元就に関する民話その②
前日は元就のよい殿様としての話ですが、
今回は違う話です。
なお出典は同じ本なので詳しく知りたい方は読んでみてください。
丁度新装版が出たばかりなので児童書のコーナーにあります。
「七人塚」
「昔、宍戸元源という殿様が毛利元就という殿様と戦をして負けました。
元源は城が落ちる前に玄蕃丞という従兄弟に、三歳になる息子の多門を預け、
白木の志路に落ち延びさせました。
玄蕃は村人と共に農作業をして暮らし、多門を育てていましたが、
ある日村人を襲う狼の話を聞いて、狼を倒しました。
ところが、この話が毛利に伝わり、危険な奴だと6人の侍が討伐に向かいました。
玄蕃は6人を相手に奮闘し、戦いに勝ちます。
しかし、自身も深い傷を追い、多門に僧になるよう遺言して亡くなりました。」
郡山キツネと一転、元就公は容赦のない殿様として話に出てきます。
しかも、この話は「こおり山キツネ」と同じ地域に伝わっています。
領民には優しく、敵方には容赦のない元就公の2面性を地元民がよく見ていたんだな。
と思う話です。
ただし、これは史実ではありません。
そもそも宍戸元源は元就の娘(五もじ)と嫡孫の隆家が結婚したため、
毛利3兄弟並みに重用された家です。
確かに、興元までは宍戸と仲が悪く、
興元は京都から戻ってきてからも宍戸と対戦していたようです。
しかし、元就は隣人である宍戸と和睦しようと画策します。
その一つが元就自ら五竜城(宍戸氏の本拠)を訪ねたことです。
普通、使者を遣わしてすませる所をわざわざ殿様が!
しかも昨日まで戦をしていたような相手の所に!!
・・・元就ってとっても慎重な性格なのに、時々、
「ええい!!なんとかなるじゃろ!!」
と、とんでもなく大胆な行動をします。
結果、元源は元就の態度に大感激!!
(まあ普通そんなことしません・・・)
二度目に訪れた時には、枕を並べて夜遅くまで語り合ったそうです。
(修学旅行か!!っていうツッコミはなし!)
そもそもこの「7人塚」は史実では渡辺氏の墓とされています。
元就の家督相続で謀反を起こした渡辺勝と粛清された渡辺一族の墓と言われています。
では、多門と玄蕃は架空の人物?
考えられるのは渡辺勝の一子、渡辺通がひょっとしたら多門かな?、と。
通は粛清時、乳母に抱えられて落ち延びたとされていますので、
年齢的には合います。
また、その後山内氏の所で匿われ、成人したので白木を離れたところも符号します。
通は元服し、山内氏のとりなしで元就に仕えます。
一族を殺された通がどのような思いで仕えていたのかわかりませんが、
彼の最後は意外なものでした。
第一次月山富田城で大内方が大敗し、
殿を務めた元就がとうとう尼子に追い詰められ、
死を覚悟したときです。
渡辺通は元就から具足を無理やり借り受け、
「我こそが毛利の元就!!」
と敵陣につっこみ、元就は何とか追手を振り切って窮地を脱しました。
元就は通の行動に感銘を受け、渡辺家を重用しました。
そして長州藩でも代々、正月に殿様に甲冑を持っていく名誉職についていたそうです。
今回は違う話です。
なお出典は同じ本なので詳しく知りたい方は読んでみてください。
丁度新装版が出たばかりなので児童書のコーナーにあります。
「七人塚」
「昔、宍戸元源という殿様が毛利元就という殿様と戦をして負けました。
元源は城が落ちる前に玄蕃丞という従兄弟に、三歳になる息子の多門を預け、
白木の志路に落ち延びさせました。
玄蕃は村人と共に農作業をして暮らし、多門を育てていましたが、
ある日村人を襲う狼の話を聞いて、狼を倒しました。
ところが、この話が毛利に伝わり、危険な奴だと6人の侍が討伐に向かいました。
玄蕃は6人を相手に奮闘し、戦いに勝ちます。
しかし、自身も深い傷を追い、多門に僧になるよう遺言して亡くなりました。」
郡山キツネと一転、元就公は容赦のない殿様として話に出てきます。
しかも、この話は「こおり山キツネ」と同じ地域に伝わっています。
領民には優しく、敵方には容赦のない元就公の2面性を地元民がよく見ていたんだな。
と思う話です。
ただし、これは史実ではありません。
そもそも宍戸元源は元就の娘(五もじ)と嫡孫の隆家が結婚したため、
毛利3兄弟並みに重用された家です。
確かに、興元までは宍戸と仲が悪く、
興元は京都から戻ってきてからも宍戸と対戦していたようです。
しかし、元就は隣人である宍戸と和睦しようと画策します。
その一つが元就自ら五竜城(宍戸氏の本拠)を訪ねたことです。
普通、使者を遣わしてすませる所をわざわざ殿様が!
しかも昨日まで戦をしていたような相手の所に!!
・・・元就ってとっても慎重な性格なのに、時々、
「ええい!!なんとかなるじゃろ!!」
と、とんでもなく大胆な行動をします。
結果、元源は元就の態度に大感激!!
(まあ普通そんなことしません・・・)
二度目に訪れた時には、枕を並べて夜遅くまで語り合ったそうです。
(修学旅行か!!っていうツッコミはなし!)
そもそもこの「7人塚」は史実では渡辺氏の墓とされています。
元就の家督相続で謀反を起こした渡辺勝と粛清された渡辺一族の墓と言われています。
では、多門と玄蕃は架空の人物?
考えられるのは渡辺勝の一子、渡辺通がひょっとしたら多門かな?、と。
通は粛清時、乳母に抱えられて落ち延びたとされていますので、
年齢的には合います。
また、その後山内氏の所で匿われ、成人したので白木を離れたところも符号します。
通は元服し、山内氏のとりなしで元就に仕えます。
一族を殺された通がどのような思いで仕えていたのかわかりませんが、
彼の最後は意外なものでした。
第一次月山富田城で大内方が大敗し、
殿を務めた元就がとうとう尼子に追い詰められ、
死を覚悟したときです。
渡辺通は元就から具足を無理やり借り受け、
「我こそが毛利の元就!!」
と敵陣につっこみ、元就は何とか追手を振り切って窮地を脱しました。
元就は通の行動に感銘を受け、渡辺家を重用しました。
そして長州藩でも代々、正月に殿様に甲冑を持っていく名誉職についていたそうです。
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