久留米城と小早川神社~久留米侍従ゆかりの場所~
熊本の後に久留米に行きました!
久留米といえば小早川秀包!
そして久留米城!
なのに皆して
「ラーメン食べに行くん?」
と聞く・・・・。
本場のトンコツラーメンも捨てがたいですが
私のメインは久留米城!
みんなにそういうと
「久留米に城ってあるの?」
と首を傾げたので見せました。
行きの新幹線から撮った久留米城。

「え?どこに城あるん?」
「え?これ全部城跡よ。」
「え?工場やん?」
「山が本丸で、ブリヂストンの工場の所が2の丸と3の丸。」
と説明したんですが納得してもらえんかった・・・。
じゃけえ
「普段うちが行く山城に比べたらはるかに城よ!
石垣なんてそこらの田んぼの石垣みたいじゃし、
そもそも山じゃし。」
と力説したんですが
やっぱり熊本城みたいなのを城ってみんな思うものなんだなあと思いました。
とりあえずマイナーなのは自他ともに認めよう!
そしてこれまた今回の武将は超マイナー。
小早川秀包さん。
毛利家自体マイナーですが
特に三大地味長男とされる隆元は
マイナー武将の代表格です。
ただし、彼は父と弟に比べると地味ですが
三本の矢とかその他歴史を知っている方には有名なので
メジャーマイナーな方ではあります。
その彼をはるかに上回るマイナーな方が秀包さん。
隆元よりも周りが豪華メンバー過ぎて
歴史に埋もれている方です。
その周りの絢爛っぷりをみると
実父・・・毛利元就
岳父・・・大友宗麟
養父・・・小早川隆景
義弟・・・小早川秀秋
親友・・・立花宗茂
編諱・・・豊臣秀吉
初陣・・・小牧・長久手の戦い(VS徳川家康)
と豪華メンバー揃い踏み。
歴史に疎い方でも知っている名前がちらほらいるぐらいです。
因みに伊達政宗と同い年。
しかも銃使いで
射撃の腕もかなり上手だったそうで
愛用の銃が残っているという武将としては珍しい方。
また、妻がキリシタンであったため
元就の息子で唯一キリシタンであった方です。
この方も奥さんは正室だけですなんですが
重婚を禁じているキリシタン云々よりも
元就さんの息子だからかなあと思います。
キリシタン大名の宗麟でさえ側室いたことを考えると
一夫多妻が当時の常識で
逆に一妻一夫の家って珍しい事なんだと改めて思います。
あ、で久留米駅から
城に向かっててくてく歩きました。
道路標示を見ると「久留米城跡」としっかり書いてあります。
おお!立派な看板がある!
とわくわくしながらブリヂストンの工場の横をあるきます。
といっても二の丸・三の丸は工場地。
なので遺構はほぼないんですが
道中こんなものが・・・。

「くるめじょうさんのまる
濠で囲まれたた方形の郭で、御蔵屋敷、御蔵番屋敷と
五名の家老屋敷が置かれていた。」
ほうほう、方形の郭かあ・・・。
といっても工場になっていてまったくわからんです。
別の意味で工場見学したいなあと思いながら
角を曲がると・・・。
ありました!
正面に小高い山と鳥居!
久留米城本丸です。
やはり両側工場関係の土地で
遺構はないんですが、
本丸にはなかなか立派な石垣が残っていました。

結構急な石組で、
濠も深かったです。
周囲には看板が色々とありました。



その中でも一番詳しかったのがこれ
「久留米城下町
永正年間(1504~21)に筑後川ぞいの小高い山に築かれた平山城が、
久留米城の始まりとされる。高良山勢力の出城であったらしく
天正11(1583)年から3年間、高良山座主麟圭はこの城に籠り、
豊後大友氏と戦っている。
天正15年、豊臣秀吉の九州国割により、久留米城には
毛利秀包が入城する。関ヶ原の戦いで毛利家が断絶すると、
田中吉政が筑後一国の領主となり、
筑後北部の支配の拠点であるこの城には次男則政が置かれた。
元和7(1621)年、有馬豊氏が田中家の改易をうけて
筑後北半21万石の大名として入城し、
幕末まで有馬家の城下町として栄えることになる。
有馬家は入国当初から約40年かけて、廃城となっていた久留米城の大改修を行ない、
本丸・二の丸・三の丸・外郭に濠を廻らす連郭式城郭を建設している。
~以下略~」
城を近代城郭に初めて整備したのは秀包さんらしいです。
比高も低く、近くに大きな川。
水軍城の典型的な地形です。
しかも全ての郭が濠で囲まれ、橋でつながれている。
これは三原城と非常によく似た造りです。
加えて、本来天守閣をおくべき場所に
天守が置かれていなかったのも類似しています。
秀包が他所へ出陣した時には
隆景が代わりに入城して政務を行った事もあるらしいので
久留米城が小早川氏の拠点として整備された可能性も十分あるから
水軍城として造られたとしても不思議ではありません。
ただ、地図をみても港の跡らしいところがないのです。
辛うじて城内で
「ここから川に降りて船着き場があった」
という看板を見た気がしたんですが
今写真を見ていてもその看板がないのです。
思い込みだったのかもしれません。
電波でもキャッチしたのかなあ。
ううん、ただ久留米城は一度廃城になったことや
筑後川の氾濫がたびたびあったようなので
秀包時代の遺構が消えている可能性もあります。
実際、江戸時代の地図をみると城の東側の原っぱに
妙なクランクのついた道がありました。
多分これは城の外堀か何かだったんだと思います。
そんなこんなで考えることも多かったんですが、
ああ、しかしこれだけはつっこんどかんといけん。
毛利家断絶しとらんけぇ。
薩長の片割れなんよ。
むしろテルを西軍総大将として認知していてくれて
ありがとうです。
まあ普通総大将で負けたら断絶なんでしょうが・・・。
ただ、秀包が家を放棄したのは確かです。
秀包は秀秋の裏切りで汚された家名を持つのをよしとせず
小早川の名をやめ、毛利姓に戻します。
また、家臣達も解雇し、その後亡くなりました。
そこらのごたごたが間違って伝わったのかなあと思います。
で、現在の本丸跡。

見える神社は篠山神社と言って
久留米の土地神様を祀っています。
しかし、今回の真の目的はここ!
秀包さんを祀った小早川神社です!

「当神社のご祭神は旧久留米城主の毛利秀包公であります。
公は毛利元就の末子として永禄十年(1567)安芸国に出生、
初名は元総、一時兄の小早川隆景の養子となったので、
小早川神社と称します。
豊臣秀吉に仕え戦功により久留米城主と成りましたが
関ヶ原の戦で西軍に組みした為に領地を失い、
本家の領地で慶長六年(1601)に没しました。
秀包公は妻(豊後のキリシタン大名大友宗麟の七女)
の引地と共に熱心なキリシタンでしたので、
この神社の扉にはアンドレアス十字が刻まれています。」
あ、あれ?秀包さんの奥さん・マセンシアは桂姫のはず・・・。
引地というのは土地関係の名前なので、
通称だったのかもしれません。
あと神社なのに刻まれているアンドレアス十字ですが、
横長のばってんなんだそうです。
見えるかなあと近づいたんですが・・・。

この祠、かなり古そうな感じで
扉の彫が摩耗していてよくわかりません。
何とかしめ縄の下にうすっらと斜めのクロスが見えました。
キリシタン御法度の時代は長く
明治も最初の頃は禁止されていたので
この神社は一体、いつ誰が建てたのか非常に気になりました。
久留米藩に入った有馬家は
兵庫の有馬さんなので、黒田官兵衛とは同じ播磨出身。
よって城の改修工事には黒田さんを呼ぶなど
同郷の誼の付き合いがあったようです。
なので、景様一押しの黒田官兵衛を通して
小早川兄弟とは顔見知りだった可能性は十分あります。
だから、早くに亡くなった秀包を悼んで
城の改修時に地鎮の神社を建てた。
とも考えられるのですが、
ただそれだと十字を扉に彫るのは危険じゃないかなあと思います。
丁度この後島原の乱が起きてより一層厳しい取り締まりが行われたので・・・。
とすると
「これは元々秀包時代からあったのではないか。」
ではないでしょうか。
秀包夫妻は長男の洗礼式を久留米城内で行うなど
キリシタンとして信仰熱心でした。
多分実父の元就さんの信仰熱心さが遺伝したんでしょうなあ。
しかし、秀吉と宣教師の仲が悪化し
バテレン追放令が出されるなど
キリシタンであることはリスクを伴うようになりました。
また隆景の手前、キリシタンとして堂々と活動することは控えていたようです。
だから、この神社は元は秀包が表立って祈祷できないので
教会の代わりにキリストを祀った祠だったのではないかと思うのです。
あんまり大っぴらにできないからこそ
アンドレアス十字の様なはっきりとクルスと分からないものを
彫らせたのではないでしょうか。
また祠は東向きの庭のかなり中にあります。
普通祠は建てても鬼門などなるべく角に建てるはず・・。
もし有馬さんが建てたのなら、この神社はど真ん中すぎて邪魔になります。
しかし、最初からあった祠だとしたら祟りがあるかもしれないから
おいそれとは動かせず、元の領主の秀包さんが遺したものだから
小早川神社と成り、秀包さんを祀る祠になったのではないかと思います。
多分、この扉を開けて十字架があれば
秀包が造った祠だと決定できるんでしょうが
広島のえべっさんのように勘違いでも生まれる信仰はあります。
秀包さんの事を有馬さんが長いこと大事に思っていてくれた。
それだけで嬉しいなあと思います。
で、荷物が重かったために
城をぐるっとは回れなかったんですが
幾つか気にいった櫓があったので紹介します。
まずは月見櫓。

素敵な名前だなあ。
多分「月が~出た出た~月が~出た~よいよい。」の
炭坑節の筑豊地方がここから見えたんだろうなあと思います。
その下にあったのが
蜜柑丸。

何でも蜜柑の木があったかららしいです。
秀包時代にはここに本丸があったとも云われているそうです。
こんな立派な石垣があるのに
本丸がこんなに低い場所にあるのかなあと思ったんですが、
まあ三原と同じ造りなら、石垣の下が本丸でもおかしくないです。
そんなこんなで軽く一周した後
資料館に入りました。
昭和な建物だったんですが
中は凄かった!
有馬家の雛道具とか婚礼関係の展示がしてあったんですが
昔の職人技はやっぱりすごい!
特に感嘆したのが青貝の柄の薙刀。
初めは螺鈿の上に青いガラスでもかけたのかと思っていたんですが
青貝だったんです。
水色っぽい青で、それがキラキラと反射し、
プールの水面に鏡の破片を沈めた感じで
とっても綺麗でした。
あと有馬家といえば有馬温泉しか私は浮かばないんですが
有馬記念はここの有馬さんが発案者なんですね。
ほうほうと感嘆しながら1時間かけてじっくり見、
郷土史料コーナーへ。
「久留米市史」しかなかったんですが
安芸では秀包さんの手がかりはほとんどないので
大変参考になりました。
売ってくれんかなあと思ったけど無理だろうなあと
必死でページを頭の中に叩き込みました。
その中で黒田官兵衛と立花宗茂。
2人とのエピソードがぐっときて・・・。
続き
久留米といえば小早川秀包!
そして久留米城!
なのに皆して
「ラーメン食べに行くん?」
と聞く・・・・。
本場のトンコツラーメンも捨てがたいですが
私のメインは久留米城!
みんなにそういうと
「久留米に城ってあるの?」
と首を傾げたので見せました。
行きの新幹線から撮った久留米城。

「え?どこに城あるん?」
「え?これ全部城跡よ。」
「え?工場やん?」
「山が本丸で、ブリヂストンの工場の所が2の丸と3の丸。」
と説明したんですが納得してもらえんかった・・・。
じゃけえ
「普段うちが行く山城に比べたらはるかに城よ!
石垣なんてそこらの田んぼの石垣みたいじゃし、
そもそも山じゃし。」
と力説したんですが
やっぱり熊本城みたいなのを城ってみんな思うものなんだなあと思いました。
とりあえずマイナーなのは自他ともに認めよう!
そしてこれまた今回の武将は超マイナー。
小早川秀包さん。
毛利家自体マイナーですが
特に三大地味長男とされる隆元は
マイナー武将の代表格です。
ただし、彼は父と弟に比べると地味ですが
三本の矢とかその他歴史を知っている方には有名なので
メジャーマイナーな方ではあります。
その彼をはるかに上回るマイナーな方が秀包さん。
隆元よりも周りが豪華メンバー過ぎて
歴史に埋もれている方です。
その周りの絢爛っぷりをみると
実父・・・毛利元就
岳父・・・大友宗麟
養父・・・小早川隆景
義弟・・・小早川秀秋
親友・・・立花宗茂
編諱・・・豊臣秀吉
初陣・・・小牧・長久手の戦い(VS徳川家康)
と豪華メンバー揃い踏み。
歴史に疎い方でも知っている名前がちらほらいるぐらいです。
因みに伊達政宗と同い年。
しかも銃使いで
射撃の腕もかなり上手だったそうで
愛用の銃が残っているという武将としては珍しい方。
また、妻がキリシタンであったため
元就の息子で唯一キリシタンであった方です。
この方も奥さんは正室だけですなんですが
重婚を禁じているキリシタン云々よりも
元就さんの息子だからかなあと思います。
キリシタン大名の宗麟でさえ側室いたことを考えると
一夫多妻が当時の常識で
逆に一妻一夫の家って珍しい事なんだと改めて思います。
あ、で久留米駅から
城に向かっててくてく歩きました。
道路標示を見ると「久留米城跡」としっかり書いてあります。
おお!立派な看板がある!
とわくわくしながらブリヂストンの工場の横をあるきます。
といっても二の丸・三の丸は工場地。
なので遺構はほぼないんですが
道中こんなものが・・・。

「くるめじょうさんのまる
濠で囲まれたた方形の郭で、御蔵屋敷、御蔵番屋敷と
五名の家老屋敷が置かれていた。」
ほうほう、方形の郭かあ・・・。
といっても工場になっていてまったくわからんです。
別の意味で工場見学したいなあと思いながら
角を曲がると・・・。
ありました!
正面に小高い山と鳥居!
久留米城本丸です。
やはり両側工場関係の土地で
遺構はないんですが、
本丸にはなかなか立派な石垣が残っていました。

結構急な石組で、
濠も深かったです。
周囲には看板が色々とありました。



その中でも一番詳しかったのがこれ
「久留米城下町
永正年間(1504~21)に筑後川ぞいの小高い山に築かれた平山城が、
久留米城の始まりとされる。高良山勢力の出城であったらしく
天正11(1583)年から3年間、高良山座主麟圭はこの城に籠り、
豊後大友氏と戦っている。
天正15年、豊臣秀吉の九州国割により、久留米城には
毛利秀包が入城する。関ヶ原の戦いで毛利家が断絶すると、
田中吉政が筑後一国の領主となり、
筑後北部の支配の拠点であるこの城には次男則政が置かれた。
元和7(1621)年、有馬豊氏が田中家の改易をうけて
筑後北半21万石の大名として入城し、
幕末まで有馬家の城下町として栄えることになる。
有馬家は入国当初から約40年かけて、廃城となっていた久留米城の大改修を行ない、
本丸・二の丸・三の丸・外郭に濠を廻らす連郭式城郭を建設している。
~以下略~」
城を近代城郭に初めて整備したのは秀包さんらしいです。
比高も低く、近くに大きな川。
水軍城の典型的な地形です。
しかも全ての郭が濠で囲まれ、橋でつながれている。
これは三原城と非常によく似た造りです。
加えて、本来天守閣をおくべき場所に
天守が置かれていなかったのも類似しています。
秀包が他所へ出陣した時には
隆景が代わりに入城して政務を行った事もあるらしいので
久留米城が小早川氏の拠点として整備された可能性も十分あるから
水軍城として造られたとしても不思議ではありません。
ただ、地図をみても港の跡らしいところがないのです。
辛うじて城内で
「ここから川に降りて船着き場があった」
という看板を見た気がしたんですが
今写真を見ていてもその看板がないのです。
思い込みだったのかもしれません。
電波でもキャッチしたのかなあ。
ううん、ただ久留米城は一度廃城になったことや
筑後川の氾濫がたびたびあったようなので
秀包時代の遺構が消えている可能性もあります。
実際、江戸時代の地図をみると城の東側の原っぱに
妙なクランクのついた道がありました。
多分これは城の外堀か何かだったんだと思います。
そんなこんなで考えることも多かったんですが、
ああ、しかしこれだけはつっこんどかんといけん。
毛利家断絶しとらんけぇ。
薩長の片割れなんよ。
むしろテルを西軍総大将として認知していてくれて
ありがとうです。
まあ普通総大将で負けたら断絶なんでしょうが・・・。
ただ、秀包が家を放棄したのは確かです。
秀包は秀秋の裏切りで汚された家名を持つのをよしとせず
小早川の名をやめ、毛利姓に戻します。
また、家臣達も解雇し、その後亡くなりました。
そこらのごたごたが間違って伝わったのかなあと思います。
で、現在の本丸跡。

見える神社は篠山神社と言って
久留米の土地神様を祀っています。
しかし、今回の真の目的はここ!
秀包さんを祀った小早川神社です!

「当神社のご祭神は旧久留米城主の毛利秀包公であります。
公は毛利元就の末子として永禄十年(1567)安芸国に出生、
初名は元総、一時兄の小早川隆景の養子となったので、
小早川神社と称します。
豊臣秀吉に仕え戦功により久留米城主と成りましたが
関ヶ原の戦で西軍に組みした為に領地を失い、
本家の領地で慶長六年(1601)に没しました。
秀包公は妻(豊後のキリシタン大名大友宗麟の七女)
の引地と共に熱心なキリシタンでしたので、
この神社の扉にはアンドレアス十字が刻まれています。」
あ、あれ?秀包さんの奥さん・マセンシアは桂姫のはず・・・。
引地というのは土地関係の名前なので、
通称だったのかもしれません。
あと神社なのに刻まれているアンドレアス十字ですが、
横長のばってんなんだそうです。
見えるかなあと近づいたんですが・・・。

この祠、かなり古そうな感じで
扉の彫が摩耗していてよくわかりません。
何とかしめ縄の下にうすっらと斜めのクロスが見えました。
キリシタン御法度の時代は長く
明治も最初の頃は禁止されていたので
この神社は一体、いつ誰が建てたのか非常に気になりました。
久留米藩に入った有馬家は
兵庫の有馬さんなので、黒田官兵衛とは同じ播磨出身。
よって城の改修工事には黒田さんを呼ぶなど
同郷の誼の付き合いがあったようです。
なので、景様一押しの黒田官兵衛を通して
小早川兄弟とは顔見知りだった可能性は十分あります。
だから、早くに亡くなった秀包を悼んで
城の改修時に地鎮の神社を建てた。
とも考えられるのですが、
ただそれだと十字を扉に彫るのは危険じゃないかなあと思います。
丁度この後島原の乱が起きてより一層厳しい取り締まりが行われたので・・・。
とすると
「これは元々秀包時代からあったのではないか。」
ではないでしょうか。
秀包夫妻は長男の洗礼式を久留米城内で行うなど
キリシタンとして信仰熱心でした。
多分実父の元就さんの信仰熱心さが遺伝したんでしょうなあ。
しかし、秀吉と宣教師の仲が悪化し
バテレン追放令が出されるなど
キリシタンであることはリスクを伴うようになりました。
また隆景の手前、キリシタンとして堂々と活動することは控えていたようです。
だから、この神社は元は秀包が表立って祈祷できないので
教会の代わりにキリストを祀った祠だったのではないかと思うのです。
あんまり大っぴらにできないからこそ
アンドレアス十字の様なはっきりとクルスと分からないものを
彫らせたのではないでしょうか。
また祠は東向きの庭のかなり中にあります。
普通祠は建てても鬼門などなるべく角に建てるはず・・。
もし有馬さんが建てたのなら、この神社はど真ん中すぎて邪魔になります。
しかし、最初からあった祠だとしたら祟りがあるかもしれないから
おいそれとは動かせず、元の領主の秀包さんが遺したものだから
小早川神社と成り、秀包さんを祀る祠になったのではないかと思います。
多分、この扉を開けて十字架があれば
秀包が造った祠だと決定できるんでしょうが
広島のえべっさんのように勘違いでも生まれる信仰はあります。
秀包さんの事を有馬さんが長いこと大事に思っていてくれた。
それだけで嬉しいなあと思います。
で、荷物が重かったために
城をぐるっとは回れなかったんですが
幾つか気にいった櫓があったので紹介します。
まずは月見櫓。

素敵な名前だなあ。
多分「月が~出た出た~月が~出た~よいよい。」の
炭坑節の筑豊地方がここから見えたんだろうなあと思います。
その下にあったのが
蜜柑丸。

何でも蜜柑の木があったかららしいです。
秀包時代にはここに本丸があったとも云われているそうです。
こんな立派な石垣があるのに
本丸がこんなに低い場所にあるのかなあと思ったんですが、
まあ三原と同じ造りなら、石垣の下が本丸でもおかしくないです。
そんなこんなで軽く一周した後
資料館に入りました。
昭和な建物だったんですが
中は凄かった!
有馬家の雛道具とか婚礼関係の展示がしてあったんですが
昔の職人技はやっぱりすごい!
特に感嘆したのが青貝の柄の薙刀。
初めは螺鈿の上に青いガラスでもかけたのかと思っていたんですが
青貝だったんです。
水色っぽい青で、それがキラキラと反射し、
プールの水面に鏡の破片を沈めた感じで
とっても綺麗でした。
あと有馬家といえば有馬温泉しか私は浮かばないんですが
有馬記念はここの有馬さんが発案者なんですね。
ほうほうと感嘆しながら1時間かけてじっくり見、
郷土史料コーナーへ。
「久留米市史」しかなかったんですが
安芸では秀包さんの手がかりはほとんどないので
大変参考になりました。
売ってくれんかなあと思ったけど無理だろうなあと
必死でページを頭の中に叩き込みました。
その中で黒田官兵衛と立花宗茂。
2人とのエピソードがぐっときて・・・。
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