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主に毛利元就から浅野長勲までの戦国~幕末までの安芸の歴史について語るサイトです。
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5月14日「関ヶ原で空弁当その3『関ヶ原と酒と空弁当』」

5月20日  こーじ様、コメントありがとうございます。
        返信いたしました。
        14・16・19日拍手ありがとうございます。
        ハードな日々ですが、長らえばかなあと思っております。
5月14日  5・6・11日拍手ありがとうございます。
        色々と考えることもあったので
        拍手を下さって本当に励みになりました。
5月 4日  1・2・3・4日拍手ありがとうございます。
        のんびりとした更新ながら毎度応援下さり感謝しています。
        「関ヶ原で空弁当その2『石田三成・島津義弘陣所跡』
4月30日 19・21・22・26・27・28日拍手ありがとうございます。
       元気が出ます。ありがとうございます。
        「関ヶ原で空弁当その1『関ヶ原は原っぱだった』
4月17日 16日・17日拍手ありがとうございます。
       「『吉川元春とその時代展』感想」
4月14日 13日拍手ありがとうございます。
       「宮島・桜めぐり~清盛の経塚から豊国神社~」
4月12日 12日拍手ありがとうございます。
       「宮島・桜めぐり~多宝塔~」
4月11日 2・6・7・8・910・11日拍手ありがとうございました。
       8日の方、色々と気に入って頂けたようで嬉しいです。
       ありがとうございました。
       「宮島・桜めぐり~厳島神社編~」
4月1日  13・14・29・30日拍手ありがとうございました。
       更新ぼちぼちガンバリマス。
       「元就関連史跡ウォークラリー」

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更新記録と雑記
更新記録と雑記その2

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関ヶ原で空弁当その3「関ヶ原と酒と空弁当」

続いて小西さんとこの陣へ

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かんとり~ろ~ど♪と歌いたくなるような綺麗な景色ですが
この道の先には幟がはためき陣所に続いています。

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辿りついたのは小西さんの陣所。

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小西行長も首謀者として処刑された方。
そしてそのまた奥に大谷さんとこの陣所が見えてるはずです。

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意外と遠いなあ・・・・。
多分田んぼを避けて陣を張ったから
ぽつんぽつんとなったんでしょうが、
街道から一直線に来る相手に対し
包囲網的な布陣・・・。
東軍の魚鱗に対し、西軍は鶴翼なので
網にあたる一つ一つの陣がしっかり連携できていれば
包みこんで撃破できます。

石田さんとこと大谷さんとこと
宇喜多&小西さんがえらい離れていたのは
彼らが西軍で士気が高い軍なので
あえて離して配置することで、
成り行きで参加した士気の弱い軍を高め、
包囲陣が崩れないようにしたのだろうなと思いました。

・・・、まあでも一個撃破されたらガタ崩れなのは
どうにもしようがない陣形なので
例え、秀秋の呼応がなくとも、
士気の弱い軍が一つでも壊滅すれば
西軍の負けです。

西軍が負けたら島さんの御子息が安芸に下向しなかったわけで
そうすると西条が酒都にならなかったわけで
すると安芸津で軟水による酒作りの研究されなかったわけで
まっさんも別の職業に就くから国産ウイスキーもないわけで
・・・・すみません、酒飲みとしては
西軍負けないと日本中の地酒と大吟醸がこの世にないから
やっぱり負けてもらうしかないかなと・・・。
関ヶ原の戦いは歴史だけでなく酒にも大きく関わるのです。

さて、ここで西軍巡りは終わり。
今度は東軍です。

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最後陣地って何だろうと思っていたんですが
家康が最後に陣を敷いたところだから最後陣地らしいです。

そして細川さんとこの陣。

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細川さんは奥さんを殺されたので
一番士気が高い・・・。
まあ、でも奥さんがあれだけ宗教にのめり込んだことや残る逸話から
旦那さんから逃れたくもあったんではないかなとも思うんですが、
昨今では仲睦ましい解釈があるようですね・・・・。

それから黒田・竹中陣所。
播磨出身の黒田家の敷いた陣だけあって
やっぱり他よりは小高い場所にありました。

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うん、これこそ陣。
さすが山陽仲間。ようわかっていらっしゃる。
この場所からは広く関ヶ原が見渡せました。

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さて、ここで例のものを取り出します。

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友から貰った空弁当!
小川新聞店さんという関ヶ原グッズを売られているところで
販売されているんだそうです。

勿論中身は

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空。

空弁当になった理由は
ここの陣の主である黒田長政と仲の良かった広家が、
本家をつぶさないために長政に謀ってもらって東軍につき
西軍からの再三の出兵要請に対し動かなかったため
総大将の秀元も動こうにも動けず、
長曽我部家に対して
「今は食事中だから」
と苦し紛れの言い訳をしたのが
「宰相殿の空弁当」


南宮山には登れませんでしたが
空弁当に関係ある場所なので記念写真。

そして最後に本多さんとこの陣。

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・・・・。
井伊といい、本多といい、
名前が家紋って珍しいなあと思うんですが
東にはよくあるのでしょうか。

感想としては関ヶ原は本当にただっぴろくて
1日で全部回るのは無理そうでした。
特に南宮山は山なので登るのに時間かかったそうです。

それから家康の最後陣地から秀秋の陣へは
いくら大砲でも届く距離ではないです。
本多勢が東に進んでいれば本多勢であれば可能でしょうが・・・・。

現地へ行くことで分かることがあるなあと
改めて思いました。
次こそ南宮山へ登りたいなあと思います。

関ヶ原で空弁当その2「石田三成・島津義弘陣所跡」

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三成さんの陣所には馬防柵を復元したものが据えてありました。
さすがは実質大将。

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本当はもっと下の原っぱにないと意味がないんですがね。
と武将隊の福島正則さんが教えてくれました。

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で、少し小高くなっている丘をとことこ登ると

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石田三成陣所跡。
この郭の南からは関ヶ原を展望することができます。

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最初は優勢だった西軍ですが
南宮山に陣取っている毛利・吉川や長曽我部などは動かず、
小早川秀秋が東軍に旗幟鮮明すると
近くに居た他の4将もつられて寝返ります。
元々、秀秋は大垣城攻め前から動きが鈍く
大谷吉継はそれを警戒していての陣構えであったようですが
他の4将も寝返ることは予想外で
一気に崩れたという説を前に読んだことがあります。
・・・何の本だったかメモし忘れていて申し訳ないのですが・・・。

次に島左近の守る陣所を黒田・竹中隊が横から襲撃。
背後の山からの急襲に島隊は壊滅。
三成は背後の伊吹山へと逃れましたが
道中、捕まります。

関ヶ原町歴史民俗資料館には大きなマップがあり
一昔前の巨大ボードながら、分かりやすい説明で
関ヶ原には疎い私でも理解しやすかったです。

で、この三成陣所。
少し裏に回る道があったので降りてみると・・・。
背後の山に伸びる道と横の谷間を上がってくる道がありました。
さすがに山登りはできないので谷の道を下って見上げると
結構高さがありました。

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笹尾山と呼ばれるだけあって
こうしてみると確かに山っぽいです。
・・・高さ的には丘ですが。

次に、石田陣から近い島津陣を目指しました。

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・・・島津さん、策を進言したのに
聞き入れられなくてやる気ダウン。
なるほど背景が分かりました。

関ヶ原町では電信柱に関ヶ原の合戦に関する豆知識が
こうして貼り付けてあります。
色々と知らなかったので勉強になりました。

しかし、ここで島津さんの言う通りの策を実施していれば
また結果が変わったかもしれないのに
なんで石田三成は斥けたのか・・・・。
性格的に人の意見を受け入れるのが難しかったからなのか
それとも島津の策が強硬策過ぎて無理だったのか・・・。

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島津軍が陣取った場所。
井戸に使われていた石が神社の奥の祠の基礎になっていました。

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更に奥に進む道を歩いていると
黄色い花が・・・。
ミモザかなと思っていたんですが
後で調べると八重山吹だったようです。
山吹の咲く道を歩くと・・・。

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島津は崩れていく西軍の中で
大阪のある西ではなく
なぜか東軍優位の大垣目指して引き、
多大な犠牲を出しながら
薩摩へと帰りました。
その時の辛苦を忍び、
今でも関ヶ原まで歩く活動を行っているようで
その顕彰碑がありました。

見てみるとお父さんに連れられて参加していた子が
やがて大人になったときに子どもを連れて参加していたり
長年ずっと名前の載っていた人がある年から引退されていたり
ついつい見入ってしまって時間を取りました。

次に小西さんの陣へ向かいました。

関ヶ原で空弁当その1「関ヶ原は原っぱだった」

朝一のみどりの窓口で
「広島から関ヶ原まで切符一枚」
と発注し、行ってきました関ヶ原。

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本日は晴天なり。
本当に雲ひとつない青空で気持ち良かったです。
今年は出掛ける日が晴れることが多くて何だか嬉しいです。
雨予報の宮島も結局くもりで、
青空を時折真上に展開することができましたし、うん。

関ヶ原は本当に「原」でした。
ただッ広い!
丘の小高いところではためく指しものもよく見えます。

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丸餅は黒田さんとこ。
黒田長政が竹中さんとこと陣をはった場所が工場の奥に見えます。

JRの高架を渡ってすぐの所に
首塚がありました。

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関ヶ原の戦いを忘れないために・・・。
太平の世の中になると戦争のことを忘れていってしまう・・・。
いつの世も同じ流れだなあと思いました。
散っていく桜がひらひらとして何とも言えませんでした。

で、ここからしばらく歩くと北西に旗指物が。

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石田三成が陣を敷いた所らしいです。

・・・正直、毛利の人間なので
「え?こんなところに陣を敷いたん??」
と驚きでした。
孫子の兵法「陣は高所に」が基本。
「毛利が高陣」と称されるように陣は敵陣よりも高く築くもの。
あんな丘に陣を構えるなんて信じられん。
うちが大将ならば、あのもっと奥の山に陣構える!!

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この正面の奥の山ぐらいがベスト!

しかし、色々衝撃でした。
いや、島津さんとこが上洛してよるときに
隆景の城を見て
「あんな所に城を・・・。」
と評価していているように
普通は高所に陣や城を構えない。
それは分かっているんですが・・・。
こんなただッぴろい所に陣を敷いていた方が驚きで・・・。

ええ、じゃあ毛利が陣を敷いたところは?
と、探すと
ありました!南宮山!

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鉄塔の立っている山に陣を敷いたそうです。

・・・デスヨネー。

いや、そりゃそうですよ、ここら丘しかない。山ないじゃん!
あの南宮山ぐらいの高さないと無理!陣取れない!
と、毛利が西軍から離れて陣取っていた理由が少しわかりました・・・。

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三成の陣所の側は激戦地だったので
このように激戦地だった場所を決戦地として碑を立てているんだそうです。

陣所の側には八重桜が見事に咲き誇っていました。

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あはは!桜綺麗!
とかしてたので肝心の島左近の陣所に行き忘れてました。
三枚目の写真にかろうじて写っているのですが、
ああ、しまったと後悔・・・。
白牡丹今度買うんで許してつかあさい。

関ヶ原1

では、いざ三成殿の陣所へ!

「吉川元春とその時代」展:感想

お天気が良いので岩国に行ってきました。
お目当ては吉川史料館で開かれている
「吉川元春とその時代」展
会期は3月16日~6月18日なのですが
行ける時にれっつらごーと行ってきました。

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天気がいいのでお城も見えます。

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土曜の雨と風で桜も散ったのかなと思ったのですが

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花の咲く時期がソメイヨシノよりも遅いしだれ桜は
まだ咲いていました。

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散った後の赤と緑と薄紅が混じるのも
なかなか風情があって私は好きです。

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散策をちらっとしてから吉川史料館へ。

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入り口にはみみずくの手水鉢が。

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上田宗箇さんから貰った手水鉢。
お返しに広家は桜を送り返しています。
今でも桜は元気です。

「元就。」が宮島編だったので
のんびりみようて出掛けたら
閉館まで1時間45分ぐらい。
まあ、余裕かなと思ったら展示内容が濃いくて
ギリギリまでいました。すみません・・・。

いや、初っ端からやっほいとテンションが上がってしまって・・・。
まずは元就さんの和歌があったんですが
「おもかげに~」の歌で、ちょうど桜の時期ですし
いいなあと思ったのと、春霞集では「俤」となっていたのが
短冊では「おも景」になっていて、微妙に表記が違うことに驚きました。
和歌の場合、平仮名や漢字は何らかの意図がある場合が多いので
小さな違いですが解釈に差が出てくるので大きな発見でした。

元春展でしたが元就さんの和歌や書状もあって
ふむふむと読み下していると結構時間が経ってしまいました。

それから興経の隠居問題の時の宿老の記録。
元春が養子相続するまでも結構ごたごたあって
5年もかかっているのですが、
寺原に籠っていた人たちがいたことから
家中でも反対派と推進派で争いがあったことが分かりました。
しかし、寺原に反対派がいたのに
興経に与谷城を隠居分に与えるのは無理なのではないかと・・・・。
寺原のすぐ奥が与谷で、その与谷にはやはり反対派の森脇さんが
立て籠っていたことが記録からわかります。
そんな反対派の一番奥の城を隠居分・・・。
ううん、それは無理だろうなあと思うのですが
反対派を大人しくさせるための条件の一つであった
と考えるとすっきりします。

まあ、興経のことは元就さんもさんざん庇って、
もうどうしようもない状態ではあったのだろうとは思います。
縁談組んでも、嫁を婚家に突き返すわ、
有田の領有を巡っていざこざ起こすわ
郡山合戦では積極的に攻めてくるわ
出雲合戦ではいの一番に寝返って
領地取り上げ&帰れなくなる危機に
叔父ちゃんが大内さんに頭下げて何とか戻ってきた状態なので・・・。

興経は元綱の姉妹の子なので、異母姉妹の子にあたり
元就さんとそこまで血のつながりは強くないのですが
異母姉妹の井原かみさまや興経の妹の八重に対する扱いから
興経に対しても肉親の情はかなり強く持っていたと思うのです。
父も母も早くに亡くし、祖父が亡くなってからは若くして当主になって
・・・と同情した元就叔父ちゃんが構い過ぎて
興経は鬱陶しく思っていたのかもしれません・・・。


それから「二宮俊実覚書」
これは陰徳太平記の元になった覚書です。
実物を見てみたかったので「おお!」と感動しました。
「陰徳太平記」は軍記物なので誇張や脚色はあるのですが
だからといって全てがでたらめというわけではなく
この「二宮俊実覚書」など古老の話を基にしているので
全てが嘘ではなく、かといって全て本当ではない。
時折、「三本の矢」は嘘だという話を聞きますが
確かに隆元はいませんでしたが元々は「束矢の訓え」が先。
庶子と隆景と輝元だったのが変化して三子になりました。
しかし、教訓状にもあるように三人の協力を説いたのは事実。
1つが違うからと言って全否定するのではなく
あわいの境界も大事だなあと思います。

あ、脱線してしまいましたがこの覚書。
大永2年生まれ、80歳近いじいちゃんにしては
色々と細かく覚えていて
「正月は別の所で過ごそうと決まっていたので
 陣を壊していたら、やっぱりこのままでと決まって・・・。」
と愚痴のようなことまで書かれていました。
文中の「殿さま」は恐らく輝元のこと。
元春が輝元に「ようやった!」と褒めた手紙
白潟衆云々とあるので、多分そこらのことかなと。

で、輝元の手紙
この子、最初は墨をたっぷりつけて堂々と見えるんですが
腰のない字なのでぐねっと曲がって見えます。
まあ読めないこともないですが
ななめ具合が結構・・・。

で、続く手紙も輝元かと思ったら隆景の書状でした。
隆景の場合は文字の大きさも整っていることが多く
墨のかすれもがさがさせずに綺麗なイメージなんですが
この手紙は最初と2行目の間の字がかなり乱れていました。
内容を見ると隆景が出雲の元春に宛てたもの
「父・元就の病状が悪化しています。」

・・・・、ああそれはさすがに筆も乱れますね。
続いて危篤状態になって家中が混乱しており、
宍戸隆家に相談したとあります。
・・・・義理の兄弟とはいえ、
隆家の事をかなり信頼していたようです。
一番年長ですし、五竜が長子であったのならば筋です。
しばらく書いていくうちに少し落ち着いてきたのか
後半は字の間隔も等間隔になり、
最後の「いざというときは覚悟している」
は決意を感じる力の籠った筆跡でした。

本物でないと分からないことがあるのだなと思いました。

それから安国寺恵瓊が織田信長と会談した時の報告書
有名な「高転びするだろう」と予言した手紙です。
義昭の帰洛問題や但馬のこと、
山中鹿之助のこと、宇喜多浦上のこと
と結構多岐にわたっています。
その中で信長を「高転びするだろう」と評しているのは
会議で何かあったのか、市中の噂で思ったのか
詳しいことは帰って述べずに、
是非とも書状に書いて欲しかったです。

そして織田と対決中の元長書状。
元長・・・。
この子の手紙面白い!!
伊勢物語の一節をちょろっと書きだしてからの本文で、
状況報告かと思ったら
「私の案は会議で不採用になりました。後から詳しく述べます」
・・・。若手が頑張って発言したけど却下されて
給湯室でよくやっている
ちょっと聞いてくれよ~せっかく俺が提案したの却下されたんだぜ。」
ですな。
結構、元長さんは最近の若いもん(?)に近い感覚の方で
戦国武将ですが、
(笑)やwwwwを手紙の中で多用
している方です。
今回も秀吉の籠る陣へ和歌を投げ入れたんですが

「あら木弓 はりまのかたへ おしよせて
     いるもいられず 引くも引かれず」

私訳
「荒木殿、
 荒い木弓のまま、弓を張る間もなく播磨の方へ押し寄せて
 射ろうにも射られないままでは 居ても居なくても意味がなく
 弓を引くにも引けないように 軍を引きあげようにも引きあげられない
 ですね。」


「なにしほふ さよの朝霧 たちこもり
        心ほそくも しかやなくらん」

私訳
「霧で有名な佐用に
 小夜の朝霧が立ち籠り
 心細くなった鹿が鳴くのでしょうよ。
 佐用の城に立ち籠ったはいいけれど
 援軍がなかなかこないことに
 山中鹿之介らは心細くなっているでしょうな。」


という和歌の下に「一笑 一笑」と書いています。
ようは(笑)やwwwです。
佐用(さよう)と小夜をかけているのは確かに上手い!
(笑)より「いいね!」したいです。
因みに佐用は上月城があった場所。
雲海には慣れている元長も
霧に用心していることとが文中にもありました。
でも、隆景叔父さんがいるから心強いとあって
すこしほんわかしました。

そして山中鹿之介の兜と絶筆と家臣宛ての手紙。
元春は鹿之介のことをかなり高く評価していて
1度捕えた時も殺さず、
2度目も殺さなかったんですが
さすがにまた便所から逃げられたら困るので
他の人が暗殺しました。
・・・・、家臣にしたかったんでしょうが
ううんまあ無理かと。

で、鹿之介の兜
三日月の前立、意外と小ぶりでした。
最近当世具足ばかり見てきたので
小さく見えたのかもしれません。

そして家臣宛ての手紙が・・・
「これからはよい主君に仕えてくれ」
鹿さん・・・。

もう一つ遺書がありました。
吉川経家の遺書
有名な鳥取城餓え殺しで城代として
腹をくくった方です。
家族あてや父親あての遺書は
どれも小さく、陣から持ち運べる大きさ・・・。
子どもたちの名前も幼名で、
まだお子さん小さかっただろうにと・・・。

そして元春が亡くなった時の手紙。
九州在陣中のため、家長の元長は
小倉に僧を呼んで葬儀の準備をしたことが分かります。
この後、自分もすぐに亡くなるとは思ってもいなかっただろうにと。

元春は元長に早く家督を譲っており
補佐する形を取っていました。
その家督を譲る時の重書目録もあり、
その中に
「この幡竿(竹は厳島のもの)で作られていて
 これは俺の親父が連勝している時に掲げていたもので
 それを貰ってから俺も大活躍できた縁起物だから
 大事にな。」(意訳)

と書いてあって、元春、やっぱり良い子やとなりました。

それから元春の肖像画も出ていました。
1枚目は江戸時代に書かれたもの。
2枚目は菩提寺に納められていたもので
2枚目の方は輪郭が元就さんそっくりです。
でも、目鼻立ちは元就さんと全然違います。
お母さん似だったのでしょうか。
やはり菩提寺のものの方が
元就さんと親子感を感じました。

それから出雲出兵中に写した太平記。
・・・・戦中なのに綺麗な字で製本されています。
よっぽど暇だったんだろうなあと。

最後に元春の和歌
「東路に 行きか不人に あらぬ身は
       いつかはこえん 逢坂の関」

(私訳)
「東へと旅立つことのできないない身の私だが
 いつかはあの有名な逢坂の関を越え
 まだ見ぬ東国へと行ってみたい。」


・・・もう少し長生きしていれば小田原攻めがあったので
念願の逢坂の関を越えることもできたろうになと思うと
胸にぐっときました。

他にも紹介できませんでしたが元春の兜や
石見銀山の鉱石標本などじっくり見ると
1時間半はかかりました。
元春展、展示数は40ぐらいでしたが
物が良いので見ごたえがありました。

今回から企画展の資料が販売されるようになったので
入り口でゲット!
ほくほくしながら帰りました。
やっぱり岩国楽しいです。
プロフィール

トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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