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世界遺産・温泉津と毛利元就の温泉開発

高宮湯の森行こうかと言っていたのに
なぜか温泉津へ行ってもらえることになって
よっしゃあ!!と思わず叫びました・

温泉津(ゆのつ)は湯の川や有福など美人の湯で有名な山陰の数ある温泉の中でも
ナンバーワンに輝く名湯なのです。
にごり湯のため、いつもなかなか承諾してもらえなかったんですが
今回初めて連れていってもらいました。
いつものように牛頭城の下を通って有田城を通るルートです。
途中元春の館跡の別れ道をすぎて
小倉山城と通りすぎ、口羽の二つ山城を通って小笠原氏の領土に入ります。
江の川の渡しを過ぎると普段は右に曲がって川本の湯谷温泉に行くんですが
今日は温泉津目指してそのまま32号を直進です。

で、9号線にぶつかって右へ行き、しばらくすると温泉津の看板が。
ここを曲がっていくと海が見えます。
そのまま道なりに行くと温泉津の歴史と観光案内所があり
ここに車をとめて散策しました。

まず一階の観光案内所、色々と見ていると
壁にこんなものが!!

元就温泉津

「櫛島城址・・・・毛利水軍山陰の拠点
         毛利と尼子の狭間にあって敵味方となった若武者と姫の悲恋物語など
         様々な歴史ロマンが刻まれている。
 鵜の丸城址・・・元亀元年(1570)、日本最強と恐れられた毛利水軍がひそかに温泉津を出発
         山陰沖を駆け鹿之介立て籠る十神山城を奇襲、これを奪回する。
         以後山陰平定の戦略拠点として毛利水軍基地となっていったのである。
 西念寺・・・・・永禄4年(1561)、九州の雄大友宗麟の戦いに勝利した元就は
         九州先陣に伽僧として従った然休上人への褒美として
         温泉津西念寺の寺地を安堵する。
         西念寺中庭には元就手植えの梅と伝えられる紅梅の老木があり
         毎年2月ともなると美しい花を咲かせる。
 厳島神社・・・・出雲・石見の覇者となった毛利元就は
         永禄11年(1568)、温泉津町に厳島神社を遷座する。
         宮島信仰厚い元就の人柄と石見銀山経営への意気込みが感じられる。
 七騎坂・・・・・天文12年(1543)、
         大内義隆配下の武将として月山富田城に攻め入った毛利元就は激戦の末
         大敗を喫し敗走。途中、追っての追撃厳しく、元就配下の渡辺通、内籐九郎など
         7人の武将が身代わりとなって打ち死にする。この激戦跡を七騎坂と言い
         現在温泉津小浜に往時のまま残っている。
         (銀山街道は降露坂近くの七曲がりとも伝えられている。)
 物不言城(福光城)址
      ・・・・天正9年(1581)、羽柴秀吉は5万の大軍を擁して鳥取城を包囲する。
          立て籠るは毛利一族の名将吉川経家。戦う事約3カ月、
経家は城兵の命と引替えに自ら切腹して果てる。
この経家が居城としたのが石見物不言城。
 降露坂・・・・・・天文12年(1543)、大内遠征軍が寝返りにあい殿軍をつとめた毛利軍主従が
          尼子勢の追手に危機におちいった時、大江坂の七曲りで元就の身代わりとなった
          場所がここだと伝えられており、近くには渡辺通の墓と伝えられるところがある。」

七騎坂とか水軍城址とか何これ素敵!!
経家さんの城まである!!
しかも元就さんお手植の梅とか!!
なんてスンバらしいんだ温泉津!!


と評価だだ上がりでした。
大概、ここら近辺の世界遺産は元就さん関係深い事多いので
側に行けば何かあるかと思っていましたが
まさかここまでとは・・・!!
感動のあまり暑さも気にせずとことこ町を歩くと早速入口にこんなものが

温泉あんない

記事が薄くてもう読みにくかったんですが
奥の元湯温泉の看板に温泉津の由来がありました。
それによると

「泉薬湯 温泉津温泉元湯の由来
 伊藤家温泉屋文書は「中世室町時代に伊藤重佐という者が温泉場を開発した。
 温泉場の開発は、村の草創である」と伝えている。

 石見国温泉郷温泉津の温泉の出泉は、何時代の何年か、明らかにはできないが
 平安時代、承平の頃には既に温泉の所在が都に知られていた。
 
 ~中略~
 
 星移り代改まり、観応、丈和の頃、多くの霊験を積んだ伊藤重佐という修行者が
 ここに新たに霊泉の盤を改め洞穴を開き、盤上に薬師の仏堂を建立し
 盤下に本願功徳の徳化を流し、温泉場を開発し以て諸人の疾苦救済を起願した。
 年過ぎ年重ねるごとに、多くの諸人が病苦から救済されるようになった。
 
 永正の頃には温泉屋本坊職、新坊職として広く世人の福祉につくしていた。
 後年、これを知った国主毛利元就公は、温泉場開発の創始者伊藤重佐の高徳にたいして
 重佐を湯主とした。
 
 さらに国乱れ、太守毛利輝元公宰となる。この時、湯主重佐裔孫信重、
 湯税を献上して国恩の重きに酬いる。以来、宰君、温泉屋伊藤家の湯役上納を例とし
 今に至るまで湯税を怠ること無しと由来記は伝えている。」

なお、新聞記事にはこれらがもうちょっと詳細に書いてあって
毛利氏が石見銀山を掌握し、水軍の拠点として港を整備する過程で
温泉開発も同時並行したため、「温泉津」という地名が生まれた。
とされていました。

この温泉津は本当に小さい町で石見銀山から銀を運ぶのなら
もっと近くでもいいし、人生最大の危機に襲われた地域の側でなくてもと思うんですが
わざわざ温泉場の側に港を切り開いたのは
石見銀山から重たい銀を運び込み疲弊した人達が休められるように
との意図もあったのかなと思いました。

ああ、それと湯税を重佐さんが自ら進んで献金したというのが
毛利氏らしいなあと思いました。
基本、毛利氏赤字経営なので何だか話題になっている隠し財産なんてする暇ないんです。
戦っても相手が降服したら基本許しているため土地が劇的に増えるわけでもなく
かといって御賞は与えなくてはいけなくて商人からの融資で戦を行っていました。
みんなのカンパで経営
カープか!!
とツッコミたくなるほどどんぶり勘定で
ああ、カープの樽募金精神はこの頃からあったんだと何だか切なくなります。
まあ優勝ならぬ中国地方は平定したし安定したから結果おうらいですが。

あ、それと庄屋さんの建物が残っていました。
P8251160.jpg
「内藤家庄屋屋敷
 元亀元年(1570)当家初代、内藤内蔵丞は毛利元就の命を受けて
 銀搬出の重要拠点である温泉津港口に鵜の丸城を築き、奉行に任命されました。
 毛利が石見銀山統治の為、如何に温泉津港を重要視したかは
 温泉津を直轄領にし、毛利水軍御三家の一つ内籐一族を安芸国から迎え
 奉行に据えたことからも伺えます。

 関ヶ原役の後、毛利が石見から撤退すると、温泉津に土着し
 代々年寄りや庄屋を務めました。その間、廻船問屋、酒造業
 郵便局等の経営に携わりました。」

内藤家は周防の水軍家だった気もするんですが
まあ安芸に移されていたのかもしれません。
石見なのに毛利寄りなのは
関ヶ原後に内籐家をはじめ温泉津に残った毛利方が
少なくなかったからかなと思います。
まあ、単純にVS出雲のライバル意識もあるんでしょうが。

そんな感じで町には毛利氏の統治の面影が
かなり強く残っています。
例えばこんなお店。

P8251161.jpg

多分このお店も戦国時代からの経営なんでしょうなあ。
油屋さんって書いてあるけど
鉄砲火薬というあたりから戦国時代の匂いがします。

他には寺の様式
西楽寺
これは西楽寺といい浄土真宗のお寺で
慶長8年に建てられたものを天保2年に再現したそうです。
この虹梁の部分、これ輝元が八千代に造った寺の装飾と非常によく似ています。

参考クリックで大きくなります。
八千代の日高神社

雲谷派と呼ばれるものでド派手な安土桃山文化の一つ前の様式なのですが
安芸ではよく用いられた手法です。
梁の所に雲渦のもようが直接掘りこんであり、上から色付けした感じです。
あと、このお寺の由緒に
「杖籠りのご消息
 天正年間の大阪石山合戦(1570~1580)では、
 本願寺第11世顕如宗主からの書状を密使・下間刑部卿法眼が
 竹杖に仕込んで敵中突破して携えてきたとして今に伝わる。」
・・・。
アクティブなお坊さんです下間さん。
しかも仕込杖。
もはやそれ忍びな気がします。
というか、石山合戦の影響はこんな所まで来ていたのですね。
まあ毛利水軍総動員したのならここも動かんといけんですね。
村上さんだけの戦いだと思っていたので少し意外です。

あ、で温泉入る前に沖泊へ行きました。

沖泊

okitomari.jpg

ここも世界遺産石見銀山周辺遺跡として登録されていて
テレビでよくでてくる場所です。
周辺の岸壁にはおびただしい船泊りの跡があるんだそうですが
ちょっと見えにくかったです。
小さな湾ですが両側の山は城跡です。
ここから世界に銀が運ばれたのかと思うと感慨もひとしおです。

で、温泉に入ってきました。
浜田地震で湧きでたため震湯と呼ばれる薬師湯のほうへ入ってきました。
湯は濁り湯で、鉄の匂いがつよく硫黄臭はあまりしません。
温度は熱めなのでちょっとつかったら冷ましてまた入るを繰り返したんですが
体の芯からぽかぽかしました。
さすが名湯なだけあります。

大正時代の古い建物を上がると温泉津の町並みが一望できました。
yunotu.jpg

小さいながらも歴史がぎゅっと濃縮された町で
世界遺産に登録されながらも静かな気配の残る落ち着いた場所でした。
といい感じに終わりたいんですが
今回元就さんお手植の梅とか、7騎坂とか行けてないし
銀山街道歩いていないし、悔むことも多かったです。
母に一泊しても見きれないと訴えると
それはあんただけよと返されたんですが
また秋にでも頼みこもうかと思います。
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Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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