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春霞集もとい毛利元就詠草集連歌の部・解説その6

「たとりそくらすすすの篠原
 
 芳野山こなたかなたの花を見て

 今宵たれすす吹風を身にしめてよし野の嶽の月をみるらむ
 月の歌にて花の佳句。以四季歌詠戀雑歌。
 以戀雑歌詠四季歌とあるにかなへり。」

(「吉野山 こなたかなたの 花を見て
         辿りぞ暮らす すすの篠原」

歌意:桜の名所である吉野山で
   あちらこちらに咲いている花を見て
   歌に詠われたすすの篠原とはどこなのかと
   春の桜に誘われながら
   秋の晩を思いつつ、
   さ迷い歩いている。

 今宵誰すす吹く風を身にしめて
      吉野の岳の月をみるらむ
 という歌が新古今和歌集の秋の上巻にありますが
 この月の歌を念頭に花を詠むいい句です。
 四季を歌いながらもその中に恋やその他の歌をこめる。
 恋やその他の歌に四季をこめるという歌の基本にかなった歌ですね。)


おお、新古今和歌集の歌が出てきました。
その前に簡単に言葉説明ですが、
この歌の「たとりそくらすすすの篠原」の
すすの篠原の「すす」とは細い竹の事です。
よって
細い竹のささやぶのような所を探しさ迷い歩くという意
前の人の歌です。
元就さんはこの「すすの篠原」の「すす」の部分を
新古今和歌集の「今宵たれすす吹く風」の歌の
「すす」に合わせて本歌取りをしたようです。

この「今宵~」の歌ですが
「今夜、一体誰がすすの篠原に吹く秋風を
 身にしみじみと聞きながら
 一人寂しく吉野の山にかかる月をみるのだろうか。
 それは私に他ならない。」

という秋の歌です。
しかし、吉野と言えば桜。
歌を詠んだ時期も春だったのか
ここでは秋の歌なんですが「吉野」に着目して
「花」と詠う事で春なのに秋を含めた四季を歌っています。
歌とはただ眼前にある風景を詠むのではなく
風景に自分の思いや他の景色を詠むもの。
その逆もまたしかり。
よって春の桜に秋の風を思うこの歌は紹巴さんの言うとおり
歌の理念に適っています。
っていうかこの歌読んだだけで新古今和歌集だと分かった紹巴さんも紹巴さんだし
「すす」の一言でぱっとその歌が出てきた元就さんも元就さんで
すごいなあとしか言いようがないです。
私はたまたま辞書引いて、一発で出てきたから分かったものの
そうでなかったらお手上げです。
古典をもちっと真面目に勉強しとくんじゃった・・・。

「しめをく山や我を待らん
 
 わすれすも去年みし花を思ふ身に

 こころ深くしめをかれたる人をは。
 はなもまつへきのみ。」

(「忘れずも 去年見し花を 思ふ身に
        しめおく山や 我を待ちらん」

歌意:去年見た花を忘れずに覚えているから
   あの山を登れば
   きっとあの桜の木が私を待っているだろう。

去年ほんのひと時見た桜でも
心の底にしっかりと覚えているから
花は貴方を待つしかないですよ。)


うん、ほのぼのする歌ですね。
去年見たけえ今年も行けばきっと咲いとるよ。
という珍しくポジティブな歌です。
えっと、しめおく山ですが以前出てきたので
ひょっとしたら同じ席で詠ったものなのかもしれません。
ここでのしめおく山は去年桜を見たあの山という
標の意味で使われています。
それと紹巴さんの返答もいいなあと思いました。
それだけ思われていたら待つしかないですよ
と答えてくれているので。
あと、この歌ちょっと誰かに宛てた歌のような気もします。
桜を見によその家にでかけたりしてたようなので
ひょっとしたらこの歌の場にその人がいて
去年見してもらった桜のことをしっかり覚えていますよ。
また行ったら咲いてますか?
と暗に聞いているような気がしました。

「眞柴たく賤か家居はうちけふり
 
 あさ夕わひし五月雨のころ

 五月雨の比に玉しきの内さへしめりかちなりと
 しつ山かつまて御憐憫のありかたさよ。」

(「真柴焚く 賤が家居はうち煙り
        朝夕侘びし 五月雨の頃」

 歌意:柴を焚いている貧しい家の中は煙にくすぶり
    しとしと雨にけぶって見えて
    朝や夕方がいっそう貧しく見えて
    切ない気持ちになる梅雨の時期。)

 梅雨の時期は住まわれている屋敷でさえ湿りがちになるのに
 貧しき者の住まいを思い哀れに思われる
 その気遣いを領民達は有難いことだと思っていますよ。)


梅雨のしとしとした薄暗いあの憂鬱な朝や
一日もお日様を見る事もなくうっそりと暮れる夕方
そんなただでさえ気が滅入る風景で
外に出る事も出来ず、燻った暗い家の中で日がな一日暮らす。
・・・。
うん、侘びしいの一言しかありません。
紹巴さんはそんな貧しい暮らしの民の事まで思われるなんて
滅多にない有難いことだと言っていますが
でも元就さんの場合「乞食若殿」と囃されたぐらい
貧しい暮らしを幼少期におくっていて
領民の貧しさは身をもって知っていたと思われます。
実際、大河では幼少期に家臣に城を乗っ取られた時
土居での家がまさかの縄文式の家でした。
まあ、しかしほんまに農村の貧しい家ってあんな家なのか?
とすごく疑問は残ります。
でも「利家とまつ」でも最初の頃はあんな家だったし、
あの頃の大河はまだ時代考証しっかりしてたから
信ぴょう性ゼロではない。
だとしたら朝夕食事の支度で火を起こすと
めっさ煙が籠ります。
そこで一日家族とずっと過ごせと言われたら
考えただけでも憂鬱になります。
ああ、あと領民思いの所は
吉田物語にいくつかエピソードがあります。
そのいずれもが吉田の地で江戸時代になっても
逸話としてずっと残っていたものなので
領民達にもその気持ちが十分伝わっていたと思います。

解説その5

解説その7
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主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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