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上田宗箇流

今日は長年の念願だった上田宗箇流の「和風堂」の公開へ参加しました。
※今回庭の写真は撮ってもいいと言われたので載せますが、
 もし関係の方がご覧になられて、消して下さいと仰られれば消します。

さて、茶道と言えば千家が有名で、女性が嗜みとして習うようなものと思われていますが、
もともとは大河ドラマ「江」のように武士達が付き合いとして広めた物です。
上田宗箇の遺したこの茶道は、戦国時代の武士の茶道を一番色濃く残している流派で、
男性らしい豪快な所作の茶道と言われています。
宗箇自身、武将としての名も高く、大阪冬の陣では活躍し、
家康と秀忠から感状をもらっているそうです。
その後浅野家に仕え、家老として忙しい日々を送ったようですが、
茶人としての心を忘れることなく、今にその流派は脈々と残っています。

まず、今日は「御成り」の茶事と言い、
将軍や天皇家を迎える時のような格式の一番高い茶事だったそうです。
普通と違うのは、待合で着替えて数寄屋へ行き、
その後茶を飲んで待合へ戻って帰るというのが流れなのですが、
今回の「御成り」の茶事では待合から路地を抜けて数寄屋へ行って、
着替えた後に広間でお茶を飲んでから宴会という流れだそうです。
聞き覚えなので怪しいのですが、広間で飲むというのがポイントです。

車寄せ

まず、長屋門をくぐると車寄せがみえます。
ようは玄関と同じで、ここから御茶室のある庭へ入るのですが、
本来和風堂のあった上屋敷は明治維新後に軍用地に差し出したので、
別邸があったこの地に立てなおしたそうです。
そのため、本来殿さまは輿に乗ったまま部屋に入るのですが、
浅野長勲公が訪れた時に輿を入れる場所がなかったので輿石という石をわざわざ作ったようです。
長勲は最後の大名として江戸末期から昭和12年まで長生きされたので
この別邸にも何度も訪れているそうです。
ちなみに敷いている石は「議員石」と呼ばれ、
国会議事堂に使われている石と同じもので、倉橋島産の石だそうです。
上を歩くと国会議事堂を踏んでいるような気分になりました。

外路地

さて、まず路地ですが、普通は一つですが、
和風堂は2重路地になっています。
これは織部流の江戸初期の作りで、高い堀で囲い、
外路地と中路地の間には中潜りとよばれるにじり口があります。
ここを亭主の招きでくぐると庭に出ます。
庭の飛び石を歩くと数寄屋があります。

手水鉢と織部灯篭

数寄屋に入る前に手水鉢で手を清めるのですが、
暗くても見えるように灯篭が立てられています。
左にある灯篭、普通の灯篭とは違い高めに作られています。
下の石がまっすぐ地面に埋まっているこの形を織部灯篭というそうです。
どうして高くしてあるかというと、手水鉢が高いからです。
右の細長い石ですが、これが手水鉢です。
手水鉢は「つくばい」ともいい、
普通、手を洗うときはかがむ(つくばう)ために、その名がついていますが、
大小の刀を差している武士がしゃがむのは大変です。
そのため、高い手水鉢だったそうです。

続いて、茶室「遠鐘」へ入りました。
元は織部流の3畳だったそうですが、
浅野長晟が「狭い」と言ったので1畳足して4畳にしたそうです。
そのためにじり口が真ん中にあるという茶室になってしまったそうです。
さて、そこで安土・桃山時代の茶道具を拝見させて頂きました。
宗箇作の「さても」と呼ばれるとっても貴重な御茶碗が見たかったのですが、
代わりにそれと同じくらい貴重な御道具を拝見させて頂きました。
花入れ以外は全て戦国時代のもので、見ているだけで感慨深かったです。
中でも、織部作と伝えられる茶杓は、竹が飴色かかっているのと
節の所がかくっとまがっているのが印象的でした。
また、水差しも耳付きでへしゃげたような重厚な感じで、
現在の茶とはちがった様式なのだと時代を感じました。

その後、鎖の間を見たのですが、部屋の壁は全て家紋入りの壁紙(?)
で覆われている超上等な部屋でした。
ここで使われていた家紋は「御三の桐」と呼ばれる天皇家が臣下に送る紋で、
秀吉が貰ったあと、お気に入りの家臣に与えたそうです。
関ヶ原以降は隠し紋として使うのを控えたそうですが、意外でした。

続いて薄茶を頂きました。
道具は先ほどと打って変って現在の作家さんの作品を取り入れた
といっても人間国宝級の方々のもので、
茶道が花開いた千利休達の時代には、茶道とはむしろ前衛的なものであり、
決して伝統文化で守らなくてはいけないものではなく、
流行の最先端であったその気概を感じる茶席でした。

荷寄せ

茶席の後に廊橋と呼ばれる長い廊下を通って書院屋敷の方へ行ったのですが、
その庭に「荷い茶屋」と呼ばれる安土・桃山時代の野点セットが置かれていました。
野点とは野外でお茶を立てる事や道具をさし、
水差しなどを入れて、眺めの良い所まで運べるように、
木枠の箱には棒を通せる穴があいています。

因みにこの桃色の花は桜で、親交のあった吉川広家から送られたものだそうです。
宗箇は返礼としてみみずくの刻まれた手水鉢を送ったそうですが、
届いた時には広家は亡くなっており、お墓の側に現在も残っているそうです。
・・・・。
あれ?
浅野家って対毛利の布石として広島藩に来たはずでは・・・?
まあ、広家は徳川方に内応したりと徳川家のパイプが太かったから
親交があったのでしょうか?
そもそも、江戸時代も元就の百回忌などをするために
長州藩士が吉田まで頻繁に行っていたことを考えると仲は悪くはないとは思うのですが・・・。


まあさておき、書院の二階には刀の鍔を欄間にしたものがあり、
思わず見惚れました。
しかも段には宗箇が大阪冬の陣で使ったとされる陣羽織が!!
400年前のラシャですが、いまでも模様が残っているのに驚きました。
二階のこのお部屋はとっても良くて、本当はもっとのんびりと見たかったです。
康牛新開が開かれるまで昔は海だったらしいのでもっと眺めが良かったのだと思います。
続いて1の間、2の間、3の間と上田家に伝わるお雛様を見たのですが、
さすが家老の家だけあって、とっても手が込んでいました。
お雛様が左なので京雛でした。

その後、お弁当を頂いたのですが、
その時に出されたお酒がおいしかった!!
何でも戦国時代と同じ400年前の手法で作っているお酒で
清酒だったのですが、わずかに濁りがあり、
ほのかな甘みのあるお酒でした。
賀茂鶴の酒だと聞いたのですが、銘柄を忘れたのでまた西条に行ったら飲んでみたいです。
時間にしてわずか2時間ばかりですが、とっても堪能できました。
今回で公開が最後なのが本当に惜しまれます。





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Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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