春霞集もとい毛利元就詠草集・連歌の部解説その3
「物さびしさや古寺のうち
残りぬる一木の陰もちるはなに
古寺の庭上に。
未開のかたはらのちるをみんさへさひしかるへし。」
訳
(「残りぬる 一木の陰も 散る花に
物寂しさや 古寺のうち」
歌意:まだつぼみもあるというのに
咲き遅れた木の陰の桜も散っていくのをみると
古寺の庭がいっそう物寂しい雰囲気になる
古寺の庭の地面の上に、
まだ咲ききっていないのに
もう散っていく花を見るのは
さぞ寂しいことでしょう。)
よく桜が満開になっていないのに
散っていく木があります。
年に一回の晴れの舞台と言うのに
綺麗に装うこともなく、
雨や風で散っていく花や伸びてきた葉に隠れる花を見ると
ああ、残念だなあと思います。
それが古寺の小さな庵とかそういう人気のない
静かな場所だと・・・。
うん、とても寂しいです。
元就さんはどことなく寂しい歌をよく詠むとあったんですが
ああ、この歌はまさにそうだなあと思いました。
あ、あと、今回5・7・5で合わせると下の句を元就さんが
詠んでないとリズムが合わないなあと思ったので
上と下を入れ替えてます。
連歌はそこまで詳しくないんですが
さきに下の句を題に上を作ることもあったのかなと思います。
「かすみに深し 夕暮れの色
月は山 花は木のまに 匂ひきて
月花は夕暮のいろ深き春のそら。
一句のうち景物二の首尾珍重々。」
訳
(「月は山 花は木の間に 匂いきて
霞みに深し 夕暮れの色」
歌意:月は山の上にかかり
木の間に咲き誇る花の香りが漂う
濃くたちこめた霞に
夕暮れがやわらかな色に包まれている
月と花に夕暮れの色が深い春の空。
一句の中に月と桜、霞と夕暮れの2つの景色を
初めと終わりに上手く使っていて素晴らしいです。)
うん、この歌好きです!
私が風景の歌で一番好きなのは
西行さんの「願わくは花の下にて春死なん その如月の 望月の頃」
と
与謝蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」
という春の花と夕暮れの月の風景!
これ、いっちゃん好きです!
なので、この歌めっさ共感しました。
特に「月は山、花は木の間に~」の部分!
そうです、安芸はどこいっても山が見えます。
というより山と山の隙間に街があるのです。
確か「広島学」という本によれば
県の面積のおよそ80%が山地と書かれてあった気がします。
もはや山岳地帯なのです。
だから月や日は沈む時も昇る時も
いつも山にかかっていて
山から日や月が出るのを今か今かと待つのです。
なので、この「月は山」にうんうんと納得しました。
それと「花は木の間に」ですが
そう詠うことで満開の桜の梢が眼前に浮かび
目の前の桜の枝と盆地の山の端にかかる月という
遠近感のある歌だなと思います。
それから西日本は東日本に比べて黄砂が多いので
時々空が白くなるんですが
その時の夕暮れはミュー散乱と呼ばれる現象が起き
夕日がいっそう赤く見えるのです。
印象派の代表作の「日の出」みたいになるんです。
この霞み深い夕焼けはなかなか好きなんですが
最近中国の影響のせいか
霞が濃すぎてううんと思います。
「やまもとのかへるさたとる雪の日に
あらしや花の名残なるらん
花はみないろならすして。
嵐はかりの名残ならん事。
まことに哀ふかき雪の山もとなるへし。」
訳
(「山もとの 帰る沙汰とる 雪の日に
嵐や花の 名残なるらん」
歌意:山のふもとで今から帰るという命令を受け取ったのは雪の日で
この春の嵐で吹きすさぶ雪が
観る事もなく散っていった故里の桜の名残なんだろうな。
桜の花が満開に咲く事もなく
地面に無残に雪と同じように散らせていく
嵐を心惜しく思うでしょう。
本当に哀愁の深い雪の山のふもとですね)
訳ですが
「帰る沙汰」からすでに心は故郷に向かっていて
だけど楽しみにしていた故郷の桜も今こうして嵐に散っているんだろうな
と降りしきる雪を故郷で散る桜に重ねた歌ではないかなと思いました。
あ、あと雪の日に桜というのは始め
何だか変だなあと思ったのですが
嵐が花の名残という事から
雪の日は比喩でもなく本当に雪の日だろうなと思って訳しました。
まあ桜が咲いているのに雪が降るということは何年かに一回はありますし
昔は今よりぐっと寒かったのですから
そういう事もあっても不思議ではないです。
で、そう考えるとこの間のような雪を降らせる嵐が
遠征中に起きて桜が満開になることもなく散っていく
そんな風景をいつかどこかで経験したから
こんな歌を詠んだのではないかなと思いました。
解説その2へ
解説その4へ
残りぬる一木の陰もちるはなに
古寺の庭上に。
未開のかたはらのちるをみんさへさひしかるへし。」
訳
(「残りぬる 一木の陰も 散る花に
物寂しさや 古寺のうち」
歌意:まだつぼみもあるというのに
咲き遅れた木の陰の桜も散っていくのをみると
古寺の庭がいっそう物寂しい雰囲気になる
古寺の庭の地面の上に、
まだ咲ききっていないのに
もう散っていく花を見るのは
さぞ寂しいことでしょう。)
よく桜が満開になっていないのに
散っていく木があります。
年に一回の晴れの舞台と言うのに
綺麗に装うこともなく、
雨や風で散っていく花や伸びてきた葉に隠れる花を見ると
ああ、残念だなあと思います。
それが古寺の小さな庵とかそういう人気のない
静かな場所だと・・・。
うん、とても寂しいです。
元就さんはどことなく寂しい歌をよく詠むとあったんですが
ああ、この歌はまさにそうだなあと思いました。
あ、あと、今回5・7・5で合わせると下の句を元就さんが
詠んでないとリズムが合わないなあと思ったので
上と下を入れ替えてます。
連歌はそこまで詳しくないんですが
さきに下の句を題に上を作ることもあったのかなと思います。
「かすみに深し 夕暮れの色
月は山 花は木のまに 匂ひきて
月花は夕暮のいろ深き春のそら。
一句のうち景物二の首尾珍重々。」
訳
(「月は山 花は木の間に 匂いきて
霞みに深し 夕暮れの色」
歌意:月は山の上にかかり
木の間に咲き誇る花の香りが漂う
濃くたちこめた霞に
夕暮れがやわらかな色に包まれている
月と花に夕暮れの色が深い春の空。
一句の中に月と桜、霞と夕暮れの2つの景色を
初めと終わりに上手く使っていて素晴らしいです。)
うん、この歌好きです!
私が風景の歌で一番好きなのは
西行さんの「願わくは花の下にて春死なん その如月の 望月の頃」
と
与謝蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」
という春の花と夕暮れの月の風景!
これ、いっちゃん好きです!
なので、この歌めっさ共感しました。
特に「月は山、花は木の間に~」の部分!
そうです、安芸はどこいっても山が見えます。
というより山と山の隙間に街があるのです。
確か「広島学」という本によれば
県の面積のおよそ80%が山地と書かれてあった気がします。
もはや山岳地帯なのです。
だから月や日は沈む時も昇る時も
いつも山にかかっていて
山から日や月が出るのを今か今かと待つのです。
なので、この「月は山」にうんうんと納得しました。
それと「花は木の間に」ですが
そう詠うことで満開の桜の梢が眼前に浮かび
目の前の桜の枝と盆地の山の端にかかる月という
遠近感のある歌だなと思います。
それから西日本は東日本に比べて黄砂が多いので
時々空が白くなるんですが
その時の夕暮れはミュー散乱と呼ばれる現象が起き
夕日がいっそう赤く見えるのです。
印象派の代表作の「日の出」みたいになるんです。
この霞み深い夕焼けはなかなか好きなんですが
最近中国の影響のせいか
霞が濃すぎてううんと思います。
「やまもとのかへるさたとる雪の日に
あらしや花の名残なるらん
花はみないろならすして。
嵐はかりの名残ならん事。
まことに哀ふかき雪の山もとなるへし。」
訳
(「山もとの 帰る沙汰とる 雪の日に
嵐や花の 名残なるらん」
歌意:山のふもとで今から帰るという命令を受け取ったのは雪の日で
この春の嵐で吹きすさぶ雪が
観る事もなく散っていった故里の桜の名残なんだろうな。
桜の花が満開に咲く事もなく
地面に無残に雪と同じように散らせていく
嵐を心惜しく思うでしょう。
本当に哀愁の深い雪の山のふもとですね)
訳ですが
「帰る沙汰」からすでに心は故郷に向かっていて
だけど楽しみにしていた故郷の桜も今こうして嵐に散っているんだろうな
と降りしきる雪を故郷で散る桜に重ねた歌ではないかなと思いました。
あ、あと雪の日に桜というのは始め
何だか変だなあと思ったのですが
嵐が花の名残という事から
雪の日は比喩でもなく本当に雪の日だろうなと思って訳しました。
まあ桜が咲いているのに雪が降るということは何年かに一回はありますし
昔は今よりぐっと寒かったのですから
そういう事もあっても不思議ではないです。
で、そう考えるとこの間のような雪を降らせる嵐が
遠征中に起きて桜が満開になることもなく散っていく
そんな風景をいつかどこかで経験したから
こんな歌を詠んだのではないかなと思いました。
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