて帰ると隆景は述べていますが
先生曰く、
「この2つの城のうち、音戸側は神社が建っているところ。 
 倉橋島のほうは、新音戸大橋の橋脚部になって潰れたでしょうね。」

・・・ええええ!!勿体ない!!
っていうか、最近まで残っていたのに未調査だった??
元就で新音戸大橋やってましたが、あ、あの工事現場・・・。
だったんですね・・・。

しかし、何故音戸に2つも城を新しく作ったのか。
・・・・隆景の趣味なんじゃ?
と一瞬思いました。すみません。
先生曰く、能島村上水軍に対する警戒ではないか。
陶が来るなら西の防備をすべきなのに、
音戸は広島湾の、当時は草津沖の東。
能島村上水軍は未だに厳島合戦の味方に来たかどうか
様々な説がありますが、直前まではっきりしなかったのは事実。
ううん、なるほどと考えさせられました。

で一旦は引き上げたんですが、その分山里要害は堅固にしたようです。
土塁も堀も安芸にしては珍しく三重も構え、
必死に防御に力を入れているのが遺構から分かるそうです。
毛利元就も、山里での合戦が陶との決着になると思っていたようで
井原家文書には「山里表~防州此片弓矢善悪之儀此時候間」
と書かれてあるんだそうです。
どのくらい必死な思いだったか、元春宛ての手紙で
「山里表之儀、此度此弓矢の善悪まてにて候々々
と語尾を2回繰り返しているところ。
隆元は4回繰り返すこともあるんだそうですが、
元就が2回も繰り返すのは珍しく、強調していることがわかるんだそうです。
手紙は端折れば
「石見なんていいから、早くこっちへ来て来て来て!」
・・・・、お父さん必死じゃなあ。元春。早う行ってあげんさい。
とも思うんですが、まだこの頃はそれぞれの御家を大事にしなさいと
薫陶されていたので吉川としては石見に動きたくなるのもしょうがない。

で、山里要害の方々、相当頑張ったようで陶としては
これを放っておいて全軍宮島に渡海することが出来ず、
山里と厳島に兵力が分散した。
これが敗因ではないか。と仰っていました。

・・・ううん、とすれば厳島に渡海したのは、
毛利を対岸におびき寄せ、海と山から挟撃するつもりだったのかなと。
ただ、山里から降りるには毛利が守っている狼倉城もあります。
あの横をどうやって降りて行ったのか。
海と陸の連携は何故上手くいかなかったのか。
勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし。
ですが、何で厳島に渡海したのかはやはり不思議です。
陶晴賢の空白の1年間。
謎はまだまだつきないのだなと思いました。

父・毛利元就危篤につき

墓前祭があったので、この間見た書状を。

吉川家文書1209号
書き下し文
先書に申す如く候、上の御煩い今度了簡に及ばず事に候、
 御下の儀、いかが候はん哉。
 勝事にて候、御心遣い申す事無き候、
 元春御下向の事は、某許の趣によるへき候条
 爰許より相定められ候て仰せられずの由、
 輝元仰せられ候、其口又上口所々正体無く罷り成り候々
 此の表の儀も分もなき体たるへき候
 御相談折節ため隆家、信直、貞俊、道良御参上候て
 万申し談じ候。内々御覚悟の前に候条、申すに及ばず候
 なお此のもの申すべく候。恐惶謹言。

     6月14日     隆景
   元春 御申之」


私訳
前に送った手紙で申した通り、父上の病状ですが
 もう快復の見込みはないだろうとの事です。
 こちらに戻ってこられますか、どうされますか。
 兄さんのことだから尼子との戦いには勝つでしょう。
 それに関してはこちらから心遣いはしません。

 「元春叔父上の吉田下りはそちらの様子によるだろうから
  こちら側で決めてどうこうというわけにはいかない。」
 輝元はそう仰っています。

 出雲表やそれよりも東側で毛利方についていた国衆の中には
 味方であったのに、再び尼子方になりそうな者も出始め、
 雲行きが怪しくなってきました。

 こちら側のことですが、分を弁えて行動することができておらず
 落ち着きがなくなってきています。
 父上の葬儀のことなどの相談を折り合うために
 宍戸隆家、熊谷信直、福原貞俊、口羽道良が御参上し、
 万のことを話し合っております。

 父上の事ですが、内心もう覚悟をされているでしょうから
 これ以上は何も申し上げません。
 なお、この者が申し上げます。恐々謹言

     6月14日        隆景
   元春へこれを申してください。」


毛利元就は旧暦6月14日辰の刻に75歳で亡くなります。
この手紙は元就が亡くなる直前に書かれたものになります。
辰の刻は午前8~10時。
臨終の時は家族、皆が詰めていたでしょうから、
その合間をぬって書かれた手紙でしょう。

直筆書状で残っているのですが、
この時期の隆景にしては珍しく、字が不ぞろいです。
最初の「先書ニ如申候 上之御煩今度不了簡事ニ候」は、
字がくしゃくしゃとして小さく、筆が乱れています。
元就は70を超えてから病がちになり、
この手紙の元亀2年の2月には小康状態となったようですが
5月から再び病状が悪化し、
尼子攻めに赴いていた隆景や輝元は吉田に帰っていました。
隆景も覚悟していたとはいえ、
心は相当乱れていたことが字から読みとれます。

また、手紙も幾通か送ったようで、端書きに
「辺々此者内へ三同前ニ進物にて候へ共
 彼仁ハ馬にて候間、先々進之候」

とあり「先書」が届くよりも前にこの手紙が届いています。
よほど焦っていたのだろうなと思います。

次の「御下之儀」は元春の下向について。
この時期、出雲では尼子勝久を中心とした尼子氏再興運動が起きていましたが
ほぼ主要な所は陥落し、あと一歩で平定できるところまで追いつめていました。

なので隆景は「勝事にて候、御心遣無申事候
「勝つでしょうから、陣中見舞いなどの心遣いは申しません。」
と随分きっぱり言っています。
・・・・兄・元春に対しての信頼?
だと思います。ちょっといつもの隆景らしさが戻ってきてます。
ここら辺から字もややしっかりしたものに戻っていた感じでした。

しかし、元就危篤に「其口又上口所々無正体可罷成候々」と、
出雲よりも東の伯耆や因幡の国人衆の中には寝返りそうなものもいたようです。
元春が戦況を脱することで、出雲方面の抑えが無くなり、
再び乱れる可能性がありました。
だからといって父親が危篤なのに戻ってくるなとも言えず、
この時当主であった輝元は
「爰元より被相定候て不被仰之由」
と、判断を元春おじさんに任せるとしています。

・・・戦国時代なので父親の死に際よりも戦で家を守るほうが大事。
むしろ、父親は戦の相手だったりすることも珍しくないのに
家族の絆が強かったことを伺わせるものだなと思います。

それから、この手紙で訳すのに困ったのが「此表之儀」
隆景の出した手紙なので、隆景方の戦とすれば
備前の浦上氏と動きのおかしい村上氏。
ですが、「分もなき体たるべき候」
「分もなき」の「分」は「分を弁える」と同じ、「なすべき行い」なので、
訳せば「なすべき行いもしない体たらく」になります。
戦中に隆景の率いる軍でそのようなことは起こり得ないでしょうから
「此表之儀」とは父危篤に際して家中の混乱具合を
戦と同じほど深刻な問題であるから「此表」としたのかなと思います。

続いて家中の混乱を鎮めるのと今後の事を話し合うために
宍戸隆家、熊谷信直、福原貞俊、口羽道良が呼ばれたとあります。

隆家は娘婿で、隆景達よりも10才以上年長。
家族の中で一番頼れるお義兄さん。
五竜もまだ存命なので、妻と一緒に帰っていた可能性が高いです。
戦国時代、嫁に出たら実家に帰ることはまずないんですが、
輝元はこの時期、吉見に嫁いだ姉に
じい様の病状が悪いから実家に帰ってくる?
と聞いています。
津和局の輝元姉でさえ、声をかけるのですから、
五竜が帰って来ていないはずがないだろうなあと・・・。

それから熊谷信直
元春の舅で、臨終に集まった家族の中では恐らく最年長。
ずっと元就に付き従っていた国人です。
その忠誠心の高さは、遺書に供養よりも毛利家の奉公こそ
我が供養になる
と書いたほどです。

福原貞俊は毛利の庶子家筆頭。
口羽道良は執権志路広良の息子。
この2人は後に隆景と元春を合わせた
御四人と呼ばれる政治体勢で輝元を補佐していきます。

御四人に熊谷信直や宍戸隆家が入らなかったのは
家族に近い扱いなのですが、
やはり国人だからかなと思います。
まあ、熊谷さんと隆家さんは文将よりも武将なので
政治体制には入らなかったのかもしれませんが。

最後に「内々御覚悟之前に候条、不及申候」
「内心、前から覚悟はしているでしょうから。
 申さなくてもよいでしょう。」

と隆景は細かいことは使者に任せています。

結局、元春は吉田に戻りませんでした。
そのまま尼子勝久を追い詰め、尼子再興運動は挫折。
多分、この手紙がつくのと同時ぐらいに
父死去の手紙が届いたのもあるのでしょうが、
輝元と隆景を吉田に返した時点で、
父の死を看取ることは諦めていただろうと思います。
元春は隆元亡き後、兄弟の一番上として常に覚悟をしていたようで
備中高松城の戦いでは一番最前線に陣を敷いています。
万一の時は隆景や輝元を逃がそうという陣構えです。
三子教訓状の時も1人石見攻めしていたりと
協調性があまりなく見えますが、
心の奥では家族を深く思いやっていたんだなというのが
書状から分かります。

また、隆景の内心が字にかなり現れていて
最初は乱れていた字が、次第に大きくなり
最後はいつものしっかりした筆跡に戻っていました。
兄に手紙を書く中で、心の整理がついてきたんだなというのが
文字からわかりました。
三原の隆景展か吉川史料館で見たと思うのですが、
実物を見ることで分かるものがあるんだなと思いました。

西園寺公望、毛利元就贈正一位承認書

元就さんの生前の階位は
従五位下からスタートし、
正親町天皇の即位に献金したことで従四位下になります。
大江氏は源平藤橘から洩れている家で、
数の少なさもあってかあまり政治的な活躍をしていません。
そのため、辛うじて堂上家に名を連ねていても所属は最下層の半家。
位を貰えたとしても従三位が限度。
毛利家は武家なので公家の大江よりも上の位を得ることはできません。
なので、従四位下の位だけでは感謝しきれないと
正親町天皇は思われたのか武家にとっては名誉職である陸奥守も与えました。

そして亡くなった時にも朝廷より官位が与えられ
従三位になります。

が、それから200年後の明治、
元就さんの階位は正一位、最上位まで上がります。
この正一位は神様と同じ位。
戦国武将で一番最初になったのは徳川家康。
東照権現として神格化するために幕府が要求しました。
・・・まあ、ようは政権のシンボルとして祀り上げられたのもあるのでしょう。
家康よりも我等の元就様が低いとはどういうことだとなったのか、
位が上がることになりました。
他にも明治政府は水戸黄門も正一位
大正になると豊臣秀吉も織田信長も正一位
伊達政宗、井伊直政ら戦国武将も位が上がります。
・・・明治政府は戦国マニアだったんでしょうか。
毛利や島津、水戸黄門はまだ分かるとして、
井伊や伊達は反政府軍側の国を治めていた武将・・・。
幕末、大正など歴史ブームは何度か起こるんですが、
それに乗っかったのか?政府??と思っています。

で、元就さんの官位奏書。
毛利家文書じゃなくて、内閣総理府・叙位決裁書の方に入ってます。
仮名→平仮名訳
「       贈従三位毛利元就
  特上日以て位階追従せらる
        贈従三位毛利元就
  贈 正一位
 右
  勅上日を奉りし謹みて奏す

  明治41年4月1日
      内閣総理大臣侯爵西園寺公望」

「内閣総理大臣

              贈従三位毛利元就
 右は後奈良天皇天文弘治の際詔宣を奏請して
 陶晴賢を討ち、山陰山陽10餘国を掃清して
 大儀名分の在る所を明らかにし、
 其の後正親町帝践祚し、王室武微の極みに達し
 即位大礼を行わざるを以て其の資を献じ
 大礼のち行わる。爾来石州銀山の収入を年々
 之を貢献し供御の欠乏を補助し奉る。
 孝明天皇の嘉永癸丑行こう国家多事に際し
 毛利敬親は元就の遺志を継承して国事に蓋痒し
 遂に維新の鴻業を翼賛す
 よって明治2年2月元就の勲功を詔褒し豊栄神社を
 □を宣賜せられ翌3年勅使岩倉具親を該神社に差し遣わして
 御剣を奉納し国家の隆運を祈らしめる
 近日皇太子殿下山口県下巡視あらせらるるを以てこの際
 元就の勲功を追録し特に正一位を贈叙せられ然るべきなり」


長州藩は輝元(正確に言えばその子・秀就)が藩祖ですが、
功績で言えば元就さんのほうが大きく、
幕末の少し前に御先祖様ふぃーばーが起きていたこともあり、
我らが英雄を神様の域まで持ち上げたようです。
もっとも、長州藩よりも先に水戸藩が光圀公を神様にしているので
「いいなあ、わしらもやるか!」
と便乗しただけなのではないかと思います。

で、官位を上げる事績のところは既知の通りでした。
お金のない朝廷に献金し、石見銀山の年貢を貢納。
御礼に貰った装束は今でも残っています。

が、後奈良天皇の綸旨で陶晴賢を討伐云々は疑問です。
当時そんな力はないですし・・・・。

それから皇太子、後の大正天皇の山口巡回。
明治天皇は明治29年に広島に住んでいたのに
皇太子は同行していなかったのでしょうか??
山陽鉄道が下関まで開通したのは明治34年。
国有化が明治29年。
ううん、あえて行く必要はないような気もしますが
丁度その時にでも神社で行ってもらえばよいとなったみたいです。

明治政府が他の戦国武将に贈位した文書は
どうなっているのか。調べると面白そうだなと思いました。
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トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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