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南北朝は近畿だけじゃなかった~観応の擾乱・鞆発の親子喧嘩~

前回の駆け抜けて行った石見軍ですが
その後、暦応5年に終わった石見方との戦いの後は
安芸では大きな戦もなく睨みあいですんでいたようです。

はあようやっと落ち着いたわ。
と思っとったら

貞和5(1349)年 
閏6月

尊氏の弟の直義が兄に訴えて高師直を失脚させます。
直義は裁判権などの政務を行っていたようですが
尊氏の執事であった高師直と政治的に対立を深めていったようで
ついにブチっとなってお兄ちゃんに
「あいつええ加減にやめさせえや!」
となったようです。
実際は直接でなく直義の家臣達が言ったようですが
尊氏兄ちゃんは
「はあ、まあ弟の直義がいうなら」
となったのか
高師直は失脚させられます。

が、ここで終わる高師直ではありません。
8月
反撃に出ます。
軍事的にも力のあった師直は
直義宅を急襲、直義が尊氏の家に逃げ込んだので
尊氏は両者の調停をし、
直義を出家させて持っていた政務の権限を尊氏の子の義詮に譲らせ
高師直を執事職へ復権させます。

しかしこれに黙っていなかったのが
直義の養子・直冬です。
直冬は実父は尊氏なのに認知すらされず
哀れに思った直冬が引き取って育てました。
長門探題(「太平記」などでは中国探題)に任じられて
この年の4月に鞆に来ていた直冬は
養父である直義のために挙兵しようとしますが
9月、鞆で師直方の杉原又四郎に敗れて九州へ逃れます。

がここで終わる直冬ではありません。
逃れた九州で兵を集め、
翌年、

観応元(1350)年
4月

直冬は師直追討令を西国の武士達に呼びかけます。

これを受けた安芸では直冬方と尊氏派に国人衆がわかれます。
まず直冬方は
吉田の毛利親衡と北条治部権少輔、
大朝の吉川経盛、
山県(やまがた)の山県十郎・為継、
壬生道忠、寺原時親
西条の吉岡小五郎ら。

それに対し
安芸守護の武田信武次男、氏信を中心に
山県の周防親重、
三入の逸見有朝、内籐氏康、
大朝の吉川実経の代官・須藤景成
が尊氏派につきました。

吉川氏のように一族内で分かれた所もあれば
千代田のように地域で分かれた所もあります。
が、安芸守護の武田氏中心に尊氏派
という感じがします。

5月25日
毛利親衡と北条治部権少輔は
山県・西条の国人らと共に一斉蜂起します。
しかし、事前に情報が漏れていたのか
その日のうちに内籐泰廉に攻められ
毛利親衡らは一時、吉田を放棄します。

・・・。
ええ!!?
自領放棄ですか!?

そんなことできるんですね・・・。
まあ攻めてきた内藤さんも打ち死にしているから
あいこなのかもしれませんが・・・。

5月28日
吉岡一族が西条に攻め入ります。
が、
これも武田軍に敗れます。

6月2日
武田軍は吉田へ攻め入り
吉田を焼き打ちしたため
毛利氏と北条氏は山県へ逃走し
寺原氏と合流します。
・・・・。
弱いな毛利さん。


6月4日
武田氏、山県の井野村垰へ陣を築きます。
対して北条氏は寺原・余谷城に籠り
壬生氏らが猿喰城へ籠ります。

6月8日
武田方が動きます。
しかし、これは武田方の計略で
北条方が城から出て道祖垰に降りたところを
大手から須藤氏らが、搦め手から寺原氏らが
攻めたてて寺原・余谷城を落とします。
このため直冬方は猿喰城へ引き返して籠城し
何が何でもアンチ尊氏の石見方の援軍を待ちます。

7月2日
石見方が救援に安芸へ入り御坂要害を抜きますが
吉川実経が撃退します。

7月11日
石見方の援軍を受けられず
猿喰山城は陥落します。

これにて直冬対尊氏の戦いイン安芸は終了。
しかし、直冬方についた吉川経盛に直冬は所領安堵を行い、
阿曽沼氏にも声をかけるなど諦めてはいませんでした・・・。




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主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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