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隆景の伊予統治~四国平定以前~

安芸の歴史のはずなのに、最近伊予ばっかりですみません。
あ、でも今回は隆景なので許してつかあさい。
いや、この毛利氏の伊予統治ってのは元より興味がありまして、
毛利元就の最大領土に伊予を含めるか含めないかって大きいのです。

まあ、元就の場合、統治というよりも
影響力のあった範囲と考えた方がよいので
その点では伊予も讃岐も勢力圏内になるので
往来考えられていた中国地方だけでなく
北四国も含められるわけで、
そうすれば多分領土拡大率では信長を抜くんじゃないかと思うのです。

というのも元就が安芸を完全統一できたのは1555年の厳島合戦からで
それから亡くなる1571までのわずか16年(実際は14・5年)で
8カ国(安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・因幡・伯耆)と
一時は筑前を影響下にしており、
これに独立していたが影響下にあった備中・伊予・讃岐が加われば
11カ国+1国となります。

対して信長は1559年尾張を支配下に置き
その後16年間で得たのは
5カ国(尾張・美濃・和泉・摂津・伊勢)であり、
単純に計算すると元就の方が倍の速さで領土を拡張しています。
仮に尼子氏(というか山中さん)の反旗を考えて出雲を除いても
10カ国+2カ国に分けられ
それでも信長の2倍となります。
ただ、信長の場合この後11年かけて
更に駿河・上野・信濃・甲斐・播磨・丹波・伊賀等
10カ国以上を支配下に置いたので最終的には微妙です。

まあ、それはさておき、
以前の「豊臣秀吉の真の四国平定時」で述べた
隆景の統治についてもう少し詳しく述べたいと思います。

まず前回も述べたように
永禄年間から伊予河野氏は隆景の影響下にありました。
その後、天正年間になると対織田信長関係で
ますます影響力が大きくなったようです。
特に通直へ矢野(輝元姪)が嫁いでからは
長宗我部方に「芸道後」「道後の儀、芸州次第の様子
とされるほど依存が高まって行ったようです。

まず、通直は隆景や芸州(輝元)の意見を常に仰いで従っていたらしく
残っている通直書状には
「来嶋賊船相當国之儀、被相催候處、頻隆景御異見付而
 先々被任御助言之肝要候、然ハ右之狼藉、向後於不相止ハ
 返報可仕之通、従芸州被仰候哉、我等事茂隆景同前可申付之条
 不可有余儀候」
(原文「萩藩閥閲禄 村上図書」天文11年3月5日 通直書状)

「於爰元芸州衆ヘ茂旨儀申候、児蔵太へも申理候間
 定従彼方可被申候」
(原文 「同上」天文10年11月21日 通直書状)

「仍従芸州祝四罷歸候、来島狼藉之者共、一廉可被仰付候由候間
 肝要候、於此上者御存分有間敷候」
(原文 「同上」天文10年12月2日 通直書状)

これだとなんかかっこいいこと書いてそうですが
大体訳すとこうなります。
「来島氏が働いた海賊行為についてだが、どうしようかと相談している所に
 隆景様から度々御意見を頂き、御助言のようにすることが大事だろう。
 なので、来島氏の狼藉については今後やめなかったらまた連絡を入れて欲しい。
 その時には輝元様からも来島氏に言って下さるだろう。
 私も隆景様と同じ意見なので他に言うことはない。」

「この事は芸州の輝元様・隆景様にも申しているし
 児玉氏へも理由を伝えている。
 なので向こうの意見に従うべきだろう。」

「芸州側の祝四郎左衛門尉がやってきて
 来島の事について一連の事に対して
 仰せつけられるようにすること事は大切である。
 なので、今更そんなことはどうかと思う。」

・・・。
なんか物凄く隆景達を頼っていて
本当に元就のひ孫かい!
ってツッコミを入れたいぐらいです。
まあ輝元もおじいちゃんやおじさん達に依存してたし、
元就も60近くなっても兄の興元を慕っていたので
依存心が強い一族といえばそうなんですが。
まあそれはともかく
よく言えば上を立てているわけですが
温厚で知られるさすがの隆景も

「来島衆へ道後御返事之趣、頓被仰試之処、耽々無分別候哉(略)
 再三可有御意見之由肝要候、夏中一ッを申繰、余もはか不行射候間
 是非先分別候之様、可被仰分事肝要候」
(原文 「新熊本史」乃美文書 8月7日 隆景書状)

「来島の事について道後に出した返事の事だが
 逐一こうしたらどうか、ああしたらどうかと言ってきたが
 だんだんちょっとどうなのかと思ってきた。
 何度も同じ事を言う事も大事だと思う。
 だが、夏中ずっと来島衆の事を一つを言い続けている。
 私が行って戦えない事もあるのかもしれないが
 是非、先ほど言った事といい、
 よく考えて行動するように言ってほしい。」

私訳なのであってるかどうかわかりませんが
「耽々無分別候哉」から考える限り
隆景もさすがに呆れている感じだと思います。
まあ天正10年だったら通直はまだ18歳なので
この年で多難な国事を1人でやれと言われたら
確かに親戚のおっちゃんとかに頼りたいです。

ただ、これだけ頻繁だと使者も行き来するのが大変なので
誰がどこを担当と決められていたようです。
例えば
伊予と隆景間は、小早川家臣・山田新右衛門尉盛祇(略して山新)
伊予と能島間は、毛利氏家臣・久枝修理(略して久修)
が主として動いており
その他にちょいちょい名が残っているのが
能島方、村上藤十郎、俊成左右進、西原孫右衛門尉、矢源
伊予方、祝四郎左衛門尉、淺海氏
だそうです。

毛利氏の久枝氏はわかりませんが、
おそらく上の人達は全て芸予諸島に拠を構えた水軍衆です。
山田氏は母方の家系図から考えるに多分、多賀谷水軍の末裔でしょう。
また、能島方は言うまでも無く水軍ですし
祝は鶴姫で有名な一族で、三島水軍と考えられます。

また、上の能島方と伊予方は
それぞれの家と毛利・小早川に両属していたと考えられます。
祝氏の場合は、永禄年間には毛利氏側につき、小早川家臣として動いていました。
また浅海氏はゆつきの権力で述べたように
ゆつきの側近として働きました。
よって、天正10年代の来島衆の離反によって
能島村上・伊予河野・毛利小早川の三者の境界があいまいになるほど
結びつきが濃いくなったのではないかと思われます。


それから、伊予河野と芸州は使者のやりとりだけでなく、
軍事的な援助も行っていたようで
それは隆景だけでなく輝元も関わっていたようです。

例えば、
来島衆との戦いに鉄砲隊の派遣を行ったり
賀島付城の在番を輝元の名で命じていたようです。
また、天正10年11月の郡内表での戦いにも援軍を派遣したようです。

加えて道後湯築城には本来毛利家の家臣である人物が逗留していました。
彼らは毛利氏家臣でありながら城に留まったまま、
河野家家臣達や村上水軍との対応をしていたようです。

児玉三郎右衛門元良
姓の児玉から毛利水軍の将と考えられる。
天正10年10月から天正11年6月までの滞在記録がある。

井上又右衛門尉春忠
児玉氏と同じ時期に道後にいたが
児玉氏よりもやや長く留まり、黒田・蜂須賀氏の書状から
豊臣勢にも知られるほど伊予の国人達と親密だったと考えられる。

ところが天正11年6月に毛利氏は伊予から撤退をします。

そしてなぜかその時に通直も芸州へ渡ったようです。

天正11年6月3日に村上元吉が隆景に出した手紙では
「如仰賀島表操之儀、乃兵・井又右、通直江得御意候上
 就不首尾、先以各致帰国候」

「賀島について言われた事ですが、乃美氏・井上春忠は
 通直へ了承を得ようとしたが、不首尾につき
 まず両者が芸州へ帰国しました。」
(私訳)

ここでの不首尾はどうも毛利氏家臣の退去ではなく
通直の退去であったと思われます。
というのも井上氏が去った20日後の
6月23日、
輝元が通直の妻になっていた姪に芸州滞在の心付けとして
銀一枚を渡しているからです。
輝元は相当な叔父馬鹿だったらしくこの姪には
本当にあれこれと世話を焼いています。
というか親戚思いなんだなと残された書状から思うことがあります。

まあ、それはさておき
この伊予撤退には秀吉の意図があったとされます。
というのもこの一か月前に黒田孝高(後に略して黒官)が
安国寺恵瓊に宛てた手紙に

「来島表之御人数、片時も急可被成引御取候
 右旨於御油断ハ警固急度可差下之旨、
 被申候間、御分別不可過候」
(原文「小早川家文書之1」431号)

「来島に派遣している兵士達ですが、すぐに御引き取りすべきです。
 このことは決して後回しにせずにすぐにでも水軍を撤退するように
 申しあげていますので、決断を遅らせないで下さい。」
(私訳)

とあり、丁度、一年前の天正10年6月に毛利氏は秀吉の高松城攻めで
和睦しており、その後の条件として織田方に走った来島氏の帰島が
条件にあったので恐らくこれはその時のものだと思われます。
ただ、なぜ通直が芸州に来たのか?
そしてなぜ戻って行ったのかが疑問です。

わかっているのはこの後も、
毛利氏・小早川氏を頼る伊予の姿勢は変わらなかったということです。
四国攻めの行われる天正13年2月の時点では
土佐勢の侵攻に通直が芸州へ加勢を乞う手紙を出していました。

しかし、毛利氏・小早川氏は
この年の正月には四国攻めが行われることがわかっていました。
それは上だけでなく伊予に関わっていた武将達にも知らされたようで
特に伊予に在城していた井上春忠には
黒田孝高・蜂須賀正勝から直接手紙で釘をさされていました。

「四国之儀、来夏可被及御行之條、伊予土佐両国可被進置由
 被仰出候、就其、長曾我部種々雖致懇望候、無御許容候、
 来夏御行之内者、其元御稼働御無用にて候
 城々堅固ニ可被抱置事、専用に候」

「四国のことだが、次の夏には秀吉様がお行きになられるにあたり
 伊予と土佐の両国に兵を進めることになり、自ら御出陣される。
 それにつき、長宗我部氏が度々取りやめるように懇願していたといっても
 秀吉様が頑として許されなかった。
 次の夏に四国攻めをするときには、君は戦いに出なくていい。
 城を堅く守る事に専念してほしい。」
(私訳)

井上春忠は上でも述べたように
伊予逗留が長かったので、親しい人達と戦いをせずに済むように
豊臣方が気を利かした。
・・・・わけではないと思います。
というのも御稼働御無用とかなりすぱっと
「戦いに出るな」と言っており
これは伊予と関係の深い井上氏が戦に関わる事で
万一毛利氏と河野氏が結びついて戦うことのないように
手を打たれたのだと考えられます。

あと、気になるのが長曾我部氏が秀吉に四国攻めをやめるように
何度も頼んでいた事を井上春忠が知っていた事です。
元々、天正10年~11年は「芸土入魂」で
長宗我部氏とは同盟と言わないまでも不可侵状態のはずです。
また、どこで読んだか忘れたのですが
毛利氏使僧・安国寺恵瓊と長曾我部氏の僧・滝本寺非有は
一対坊主と評されたそうなので
そこらの事情は安国寺恵瓊から聞き及んでいたのか
あるいは毛利氏も一緒に伊予及び四国を攻めないように
嘆願していたのかもしれません。

ともあれ、秀吉は配下として可愛がっている来島通総のために
約束した伊予を与えると言う名目がある以上
伊予は絶対攻めなければいけない場所で
土佐は秀吉にとっては絶対に許せれない明智光秀の縁戚なので
両国が攻撃の対象から外れることはなかったのだと思います。

それを伊予に留まっていた毛利氏家臣や
一番深くかかわった小早川隆景がどう思っていたのか?
自ら伊予を攻めることを望んだ隆景は
せめて通直達だけでも守れるようにと思っていたのかもしれません。

参考文献「戦国期の権力と婚姻」(西尾和美著 2005年 清文堂出版)
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トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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