孫子の兵法と毛利元就~「毛利が高陣」「陣は高きに作れ」~
「毛利が強弓」
という言葉があります。
三本の矢で有名なように毛利さんちはよく弓矢関係の呼び名が多いんですが
これも守護武田氏を弓で倒したこ弓兵の活躍による字名のようなものです。
実際は厳島合戦から早々に鉄砲を使っていて
信長の鉄砲隊よりも20年前から鉄砲隊を使用しているので
鉄砲もかなりの戦力になっていたと思います。
これと似たような言葉に、
「毛利が高陣」
という言葉があります。
これは元就さんが陣を築く時に、必ず相手の城より高い位置に陣を築いたことから
ついた名です。
といっても本じゃなくて伝え聞いた記憶な気がするので
「毛利が強弓」のような相手方がつけた字名だとは思います。
しかし、山城の標高は基本安芸だと400m以上。
それより高い位置に陣を築こうとするとなかなか大変です。
が、実際に山のてっぺんまでわざわざ登って陣を作っていました。
例えば、54号線にある出雲・赤穴瀬戸山城。
標高631mの山頂に築かれた山城です。
とはいえ比高は170m。
30分あれば多分上まで登れる高さです。

しかし、大内軍がここを攻めた時には
攻めあぐね、低地の陣であったために水攻めまで行われたとされます。
城主が打ち死にしたため辛うじて勝ちましたが
なかなか手ごわい城だったようです。
一方で永禄年間に元就さんが攻めた時には
瀬戸山城の後ろの武名ヶ平山という所に陣を構えました。
この武名ヶ平山は標高724m、比高270m。
瀬戸山城よりも100mも高い場所にわざわざ陣を築きました。
赤穴氏は開城し、降服。
以降毛利氏に従います。
・・・まあ、そこまで全力で来られるとそりゃあ負けた気になります。
後は有名所で月山富田城。
標高184m、比高160m
対して元就さんの築いた陣というか勝山城は
標高250m、比高220m
とこれも60m差です。
ビル1階を3mとすると20階分。
マンション20階から平屋を見下ろす感じです。
ここも最終的に籠城戦に勝ちぬき
開城させることに成功します。
では、なぜそんな高い所に陣を建てたのか。
これもやはり「孫子の兵法」に理があります。
「いざ兵を進める時には
自分よりも高い陣には攻めてはいけない。
丘を背にする敵陣には攻め入ってはならない。
・・・」(参考文献p144pの書き下し文を私訳)
と攻めてはいけない8か条がのっています。
その中で自分よりも高い場所にある敵陣は攻めてはいけないと一番最初に書いています。
また、
「敵と対陣するときは(略)
生き残るためには高い所に陣を構え
相手よりも高い場所から戦うべきで
こちらから登って戦うようなことをしてはいけない。
これは山で戦う時の軍法である。」(参考文献p154の書き下し文を私訳)
なぜ高いところに陣を構えるべきかというと
「軍は高い場所を良しとし、低い場所を悪しとする。
日向は好地であり、日影は嫌地である。
それは兵の健康を保つことであり
そうすれば疫病がはやる事はない。
これが必勝の条件である。」(参考文献p168の書き下し文を私訳)
というように防御だけでなく
長陣を行う事も考えて
陽のあたる高い場所が健康にもよいので
陣は高い場所に築くべきだと述べています。
元就さんはこの「山」を攻める時に方法である
「軍は高きを好みて下きを悪む」
を忠実に守ったようです。
だから、例え比高200mだろうが300mだろうが
相手よりも高い場所を目指してひたすら山登りをして
陣を築いたようです。
・・・まあ山の上に普段から住んでいると
多少の山なら平気で登れるから
そんなに大変なことじゃないかなとは思います。
続き
孫子の兵法と毛利元就「呉子の逸話と毛利元就の逸話」
という言葉があります。
三本の矢で有名なように毛利さんちはよく弓矢関係の呼び名が多いんですが
これも守護武田氏を弓で倒したこ弓兵の活躍による字名のようなものです。
実際は厳島合戦から早々に鉄砲を使っていて
信長の鉄砲隊よりも20年前から鉄砲隊を使用しているので
鉄砲もかなりの戦力になっていたと思います。
これと似たような言葉に、
「毛利が高陣」
という言葉があります。
これは元就さんが陣を築く時に、必ず相手の城より高い位置に陣を築いたことから
ついた名です。
といっても本じゃなくて伝え聞いた記憶な気がするので
「毛利が強弓」のような相手方がつけた字名だとは思います。
しかし、山城の標高は基本安芸だと400m以上。
それより高い位置に陣を築こうとするとなかなか大変です。
が、実際に山のてっぺんまでわざわざ登って陣を作っていました。
例えば、54号線にある出雲・赤穴瀬戸山城。
標高631mの山頂に築かれた山城です。
とはいえ比高は170m。
30分あれば多分上まで登れる高さです。

しかし、大内軍がここを攻めた時には
攻めあぐね、低地の陣であったために水攻めまで行われたとされます。
城主が打ち死にしたため辛うじて勝ちましたが
なかなか手ごわい城だったようです。
一方で永禄年間に元就さんが攻めた時には
瀬戸山城の後ろの武名ヶ平山という所に陣を構えました。
この武名ヶ平山は標高724m、比高270m。
瀬戸山城よりも100mも高い場所にわざわざ陣を築きました。
赤穴氏は開城し、降服。
以降毛利氏に従います。
・・・まあ、そこまで全力で来られるとそりゃあ負けた気になります。
後は有名所で月山富田城。
標高184m、比高160m
対して元就さんの築いた陣というか勝山城は
標高250m、比高220m
とこれも60m差です。
ビル1階を3mとすると20階分。
マンション20階から平屋を見下ろす感じです。
ここも最終的に籠城戦に勝ちぬき
開城させることに成功します。
では、なぜそんな高い所に陣を建てたのか。
これもやはり「孫子の兵法」に理があります。
「いざ兵を進める時には
自分よりも高い陣には攻めてはいけない。
丘を背にする敵陣には攻め入ってはならない。
・・・」(参考文献p144pの書き下し文を私訳)
と攻めてはいけない8か条がのっています。
その中で自分よりも高い場所にある敵陣は攻めてはいけないと一番最初に書いています。
また、
「敵と対陣するときは(略)
生き残るためには高い所に陣を構え
相手よりも高い場所から戦うべきで
こちらから登って戦うようなことをしてはいけない。
これは山で戦う時の軍法である。」(参考文献p154の書き下し文を私訳)
なぜ高いところに陣を構えるべきかというと
「軍は高い場所を良しとし、低い場所を悪しとする。
日向は好地であり、日影は嫌地である。
それは兵の健康を保つことであり
そうすれば疫病がはやる事はない。
これが必勝の条件である。」(参考文献p168の書き下し文を私訳)
というように防御だけでなく
長陣を行う事も考えて
陽のあたる高い場所が健康にもよいので
陣は高い場所に築くべきだと述べています。
元就さんはこの「山」を攻める時に方法である
「軍は高きを好みて下きを悪む」
を忠実に守ったようです。
だから、例え比高200mだろうが300mだろうが
相手よりも高い場所を目指してひたすら山登りをして
陣を築いたようです。
・・・まあ山の上に普段から住んでいると
多少の山なら平気で登れるから
そんなに大変なことじゃないかなとは思います。
続き
孫子の兵法と毛利元就「呉子の逸話と毛利元就の逸話」
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