織田と毛利の入魂~「織田信長と吉川元春・出会い編」
信長から同盟を持ちかけられた時に
元就さんは、隆景に交渉役を任せたようですが
信長の送った書状は隆景だけでなく
元春にもあります。
以下は以前載せたもので、再度の掲載となります。
吉川家文書76号
書き下し文(私訳)
「題目差無き候と雖も、啓達候。永々雲州御在陣の由候。
これに依って満端属せられ利運の旨、それ聞き候。
誠名誉の儀候。彌ご存分に任じられるべき事勿論候。
元就より切々と承りの条、大慶候。
恐々謹言
信長
卯月十一日 吉川駿河守殿」
現代語訳私訳
「とりたてて何か用事があったわけでもないんですが、手紙を出してみました。
長々と出雲に在陣されているとのことですが、
あなたが出雲にいるから出雲の国人衆が隅々まで、
皆貴方に従ったということを聞きました。
本当に名誉なことだと思います。
ますますご自分のお力を存分に奮われることと思います。
元就より切々と申しつかったことですが
この上なくめでたいことと思います。
織田信長
4月11日 吉川駿河守殿」
以前、「題目差無候と雖も~。」のくだりは
夫婦の書簡などの親しい場合しかみないと言いましたが
ぺらぺらめくっていると、小早川家から吉川家へ渡す手紙にも
同様の書き出しがありました。
両川の時代よりも遡るのですが
やはり親しくないとできない書き出しではあるようです・・・・。
まあ超意訳すると
織田信長「用はないけど取りあえず書いた。尼子攻めお疲れ様。」
という、挨拶の様な手紙。
ただ、「元就より切々と承りの条、大慶候」
とあることから、元就さんが、信長に元春に手紙を出す様に
頼んだのではないのかと推測しました。
しかし、「元就より切々と承りの条、大慶候」の「切々と」部分。
以前は、元春に宛てて信長から手紙を出して欲しいと
願ったのかと考えたのですが、別の事も含めているのではないかと思うようになりました。
というのも、同じ日付で小早川隆景に送った書状があり
そちらもこの書状と同じ、恐らく元亀2年4月11日のもの。
そこには
「よって丹但の賊船、至りてゆく雲伯表差出の由
是非無し題目候。即為 上意加えられ御下知候様に奏達令め候
拙子よりも猶申し送り候。」
と、尼子攻めに対して元就さんから信長に協力要請があったことが書かれています。
ですので、「切々と」頼んだ事は、尼子攻めへの協力であり
「承った」から、山陰方面担当の元春へも手紙を書いたのでは?
とも推測できます。
ただ、それならそれで、「さしたる題目無き候」という書き出しが妙です。
きちんと用事があるのに、用件だけすぱっと伝えない信長さんは珍しい・・・・。
考えられるのが、今まで隆景が中心に信長との交渉をさせていたが、
尼子攻めに協力してくれるなら、総指揮官である元春とも
知り合いであった方がよいだろうと判断して、
「元春にも一筆書いてつかあさい。」
と元就さんが頼んだのではないか。
信長としては、隆景が窓口なのだから、
尼子攻めの援軍を出すという内容も隆景に連絡すれば十分。
それでも、まあ元就さんが言うなら、一応手紙書いとくか。
と書いたから、このような書き出しになったのではないかなと思います。
結論、元就さんの無茶ぶり。
ただ、元就さんがこんな無茶ぶりをした理由。
死期を悟っていたからかなと思います。
元亀2年の春には辞世の句もよんでいますし
信長にあてた手紙には輝元のことを頼みますと書かれていたようですし
余命わずかと悟っていた感じがします。
よって、隆景だけでなく、元春とも書状を交わさせることで
信長との入魂をより強めたいという願いがこめられていたのではないかと思いました。
次 元春兄貴!頼みます!!
前 秀吉の裏切り?「英賀合戦?何のことです?」
元就さんは、隆景に交渉役を任せたようですが
信長の送った書状は隆景だけでなく
元春にもあります。
以下は以前載せたもので、再度の掲載となります。
吉川家文書76号
書き下し文(私訳)
「題目差無き候と雖も、啓達候。永々雲州御在陣の由候。
これに依って満端属せられ利運の旨、それ聞き候。
誠名誉の儀候。彌ご存分に任じられるべき事勿論候。
元就より切々と承りの条、大慶候。
恐々謹言
信長
卯月十一日 吉川駿河守殿」
現代語訳私訳
「とりたてて何か用事があったわけでもないんですが、手紙を出してみました。
長々と出雲に在陣されているとのことですが、
あなたが出雲にいるから出雲の国人衆が隅々まで、
皆貴方に従ったということを聞きました。
本当に名誉なことだと思います。
ますますご自分のお力を存分に奮われることと思います。
元就より切々と申しつかったことですが
この上なくめでたいことと思います。
織田信長
4月11日 吉川駿河守殿」
以前、「題目差無候と雖も~。」のくだりは
夫婦の書簡などの親しい場合しかみないと言いましたが
ぺらぺらめくっていると、小早川家から吉川家へ渡す手紙にも
同様の書き出しがありました。
両川の時代よりも遡るのですが
やはり親しくないとできない書き出しではあるようです・・・・。
まあ超意訳すると
織田信長「用はないけど取りあえず書いた。尼子攻めお疲れ様。」
という、挨拶の様な手紙。
ただ、「元就より切々と承りの条、大慶候」
とあることから、元就さんが、信長に元春に手紙を出す様に
頼んだのではないのかと推測しました。
しかし、「元就より切々と承りの条、大慶候」の「切々と」部分。
以前は、元春に宛てて信長から手紙を出して欲しいと
願ったのかと考えたのですが、別の事も含めているのではないかと思うようになりました。
というのも、同じ日付で小早川隆景に送った書状があり
そちらもこの書状と同じ、恐らく元亀2年4月11日のもの。
そこには
「よって丹但の賊船、至りてゆく雲伯表差出の由
是非無し題目候。即為 上意加えられ御下知候様に奏達令め候
拙子よりも猶申し送り候。」
と、尼子攻めに対して元就さんから信長に協力要請があったことが書かれています。
ですので、「切々と」頼んだ事は、尼子攻めへの協力であり
「承った」から、山陰方面担当の元春へも手紙を書いたのでは?
とも推測できます。
ただ、それならそれで、「さしたる題目無き候」という書き出しが妙です。
きちんと用事があるのに、用件だけすぱっと伝えない信長さんは珍しい・・・・。
考えられるのが、今まで隆景が中心に信長との交渉をさせていたが、
尼子攻めに協力してくれるなら、総指揮官である元春とも
知り合いであった方がよいだろうと判断して、
「元春にも一筆書いてつかあさい。」
と元就さんが頼んだのではないか。
信長としては、隆景が窓口なのだから、
尼子攻めの援軍を出すという内容も隆景に連絡すれば十分。
それでも、まあ元就さんが言うなら、一応手紙書いとくか。
と書いたから、このような書き出しになったのではないかなと思います。
結論、元就さんの無茶ぶり。
ただ、元就さんがこんな無茶ぶりをした理由。
死期を悟っていたからかなと思います。
元亀2年の春には辞世の句もよんでいますし
信長にあてた手紙には輝元のことを頼みますと書かれていたようですし
余命わずかと悟っていた感じがします。
よって、隆景だけでなく、元春とも書状を交わさせることで
信長との入魂をより強めたいという願いがこめられていたのではないかと思いました。
次 元春兄貴!頼みます!!
前 秀吉の裏切り?「英賀合戦?何のことです?」
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