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「毛利元就直轄領佐東と堀立直正」講義録

今日は「第12回武田山フォーラム」ということで
広島大学名誉教授で、龍谷大学でも教鞭を取られていた
岸田先生の講義が広島経済大学でありました。
武田山フォーラムは「プロジェクト武田山」さんの主催で開かれているもので
武田銀山城の整備や武田氏関連の講座などを時折されています。
例のゆるきゃら「たけちゃま」はここのマスコットです。
たけちゃま

今回の題は「毛利元就直轄領佐東と堀立直正」
地元・祇園から出た戦国時代の著名人?
堀立直正と元就直轄領だったこの佐東郡についてでした。
岸田先生はNHK大河ドラマ「毛利元就」の時代考証をされた先生で
今回の堀立直正も大河ドラマに登場していた人物です。
大河の時には堀立直正は架空の人物だと言われていたそうです。
武士ではなく商人が取りたてられて活躍する。
という事は小西行長のように例はなくもないのですが
元就の生きた時代はそれよりも前なのでありえないと思われたのかもしれません。
で、岸田先生と秋山先生は大河に先立つこと10年前の1988年
「内海文化研究紀要」で堀立直正の実在を証明していたのだそうです。
なお、堀立直正の子孫は関ヶ原後に長崎で商人として暮らし
その文書を秋山先生がまとめられた本があるので
誰でも読めるようになっているんですよとおっしゃってでした。
・・・よし!今度探してみよう!!

で、まずこの佐東郡の地理的な要素についてお話されてでした。
第一章「交叉する河・海・陸の道」

まずは川の道から、佐東郡の北、可部について。
可部は太田川、三篠川、根の谷川の3つの川が合流する地域で
平安時代の頃から、この川の欂を巡る対立が文書に残っており
木材資源も税収していたようです。

また、時代は下るのですが、豊臣秀吉の方広寺の大仏殿建立の時にも
輝元は井原・秋山で材木を切り出し、川で流して送るように命じていたようです。
昭和の初めまでこのように木材を筏の様に組んで川流しをすることがあったようで
実に1000年以上も川が木材運搬の重要な道路となっていました。

で、次に海。
新出厳島文書によれば、これまた平安時代の文献
周防の清末さんという人が、周防と京との往復の中継地として
佐東の若狭郷という地を持っていたが、横領されたので
それぐらいなら厳島神社の神領に寄進する。
という内容の手紙が残っているんだそうです。
これによると、平安時代から佐東郡は瀬戸内海の中継地として利用されていた。
ということがわかります。

ただし、現在の佐東郡は下の様な感じで、海からかなり離れています。

展望その3

400年前に「広島」ができたため、現在見ると随分海から離れて見えますが
今津などの地名から昔はもっと海岸線が奥まであったと考えられ
こんな感じであったかなと思います。

祇園の昔?

最後に陸の道。
随分前に「戦国時代に迷子になった島津家久」で取り上げた
島津家久さんのお伊勢参り道中記に
地御前から佐東までの陸路の道が詳しく書かれてあります。
家久一行は八木の渡しを渡ったようですが、
他にも八木の対岸の玖村、戸坂の手前の千足に渡しがあったそうです。

よって、佐東郡は
3つの川から材木が流され、
瀬戸内海の中継地でもあり、
陸路を繋ぐ3つの渡しがある交通の要衝であった。
ということが言えるそうです。

しかし、よい土地は力があるものが取るのが常識。
佐東郡は銀山城に居城を置く武田氏の支配下にありました。
そこを元就さんがどうやって直轄領にしたのか?

第二章「毛利元就直轄領佐東の形成と拡大」

安芸は安芸守となった平清盛の熱心な厳島神社信仰や
佐伯景広などの活躍もあって平氏寄りだったこともあり、
土着の豪族は平家没落後、西遷御家人達と婚姻を結ぶことで
土地を守ろうとします。
例えば、ということで佐伯氏と武田守護代の内藤氏の結婚によって
向原の長田と深川の土地が内藤氏に渡ったことを挙げられてでした。
他にも毛利氏の場合は三田氏などがあるそうです。

次に、時代は下って元就さんの頃のこと。
先にあげた内藤氏は井原氏や秋山氏と同時期に
毛利元就に起請文を送ったそうです。
これによって三篠川流域の国人衆が元就に従ったことにより
元就は吉田から向原、井原と佐東郡の北側に根拠を持つことができました。

そして、大永3(1523)年に尼子氏から大内氏へ服属先を変えた時に
大内義興から佐東郡の内、可部、深川、温科、玖村を与えられます。

ただ、この中郡は武田氏が滅びた天文10(1541)年に
温科(ぬくしな)と可部を取り上げる代わりに
緑井と温井、原を与えられます。

もっとも元就はこの佐東領は全てを直轄領にしたわけではなく
深川の領土は臼井氏、玖村・諸木・岩上などは児玉氏など
配分してはいたようです。

統治に関しては、
深川の檜物師の職人頭に佐東領の職人頭を命じたり
桂元忠と児玉就忠の2人に直轄領の管理を任せたりする等
組織だった管理をしていたようです。
また、児玉・桂の2人の下に触れ頭を置いており
木材の調達などはこの触れ頭に命じていたようです。

次に、佐東郡の領域・・・。
先ほどから史料に出てくる温科とか、東区じゃろ?とかなり疑問だったんですが
昔は佐東郡はかなり広大であったようで、
西は現在の安佐南区大塚から
北は安佐北区小河内、
東は東区馬木、
と現在の佐東郡(川内村・緑井村・祇園町等)よりもかなり広かったようです。

この佐東郡は大内氏の侵攻ルートとも重なっており
大内氏は主に3つのルートから安芸へ侵攻してきたようです。
1つ目は、尾長から大内峠を越えて温科へ抜けるルート
2つ目は、海田から瀬野を超えて西条へ抜けるルート
3つ目は、吉賀から加計、可部、から温科、西条へいくルート。
があったそうです。

大内氏としてもなかなか佐東郡全部をぽいっと与えたくなかったのか
元就が佐東郡をまるっと手に入れたのは大寧寺の変の後、
大内義長から知行を認められた時です。

・・・陶晴賢らの大寧寺の変は、確かに元就さんも協力したかもしれませんが
でも、未だ高田郡と高宮郡の2郡と佐東郡の半分しか領有していないんですから
そこまで大して口出し出来る身分じゃ到底ないと思うのです。
確かに毛利両川体制も出来つつあって、安芸の大部分を同盟下においたとはいえ、
会社で例えるなら、大内氏が本社社長なら
陶さん達は会社の重役、
元就さんはせいぜい支店長ぐらい・・・。

大内義隆社長の経営方針は文化事業に力を傾け過ぎて
近頃台頭しつつある尼子株式会社への対策を考えずに出費ばかり、
見かねた陶専務が注進しても、言うことを聞かず
そのうち内藤本部長なども見限って陶専務に味方した。
そんな重役同士で決まっている社長解任に対して
広島の支店長にすぎない元就さんに反対する権限はなかったでしょうし
郡山合戦で陶専務にお世話になっている元就さんは
義理がたい性格上、陶専務に味方するしかなかったかなとも思います。

第3章「毛利元就が佐東でしたこと」

まあ、そんなこんなで手に入れた佐東郡。
元就はすでに隠居していたので隠居領として持っていたのですが
佐東郡4000貫のうち2000貫を大内攻めで手柄を立てたものに
渡してはどうかという提案を断ります。
・・・隆景の隠居領(筑前5万石+三原)恐らく10万石に比べると
4000貫(石)何て20分の1以下、それぐらいあげてあげてもと思うんですが。

元就曰く
「奉行衆から佐東の領地について言われて
 わしが反論すると赤川左京亮は機嫌悪くなって
 わしの返事も隆元に見せず、返事も来ない・・・。
 佐東の隠居領はわしが独り占めしたいからしているわけではなく
 これは隠居領としてわしの後は隆元、お前の分として残しておくためなんじゃ。
 輝元の頃には家臣達も心が離れ、万が一の時には
 この佐東から500人か600人ほど兵を率いて
 吉田で起きるかもしれない反乱を鎮める必要がある。
 じゃけえ、佐東は分割せんほうがええんじゃ。」

と述べたんですが、隆元無視。
しかも手紙を突き返した。
まあ、家臣による反乱を異常なまでに警戒していて
「父上の杞憂には付き合いきれません。」
とさすがの隆元も思ったのかもしれません。
まあ、元就さんも元就さんで、幼少期の家臣による横領で
相当不信感を植え付けられている上に
つい最近の陶晴賢による下剋上があったらからしょうがないんでしょうけど・・・。

さすがに父さんも隆元のこの仕打ちにがっかりきたようで
またもや丁寧に手紙で反論します。
・・・息子にそんなことされても怒らないところが逆にすごいなあと思いますが・・・。

「隆元のためを思って言ったのに・・・。
 仮にわしが70まで生きたとしても
 銭も米も、武具も服も、被官も中間もいらない。
 ただただ安穏として暮らしたい。
 そもそも70まで生きているなんて十中八九ありえない。
 (でも、結局75まで生きているんですよねby先生)
 幸鶴成人後は隆元、お前が隠居としてこの佐東を治めるように
 わしが精魂込めているわけなんじゃ。
 お前のためなんじゃ・・・。」


・・・・。何というか、よくある
「あなたのためを思って私はこれだけしているのよ!」
という親の心子知らずってやつですね。
なんだろう、これってよく母親が言うパターンなんですが・・・・。
元就さんの手紙読んでると時々
「お父さんっていうより教育ママだな。」
と思う時あります。
しかし、元就さんの
「ただただ心安く居り候事はかりにて候」
の一文に、切なくなります。

で、元就が直轄領として治めた佐東郡。
よく秀吉や信長が兵農分離を初めて行ったように言われますが
島津氏、それから元就も兵農分離を試みていました。
永禄5年以前に出された年未詳の手紙に

「人夫には具足などを持たせてはいけないし、
 余分なものを持たせることを強要してはいけない。
 人夫を折檻するものがいたら、今後人夫を付けてやらない。」


と人夫は非戦闘員として扱うように定めています。
この領国法は其の後の輝元の時代も続き
対織田戦争の時の人夫の徴収では
戦闘員と非戦闘員を分けていたことがわかるそうです。
基本、輝元の時代の法治は元就が育てた人材が行っているので
元就の時代から変化していないことが多いそうです。

・・だから、関ヶ原前に育てた人材が高齢になって亡くなって
代替わり時期になったからあんなことになったんだろうなあと思いました。

第4章「堀立直正の動向と性格」
堀立という地名は仁安元(1166)年、
これまた平安時代の厳島神領の倉敷地として出てきます。
よって、堀立を名字とする直正は、平安時代から倉敷地として
商業が活発な地域の出身と考えられるそうです。

因みに、堀立家は長崎に移った後に江戸時代に家が途絶え
堀家が文書を伝えてきたそうで、その写しが「堀立家騰文写」。
それによれば、
弘治2年に鍋城の攻略など堀立直正は功をなし、感状を元就から貰っています。
この鍋城は今の下関市役所のある山で、小高い黒光する山が
まるで鍋の様に見えるから鍋城といったそうですが
今は見る影もないそうです・・・・。
まあ、八木城もなんでわざわざ城跡壊して学校立てるかな?
と思うんですが、公共物ってそういう破壊よくしますよね・・・。

で、直正は輝元に代が替わった時に今までこんなに頑張りました!
という軍忠状と出したようです。
それによると
① 防芸引き分けの時、佐東銀山城と宮島を1日で平定した。
 
  結構遠いのに1日で平定できたのは、普段から商人として
  地域に認められてきた堀立直正の顔が利いたからではないか?
  と仰られてました。

② 戦での船の手配。

  宮島の包みが浦、防長平定の三田尻、下関要害の戦
  など海沿いの戦で手柄をあげている。

③ 赤間が関在番
  
  代官は堀立直正が行い、問丸役として佐甲氏が町支配を行った。
  20年以上在番を務め、61才の時に引退を申し出たが
  織田との交戦中につき、町衆のつなぎ止めのためもうしばらく務めるように
  輝元から命じられた。

④ 商人としての財力
  
  ・②のように船などの手配、
  ・大内方国人の引き入れのために色々と手立てを行った。
  ・米の貸しだし。となっているが、
    「去去年米弐百俵借用候、其侭くれ可置之由候所」
    (一昨年借りたお米200俵だけど、そのままくれてやるといってくれてありがとう!)
    のように米の用立ても行っていた。
  ・城の普請のための板等の用意
    鍋城は自腹を切って普請、
    引退前には堅固に自腹で補修し直した。

・・・・。ええっ!!!自腹で城の修理!!!?
例えるなら、転勤させられた店長が自腹で転勤先の店を改装するようなもんですよね。
ううん、いくら財力が有っても普通しないような気が・・・・。
それに貸したお米、
「それもう一昨年の事だしいいよ、もう。
 どうせ返せないでしょ?」

的なやりとりが背景にありそうです。
元就さんに仕えて逆に赤字ばっかり出てたんじゃないのかと思うんですけど
まあ、でも毛利家バックだからでかい商いもしていたのかもしれません。
とはいえ、本来商人出身で海の人だから、武家ほど忠誠心は高くないはず・・・。
現に村上水軍など大友や織田からの調略で揺れてます。
なのに、自腹切ってまで毛利家に何十年も仕え続けてきた。
そこには損得勘定以上の物があったのかなあと思いました。

最後に、先生が固くなったからと大河の裏話をして下さいました。
堀立直正の天竺発言の裏はそういう事だったのかとちょいと納得しました。
でも輝元との別れのシーンは覚えてなかったので
また大河見直したいなあと思いました。

最後に、岸田先生のしめのお言葉に
佐東郡の隠居領と元就の目指したもの。
交通の要衝には譜代家臣からではなく
それぞれに適した人材を置いた。
戦ばかりではなく、商業的な経済流通経路を押さえることの
重要性も十分理解して統治を行っていた。
それが佐東郡の統治から見えてくるのではないかと仰られてました。

安芸は平地が少なく米があまり取れない。
だからこそ、土地に縛られるのではなく
商業的な発展も欠かせない。
しかし、餅は餅屋。
力もあって機転の効く商人を統治者に据えることで
より商業を活発にしようとしたのかなと思いました。
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Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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