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あぐり姫と尾関山~忠臣蔵・浅野内匠頭の妻の生家~

来週は12月14日、
そう赤穂浪士の討ち入り!!
・・・なんですが、私の誕生日でもあります。

何の因果か、赤穂の隣の相生に祖父宅があり
赤穂は祖父の家に遊びに行く時に度々よる場所でした。
そのせいか、幼少時から、
誕生日=赤穂浪士討ち入りの日
とインプットされています。
そして、大体週末なので、
昔は赤穂浪士のドラマや映画がよく流れていて、
ケーキの後にそれを見るのが恒例でした・・・。
思えば、歴史にはまる素地はそういう所で形成されていたのかもしれません・・・・。

まあ、それはさておき、浅野といえば
すっかり有名な赤穂浅野藩ですが
実は本家は広島浅野藩。
地元民でさえ知らないことが多いのですが
赤穂は広島の分家。
なので、支藩の起こした騒ぎに一番やきもきしたのは広島だったようです。

それから、赤穂と同じく、浅野支藩だった三次藩。
三次藩の藩主の娘が、浅野内匠頭の妻、あぐり姫です。

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看板説明
「阿久利姫(1669~1714)
 
 阿久利姫(後の瑤泉院)は、初代三次藩主・浅野長治の息女で
 7歳まで三次で過ごし、14歳で赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に嫁ぎました。
 
 かの刀傷事件の後に落飾し、義士討ち入りの事件に連座した人々の
 赦免嘆願に尽くし、長矩の菩提を弔いながら45年の生涯を終えました。
 (以下略)」

この像は三次藩の屋敷があった尾関山に建っています。

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ちょいと縮小しているので見えにくいのですが
山の各所に郭の跡があります。
元は三吉氏の重臣、上里越後守が居城にした城で
その頃は小丸積山といったそうです。

で、この公園、もう一個気になるのが
キリシタン灯篭。
もとは比熊山のお寺にあったものだそうですが
今はここにあるんだそうです。

安芸は浄土真宗、門徒が多いのですが
安土・桃山時代はキリシタンも割とおり、
熊谷氏など国人衆の中にも
キリシタンになった方もいるようです。
詳しくはこちら

因みに名前の阿久利とは
女の子が続いた時やこれで女の子が最後であるように、
次の男子誕生を願ってつけられる名前なんだそうです。

阿久利姫の過ごした城跡は
今は紅葉と桜の名所として有名です。

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北の紅葉はやっぱり黄色い。

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緑と赤と黄色の三色。

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紅葉を散らした小道。

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紅葉なのにしだれている枝。

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散った紅葉もまた一趣。

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地面に花が咲いたみたいです。

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夕日にあたって真っ赤に染まる。

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頂上の石見台。

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残照の紅葉。

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何だか出てきそうな・・・・。

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次のは同じ場所。

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私のカメラは結構古いのであまり画像もよくない上に
ブログにあげる写真は加工もあまりしないのですが
焦点をどこにあてるかでこんなに違うものだなと
しみじみ思いました。

意外と日のあたる南の郭は小さいので
ここで過ごした阿久利姫さん
寒かったんじゃないのかなと思いました。

遺髪塚があるお寺もあるんですが
また次に~。
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忠海番外  浪士組「学者先生」池田徳太郎の生家

乃美宗勝さんの肖像画を堪能した後
今度は忠海の町を巡りました。

忠海はかつて大崎上島などの
島と島を結ぶ要衝であった場所。
そのため、町はかつて海の玄関口として
賑わったその名残が今も残っています。

まずはお寺。
屋根に猫が乗っていて
カワイイ!!

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・・・そしてどこにでもある蘇鉄。
秀吉が蘇鉄くれと手紙寄越してたし
安芸は蘇鉄栽培で有名だったのかと思うほど
蘇鉄って公共機関のどこにでも有る気がします。

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このお寺の壁のこの線は
なんか格式がどうのこのうと昔聞いたことがありますが
ううん、どうだったか。

まあそれはおいといて、
港町らしく所々にある路地が素敵です。

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瀬戸内の港町はすべて路地は海に向かって伸びています。

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竹原で見たような商家です。
江戸時代のものかなと思います。

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うだつのあがるお家。

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今は懐かしいガラス張りの家。

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三枚目の写真の一番奥の家。
「池田徳太郎の生家なんですよ。」
と、案内人のおっちゃんが紹介してくださりました。

・・・・?
池田徳太郎???
え?幕末の浪士組作った人!?
新撰組つくったような方がなんでこんなとこに??

いや、新撰組の元を作ったような人なので
てっきりあっちの人かと思っていたら
忠海出身だったんですね!!
しかも基はお医者さんで
才有って広島藩士にとりたてられた方・・・。

え?浪士組作ったのに広島藩士だったん??

・・・何だか幕末史が大いに混乱してきました。

「二十歳の炎」という本に詳しく載っているよ
と案内人のおっちゃんが言うたので
すかさず鞄に入っていた本を出しました。
なかなか売っとらんのにとおっちゃんに驚かれましたが
広島の護国神社で買えます。
ああ、先に読んでからくればと少し後悔・・・。

池田徳太郎は清河八郎の右腕とされた人物。
清河八郎は新撰組に謀殺されるので
小説とかでもあまりよく描かれていることはない方なんですが
新撰組の基となる浪士組を作った方です。
で、この清河さんは庄内藩出身。
なんで安芸出身の池田徳太郎さんと知り合いになったんじゃろうか。
そもそも池田さんはほんまに忠海出身なんかと調べてみたら、
「あ、うん。池田さん、
 まぎれもなく広島人じゃ。」
と納得しました。

この人だ!!と思ったら例え自分が獄卒送りでも進んで引き受ける!
そして、その人の身内や後輩も我が子のように大切に扱う親分肌。
ただし、地雷があって、そこを踏みぬくと
きれいさっぱり縁を切る。


・・・・。うわあ典型的な方じゃ。
因みに、血の規則で隊員を厳しく縛り上げた
新撰組の前衛の浪士組から脱退したのに
唯一切腹や暗殺もされず、
脱退後も隊士たちから慕われていた方らしいです。

・・・ちょっとお家保存が厳しそうな感じがしたので
是非幕末ファンの方を動かして、保存活動できんじゃろうかなと思いました。

今は穏やかな忠海。
ここが幕末の志士を生み出すきっかけの一つに
外に開かれた地であったのもあるのかなと思いました。

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誓念寺
ここは朝鮮通信使も宿泊した広島藩の迎賓館のような場所。

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お寺の前の階段は雁木の名残なんだそうです。

今は鉄道で乗り換えて、1時間に1本の辺鄙な場所ですが
かつてここは新しい風がいつも吹き寄せる
活気に満ちた港町だったのだなあと思いました。

ついでに同じ忠海出身の池田さんで有名な方と言えば
朝どらマッサンこと竹鶴政孝さんの一つ下の後輩
「所得倍増」をスローガンにした池田勇人内閣総理大臣。
・・・まさか親戚ってことは・・・。

次 居城・賀儀城

前 乃美宗勝という男

「長州戦争と広島」感想

広島城で今日まで開催されていた企画展
「長州戦争と広島」に行ってきました。

企画展の時は毎週日曜日に11時と14時から学芸員さんによる
企画展の解説があるのでそれに間に合うように行きました。
広島城、最近人が多くなってきていて
今日も館内は天守の入り口から人がようけぇおりました。
館内も賑わっていて、人が多かった。
そのほとんどが観光客の方だったらしく、方言が違いました。
「初めて来たけどなかなかいいね~。」
と言って下さる方がいて何だか嬉しかったです。
ただ、毎回思うのですがぱっとみ2割ぐらいは外国の方なので
英語表記がもっとあればいいのになあと思います。

で、いざ4階の企画展へ。
大学の時にアルバイト先でお世話になった学芸員さんが
解説をされているので始まりと終わりにがっつり色々と聞けました。

まずは来年の大河の主人公の旦那「久坂玄瑞」の直筆の歌。
禁門の変での朝敵になったことを歎いた歌で
これ来年だったら絶対貸出してもらえないだろうなあと思いました。
なので今の内にじっくりと見たんですが
七卿の内に「三条西」さんがいたんですね。
元就さんの和歌集作る手伝いしてくれた人で
輝元が京都に滞在時にも訪問しているから
江戸時代を通じて何らかの繋がりを保っていたのかなと思いました。

それと町民から見た長州戦争の史料もありました。
第一次は講和によって戦わず集結したのですが
町民達はそれを機敏に見てとっていて

「今度の戦は 八じ丸かな
 戦は や丸 げな
 いやいや 戦はわやになります」


という狂歌が張り出されていたらしいです。
広島弁を巧みに取り入れたもので
「八じ丸」は「はじまる」。
当時の幕府の総大将尾張の徳川慶勝が用いた旗印が
「丸に八」であったのをもじったもので
「や丸」もこの印を8つ書いて図示していました。
因みに「や丸」は「止める」の広島弁「やまる」です。
個人的に最後の「わやになる」が受けました。
結局戦は起こりませんが、確かにわやになった。

第一次の時は、禁門の変時に兵を率いていた
3家老、宍戸、国司、福原の三人が切腹し
国泰寺で首実検が行われ、その図もありました。
国泰寺は今は平和大通りになっているので
当時の寺は庭園跡しかないので
昔はどうなっていたのか分かって興味深かったです。
・・余談ですが、これ見終わって外に行くと
武将隊に宍戸さんがいたので何とも言えない気持ちになりました。
・・首の図を見た後なので。

あと、幕府が召集をかけた3万の諸兵が
広島の地理を知るのと手土産に持って帰った広島城下の絵地図がありました。
お寺の屋根を色を変えて分かりやすくしており、
「迷ったら寺の屋根を見よ。」
と注意書きがしてあって、町中でもお寺の屋根は一際高かったのだなあと思いました。

あと、第1次長州戦争時の広島城下の写真がありました。
総督として来た徳川慶勝が撮った写真で
彼は会津若松城の写真とか名古屋城の写真とか
幕末の貴重な記録をされています。
広島にも来て、写真に取っていたのは知らなかったので驚きでした。

そして、第2次長州戦争。
この敗北が幕府を崩壊させた大きな原因になります。
よく幕府軍の敗北は関ヶ原時代の装備で近代化された長州藩に向かったから
と言われていますが、実は幕府もきちんと近代化をしていて
その証拠が紀州藩が広島から江波まで行軍した様子を描いた巻き物にある。
と学芸員さんが説明されました。
見ると皆鉄砲を担ぎ、鼓笛隊までいます。
幕府もフランスから近代的な軍隊について学んでいたが
長州が勝ったのは皆がよく実戦練習をしていて
その差も大きかったのではないかと仰られていました。

ただ、やはり装備の差もあったことはあったようで
先鋒を任された徳川四天王の井伊家は代々の伝統に則り
赤備えで攻めたため、鉄砲の格好の餌食となり、惨敗。
・・・まあ安政の大獄起こした井伊さんだから恨み骨髄だったのもあると思いますが。

それと多勢に無勢で勝った要因のもう一つに
散兵法を下に至るまで徹底して教え込んでおり
これがかなり効いたそうです。
長州藩では兵法についてかなり徹底的に仕込んでいたらしく
文庫サイズの戦法書を配り、いつでもどこでも勉強できるようにしていたそうです。
・・・まあ毛利家は戦国時代から兵法は教えていたから、
それが幕末でも活きたのかもしれません。

私はもう一つ、長州藩が芸州口に詳しかったのもあるのではないかと思いました。
長州藩が戦術を立てる際に描かれた「芸州口追手搦手地理図略」があるのですが
これには芸州から小瀬川に至るまでの道や距離が詳しく描かれているのです。
長州藩が芸州に詳しいのは故国ということや陰徳太平記などの軍記物などが
残っていることもあげられます。
それと幕末間際に起こった
「ご先祖様万歳!運動」
芸州内部はまさに庭。
攻めるも守るも他所から来た幕府軍よりは、みやすかったはずです。

それから興味深かったのは艦隊による戦闘が日本で初めて行われた事。
・・・しかも宮島沖。
折しも陶軍VS小早川・村上水軍の激戦地で
今回も毛利軍が勝ちました。
厳島合戦再び!!
というところでしょうか。
そりゃあ幕府軍勝てんわと思います。

帰りに売店で今期の図録を買って帰りました。
前回の「輝元の分岐点」も併せて買って帰ったら
母が
「学芸員さん、車だけかと思ったら歴史もできてすごいのね!」
と私より先に読んでました。
特に昔住んでいた庄の町は
「庭瀬とか城跡があったのね!ここが昔住んでいた団地でしょ。」
と細い字を一生懸命読んでました。
特に播磨から備中までの大まかな城の図は
大河もあるので熱心に見ていました。
・・・これが大河効果かとしみじみと思いました。

公開講座講義録「幕末維新の高田郡」~広島の藩主は毛利じゃないけぇ(涙)~

一昨日は安芸高田市歴史民俗博物館主催の
「幕末維新の高田郡」
という公開講座に参加させて頂きました。
講師は県立文書館の西村晃先生です。

かねてから幕末の安芸には興味があって

昭和まで生きた最後の大名 浅野長勳昭和まで生きた最後の大名 浅野長勳
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という本を読んでから
「幕末の安芸すごい活躍しとる!!
 安芸なくして明治維新は起こり得なかったのに
 なんで歴史の表舞台から消えたんだろう?」
と常々疑問に思っていたのです。

あ、余談ですがこの本ぶちおもろいです!
物語性もあり、かつ歴史的な史料も使われていて
下手な大河原本よりもよっぽど面白いです。
もうこれで大河一本作れるんじゃないかってぐらいに。
そもそもこの方、庶民に近いような清貧な生活をしていて
養子の養子で本家の世子、ようは若様になって・・・
という時点でもうドラマ性満載です。


よく竜馬がとりまとめた薩長同盟があるから
幕末は動いて行ったとされますがこれはあくまで秘密裏のため
実際は薩長芸の三藩が軍事同盟を結んでから本格的に動いたようです。
そもそも「大政奉還」も安芸が最初に出していましたし、
応変隊等の奇兵隊の安芸バージョンのようなものを作って戊申戦争に参加していたり
この時期に新たに八条原城を極秘に作っていざという決戦に備えていたり
と広島藩は内外で様々に動いていました。

その中で、今回の講座では吉田に作られた
「吉田御本館」がメインでした。
吉田御本館は吉田郡山城の麓に建てられた陣屋で
総工費銀約1000貫、米約1500石を使い
建坪440坪という広大や屋敷です。

陣屋とは様々な意味があるんですが
主に城の代わりに殿さまが住む場所や政治を行う場所をさします。
ようは一国一城令で廃城となった吉田郡山の麓に
城と同程度の建物を建てるということで
吉田の人々は「喜んで労役した。」と資料には残っています。
・・まあお上の言う喜んでがどこまで真実かはわかりませんが
輝元が広島を作って以来寂れた吉田の人達が喜ぶ気持ちもよくわかります。
今でも、輝元が広島に移らなかったら・・・という声を聞きますし・・・。

そんなこんなで莫大な金を使って作られた陣屋ですが
文久3年9月から作り始めて
何と8カ月で完成したそうです。

この陣屋には広島藩の藩主である浅野家の分家が入ってきたんですが
広島の人間にとって
「江戸時代のお殿様って誰だっけ?」
というぐらい浅野家は認知度が低いです。
特に講座が開かれている吉田なんか
「うちらの殿さま?毛利元就さんよ!」
という具合なので、
そもそも浅野家はどのような家なのかと
分家の仕組みについてかなり詳しく話をして下さいました。

まず、浅野家は浅野長政の子・長晟が福島正則後の広島に入り
広島藩主となります。
これが本家となりますが、
浅野家には、本家よりはるかに有名な分家
赤穂浅野藩と三次浅野藩
があります。
共に忠臣蔵で有名な藩で、
赤穂浅野藩は浅野匠之頭
三次浅野藩はその妻・あぐり姫の生家としてドラマによく出ます。

この分家のうち、まずは赤穂藩ですが
秀忠の小姓を務めていた浅野長重(長晟の弟)が
関ヶ原の合戦で活躍し笠間を領地としてもらったのが大名としての始まりです。
その後、夏の陣では大石家の祖先が活躍し、永代家老の名誉を得、
これが元禄事件の時の赤穂藩家老・大石内蔵助に繋がります。

その後、赤穂藩にもともと入っていた池田輝興が発狂し、
正室の黒田長政の娘を切り殺して御家を取り潰され、
その領地を長重の子・長直が貰い受けて赤穂浅野家は誕生します。
そして、この赤穂浅野家も分家を作ります。
分家は元々、本家の血筋が絶えた時の予備措置で
赤穂浅野家は家原浅野家と若狭野浅野家の2家が
分家として出来ました。

ところが、この赤穂浅野家、有名な松の廊下事件を起こし
取り潰されます。
この時代、まだまだ幕府権力は強く、
分家の不始末で本家も責任を負って取り潰される可能性もありました。
そこで必死になって討ち入りしないようにしたんですが
結果、討ち入りが行われます。
ただ、運が良かったというか何と言うか、
世論が赤穂浪士を持ちあげたため、
幕府もその時流に乗り、責任をとって罰せられるどころか
匠之頭の弟の浅野大学が旗本として復家し、
赤穂藩の分家も旗本としてそのまま続いたようです。

余談ですが、若狭野浅野家で赤穂浪士事件に関する多量の史料がみつかり
たつのに古文書が寄贈され、それを元に「藩士が見た赤穂浪士事件」
という企画展が東京で開かれていたようです。
若狭野は20年来素通りしている場所ですが
あんな場所に浅野分家が残っていたなんて意外でした。
ああ、でもなんで相生じゃなくて竜野!?
相生にも歴史資料館あるのに・・・。
っていうか相生市史に詳しくあるなら
今度じいちゃんちから借りてくればもっと詳しく分かるかもしれません。

で、次に三次藩。
三次藩は浅野長治が広島藩から分家したものです。
この長治は長晟の長男で、本来広島藩2代藩主になれたのですが
次男・光晟の母が家康の娘にあたるため、
次男・光晟が長子として扱われ、藩主になります。
そのため、長治は三次や上甲立、佐西などの
水運に関連する領土から5万石を捻出して別朱印分家を作りました。

別朱印分家とは、
幕府公認の独立した藩として扱われるため
分家とはいえ、宗藩と同じ負担が強いられました。
また、別朱印分家を作るとその分、宗家の石高が減りました。
石高が下がれば家格も下がるというデメリットがあります。

そこまでして作った分家なのに
三次藩は阿久里姫という名前がつけられたように
長治は男子に恵まれず、本家から養子を貰います。
ところがこの養子も宗家から養子を貰うはめになり、
ようやく嫡子ができたと思ったら
その子が藩主になって11歳で亡くなったために御家断絶。
分家なのに本家から養子養子で結局断絶。

しかも、この三次藩は別朱印分家であったため
幕府から浜御殿の修繕を命じられたり等でかなりの借金を負っていました。

そのため藩政改革を行うのですが
本家がよく考えて、無理なら相談して!
と散々忠告したのに独自に改革を行い、失敗。
しかもこの失敗は一揆を招きます。
藩の厳しい取り立てに、農民達は享保の一揆を起こし、
最初は三次だけだったのに、広島藩全域に広がって大事になりました。

この少し前に赤穂事件があり、
何とか本家取りつぶしを逃れたのに
今度も分家の失敗が一揆を起こし
しかも断絶。

なのでもう分家はこりごりだと思っていたのに
三次藩の藩士達が再興運動を起こします。
結局それに押されて再び三次藩を作ることになったのですが
これも一代で断絶。

こうして浅野家の分家はなくなったのですが
万一ということを考えて今度は内証分家を作ります。

内証分家とは、将軍の直臣という扱いにはなるのですが
あくまで本家の下の家という扱いなので
別朱印分家のように別藩としては扱われません。
そのため、藩を作ったといっても
別朱印分家のように領土が減ることもなく
本家の石高が減ることもないというメリットがありました。

たいてい、こういう内証分家は新田開発などで領地を捻出するので
新田藩と呼ばれることが多いのですが
浅野家は三次・赤穂でこりたので分家に領地を与えず
直属の家臣団を作らせませんでした。
蔵米取りといって、ようは財政から給地分の米を渡し
土地を直接支配させなかったのです。
とはいえ分家で藩なので一応屋敷を立てなければいけません。
この分家屋敷は東京の青山、今の表参道のあたりに建てられたため
青山内証分家と呼ばれました。
今でこそ、青山と言ったら街ですが
当時は水車の回るのどかな田園。
そこに6000坪の大きな屋敷を構え
江戸にずっといる定府大名として分家は続きます。

ところが、文久2年、文久の改革が起こります。
島津家の提案によって参勤交代が緩和され
定府大名も帰国することが可能となりました。
ですが、青山家は広島藩に帰っても土地がない。
ので帰る場所がないのです。
別に無理して帰らなくてもいいのですが
この後、吉田に来ることになり、
それで作られたのが冒頭の「吉田御本館」です。

つまり、吉田は青山藩の城下町となったのです。

しかし、屋敷を一から作るのはお金がかかってしようがないです。
なので、当初は吉田ではなく三次に三次藩時代の物を修繕して使おう
と考えていたようですが、急遽、吉田に新たに作ることになりました。

その経緯として、通説では
「長州藩が吉田を占拠する」
という風聞があったためとされます。
長州藩の父祖の地は吉田です。
戦国時代は逆に吉田から長州に攻めいって中国地方統一をしたので
荒唐無稽な噂とは言い切れません。
萩から安芸を攻めるには石見を通らなければいけませんが
この頃幕府は石見銀山の経営から手を引いており
石見を守るのは浜田城のみ。
実際、長州征伐で浜田城は落ちました。
よって、北の防備が必要と思ったらしいです。

この吉田へ移転の経緯について
広島はどこへも行きやすいけど逆にどこからも攻められやすい、
吉田は要害である。といった理由があるそうです。

しかし、吉田が選ばれたのは
「古来教化に潤わざる」
という部分が一番大きかったのではないのか
と先生は述べられていました。

この教化は広島藩が推し進めていた
孝行者の褒賞など儒教価値を高めていく教化、
とも考えられるのですが、
本当は吉田住民の意識じゃないかと仰ってでした。
「広島の殿さまと言えば?」
「毛利元就!」

という意識は江戸時代も同様だったようで
毛利氏が吉田に墓参りに来るたびにもてなしていたようです。

毛利氏は隣の長州にうつった後も
吉田に墓参りに訪れていました。
普通、他家の領地へ墓参りをしている家なんて聞かないのですが、
毛利氏はしょっちゅう来ています。
記録あるだけでもかなりの回数来ていて
元就さんの150回忌、200回忌だけでなく
興元・隆元の200回忌や300回忌までしています。
しかも享保3年の元就さんの150回忌は
153人もの弔問客が萩から訪れ
町人が大歓迎しました。

・・・。目に浮かぶなあ・・・。

一応享保年間の前までは
今は他家の土地だからと遠慮がちだったようですが
この頃に全国的に「ご先祖様は素晴らしい!」運動が起こったようで
山形で殿さま祭りが開かれたり
浅野氏も家譜の編纂をして先祖の記録をしたり
毛利氏も元就さんの神格化が図られたりしたせいで
「ルーツ探し」のブームだったらしいです。

まあ、毛利氏が度々吉田に来たのは
元就さんのお墓が移せなかったことが一番大きいんじゃないかなあと思います。
樹木葬というちょっと変わったお墓なので。
石だと壊れたり、移されたりしますが
樹なら動かせません。
この土地から意地でも動かんけえ!
という心意気を感じます。

と、まあそんな感じで吉田への参拝が盛んになり、
代替わりのたびに元就さんの所へ行くようになりました。
しかも、天保10年には
参勤交代の途中に吉田に代参したり
元就さん伝来の品を持っているという吉田の町人が
長州藩主にお目見えを許されるという事もあったそうです。
そして嘉永年間には戦国時代に亡くなった家臣も弔うという法要があったためか
長州藩士が盛んに安芸へ参拝するようになりました。

そして、吉田の町人側も大歓迎したらしく
元就さんの墓所までの案内図を売ったり
元就さんの250回忌に伴って
町人で歌本を作ったようです。

・・・。あの二階の展示品って
そうなんだと今改めて気付きました。

で、そんなこんなで町人と長州藩が
固い絆で結ばれていってるんですが

ここは安芸です

いやいや、長州じゃないから
アンタらの殿さまはワシら浅野じゃけえ!
というのが教化したかったのではないか。
だから、吉田御本館を建てる事で
「ああ、やっぱり殿さまは浅野さんかあ」
と認識&威光を示したかった点もあるのではないか?
と結ばれていました。

ただ、ずっと直系で続いていた本家が明治維新まであと10年
と言うところで途絶えます。
青山家は結局最後の最後で本家の養子になるという
初めて分家の務めを果たし、消滅します。
それに伴って御本館もなくなったようです。

なので、結局「わしらの殿さま=元就公」
という意識改革をどこまで変えられたのかは謎ですが、
多分、そう変わらなかったんだと思います。

現代でも浅野さんって誰それ状態・・・。
ああ、昔からそうだったんだなあと改めて思いました。
まあ歴史は連続しているから
祖父・祖母世代からしてそんな状態だから、
連綿と
「殿さまってそういえば誰だっけ?
 元就さん?」
状態だったんでしょうね。

多分市内に浅野さん関係が固まって住んでいたから
というのもあるんだと思うんですが
江戸時代からそうだったんだと思うと
そりゃあ統治大変だっただろうなあと思いました。

帰りに友と話した時も
「長州が元就を持ちだすのはちょっと譲れない!
 元就さんは安芸の人じゃろと思う。」

うん、TERUはあげる。
だけど元就さんは渡さん!
山口にいくら親近感あってもそこは譲らん!

ううん浅野さんの話の筈なのに
結局元就さんに辿りつきますね。


あ、でその後博物館の
企画展「毛利元就をめぐる女性たち」
へ参りました。

ガイドさんと巡る岩国と幕末の動乱と残念山についてちょこっと

行ってきました!
岩国!
念願の高速バスに乗って行ったんですが
早っ!
正味40分ぐらいで
正直、西条行くのと同じぐらいです。
通っていた県内の大学よりも近いってどうなんだろうと
軽く衝撃を受けています。
なので
「広島から来ました」
と言うと地元の方が
「はあ県外からわざわざ」
という反応をされたんですが
いえいえ、県内の地方へ行くのと変わりません。
むしろ、県外来た気がしません。
と心の中でツッコミを入れていました。


で、さっそく10時からあるという
「古地図を片手にまちをあるこう」
という地元ボランティアの方のガイドさんと一緒に
岩国探索をしました。
これは萩・長門・下関などの7市で
三月に始まった
「ディスカバー!長州ウォーク~古地図を片手にまちを歩こう」
の一環で、岩国の古地図を見ながら町歩きをするものです。
錦帯橋の関所で集合した時は
私一人で専属ガイドさんのような感じで
色々と案内をして頂いたんですが
説明も分かりやすくて親切でとってもよい方でした。

以前紹介した錦帯橋の土手にある
厳流の柳
ですが
錦帯橋ができたのは1673年で
厳流島の決闘が1602年か1612年で
どのみち錦帯橋ができていなかった頃のため
この柳で佐々木小次郎がツバメ返しを編み出したというのは
ちょっと信ぴょう性が低いのですが
広島の空鞘神社の由来が佐々木小次郎の決闘者の鞘がぬけて
神社の木にひっかかったから空鞘という名になったという伝承もある事や
小次郎の妻が阿武にお墓があることから
福井出身よりも広島か山口出身の方がすっきりします。
実際、広島には佐々木氏は多く、
田中さんや村上さん山本さんなみに多い名字で
閥閲禄にも何人か佐々木氏の名があり、
わざわざ越前から毛利家に仕えたんかな?と疑問です。

ただ、岩国にある目加田家という家があるんですが
この家は初め織田信長に仕えたものの地位を追われ
その恨みもあってか本能寺では明智光秀に付き、
明智光秀が敗れたたため、尼子氏へ仕官、
尼子氏が敗れた後(?)月山富田へ入った吉川氏に仕え
関ヶ原合戦後の防長封じで岩国へ
と物凄い変遷を辿った家もあるので
越前で生まれて安芸へ仕官しに来たとしても
まあ不思議はないといえばないです。
因みに目加田家由来はガイドさんに教えて貰ったんですが
この目加田家出身の方が
「平成」という元号を決める諮問委員だったそうです。

で、今日は何年かぶりにロープーウェーなる乗り物に乗りました。
宮島行っても意地でも乗らないんですが
ガイドさんの案内で行きだけ乗りました。

で岩国城を案内して頂いたんですが
途中に大きな郭の跡が多数あり
釣り井も今まで見た事無いほど巨大なものがあって驚きました。
何よりすごかったのが空堀!
幅10mぐらいの大きな堀が山頂の二の丸と本丸の間にあり
池か何かの跡ですか?と聞きたくなるほど大きなものでした。
何でも全国で一番大きな空堀らしく
側の竪堀も石垣で周囲を固めた堅牢なもので
どう見ても戦国時代は終わって天下泰平を目指した時期の城ではなく

敵はいつ攻めてきても大丈夫!
ばっちりやっちゃるけえ!


という「戦う気満々」の防御施設です。

また、石垣も姫路城のように
綺麗に表面を削って魅せる石垣の時代なのに
ものすごくでっぱりがあって
ものすごくごつごつしており、
敵なんか登らせるもんか!!
というやはり「戦う気満々」の城でした。
そもそも山城の時代は終わっており
世の中は平城が当たり前。
それをわざわざ新しく山城作ったあたり
徳川はいつ攻めてくるか分からない、
今度こそ一戦を交える覚悟だったんじゃないかと思いました。

そして岩国城!
桃山南蛮づくりという形式の城で
3層目の所に破風を設けず
でっぱりのある造りです。
これを南蛮風といい、小倉城も同じ作りなんだそうです。
傾寄者で両親から叱責された広家らしい
ハイカラな建物だなあと思いました。

とはいえ、防長封じで30万石から4万石へ落とされ
なのに家臣は1000人ともうどないしたらええんじゃ!
という緊急財政の中、ようやっとの思いで建てた岩国城は
完成から7年後には一国一城令で泣く泣く壊すはめになります。
本当は岩国藩として藩であれば壊す必要はなかったのですが
関ヶ原のごたごたで本家との仲も微妙になった、
というよりも輝元と広家より、
その家臣団同士の仲が微妙になったこともあり
あくまで吉川氏は毛利家の家臣。
ということで一部を除いて破却されたんだそうです。

こうした事もあり、岩国藩(本当は領)と萩藩の仲は悪かったのですが
第一次長州征伐を目前に一変します。
この当時の吉川家当主・吉川経幹が
長州藩を守るために幕府と交渉し
危機を乗り越えた事や、
毛利敬親が一致団結して国難にあたるべきと考え
和解と藩への格上げを約束に
四境戦争を行い、岩国藩は見事芸州口で戦功をあげたので
明治元年、岩国は江戸時代が終わって悲願の藩になります。
とはいえ明治4年には廃藩置県で藩はなくなるのですが
誇りをもって岩国藩と名乗っています。

さてさて、それでガイドさんに吉香神社と徴古館を案内して貰って
お別れしました。
だいたい4時間ぐらい、つきあって頂いて
申し訳ないぐらいひっぱりまわしました。
あ、でも面白い話を色々と聞けました。

例えば、
篤姫が錦帯橋を無許可で
門番が止めるのも聞かずに

行列で押し通った事。

・・・。

うん、あの人ならやるわ・・。
そもそも彼女の「静まれ」の一声で
江戸城中のセミさえなきやんだという逸話が生まれるほど
ものすごく強い人なんです。
大河では恋愛とかなんだかんだで揺れてましたが
そんな女らしい人物ではなく
芯の強い自分の意見をしっかりと推し通す
パワフルなおばちゃんという方で
深窓の御姫様って方ではなかったと思うのです。

まあそれはさておき
徴古館では丁度芸州口の戦いを中心に
岩国藩の動きを展示していまして
しかも丁度1時から学芸員さんが案内解説をして下さり
1時間ほど聴講しました、
最初は数名いたんですが
どんどん人数減って最後は3人・・・。
なんですが、とても分かりやすい解説で
8月17日の政変から蛤御門の変
そして長州征伐、四境戦争と
あそこらのごたごたした流れが
なるほど!そういうことか!
とすんなり理解することができました。

それと岩国城を作った時にいつかは攻められるという
その危惧が現実になり、
武士だけでなく長州藩の全ての農民、町民にも渡された
いざという時の対策書等、
藩民一致で国の危機に立ち向かったんだなと驚きました。

で、芸州口の戦いも細かい流れがあって
分かりやすかったです。
できれば全ての史料をコピーしたいぐらいでした。
あと、面白い史料がありました、
小倉藩の藩士が

おれらはこんなふうに負けよった
やけんこの悔しさをバネに次は負けんと!


という記録書があって、
淡々とどうやって負けたかを書いているんですが
悔しいという思いから記しているのに恨みなど少しもなく
試合相手に負けて、次こそは!
という前向きの気がいを感じました。
さすが九州、尚武の地です。

で終わりに残念山の話を振ったんですが
それがちょっとまずかったようです。
長州は四境戦争で勝ったことは勝ったんですが
負けた石見や小倉はやはり少し恨みがあるらしく
それで今でもあるようです。
まあ一番有名なのは福島ですが、
あちらもいい加減・・・とは思いますが、
ううん他所者がいうべきではないでしょうね。
あ、でその話題を持ち出すと顔が曇られたんですが
長州の藩士は元々安芸や備後の国人や豪族の本家筋が移動したんで
芸州口で確かに大野が焼けたり、
残念山の事はあるんですが
少しも恨みはありません。
むしろ東京など異郷で山口出身の方に出会うと無条件で

この人とは友達になれる!

という根拠のない親近感を持っているぐらい
山口県に親しみを感じています。
それこそ岩国に行っても全然県外に来た感じがしないぐらい
身近な場所なんです。

あ、じゃけえ結局言いたいんは

好きです!山口県!
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主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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