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「江戸時代の天文学」展感想

「江戸時代の天文学」
という天文&歴史という私の関心を思いっきり揺さぶる企画展を広島城でやっているのでお正月に行って参りました。
広島城。
外国人観光客が以前よりも増えていて驚きです。
英語表示がないので日本人が体験しているのを見て真似されてそこそこ楽しんでるようなので、
体験の所だけでも英語表示があるとよいかもなあと思いました。

それと、お正月休みだったので里帰り民や親戚の付き合いで来られたような方が多く、
「初めて来たけど、意外と広島城楽しいね。」
「久しぶりに来たけど、広島城すごいね。」

と他所の城と比べても面白いと言っていらっしゃる方が多くて嬉しかったです。
歴史にあまり興味無いけど他に行くとこないからとりあえず来てみた方が多かったです。

さて4階企画展示のフロアです。
まず目に着いたのがでっかい星図。「天文分野の図」
全天の星を描いたものですが、これ江戸時代前半のもの。
良く見ると星座名や星座線が全然違っていて何が何やらよくわからないことになっています。
一等星も二等星もごっちゃだから見えにくいんだろうなあと思います。
所蔵は山口県立山口博物館・・・・・。
ええ!こんなんあったんじゃ!知らんかったです。

書かれた方は渋川春海1639年生まれ。
・・・おおう、幕府が出来てまだ30年ぐらいの頃かあ。
ううん、でもこの名前どこかで聞いた気がするんじゃけど。
説明には
「幕府の囲碁指南役の安井算哲の息子として生まれ・・・」
あ、確かこれ小説で読んだ!そうじゃ「天地明察」じゃ!!
この小説面白いよ!と碁会所で薦められて一気読みしたんですが確かに面白かったです。
そして私が「初手天元の元祖の御方!!」と尊敬した方でした。
最近天元打たなくなったから忘れてました。
そうだ、初手天元で始まる打ち方を宇宙流というのはこの方から来ているんじゃった。

その隣には「天文成象」、これは横にびらんと星座を並べたもので、
天の川付近のサソリ座やいて座の南斗六星はみつけやすかったです。
星座線がこれは変わらないのだなあと思いました。

そして江戸時代に出された天文書「天文瓊統」も展示されていたんですがこれぶちすごい!!
太陽と月の位置や、月の満ち欠けは公転によるものだと説明してあって、
これが江戸時代前半!!1600年代!!
と驚きました。というのも、「春霞集」が編さんされた1570年頃、
元就さんが
「地上は曇りだが雲の上に行けば月が煌々と明るいのだろうな」
と詠んだ和歌を三条西さんは
「月が見えない時は雲のどこかに宿っているからでしょうに、不思議な歌ですね」
と批評しているのです。
つまり三条西さんは月は雲と同じ高さにあるものと思っていたようで
当時の都人ですら天文知識は平安時代となんら変わることがなかったようです。

ところが、その100年後には月は雲どころか宇宙に浮いていて、
丸い地球の周りを周っていると西洋や中国の天文学を交えてそこまで理解できるようになった。
ガリレオガリレイが月が天体であると発見したのが1609年。
渋川さんのわずか一世代前なのでガリレオにつけられた異端者の烙印はまだ消えていません。
1737年まで葬儀が行われなかったことからそこまで禁書に近い扱いだったはず・・・。
しかも当時は鎖国により西洋の書物は手に入りにくかった時代。
そんな中、奇跡的にもガリレオの「天文対話」を手に入れることができたのはすごいなと思います。

ただ、この「天文対話」は地動説を唱えてはいけないと言われた後に書きあげたものなので
「天文瓊統」は太陽系の図が妙なことになっています。
太陽を中心に地球以外の全ての惑星が公転し、月も地球の周りを公転してるのに
地球だけが公転せずに書かれています。
ガリレオが泣く泣く削った箇所がそのまんま出ているのだろうなあと思うと切ないです。

その横には出ました伊能忠敬の日本地図。
広島に伊能忠敬が来て測量した時の様子を描いた絵巻が残っています。
海沿いを渡ってきたので、三津浜、竹原、鹿老渡となど風待ちの港の名前があります。
宮島では大願寺に泊ったようで、勝海舟も大願寺で講和会談をしていますし、
当時幕府の関係者は大願寺が宿所になったのかなと思いました。

何故測量が天文に関係あるかというと、星の見える位置は緯度によって変わります。
見えている星の高度が1度変わった場合、その間に南北に移動した距離が分かれば
地球全体の1周の距離が分かることになり、正確な地図を作ることができます。
なので伊能忠敬も天文学を学んでおり、その関係で今回展示されているようです。

・・・一般の方はこの日本地図は「わあすごいね」と見てましたがあとのは素通りしていて、ああ勿体ない!
「そこに宮島の地名があるんですよ。」「ほらここにおり姫星ってありますよ。」
と言いたくてうずうずしましたが我慢しました。
会期が2月まであったらお子様達を連れてきたかった・・・。絶対楽しいと思うんですが・・・。
翻刻文が多いのでまた主任に却下されそうだなと。

あと象限儀の説明で萩の明倫館所蔵のものは鹿老渡の人が作ったものらしいです。
写真撮っとけば良かった・・・。
明倫館のは写真撮り放題なんです。
で、何で倉橋島の突端の小さな町の鹿老渡の人が象限儀を作ったかというと
伊能さんが立ちよった場所だというのもあるそうですが
色んな交流から生まれたもののようです。

天文学に限らず研究は色んな意見を交えることで深まります。
だからなのか測量図の次に伊能忠敬と研究者との交流ということで
頼春水とのやりとりの手紙がありました。
伊能さん元の身分もあって純朴な人柄がにじみ出る字でした。
他にも伊能忠敬の師、高橋之至やその息子の景保、
月のクレーターに名を残している麻田剛流や
計測機器を開発した間重富ら天文の歴史学で出てくる方がいっぱい。
大学でちらっと本で見たなあというレベルだったので
解説が分かりやすくて助かりました。

ただそれらは主に大阪の話。
広島はどうであったかというとわずかに資料に残るのが武田さんらしいです。
彼は大阪の書店でふらっと立ち寄ったときに間さんに出会い、
話が弾んで他の研究者仲間に紹介してもらったそうです。
師としても慕われていて私が探していた厳島神社の算額は
彼の功績を伝えるために弟子らが奉納したようです。
算額!!
図形問題じゃ!!

と解こうと思ったんですが字が小さいのと薄れて私は読めませんでした・・・。

あと桑原卯之助さんも彼の弟子らしく、通りでベルヌーイの定理を理解しているはずだと納得しました。
八木用水は取水口と用水路の幅が均等ではないのです。
水の流れをよくするために出口を細く設計していて
一介の大工(先祖は武田家臣?)にしてはすごいと思っていました。

あと気になったのが月面スケッチ
妙なんです。これ。
月の裏側は細かなクレーターに覆われ、海のような大きなものはありません。
通常、月の裏側は見ることはできないのですが、江戸時代にスケッチされた2枚のは
真ん中に細かなクレーターの山脈があり、片側はのっぺらでもう片側は海が見えます。
江戸時代の月も裏側は見えるはずないのですが、裏側が半分見えているような図で
いなげじゃなあと思いました。

江戸時代の天文学すごいなあ!!
と感動していた私を最後にがっくりさせてくれたのが三球儀。
ペリーから送られたものではないかとされるものですが、
これ、理科室にある!全く同じじゃん!
ろうそくを電球に変えただけじゃろ!!
200年も教具が変わっとらんってどういうこと!?

しかもこれ月の満ち欠け分かりにくくてうちよう使わんやつ。
と科学技術の進歩と教具の進歩のなさに愕然としました。
まあそうですよね。
この時代に未だにカセットCDラジカセが現役、
図書カードも未だ記入式、理科室にエアコンないですから。
うん・・・。
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「場合によっては賊」頼山陽逸話

先の明治に発刊された「英雄の片影」ですが、
戦国武将以外にも江戸時代の人物の逸話もあり、
幕末という比較的新しい時代のまで収めているようです。

ついでに安芸関連ということで頼山陽先生の逸話。
現代語訳
「場合によって賊

 頼山陽が大阪にいる時の話だが、新町の妓楼で日がな遊び続け、
 それが数日にも及んだので、財布の中はすぐに空になってしまった。
 楼主は代金を支払わない山陽に対し、罵詈雑言も交えて督促するので
 山陽は舞妓に命じて紙を運ばせ、たちまち書を10枚作り
 それに手紙を添えて雲華上人の所へ使いの者を出した。
 
 雲華上人はちょうど、難波の別院で説教を説いており
 聴衆がたくさん上人の周りを囲んで説法を聞いていた。
 そこへ妓楼から使いがきたので、皆は不思議に思ったが
 上人が手紙を読むと、山陽から云々と書かれてあったので
 20両のお金を直ぐに用立てると山陽の書を買った。
 聴衆も驚いたが、妓楼の使いも驚愕し、
 「この人は何者なのか。」
 と、雲華上人に尋ねると
 「彼は当代天下第一の豪傑、山陽先生である。」
 と答えたので、ここから山陽の名は世に広まり
 山陽の書を欲しがる者が日々、群集して求めるということになった。

 後に、山陽が日本外史を編纂した時に
 本の中に本願寺を一向賊と書いてある箇所があった。
 雲華上人はこれを見て、山陽に詰めよった
 「顕如上人は朝廷に叛いたことがないのに、何故に賊という字を当てたのだ!?」
 と聞くと、山陽は
 「これは織田氏の伝記による話の中なので
  織田信長が本願寺のことを「一向賊」と言っただけだ。
  もし、法王の伝記を作るとなれば、
  信長のほうを賊としようと思う。」
 と答えたので雲華上人も納得して深く責めなかったとのことだ。」

頼山陽はわが国に「日本史」という概念を広めた人です。
それまでは太平記など、その時代だけまとめたものや
天皇家や各家毎の歴史をまとめたものなどはありましたが
通史的な概念でまとめたものはありませんでした。
徳川光圀による「大日本史」という日本史をまとめたものはありましたが
水戸藩の重大任務であり、一般に公開されるものではありませんでした。
しかし、山陽の記した「日本外史」は、読み物としても面白く
大名から庶民までが読む大ベストセラーとなります。
例えるなら、幕末の司馬遼太郎のような感じです。

その山陽は結構破天荒な性格で
大阪生まれの広島育ち。
蟄居中に日本外史の元になる草稿を書き上げると
結局は広島ではなく近畿に居を定めます。

で、この逸話。
さすが歴史家だなあと思うのが
「信長」にとっては一向衆は「賊」ですが
もし「顕如法王」からすれば信長こそ「賊」。
歴史とは見る立場から正義が変わる。
それをよく知っていたところです。

この間の講座で「征伐」という言葉について岸田先生が
語っていましたが、「四国征伐」「九州征伐」と普通に使っていますが
「征伐」とは悪を成敗するという意味。
でも、それは秀吉からみた「征伐」であって、
四国や九州の人が何か悪いことをしたのかというとそうではない。
歴史は勝者が作ると言いますが、
当たり前に使っている歴史用語は本当にそれでいいのか?
立場を変えれば悪も正義もない。

雲華上人もそれを悟っていたから
山陽の一見、屁理屈のような話にも納得したんだろうなと思います。

因みに、本願寺では今でも信長さんとの戦いを忘れてません。
夕方のお経、超高速で、
「え?本場のお経ってこがいに早いん??」
と叔母と2人でびっくりしていると
夕方のお勤めが終わられて、正面を向かれたお坊さんが
「このように早くお経を読んだのは、
 本願寺が織田信長に攻められた石山合戦の時に
 戦中でもきちんとお勤めできるよう速く読んだのが始まりです。」
と説明して下さりました。

本願寺から見れば本拠地や門徒とあらば女子ども容赦なく殺す織田信長こそ賊。
信長からすれば天下統一を妨げるほうが賊。

ふむ・・・。
次、元長の睨み目

いざ中津城!~耶馬渓と福沢諭吉~

以前、黒田官兵衛クイズを上げた際にも書いたのですが
職場で旅行に行って参りました。
今年の大河に因んで
「別府温泉と黒田官兵衛の中津城へ!」ということで、車内で予習というか
大分偏った事前学習を行いました。

2問目から「わからん!!」となったので
説明の説明をしよったらあっという間に壇ノ浦。
気付けば1時間ぐらい講義してました・・・。
少しでも身近な問題を・・・ということで隆景さんとの絡みを話したので

「竹中半兵衛とばかり仲が良いのかと思っていたけど・・・。」

という質問をされた方もいました。
ううん、半兵衛さんとの逸話も結構あるんですが
半兵衛は中国攻めの途中で亡くなっているので
一緒に居る期間が短かったためか
黒田家譜の逸話だと隆景さんの方が多い気がします。
・・・まあ、官兵衛さん、高松城の水攻めの2年後に
隆景さんと一緒に播磨~備中旅行してるというか

お供に連れてって下さい!!
なっているから親友というよりも、
憧れの先輩ポジションなんだろうなあと思います。
隆景さんも異母弟達を相当可愛がっていたから
下から慕われるのは嬉しかったのかもしれません。

で、中津城の前に「耶馬渓」へ。
頼山陽先生が名付けられた有名な渓谷です。
まるで仙人が住んでいそうな
日本じゃないような不思議な風景が広がっています。

yabakei2.jpg

おお!これがあの耶馬渓(入口)か!

と感動はしていたんですが
バスレク終わった直後から人生初のバス酔い・・・。
今までの人生で3回しか乗り物酔いをしたことなかったので
結構きつかったです。
・・・原因は前日12時まで飲んで、最終便で家に帰り
朝早くに起きて、バス3時間という無茶したからなんでしょうが
お昼御飯に出た味噌汁と鍋で大分回復しました。
二日酔いには味噌汁効く~!!
と大分元気になったとこで周囲を散策です。

まず駐車場で気になっていたコレ。

やばけい1

「安芸の国 越えて長門に またこえて
 豊の国ゆき ほととぎずなく

 ただ恋し うらみ怒りは影もない
 暮れて旅籠の欄による時

 若山牧水」

・・・おお!若山さん、ようわかっとる。
といっても若山さんは宮崎出身なので、
おそらくこれは頼山陽先生を意識したものかなと思います。

安芸の国を越えて、長門をまた越えて・・・。
うん、長かったです、ここまで。
頼山陽先生は耶馬渓を気に入っていて
大分の友達に会いに来るたびにちょくちょくよっていたそうです。
今は高速と国道でばっといけますが
当時は関所が多くあったはず。
越えるのも大変だったのではないかと思います。

それともう一つ

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看板説明によると明治期この山が売られそうになっていたそうです。
景観が壊されてはならないと、福沢諭吉が中心となってこの土地を買い取り
保護したそうです。

福沢諭吉は御札のイメージか「学問のススメ」しか知らなかったんですが
そういう自然保護活動もしていたんですね。
驚きでした。

それと、この峰。競秀峰というんだそうですが
この下が有名な「青の洞門」になっています。

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「青の洞門」は江戸時代、ここは命を落とすような難所であったので
旅人のために、こつこつと30年かけて掘った洞門、ようはトンネルです。
今は改修されて手彫りの所は一部しか残っていないと案内板にありました。

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中に入ると、人がすれ違えるぐらい幅があり、
壁には今も鑿の跡が残ってます。

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岩自体は礫岩と砂岩の堆積地形のようで
割と掘りやすい地形ですが、頭ほどもある礫がごろごろしているので
鑿で彫るのは大変だったろうなあと思います。

現在は上を道路が通っているのですが
ゲームに出てきそうな珍百景が広がってます。

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洞門といっても、江戸時代に電気はないため
明かりは自然採光です。
所々、明かりとりの窓が開けられていたようです。

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この川の水の色が映って
青く見えるから「青の洞門」というのかなと思いました。
晴れていればもっと青が反射しているのかもしれません。

中津城へ

酒都西条~島左近から始まった日本酒の歴史~

武将カフェ目当てで行った西条ですが
日本三大酒処として有名な場所で
石州瓦に白壁の町並みが綺麗な所でもあります。

何より各蔵で酒の試飲が出来たり
名物の美酒鍋とか、大吟醸をかけたアイスとか
至福の時間が過ごせるのです。

駅から左手に路地を歩くと酒蔵通りにでます。
その入口に、西条の酒蔵のお酒がどどんと並んでいます。

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・・・いけん。酒のラベルを観とるだけで幸せじゃわ。
西条の酒はやっぱり吟醸酒。
この間東北からきた友人に酒を勧めたんですが
「全然酒臭くない!」
とおいしさにびっくりされていました。
若者の酒離れが昨今言われていますが、
まあ、私達の世代は、親世代が飲む大量生産の酒のアルコール臭いにおいから
日本酒を忌避している方が多いため、
こういう蔵仕込みのお酒を知らない方が多いです。
なので本当のお酒を飲んだら、そのおいしさにはまる人も多いんですが、
飲み屋もチェーン店だとおいてないから飲む機会も少ないのかなと思います。
なので私も飲んだ事がある銘柄は「亀齢」と「賀茂鶴」「山陽鶴」だけで
全部ではありません。
もっとも広島の地酒は種類が多いので
呉の雨後の月、三原の酔心、三次の美和桜
音戸の華鳩、白島の蓬莱鶴、可部の菱正宗と
挙げればキリがないので
地酒のお店に行っても西条のお酒が全部そろっている事は稀です。
なので、10月12・13日の酒祭りで
是非とも全酒制覇を目指したいものです。
広島県の酒だけでなく全国の旨い酒も飲み放題なので
心躍ります!!

それはさておき、
「西条酒造王国」
と堂々とした字は竹原出身の総理大臣、池田勇人首相の字です。
竹原も酒に関係が深く、
日本で初めてウイスキーを作った竹鶴があります。

酒造王国と銘打っているのは誇張ではなく
明治時代に設立された国立醸造試験所を中心として
100年以上も酒造りの研究を行っており
日本の酒造りに大きく寄与しています。

今、地酒が再び見直されていますが
日本の水はほとんどが軟水。
麹の発酵には硬水の方が向いているため
硬水の湧出する灘など、
昔はおいしい酒を作れる所は限られていました。
しかし、明治に安芸津の三浦仙三郎が、
軟水による醸造法を開発します。
彼は苦労して編み出した軟水による醸造法を惜しげもなく教え、
全国で酒作りが活発になりました。
彼の造り出した手法は後に「吟醸造り」と呼ばれ
日本酒では最高峰と言われる吟醸酒が誕生したのです。

この酒の町、西条のきっかけは
戦国時代最後の戦いとも称される関ヶ原の合戦が契機です。
酒蔵通りを歩くとまず初めに見える大きな白壁。

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白牡丹酒造の酒蔵です。
白牡丹は広島県で一番古い酒蔵で
創設当初の酒蔵が今でも残っています。

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延宝蔵説明

「延宝蔵の由来

 古記録によると
 「慶長5年9月関ヶ原の戦に島左近勝猛、
  西軍の謀士の長たりしも戦に敗れ、長男新吉戦死す。
  次男彦太郎忠正、母と共に京都に在りしが、
  関ヶ原の悲報を聞き、西走して安芸国西条に足を止む。
  彦太郎忠正の孫、六郎兵衛清正、延寶3年酒造業を営む」
 とあります。

 延寶3年(1675年)よりこの地において、
 酒造り一途に今日に生きて来ました。
 嘉登屋の酒として、また天保10年より白牡丹として生かされてまいりました。
 白牡丹は高まりゆく人気に対して、襟を正してまいりました。
 品質への信頼によって支えられる人気ほど、有難く、貴重なものはないからです。」

なんで安芸に逃げてきたのかを推考するのも一興ですが
西条の酒造りはここから始まりました。
西軍が敗れていなければ、という仮説が歴史ではよくありますが
西軍が負けていなければ、西条での酒造りが現在の様に隆盛であったかは疑問で
軟水醸造法が確立していたかも疑問で、
吟醸酒が生まれていなかった可能性があるのです。
もっといえば日本産のウイスキーも開発されていなかったかもしれない。
ということで、酒の歴史を考える上で関ヶ原の合戦の勝敗は大きな転機でもあった。
のかもしれません。

それから西条で酒造りが盛んなのは、
歴史と技術だけでなく水も関係しています。
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「白牡丹」酒造さんの前に湧出水がありました。
近所の方が汲んでいたため、写真では上手く撮れていないんですが
「冥加水」と呼ばれる名水で、
江戸時代には飲むと目がよくなると評判の水だったらしいです。

西条はかつて湖だった盆地で
竜王山の地下水がいたる所で湧いています。
広島は花崗岩の土地であり、
全国で10番目に多い人口を抱える広島市でさえ
「水道水のおいしい都市」に選ばれるほど
水がおいしい土地でもあります。

酒の命は水!
ということで実際に使っている水を
各蔵では無料で開放している事が多く
例えば向かいの亀の齢と書いて「きれい」さんも
水を汲めました。

P9071659.jpg

「亀齢」は辛口と称されるのですが
結構飲みやすくて好きです。
名前見るだけでテンションあがるぐらい好きです。
横には併設の酒蔵の歴史を辿る資料館もあったのですが
残念ながら時間がなかったためまた次回です。

P9071658.jpg

それから「西條鶴」さんの蔵もありました。
P9071657.jpg

酒都とかいて「しゅと」と読む。
西条は酒造りの中心でもありますが
味も確たるもの。
明治のパリ万博に出品して賞を獲るだけでなく
全国酒類品評会でも当初予想されていた灘・伏見の酒を押さえて
多くの蔵が受賞し、長年受賞数一位の座を保ち続けていました。

中でも有名な蔵が「賀茂鶴」
賀茂鶴の大吟醸ゴールドはお正月の定番。
金箔入りの豪勢なお酒です。
滅多に飲めない酒のため、
余計においしいイメージが定着しています。
この「賀茂鶴」も古い酒蔵で
江戸時代には御茶屋もまかされていました。

御茶屋

御茶屋とは広島藩独自の言い回しで
他所では本陣と呼ばれているものです。
参勤交代で大名が泊る際に宿泊施設として豪商に任せたもので
ここには毛利氏、島津氏、細川氏、鍋島氏等が本陣として利用し
その際酒を提供したと記録にはあるそうです。

それから、酒といえば吟醸酒。
酒の臭いが好きな方は純米酒と言うんですが
繊細でアルコール臭の少ない吟醸酒の方が味が楽しめて私は好きです。
酒は水だと言う方がいますが
本当においしい酒はやっぱり水のように飲みやすいです。

そんな吟醸酒で酒の全国大会でも名誉賞や優等賞、金賞の常連に名を連ねる蔵が
賀茂鶴です。

P9071669.jpg

蔵では見学施設があり
酒を試飲できます。

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賀茂鶴ゴールドもあったんですが
予算的に「蔵生」か原酒にするかですごく迷ったんですが
すっきりとした甘口の「蔵生」をお土産にしました。
これで金曜の晩の楽しみができたというものです。

あ、それから元就番外編の東広島はっけん伝で出ていた「くぐり門」にも行きました。

くぐりもん

建物が繋がっていて
面白い形をしていました。
観光案内所を兼ねているのですが
そこに「銘柄」Tシャツがあって、
凄く欲しかったけどそれをどこに着ていくんだ
と買うのを断念しました。

今度は西条酒祭りで西条に再び行きたいなあと思います。

交通科学館公開講座「西国街道」講義録

去年、広島市交通科学館で行われた公開講座
「西国街道」の講義録です。
講師は広島大学大学院教授
佐竹 昭先生でした。

ただ、今回資料を紛失してしまい
少しおぼろげな所もありますのでそこの所はよしなにお願いします。
大掃除で張り切り過ぎて捨てたのかもしれません・・・・。

で、西国街道。
西国街道とは諸説あるのですが
門司から大阪までの道をさすそうです。
今回はこの街道の江戸時代、宿場町についてのお話でした。
といっても古代と違い、江戸に政庁が置かれたために
西国街道の重要性は下がったことと
瀬戸内海の海の道もあったため
陸路は古代ほど重要視されなかったこと
開発によって遺跡が消えている事などから
西国街道の詳しい道筋は全てが分かっているわけではないそうです。

因みに、海の西国街道の場合
淀か室津で船から乗り換えて陸路を通って大阪へ入ったそうです。
交通の拠点という流れは現代にも続き
網干から新快速が出ているのはそのせいなんだそうです。
網干(あぼし)は町としてはそんなに大きくないんですが
新快速の始発になっているのはそのせいかと驚きました。

で広島の宿場について。
広島が江戸時代に宿場にされていたかどうかはよう分からんのだそうです。
というのも瀬野と廿日市の間なので
別に広島で泊らなくても十分旅することができる距離なので
いかに日数を減らすかというのが課題の参勤交代では
すっ飛ばされた可能性があるんだそうです。

あと大名や幕府の役人が泊る公認の宿を本陣といい
広島の場合ではお茶屋と呼んでいたそうです。
この本陣には唐破風の屋根があったり
関札と呼ばれるようは何々様御一行のような札があり
それとあぶれた御供が泊る脇本陣を構えていたそうです。

この本陣では大名が泊る以外に人夫や馬の交換をしていました。
参勤交代や幕府の役人が使うときは幕府の示した定額、
御定賃銭で取引するのですが
民間に比べると安値であったため人数制限をしていたのですが
なぜか広島藩は何人でも何頭でも公定価格でオッケー!
と設定したんだそうです。
当然儲かるわけもなく、赤字は全てその郡が全体で賄うのですが
この太っ腹設定は幕末終わりになると市場と5倍近い差になり
これではやっていけないと料金設定をし直したのが幕府の倒れる数年前の事。
よって宿場町を抱える郡は結構大変だったようです。
しかも、広島は海と陸の両方の宿場があり、
地方と浦方と税負担を分けて何とかしようとしたようですが
結構きつかったようです。
また、時代が下がるほど交通費ははねあがったようで
少しでも負担を軽くするために
安価な広島藩で多量の人夫や馬を雇ったりと
ますます負担が大きくなったようです。

ただ、そうはいっても宿場にもうまみはありました。
公認宿なので旅人が泊ったり馬を借りるには
民間人もここで借りなければいけなかったのです。
しかしそれでも赤字経営だったようで
宿場経営は藩にとって大きな課題だったようです。

とはいえ、宿場町は今でも江戸の風情をよく残しており
岡山の矢掛宿や備後の神辺本陣の建物は
見事な建物でした。
ただ、維持も大変らしく神辺のほうでは
黒田家の泊っていた本陣のほうしか残っていないそうです。

で、広島はというと海田宿についてお話されてでした。
海田も開発の波にのまれてもうお茶屋跡はありません。
が、現在でも江戸時代のままの区画で残されていて
今の地図と昔の地図を重ねると小さな路地までぴたりと重なるんだそうです。
実際、図を見させて頂きましたが
ほんとうにぴったりそのままで
200年も同じ区画というのに驚きました。
町はすっかり近代化しているんですが
昔ながらの長屋の細い区割りで
その中にどんと大きな公民館があり
それがお茶屋をしていた庄屋の家の区画になるんだそうです。

古い家並みが消え、町並みが変わっても
変わらないものがあるんだなあと思いました。

で、この海田宿。
ここは計画的に作られた町で
山へ繋がる西国街道と海に繋がる瀬野川という
交通の要所を押さえた場所だったようです。
宿場町というと昔から人で賑わっていて自然と大きな町になった
というよりもこうして計画的に作られているんだと仰ってでした。

また、海田宿の特徴は
宿場町の町民が海を開拓してできた綿畑での労働が主であったことだそうです。
綿はアメリカで奴隷制が進んだように大量の労働者がいります。
そのため宿場なのに労働者用の長屋がたくさんあったようです。
まあ、安芸は元々移民県なので江戸時代もかなり出稼ぎを行っていたらしく
海田もそんな中で発展していった町なのだろうなと思います。

また、ここはお茶屋の記録が詳しく残っていて
出していた料理など事細かに記録があるのも特徴だと仰ってでした。
例えば長州藩士が泊りに来た時に
上級武士には武将盆という特別なお膳を出していたり
用意していた煮つけを出し忘れていたから朝餉に出したとか
そんな愉快な?失敗も書いてあったりするんだそうです。
この長州藩御一行様は総勢24人。
一応宿代は普通の金額を払っていたんですが
なぜか御祝儀として金で30万ぐらいぽんと渡してくれたらしく
それをいれて何とか黒字になったようです。
・・・・。
察するにこの長州藩士の気前良さは時代的に
御先祖様万歳!の時期で先祖の地である安芸に来たから
文字通りの大判振る舞いしたんじゃないかなあと思いました。
うん、だからそりゃあ吉田じゃなくても
「長州様万歳!毛利家万歳!」
になるわなあと思いました。
ただでさえ浅野さん安芸の民にしてみれば外様扱いなのに・・・。

あとこうした宿場で人をもてなすから特産品が生まれたのではないか
と先生がおっしゃてでした。
実際、岡山の矢掛では「ゆべし」が食後に出され、
「ゆべし」は今でも岡山名物になっています。
それと同じく海田では「京菜」や「牡蠣」がだされており
これも「広島菜」と全国7割の生産を誇る「牡蠣」であり
特産品となっています。
宿場があったから名物が生まれた。
そう考えるとなるほど!面白いなあと思いました。
プロフィール

トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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