明智光秀「宮島参り?御年を考えてください!御年を!」
厳島神社の本殿は戦国時代に建てかえられたもので、回廊の床板などもその当時のものが今でも使われています。
・・・じゃけぇ、板の痛むやたら尖ったヒールとかコロコロとか見るとおおふとなるんじゃけど。
本殿は元就さんが汚したお詫びにと新築を始めたんですが完成した時には既に亡くなっており、孫の輝元の時に完成します。その時に京都から神社のトップ吉田家を迎えて式典を行うことになりました。
ところがすんなりとはいかなかったようで、吉田兼見の日記、「兼見卿記」には以下のようなやりとりがあったと記述されています。
兼見卿記(元亀2年11月28日)
書き下し文
「芸州厳島社の造営の儀、森方より申しつき、今度首尾也。
然らば正迁宮の事、森方より家君へ申し上げ了ぬ。
御老身遼遼の海陸御労煩の宗仰ぐ也
細兵・三太・明十来り、今般の御下向無用なり
近日以外の老衰なり、旁各達して異見せられ了ぬ、
予尤も同心なり。
然れども、連々申し上ぐるの條既に許容あり
去る月にて以来御用意の旨也、
各々是非に及ばず、今朝御発足也、
妙心院、舜侍者、兵庫助、右近允允、甚九郎、福松(加茂のもの也)
中間孫六、孫四郎、與四郎、人夫一人、
東寺邊り至り、各罷り出で、御暇乞い申し罷り帰り了ぬ。」
私訳
「芸州、厳島神社の造営のことについて
毛利方より報告があり、もう少しすれば完成するとあった。
よって正しく遷宮を行いたいと毛利方より言ってきていると
父・兼右へ伝えた。
「御年を召されているのだから、遠路はるばる海を渡り、
陸を歩くのはお体に響きますよ。」
ということを言って私は父に止めるように判断を仰いだ。
細川藤孝、三淵藤秀、明智十兵衛が来て
「今回の御下向は兼右様が行く必要はありません。
最近は思っているよりも御年のせいで弱っていられるではありませんか。」
と説得した。
みんな父に厳島行きを取りやめるように言いに来た。
私も、もちろん彼らの意見に大賛成である。
けれども、父は、
「既に行くと言ってしまっているのだし、
先月から用意もしてきたんだ。」
と言い張った。
結局、父を説得することはできず、
父は今朝安芸に向かって出発してしまった。
父に従ってついていく者たちは妙心院文慶(?)、梵舜侍者、
鈴鹿右正、安田右宗、甚九郎、福松(これは加茂神社のもの)
中間の孫六・孫四郎・與四郎と人夫一人である。
東寺あたりまで見送り、そこで暇乞いを告げて家に帰った。」
「父さん!行かないで!」
どこかで見たような親子間のやりとり。
そして、父親が行く言ってきかないときは、周りの人を巻き込んで何とか意見を変えようとする息子・・・。厳島合戦前の隆元も同じような手段で父・元就の石見行きを引き留めようと必死だったなと思いだしました。
文中の「もり」ですが、「お湯殿日記」や「女房奉書」などには毛利氏のことを「もり」と記述しています。毛利家側の記録集の「もりのしげり」も「もり」なので当時は「森」も「毛利」もよく似た発音だったのかもしれません。
で、ひっかかるのが
「御老身遼遼海陸御労煩之旨仰也」。
「仰」は古文書では「仰す」で出てくることが多いです。
尊敬語なので本来、父の兼石が「仰せ」になったと訳すべきなのですがそうすると
「もう年で遠い安芸まで船や馬で行くのは大変だな。」
と兼右がつぶやいたことになるのですが、その後に麒麟トリオが来て
「年が年ですし行く必要はないですよ。」
と言ったり、兼見が
「私も彼らに大賛成!」
という流れになりそうにないなと思いました。何より「異見」とあるので父・兼右と兼見の意見が違うはず。なので「仰」はこの場合「仰ぎ」ではないかと訳しています。
因みに「麒麟が来る」でお馴染みの細川・三淵・明智の三人衆が当たり前のようにトリオ扱いされています。
明智光秀の前半生はよくわかっていないのですが、この資料から元亀2年は京都にいて将軍側近の細川藤孝の側にいたことがわかります。そしてはっきりと「近日以外之老衰也。」と言い切っている・・・。
ドラマのせいか、これって明智光秀が言ってそうだと思ってしまいました。
そして始まりそうな十兵衛おつかいクエスト。
「旅立った父・兼右の後をこっそりつけてほしい。」
そして始まる中国地方編!
・・・なんてことはないんでしょうけど。
因みにご老体と心配されている吉田兼右は永生13年生まれなので、
この時55歳。
・・・?あれ50代ってそんなにご老体じゃないじゃろ??
毛利家では60代や70代は結構当たり前のようにいますし、兼右よりも9つ上で、永正4年生まれの熊谷信直なんて、まだまだばりばりの現役で戦場駆け巡っとります。
毛利のご長寿一団に触発されたのか、
安芸に来た吉田兼右は元亀3年の春まで約半年も滞在し、宮島から離れた吉田まで来て、雪の中で「源氏物語」の講師を務めたりと、「御老身」「近日以外之老衰」が嘘のように活動しています。
「人生50年」
と戦国時代は言われていたようですが、毛利で見ていると60代だろうと70代だろうと、豊臣政権に下るまでは生涯現役が当たり前だったので、そんなわけはないだろうと思っていたんですが、兼見の日記を見る限り、50代は老境という認識が当たり前なのだなと思いました。
・・・じゃけぇ、板の痛むやたら尖ったヒールとかコロコロとか見るとおおふとなるんじゃけど。
本殿は元就さんが汚したお詫びにと新築を始めたんですが完成した時には既に亡くなっており、孫の輝元の時に完成します。その時に京都から神社のトップ吉田家を迎えて式典を行うことになりました。
ところがすんなりとはいかなかったようで、吉田兼見の日記、「兼見卿記」には以下のようなやりとりがあったと記述されています。
兼見卿記(元亀2年11月28日)
書き下し文
「芸州厳島社の造営の儀、森方より申しつき、今度首尾也。
然らば正迁宮の事、森方より家君へ申し上げ了ぬ。
御老身遼遼の海陸御労煩の宗仰ぐ也
細兵・三太・明十来り、今般の御下向無用なり
近日以外の老衰なり、旁各達して異見せられ了ぬ、
予尤も同心なり。
然れども、連々申し上ぐるの條既に許容あり
去る月にて以来御用意の旨也、
各々是非に及ばず、今朝御発足也、
妙心院、舜侍者、兵庫助、右近允允、甚九郎、福松(加茂のもの也)
中間孫六、孫四郎、與四郎、人夫一人、
東寺邊り至り、各罷り出で、御暇乞い申し罷り帰り了ぬ。」
私訳
「芸州、厳島神社の造営のことについて
毛利方より報告があり、もう少しすれば完成するとあった。
よって正しく遷宮を行いたいと毛利方より言ってきていると
父・兼右へ伝えた。
「御年を召されているのだから、遠路はるばる海を渡り、
陸を歩くのはお体に響きますよ。」
ということを言って私は父に止めるように判断を仰いだ。
細川藤孝、三淵藤秀、明智十兵衛が来て
「今回の御下向は兼右様が行く必要はありません。
最近は思っているよりも御年のせいで弱っていられるではありませんか。」
と説得した。
みんな父に厳島行きを取りやめるように言いに来た。
私も、もちろん彼らの意見に大賛成である。
けれども、父は、
「既に行くと言ってしまっているのだし、
先月から用意もしてきたんだ。」
と言い張った。
結局、父を説得することはできず、
父は今朝安芸に向かって出発してしまった。
父に従ってついていく者たちは妙心院文慶(?)、梵舜侍者、
鈴鹿右正、安田右宗、甚九郎、福松(これは加茂神社のもの)
中間の孫六・孫四郎・與四郎と人夫一人である。
東寺あたりまで見送り、そこで暇乞いを告げて家に帰った。」
「父さん!行かないで!」
どこかで見たような親子間のやりとり。
そして、父親が行く言ってきかないときは、周りの人を巻き込んで何とか意見を変えようとする息子・・・。厳島合戦前の隆元も同じような手段で父・元就の石見行きを引き留めようと必死だったなと思いだしました。
文中の「もり」ですが、「お湯殿日記」や「女房奉書」などには毛利氏のことを「もり」と記述しています。毛利家側の記録集の「もりのしげり」も「もり」なので当時は「森」も「毛利」もよく似た発音だったのかもしれません。
で、ひっかかるのが
「御老身遼遼海陸御労煩之旨仰也」。
「仰」は古文書では「仰す」で出てくることが多いです。
尊敬語なので本来、父の兼石が「仰せ」になったと訳すべきなのですがそうすると
「もう年で遠い安芸まで船や馬で行くのは大変だな。」
と兼右がつぶやいたことになるのですが、その後に麒麟トリオが来て
「年が年ですし行く必要はないですよ。」
と言ったり、兼見が
「私も彼らに大賛成!」
という流れになりそうにないなと思いました。何より「異見」とあるので父・兼右と兼見の意見が違うはず。なので「仰」はこの場合「仰ぎ」ではないかと訳しています。
因みに「麒麟が来る」でお馴染みの細川・三淵・明智の三人衆が当たり前のようにトリオ扱いされています。
明智光秀の前半生はよくわかっていないのですが、この資料から元亀2年は京都にいて将軍側近の細川藤孝の側にいたことがわかります。そしてはっきりと「近日以外之老衰也。」と言い切っている・・・。
ドラマのせいか、これって明智光秀が言ってそうだと思ってしまいました。
そして始まりそうな十兵衛おつかいクエスト。
「旅立った父・兼右の後をこっそりつけてほしい。」
そして始まる中国地方編!
・・・なんてことはないんでしょうけど。
因みにご老体と心配されている吉田兼右は永生13年生まれなので、
この時55歳。
・・・?あれ50代ってそんなにご老体じゃないじゃろ??
毛利家では60代や70代は結構当たり前のようにいますし、兼右よりも9つ上で、永正4年生まれの熊谷信直なんて、まだまだばりばりの現役で戦場駆け巡っとります。
毛利のご長寿一団に触発されたのか、
安芸に来た吉田兼右は元亀3年の春まで約半年も滞在し、宮島から離れた吉田まで来て、雪の中で「源氏物語」の講師を務めたりと、「御老身」「近日以外之老衰」が嘘のように活動しています。
「人生50年」
と戦国時代は言われていたようですが、毛利で見ていると60代だろうと70代だろうと、豊臣政権に下るまでは生涯現役が当たり前だったので、そんなわけはないだろうと思っていたんですが、兼見の日記を見る限り、50代は老境という認識が当たり前なのだなと思いました。
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