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毛利氏傘下の信州小笠原一族

一年前ぐらいに沼田の公民館の地域講座へ行った時に
三宅氏という伴に住む一族の話を聞きました。
三宅氏の祖である三宅定重は、
武田信虎・信玄に仕えた後
安芸に拠り、熊谷氏の推挙で毛利氏に仕え、
朝鮮の役で戦死したそうです。

この話を聞いた時に、これは武田氏違いで伝聞したのではないかと思いました。
というのも、伴は安芸武田氏から分かれた分家の伴一族の拠点で、
毛利元就に最後まで抵抗した一派です。
よって、その土地の武田関係となると武田信玄よりも
武田信繁に仕えたほうがまだ信ぴょう性があります。
また、熊谷氏の推挙とあるので、
もし甲斐から流れてきたのなら、
繋がりの薄い熊谷氏がそこまで肩を持ったのか、
非常に疑問でした。

しかし、今回、
「北九州戦国史余話 毛利元就と門司城」
(八木田 謙著 平成15年 今井書店発行)の本に興味深いコラムが載っていました。

前回の門司城のいざこざの時に
門司に置かれていた門司在番を務めた人物に迫田元光という人物がいます。
家譜によれば

「迫田元光(長陣)
 享禄元(1528)年3月2日生まれ
 天文11(1542)年2月13日元服(長陣を名乗る?)
 小笠原長時と武田晴信、雌雄を争う事数年
 遂に利を失い一度本国を去るなり。
 長陣毛利元就の師となり、備中迫田庄に住す。
 故に迫田と改める。天正頃大友追罰のため豊前門司に在城、
 九州勢と合戦に数度及び利を得る。
 天正10年9月30日 門司で死亡」(参考文献p99より引用・一部注)

信州小笠原氏は、信濃守護を務めていた一族で、
隣国甲斐の武田氏と同族の源氏です。
しかし、天文14(1545)年
甲斐は御存じ武田晴信(信玄)が国内統一を果たし、
隣国の信濃へ侵攻します。
当時の小笠原氏の当主であった小笠原長時は
自国の地家人とともに武田晴信の信濃侵攻を食い止めるために
果敢に戦いますが、信玄になかなか勝つ事ができず、
天文19(1550)年には本城も奪われ、
弘治年間には上方に移り、武田氏から本拠を奪うために
同族とされる三好氏と一緒に色々と画策していたようです。

よって、この家譜の小笠原氏が武田晴信に敗れての下りは正しく、
長陣と名乗った迫田氏の祖先は上方の一族と分かれ、
毛利元就に仕えたと思われます。
しかし、「長」の字は小笠原氏の通字で
最初に名乗るのは嫡男のみと考えられるのですが
信州小笠原氏の家図に載っていません。
なので長陣が「長」の字を名乗るからと言って
小笠原氏一族なのかは微妙ですが、
まあ甲斐武田氏も安芸武田氏との繋ぎの辺りの人物の消息が変なので
小笠原氏一族も離散の大混乱でわやになったのかもしれません。

さて、その長陣ですが備中迫田に住むとありますが、
備中さこだで調べたのですが、佐古田と迫田の2つみつかりました。
1 佐古田
2 迫田
しかしどうみても備前です。
もっと備後寄りなら納得できるのですが
明らかに当時敵対していた浦上氏の地です。

よってこの備中迫田がどこなのかよくわかりませんが
迫田氏がこの迫田の地を本当に拠点にしたのかは怪しいです。
というのも、長陣は編諱を受けて元光と名を変え
迫田筑前守と名乗るのですが、
この筑前守が門司城番を解かれた時に知行取りから
蔵米取りになるについてよく考えてやってほしいと
隆景が奉行衆に手紙を出しているのです。
知行取りとは、土地を直接支配し、そこから年貢を取り立てる方法です。
一方、蔵米取りとは、毛利氏の持つ全体の領土から役職に応じて米を給付する方法で、
江戸時代の幕府支配によく似た統治方法です。
ここで考えたいのが、門司城在番を解かれた時に
一緒に知行していた土地も召し上げられていることです。
もし備中に知行地を持っていたのならそこへ帰ればいいのに、
門司城撤退の時に土地を召し上げられていることから
北九州の方に知行地が振り替わっていたのではないでしょうか?
ただ、隆景が嘆願しているので備中に住んでいたのは間違いないと思います。
しかし、門司在番の上役は全て元大内氏家臣という事を考えると
門司在番にあたる人物の知行地は門司周辺あるいは長州であり、
迫田氏も備中から長州もしくは北九州に知行地が移っている可能性は高いと思います。
また、長陣の子が元長が天正17年に門司でなくなっていることからも
備中から周防・北九州へ移動したと思われます。
実際、馬関海峡の側に迫田さんが住んでいらっしゃるようなので
この周辺に土地等を貰っていたのかもしれません。

この小笠原氏一族の流れの迫田氏ですが、
どうして元就に仕えるようになったのかは疑問です。
香川氏や武田氏のように石見の縁戚を頼って毛利氏に仕えたとも考えられますが、
京にいたならば三好氏に頼る方が確実ですし、保護をしてくれました。
それなのに、わざわざ安芸まできたのは、信州小笠原一族内で
進退について議論がされたのかもしれません。
実際、一族の中には徳川氏や織田氏、上杉氏に仕えたりとそれぞれが分かれ
いずれも軍師として務めたようです。
長陣も師として仕えたという文から考えるに、
軍師的な事をしていたのかもしれません。
水軍出身でもないのに門司城在番に任じられたのもそこらの関係があるのかもしれません。
いずれも推測の域をでないので口惜しいですが、
戦国時代、信州からわざわざ逃れてきて元就に仕える一族がいたならば
冒頭の武田信玄配下であった一族が落ち延びてきた可能性も
十分考えられるのではないかと思いました。
思っているほど戦国時代は距離に関係されることなく、
人の行き来は盛んであったのかもしれません。
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主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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