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元就と忍び

元就と言えば、「孫子」の指南書通りの調略を用いて
できるだけ犠牲を少なく、大敵に立ち向かう方法を取りました。
その時に欠かせないのが情報です。
戦国時代の諜報部隊と言えば、忍び。
いわゆる忍者で、甲賀者、伊賀者が有名です。
元就も忍びを雇っていたとされ、その数は25家とかなり多いです。
その中でも有名なのが世鬼(せき)一族です。

世鬼氏は元々、安芸の人間ではなく、

「駿河の今川政信が安芸へ渡り、高橋氏に仕えた後、元就に仕え、
 美土里町の世鬼に住んだため、世鬼と名乗った。
 その子、正秋は忍びだが、合戦で討ち死、
 正秋の子、政近は輝元に仕えた。」
(「毛利元就の人間学~家康が学んだ遅咲きの人生~」中江克己著)

そうです。
実はもう一説あり、萩藩閥閲禄によると、
駿河今川氏出身なのは変わりませんが、

「応仁の乱、西軍の指導者山名宗全に世木政久が仕えていたが
 文明元(1469)年、東軍・細川勝元の戦いで傷を負い、
 高橋氏に招かれ、仕えた。
 政久の子、政親は軍略により高橋氏から世鬼の地を与えられ、
 世鬼と改名。
 政親には子どもが二人おり、
 兄の政棟は織田信長の父、信秀に仕え、
 弟の政高が毛利家に仕えたとされている。」

両方とも「政」が通字で、高橋氏が滅んだ後に元就に仕えたようですが、
伝わる話を系図にすると別家になります。
上は出典はありませんが恐らく陰徳太平記だと思われるので、
2番目の萩藩閥閲禄のほうが、はるかに信ぴょう性が高いです。

これを裏付ける出来事として、
信長は元就の死を知り、元就の77日の法要に使者を送った。
ことが挙げられます。

信長といえば父・信秀の位牌に抹香の灰をぶちまけたり、
人の死にあまり重みを感じていないような事をしていますが、
天皇や幕府など払うべき敬意(?)はきちんと払っています。
この時、毛利氏とはまだ領土が接していませんでしたが、
外交上、西方を抑えておきたかったのだと思います。
ただ、毛利側に取ってみれば偉大すぎる当主の死
(といっても孫の輝元は覚悟していたと手紙で残しているので、
 元就の死の1・2年前には実権は隆景に移っていた気もします。)
をできれば隠したいはずなのに、
なぜ信長が?
それも77忌という身内しか知らない法要を知っていたのか?

これは、世鬼政高が織田氏に仕えたのであれば問題が解決します。
よって、萩藩閥閲禄の方が信用できます。

ちなみに、この世鬼一族の末裔、世木騎六は、
幕末に高杉晋作率いる奇兵隊に属し、斥候として戦ったようです。
よって、江戸時代も忍び衆として活躍を続けていた可能性もあります。
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主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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