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織田と毛利の入魂「元就公の手紙は長すぎると思うby織田信長」

前の書状で、信長さんが
「元就さんから頼まれていた事もあったのに・・・。申し訳ない。」
と書いていたんですが、
元就さんが頼んでいたこととは何か?
恐らく、ここに書いてあることではないかなと思います。

小早川家文書269号
書き下し文(私訳)
「奥州従り同じく右金吾委ねる趣示し給い候、祝着の至り候
 畿内ならびに分国の躰尋ね承り候
 去年志賀郡在陣の砌、具に啓達候し、それ以来彌子細異ならなく候。
 江劦の内中郡に佐和山与申す敵城候き、これ比べて追い払い、
 輩平ら均し候。心易くべく候。
 よって丹但の賊船、至りてゆく雲伯表差出の由
 是非無し題目候。即為 上意加えられ御下知候様に奏達令め候
 拙子よりも猶申し送り候。その様子柳沢新右衛門尉申すべくば
 再筆能わず候。恐々謹言」


現代語訳(私訳)
「奥州守元就公より右金吾輝元も同じく
 私に委ねるという趣旨を示して頂き、誠に嬉しく思います。
 
 畿内と私の治める領国の様子について尋ねたいという件、了承しました。
 去年、近江国志賀郡に在陣していたときに詳細をお手紙に出して以来
 少しも変ったことはありません。
 近江と京の間にある佐和山という敵方の城があったのですが
 その城にいた城主や敵方の勢力を全て追い払い
 反対勢力を平定しましたので、ご安心ください。

 なので、丹波と但馬の海賊船が出雲・伯耆の戦場に出没するので
 捉えてこちらに差し出して欲しいとのことですが、
 断る断らないという問題ではなく、すぐさますべき案件でしょう。
 すぐに動きますので、敵を攻めるように将軍家にかけあい
 征伐書を出してもらえるように奏達しておきます。
 拙者自らもよくよく申し送っておきます。
 これらの一連の流れは柳沢新右衛門尉が申しますので
 手紙を改めて書く必要もないかと思います。

    4月11日       信長
    小早川左衛門佐殿」


最後の「不再筆能候」
もうこれ読んだ瞬間爆笑しました。

「家臣が詳しく申すからお手紙はもう書きませんよ!!
 お返事は結構ですから~!!」
                    by織田信長


元就さんからの返事を信長さんが必死に断っているwwww

「能不」は「することができない」ないので本来の訳は
「家来が言うから再び筆をとることができない。」
なんですが、家来が言うからできないというのは妙な訳。
行間を読めば
「忙しいから手紙に正式に書かずに使者に任せてしまいます。」
となるかなと思います。
しかし、忙しいから出せれませんと結ぶのも失礼な話・・・。
まあ信長さんなら気にしそうにないですし
実際、京都から安芸へ使者をやるのも結構時間がかかる。
なので全部決まってから使者を送るので~
という時間重視の信長さんらしい姿が浮かぶのですが・・・。
しかし、もう一つこの「不能」には「ふさわしくない」という意味もあり
それだと
「再筆する必要もないので書きません」
となり、裏には
「だから貴方もお手紙を改めて出さなくていいですよ」
とこめてあるんじゃないのかなと思いました。
手紙を送ることによって返ってくる長~い手紙に身構えてたんでしょうか。
あの信長さんも元就さんの長い手紙に辟易してたんだろうかと思うと
思わず爆笑してしまいました。

で、まじめに手紙を見ていくと
まず冒頭から大問題が・・・

「従奥州同右金吾委趣示給候」

奥州は奥州守である元就さんのこと、
右金吾は右衛門督の輝元のこと。
・・・今まで元就と呼び捨てだったのに急にまともになったね、信長さん!
いや、ずっと気になってたんです。
信長さん、文中では「元就」と呼び捨てで、
それって手紙のマナー違反じゃ・・・と。
まあ、官位なんて目じゃなかった信長さんにしたら
相手を名前で呼んで何が悪い!
って感じだったんでしょうが、
あの信長さんが、ようやくまともな書き方を!
と思ったらちゃんと官名で書いているのはこの一筆だけ・・・。
これだけ右筆がきちんとしてたのか・・・・

あ、でもこれが大問題じゃないんです。
しょっぱなの「従」。
そのまま読むと
「奥州従い」・・・。
元就さんが従う?
信長さんに従っていた!?
となったんですが、これ「従り」(より)と読みます。
しかし「輝元も同じく」と「委ねる趣」を「示し給い」・・・。
とあるので信長さんが元就さんへ何か聞き、
それを信長さんに一切を任せるという感じとなっています。
一体何なのかが気になります・・・。

基本、手紙は官位と名前を合わせた名前で呼ぶのですが
信長さんの手紙見るたびに「元就」と実名書いていて
読んでいるこちらの心臓に悪いです。
隆元が生きていたら
「父上を呼び捨てとは何て奴!!」
と憤慨してそうです。
草履を脱ぐ時に立つ立たないで腹を立てる方ですから。
例外として親しい場合は実名を書くルールもあったようで
元就さんが熊谷さんに出した手紙には珍しく実名で書いてありました。
が、一番最初の手紙では「啐啄」とあったので元就さんを親のようにという
スタンスだったのが信長さん。

まず手紙の書かれた年月ですが
「去年志賀郡在陣之砌、具啓達候シ」
とあります。
・・・元就さん、手紙で何か言ったんでしょうか?
いや去年在陣中で忙しくてあれ以来だせなくってって信長さんが言い訳してます・・。
信長が志賀郡で戦っていたのは「志賀の陣」と呼ばれるもので
元亀元年9月16日から12月17日に起こった
浅井・朝倉、比叡山延暦寺・本願寺連合軍と信長の戦いです。
それを去年としていることからこの手紙は元亀2年と推測できます。
一方で信長さんが手紙を出していなくて・・・と言っている期間、
元就さんは病を患って命も危ぶまれる状況でした。
しかし、元亀2年の春には小康状態になったらしく
最期のお花見をしたり、歌集を編纂したりと趣味に生きていたようです。
一方で余命間もないことを悟っていたようで
信長に半年ぶりに手紙を書いた背景には
自分が亡き後も信長との入魂が続くように
その願いを込めて、冒頭の「従奥州同右金吾委趣示給候」という内容の
手紙を送ったのではないか?と思います。

その後
「佐和山与申敵城候き、此比追払、輩平均候
 可御心易候」

佐和山城に籠っていた敵と言うのは浅井氏配下・磯野員昌
・・・サザエさんのご先祖っぽい名前だ。
これを下し仲間に引き入れたのは元亀2年2月14日と言われています。
「追い払い」「輩平し均べ候」・・・・・。
信長さんの平定は本当に「平ら」にしているから怖いんですが・・・。
でも、「可御心易候」とわざわざ
言っているあたりは優しいですね。
「じいちゃん!敵は全部やっつけたから
 心配しなくていいよ!」

・・・どこのお孫さんなんじゃ!
とつっこみたくなるような、じいちゃんへの気遣いを感じます。

で、信長さんの書いている内容は本当に近況です。
「畿内併分国之躰尋承候」
とあるので、元就さんが京都の様子を教えて欲しいと頼んだようです。
加えて、先に訳した「元就御逝去」の273号の手紙に
「連々申承之條」とあったので
継続して教えて欲しいと書いてあったのではないかと思われます。
なので、信長さんは律儀に手紙で近況を知らせたようです。

近畿周辺の状況としては、朝倉・浅井連合軍の押さえていた
佐和山を奪回したことにより、近江を把握。
だから丹波・但馬も勢力圏になったのだろうと思われます。
その日本海側の海賊たちが尼子再興軍に援軍を出している。
それをどうにか取り締まってくれないか?

と頼んだようです。
それに対して信長さんは
「無是非題目候、則為 上意被加御下知候様に令奏達候
 自拙子も猶申送候」


「是非を問うている場合ではありません!
 すぐにでも、将軍家に取り計らい討伐できるように致しましょう!
 拙者からもよくよく将軍に申し送っておきますから!!」


是非が好きだな、信長さん。
っていうか、絶対従属じゃないですね、この関係・・・。
それと、やっぱりこの手紙は今までとちょい違います。
基本、他の手紙だと自分のことを
「信長」
と自分のことは名前で書いているんですが
これだけ「拙子」=「拙者」とわざわざ謙譲語になっています。
・・・・
信長さんの一人称が「拙者」・・・・。
大名からそこらの中級侍に格下がったような違和感が。

で、信長さんがここで
「元就さんのために!!」
と軍を出してくれることになったんですが・・・・

次 織田と毛利の入魂「信長様が海賊退治行くんで、尼子攻め頑張ってください。」by木下秀吉

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主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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