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中世寺院の役割

毛利元就の時代に安芸吉田周辺では寺院の建築が相次ぎ、
本拠郡山城内にも寺や神社が建てられました。
戦うための城なのに、なぜそんなものを建てたのか?

中世の寺院が果たしていた役割は2つあります。
①中央とのパイプ  
  僧たちは中央から地方への橋渡し役でした。
  例えば、元就の外交僧で有名な竺雲恵心、
  恵心の後を継いだ武田氏出身の安国寺恵瓊、
  他にも、永興寺周端、策雲玄竜など
  いずれも足利幕府や朝廷、大友氏や大内氏、
  織田氏・豊臣氏との外交を担っていました。
  
  僧が外交役を務めた有名な例としては、
  足利義昭の聖護院道増、後に織田・豊臣につく朝山日乗らがあります。
  寺院の多く集まる京都で修業した僧たちが、
  修行時代のつてを使って外交を任されていたようです。


②学問所としての機能 
  「広島県の歴史」(p159~162)に記載されている「身自鏡」という本があります。
   これは毛利氏に仕える佐東郡の土豪、玉木忠吉(1552年生まれ)が書いた自著伝です。
   中世武士の教育について書かれた貴重なものです。
   
    12歳、元服した後、「勝楽寺」に入って「いろは」を5日で習う。仮名文や漢字も習う。
    13歳、「庭訓往来」「貞永式目」を読む
    14歳、「論語」「和漢朗詠集」「四書五経」「六韜三略」を習う
    15歳、「古今集」「万葉集」「伊勢物語」「源氏物語」を読む
    16歳、寺を出て、弓や乗馬などの稽古
   
   この後、彼は豊臣政権化で大阪・京都に上る機会があり、易学・茶・医学を学びます。
   もともと寺の師匠が名医だったらしく医学に関する小説まで書いています。
   以上で学んだ書籍は、吉川元春の長子・元長が読んでいたものと大差がないそうです。
   
   しかも、玉木忠吉は元服名を吉和と名乗ったのですが、見ればわかるように、
   「元」や「就」など毛利氏重臣に与えられる偏諱がなく、国人よりも下の土豪でした、
   役職も検地役人に過ぎず、学んだ寺も寺領が52石の中小規模です。
   
   そんな末端の武士でさえ、寺に通って字や計算から教養まで習いました。
   中世の寺院は初等教育から中等教育まで行っていたようです。
   また、庶民教育がどうであったかはわかりませんが、
   吉田の清神社に元亀3年に吉田兼右が民衆の前で源氏物語の講釈をしたとあり、
   里人が「三子教訓状」の写しを持っていたりしたので、
   明確な身分差のなかった中世では
   庶民も同等か少し簡略化されたぐらいの教育を受けていたのかも知れません。
   
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主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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