春霞集もとい毛利元就詠草集・発句の部その5~桜花~
「すむ月に春をしらする霞哉
陽気の陰気の月をかすむるありさま。心をつけてみは
なとかはと思ひなから。等閑の作意にてはいかむ。」
訳
「すむ月に 春をしらする 霞かな」
歌意
「明るく綺麗に見えている月に
春の霞がかかってちょっと白っぽくぼやけて見える。
今まで冬の空気で澄んで見えていた月に
こうやって霞がかかると、春が来ましたよと
霞が知らせてくれているみたいだな。」
批評
「陰陽道は世界の根本を陽気と陰気の2つの気からなるとされます。
春はその陽気に属し、月は陰気にあたります。
陽の春霞が陰の月を覆うという有様は
深く考えてみると、不思議な景観だなと私は思うのです。
元就殿もやはり、冬の澄んでいた月と春の霞という対立しものを詠んでいて
私と同じような気ごころを持っていたのではないかとこの詩から感じました。」
霞がかかるようになったんですが
春の月と言うのは大気に満ちる陽の気のせいか
どの季節よりもあたたかみのある綺麗な月だなあと思います。
その月に霞がかかって少しぼんやりとする。
それを見るだけでも春が訪れたんだなあと思う、
そういう歌ですね。
紹巴さんは元就さんの歌を好意的に批評してくれてるんですが
この歌はかなり気に入った様子で
「等閑の作意にてはいかむ」と評しています。
等閑は「懇意・心安い」という意味もあり、
陰の月と陽の春霞が混じる風景をよく一緒に詠むけど
不思議だなあと思っていたら、元就さんも同様に
冬の澄む月と春の霞が一緒になっている不思議を歌っていて
ああ、私と同じだ!と感じたからこう評したのかなあと思いました。
「待程をはなにしらする春もかな
花のたより春に增らむ物あらんや」
訳
「待つほどを 花にしらする 春もかな」
歌意
「貴方を待っていますよと
春を知らせるさくらの花と一緒に
この気持ちを伝えたい。」
批評
「花の便りに勝るものなどありませんね。」
ええっと、これって恋歌では?と思います。
まず「待つほどを」は長い間待っているとかそんな感じで
最後に「春もかな」とあるのは「春も同じように」であり
春をただ待っていたのではなく、
誰かを待っている自分の気持ちが
長い間春が来るのを心待ちにしている春自身と重ねて
「春よお前もか」という意味ではないのかなと思うのです。
次に「花に知らする」の「花で知らせる」。
昔は、歌を送る時には花の枝に結びつけて送っていました。
なので春が来たのと貴方を待つ私の思いを
さくらの花を送って伝える。
だから「花で知らせる」のは
春が来たことと私の思いであり、
恋歌ではないかなあと思ったのですが・・・。
なので、紹巴さんの
「花の便りに勝るものはありませんね。」
には、
恋人に送るのに花の贈り物よりも良いものは無いですね
と
春を知らせるのにさくらほど良いものは無いですね。
の2つの意味が込められているのではないかなと思いました。
「初花は ちらて匂へるあらし哉
源氏乙女の巻に、風の力けたしすくなしのあたり
思ひ出られて、御作意とそおほえ侍る。」
訳
「初花は 散らで匂へる 嵐かな」
歌意
「せっかくさいた桜だけど
嵐で散っていくその姿が美しいなあ
と思うんだ。」
批評
「源氏物語の乙女の巻に
「風の力蓋し寡し」
と風もないのに落ち葉が散っていく様子を
歌ったものがありますが、
それを春の散っていく花にそれを置きかえられて
作られたのではないのかなあと思いました。」
初花は桜をさす事が多く
ここでは春の花としてようやく咲いたさくらを
初花としています。
待っていた桜がさいたのに嵐で散っていく。
それはとても儚いのですが
散っていくその姿こそ
一番綺麗に見える。
ちょっと刹那的な歌だなあと思いました。
ところで紹巴さんの「源氏物語乙女の巻」ですが
弘徽澱の女御のくだりで、秋の庭で散っていく落ち葉を詠んだもの。
歌にはないのですが、秋の落ち葉が散る様子と
重ねたのではないかなあと思われているようです。
・・・深読みしすぎではないかなあと思うんですが
源氏物語はそこまで読みこんでいないので
当代一の連歌師・紹巴先生の批評を信じます。
その4 春の柳
その6 春霞、花霞
陽気の陰気の月をかすむるありさま。心をつけてみは
なとかはと思ひなから。等閑の作意にてはいかむ。」
訳
「すむ月に 春をしらする 霞かな」
歌意
「明るく綺麗に見えている月に
春の霞がかかってちょっと白っぽくぼやけて見える。
今まで冬の空気で澄んで見えていた月に
こうやって霞がかかると、春が来ましたよと
霞が知らせてくれているみたいだな。」
批評
「陰陽道は世界の根本を陽気と陰気の2つの気からなるとされます。
春はその陽気に属し、月は陰気にあたります。
陽の春霞が陰の月を覆うという有様は
深く考えてみると、不思議な景観だなと私は思うのです。
元就殿もやはり、冬の澄んでいた月と春の霞という対立しものを詠んでいて
私と同じような気ごころを持っていたのではないかとこの詩から感じました。」
霞がかかるようになったんですが
春の月と言うのは大気に満ちる陽の気のせいか
どの季節よりもあたたかみのある綺麗な月だなあと思います。
その月に霞がかかって少しぼんやりとする。
それを見るだけでも春が訪れたんだなあと思う、
そういう歌ですね。
紹巴さんは元就さんの歌を好意的に批評してくれてるんですが
この歌はかなり気に入った様子で
「等閑の作意にてはいかむ」と評しています。
等閑は「懇意・心安い」という意味もあり、
陰の月と陽の春霞が混じる風景をよく一緒に詠むけど
不思議だなあと思っていたら、元就さんも同様に
冬の澄む月と春の霞が一緒になっている不思議を歌っていて
ああ、私と同じだ!と感じたからこう評したのかなあと思いました。
「待程をはなにしらする春もかな
花のたより春に增らむ物あらんや」
訳
「待つほどを 花にしらする 春もかな」
歌意
「貴方を待っていますよと
春を知らせるさくらの花と一緒に
この気持ちを伝えたい。」
批評
「花の便りに勝るものなどありませんね。」
ええっと、これって恋歌では?と思います。
まず「待つほどを」は長い間待っているとかそんな感じで
最後に「春もかな」とあるのは「春も同じように」であり
春をただ待っていたのではなく、
誰かを待っている自分の気持ちが
長い間春が来るのを心待ちにしている春自身と重ねて
「春よお前もか」という意味ではないのかなと思うのです。
次に「花に知らする」の「花で知らせる」。
昔は、歌を送る時には花の枝に結びつけて送っていました。
なので春が来たのと貴方を待つ私の思いを
さくらの花を送って伝える。
だから「花で知らせる」のは
春が来たことと私の思いであり、
恋歌ではないかなあと思ったのですが・・・。
なので、紹巴さんの
「花の便りに勝るものはありませんね。」
には、
恋人に送るのに花の贈り物よりも良いものは無いですね
と
春を知らせるのにさくらほど良いものは無いですね。
の2つの意味が込められているのではないかなと思いました。
「初花は ちらて匂へるあらし哉
源氏乙女の巻に、風の力けたしすくなしのあたり
思ひ出られて、御作意とそおほえ侍る。」
訳
「初花は 散らで匂へる 嵐かな」
歌意
「せっかくさいた桜だけど
嵐で散っていくその姿が美しいなあ
と思うんだ。」
批評
「源氏物語の乙女の巻に
「風の力蓋し寡し」
と風もないのに落ち葉が散っていく様子を
歌ったものがありますが、
それを春の散っていく花にそれを置きかえられて
作られたのではないのかなあと思いました。」
初花は桜をさす事が多く
ここでは春の花としてようやく咲いたさくらを
初花としています。
待っていた桜がさいたのに嵐で散っていく。
それはとても儚いのですが
散っていくその姿こそ
一番綺麗に見える。
ちょっと刹那的な歌だなあと思いました。
ところで紹巴さんの「源氏物語乙女の巻」ですが
弘徽澱の女御のくだりで、秋の庭で散っていく落ち葉を詠んだもの。
歌にはないのですが、秋の落ち葉が散る様子と
重ねたのではないかなあと思われているようです。
・・・深読みしすぎではないかなあと思うんですが
源氏物語はそこまで読みこんでいないので
当代一の連歌師・紹巴先生の批評を信じます。
その4 春の柳
その6 春霞、花霞
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