熊谷家文書~うちの息子が本当にすみませんby元就~
「村上海賊の娘」を読んでいて
そういえば、吉川元春は嫁さん貰う時に
熊谷さんとこに行って
「娘さんを下さい!」
と勝手に申し込んだと言われています。
当時というか、今でも、結婚って家同士の結びつき。
なので戦国時代に自分勝手に結婚を申し込むのはありえない・・・。
だからほんまなのかなあと調べると
「うちの息子がほんまにすみません!!」
と元就さんから熊谷さんに送った手紙が
熊谷家文書に収録されてました。
熊谷家文書126号
書き下し(私訳)
「熊兵 申給へ
右馬 元就
便りの礼聊か忝き候へども、申しむる候々
かの間に就いての儀、おそなはり候へども、
以て小二郎申し入り候処、御懇ろの由候。
仰ぎ候所、幾度申し候しかれども、犬の様候へ共、
少輔二郎御殿者に参り候上にて、かくの如く申しかけ候。
是非に及ばず候。
我等事、何をも知らず、無道比興至極に世上に存じ候事、面目失うばかりに候。
然りと雖も、信直御分別の由候条、本望候。
連々見々申すべき候はば、申すにあたわず候。
この間も申し如く候、少輔二郎事は、ひとへにひとへに御扶助、
本望なすべく候、萬々期面心の時候。恐々謹言。
七月十日 元就」
現代語(私訳)
「熊谷信直殿
手紙にて述べるにはいささか申し訳なく思うのですが
それでも一筆取らせて頂きました。
元春が結婚を申し込んだことについて、
遅くなってしまったのですが、
元春が申し入れた結婚のことを、親密に受け止めて下さったとの事。
そしてその判断を私に仰がれていることについて、
何度も言いましたように、犬っころの様に勝手に飛び出す奴なんですが
元春が熊谷殿のお屋敷に参ってそのように申し上げたのであれば
もう今更反対も何もできません。
私は全く何も知りませんでした。
親が知らぬ間に勝手に結婚を申し込むだなんて
比べることもできないほどに非常識極まりないことで
こんなことが世間に知られれば
私の面目は丸つぶれになってしまいます。
しかしそうは言っても、信直がご思案されたことなのですから
私の方もこの結婚に賛成です。
本当はお互いに顔を合わせて話し合うべきなのでしょうが
もう今更申す事でもないでしょう。
この間も言いましたように、元春の事はただただお力添えをして頂いて
この結婚がまとまるように、万全を期すことができるように覚悟します。
恐々謹言
7月10日 元就」
・・・。
うわぁ、ほんまにやらかしとる。
元就さんが文中で「無道比興至極」と言っていますが
確かに当時、というかつい100年前まで
親に知らせずに結婚を申し込むのは非常識極まりなかったはず・・・。
手紙の最初に
「便りの礼聊か忝き候へども、申しむる候々」
と断ってますが、本来確かに手紙で謝るのはちょっとまずいことです。
しかも「おそなはり候」(遅くの古語)とあるので
すぐに返事をしないといけないのに、
すぐ書けなかった。
・・・まあ大っぴらに家臣に相談もできないですし、
頼れる家族は妻も母も失くしたばかりでいない。
本来直接謝りに行くべきだけど、多忙すぎてそれどころじゃない。
だから、相当悩んで返事も遅くなったんだろうなあと思います。
それから熊谷さん。
手紙から読みとるに
「元春が娘を嫁にしたいと行ってきたんですが、ご存知ですか?
私はいいですよと答えましたが、どうするかは、元就殿に任せます。」
という手紙をこの手紙の前に送っているようです。
父親を通さずに勝手に結婚を申し込みに来た若造(元春・17歳)
それを追い返さずにきちんと話を聞いたのは
元就さんと親しかったから、まあ悪い様にならんじゃろうと
思ったからかなと思います。
というのも、元就さんは手紙の途中で「信直」と名前で書いているのです。
名前で相手に呼びかけるのは、結構特殊な例で、
家臣も呼び捨てにすることはなく、官名の略称で普通は書きます。
なので本来は「御方」か「熊谷兵庫頭」を略した「熊兵」なのに
「信直」と書いている・・・・。
お詫びの手紙なのに「名前」で書けるのは
相当親しい相手でないとできません。
それから「幾度申候而も」。
とあるので、元春の事について元就さんは熊谷さんに
何度か愚痴をこぼしていたのだろうと推測できます。
子どものことで愚痴をこぼす間柄・・・。
これも親しくないとできないかなと思います。
で、その元春について
「犬の様な奴で・・・。」
と元就さん歎いています。
普通、人を犬と例える場合よくも悪くも
「忠誠心が高い」ことを揶揄することが多いです。
ですが、この場合はそうではなく、
初陣を勝手に押し通すなど、親の言う事を聞かずに突っ走る、
そういうところを犬の様だと表現しているのかなと思います。
続いて
「我等事、何をも知らず、無道比興至極に世上に存じ候事、
面目失うばかりに候。」
という文面から、元春の勝手な行動に
怒るというより歎いている感じがひしひしと伝わってきます。
ですが、
「萬々期面心の時候」
と息子がしでかしたことを責任を持って
やり遂げようとする決意が出てます。
結果、熊谷さんは元春の舅として
忠誠を尽くして下さるんですが
多分、当時の元就さんは
「尼子方が盛り返してきよるし
吉川・小早川の家臣団との交渉でいたしいのに
・・・何しよるんじゃ元春!!!」
とがっくり来てたんじゃろうなあと思いました。
そういえば、吉川元春は嫁さん貰う時に
熊谷さんとこに行って
「娘さんを下さい!」
と勝手に申し込んだと言われています。
当時というか、今でも、結婚って家同士の結びつき。
なので戦国時代に自分勝手に結婚を申し込むのはありえない・・・。
だからほんまなのかなあと調べると
「うちの息子がほんまにすみません!!」
と元就さんから熊谷さんに送った手紙が
熊谷家文書に収録されてました。
熊谷家文書126号
書き下し(私訳)
「熊兵 申給へ
右馬 元就
便りの礼聊か忝き候へども、申しむる候々
かの間に就いての儀、おそなはり候へども、
以て小二郎申し入り候処、御懇ろの由候。
仰ぎ候所、幾度申し候しかれども、犬の様候へ共、
少輔二郎御殿者に参り候上にて、かくの如く申しかけ候。
是非に及ばず候。
我等事、何をも知らず、無道比興至極に世上に存じ候事、面目失うばかりに候。
然りと雖も、信直御分別の由候条、本望候。
連々見々申すべき候はば、申すにあたわず候。
この間も申し如く候、少輔二郎事は、ひとへにひとへに御扶助、
本望なすべく候、萬々期面心の時候。恐々謹言。
七月十日 元就」
現代語(私訳)
「熊谷信直殿
手紙にて述べるにはいささか申し訳なく思うのですが
それでも一筆取らせて頂きました。
元春が結婚を申し込んだことについて、
遅くなってしまったのですが、
元春が申し入れた結婚のことを、親密に受け止めて下さったとの事。
そしてその判断を私に仰がれていることについて、
何度も言いましたように、犬っころの様に勝手に飛び出す奴なんですが
元春が熊谷殿のお屋敷に参ってそのように申し上げたのであれば
もう今更反対も何もできません。
私は全く何も知りませんでした。
親が知らぬ間に勝手に結婚を申し込むだなんて
比べることもできないほどに非常識極まりないことで
こんなことが世間に知られれば
私の面目は丸つぶれになってしまいます。
しかしそうは言っても、信直がご思案されたことなのですから
私の方もこの結婚に賛成です。
本当はお互いに顔を合わせて話し合うべきなのでしょうが
もう今更申す事でもないでしょう。
この間も言いましたように、元春の事はただただお力添えをして頂いて
この結婚がまとまるように、万全を期すことができるように覚悟します。
恐々謹言
7月10日 元就」
・・・。
うわぁ、ほんまにやらかしとる。
元就さんが文中で「無道比興至極」と言っていますが
確かに当時、というかつい100年前まで
親に知らせずに結婚を申し込むのは非常識極まりなかったはず・・・。
手紙の最初に
「便りの礼聊か忝き候へども、申しむる候々」
と断ってますが、本来確かに手紙で謝るのはちょっとまずいことです。
しかも「おそなはり候」(遅くの古語)とあるので
すぐに返事をしないといけないのに、
すぐ書けなかった。
・・・まあ大っぴらに家臣に相談もできないですし、
頼れる家族は妻も母も失くしたばかりでいない。
本来直接謝りに行くべきだけど、多忙すぎてそれどころじゃない。
だから、相当悩んで返事も遅くなったんだろうなあと思います。
それから熊谷さん。
手紙から読みとるに
「元春が娘を嫁にしたいと行ってきたんですが、ご存知ですか?
私はいいですよと答えましたが、どうするかは、元就殿に任せます。」
という手紙をこの手紙の前に送っているようです。
父親を通さずに勝手に結婚を申し込みに来た若造(元春・17歳)
それを追い返さずにきちんと話を聞いたのは
元就さんと親しかったから、まあ悪い様にならんじゃろうと
思ったからかなと思います。
というのも、元就さんは手紙の途中で「信直」と名前で書いているのです。
名前で相手に呼びかけるのは、結構特殊な例で、
家臣も呼び捨てにすることはなく、官名の略称で普通は書きます。
なので本来は「御方」か「熊谷兵庫頭」を略した「熊兵」なのに
「信直」と書いている・・・・。
お詫びの手紙なのに「名前」で書けるのは
相当親しい相手でないとできません。
それから「幾度申候而も」。
とあるので、元春の事について元就さんは熊谷さんに
何度か愚痴をこぼしていたのだろうと推測できます。
子どものことで愚痴をこぼす間柄・・・。
これも親しくないとできないかなと思います。
で、その元春について
「犬の様な奴で・・・。」
と元就さん歎いています。
普通、人を犬と例える場合よくも悪くも
「忠誠心が高い」ことを揶揄することが多いです。
ですが、この場合はそうではなく、
初陣を勝手に押し通すなど、親の言う事を聞かずに突っ走る、
そういうところを犬の様だと表現しているのかなと思います。
続いて
「我等事、何をも知らず、無道比興至極に世上に存じ候事、
面目失うばかりに候。」
という文面から、元春の勝手な行動に
怒るというより歎いている感じがひしひしと伝わってきます。
ですが、
「萬々期面心の時候」
と息子がしでかしたことを責任を持って
やり遂げようとする決意が出てます。
結果、熊谷さんは元春の舅として
忠誠を尽くして下さるんですが
多分、当時の元就さんは
「尼子方が盛り返してきよるし
吉川・小早川の家臣団との交渉でいたしいのに
・・・何しよるんじゃ元春!!!」
とがっくり来てたんじゃろうなあと思いました。
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