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「広島城の成立と毛利氏」感想

先週の土曜日にひろしま美術館の第三回目の講座、
「広島城の成立と毛利氏」に行ってきました。
知り合いの学芸員の方でしたので
どんな講座か楽しみに参りました。

で、まずは講師紹介。
そうかあ、思いっきり発掘調査隊の方だったんだと
今知りました・・・。
思えばもっとバイトの時に色々と聞いとけばよかったなあと・・・。

で、まずは広島城の概要から。
広島城の史跡範囲、中央公園もまるまる入っているんですね。
ああ、でも確かに中央公園に妙な水路があります。
あれって侍屋敷の区割りかなと思っているんですが
どうなんでしょう・・・。

んで、広島城が現在の姿になるまで。
今、松江城が国宝認定を受けて大盛り上がりですが
実は戦前、松江城は国宝認定されていたんです。
ところが、何故か戦後は現存天守なのに重要文化財扱い・・・。
国宝に戻れてほんまに良かったなあと思います。
因みに、戦前、国宝とされていた城は
松江城城以外にも福山城、岡山城、備中松山城、松山城等など
結構ありました。
そして広島城も旧国宝に含まれていたそうです。

しかし、戦争中に倒壊。
戦後、復興博の開かれた時に鉄筋コンクリートで再建。
現代に至るんだそうです。
時期によっては、城の中なのに、鉱物の展示など
自然科学系のものも置いてあったんだそうですが
築城400年の平成元年に大幅リニューアル!
現在のように歴史系の展示になったんだそうです。
・・・丁度子ども科学館のリニューアル時期だから
自然系のもの全部科学館に移転したんだろうなあと
余計なことを考えてました。

だから残っているのは石垣などの一部分。
それも福島時代に上から石垣を作り直したり塞いでいるので
毛利氏時代のものはほぼないんだそうです。
天守台の石垣は、毛利氏時代のものだそうですが
内堀のよく目に着く所の石垣は後世積み直したあとがあるんだそうです。

で、平成6年の二の丸復元。
この工事はさすがに私の記憶に残ってます。
今では写真スポットになっている表御門など
この時に木造で再建されました。
バブル期の名残で結構手の込んだ復元なので
一見の価値はあります。

で次にお城の歴史的な変遷を。
まず広島城がいつ建てられたのか。
時系列に並べると
 天正17年4月15日 着工式 
 同年          運河完成
 天正18年       惣構完成
 天正19年       惣堀完成
 文禄元年       建物完成
らしいです。
これらは書状や知新集などから建設状況を伺えるそうで
資料には詳しく書かれてありました。
因みに、「広島」という地名は城を作る時にできた地名
それまでは五カ村と呼ばれていたそうです。
へえ、と聞いていたら次の日の「元就。」で
この広島に関する由来が
また出てきてびっくりしました。
ナイスタイミングです「元就。」!

城の中でも一番の重要拠点、天守ですが
これも天正20年の秀吉来広の時には完成していることが伺え、
関東の佐竹氏家臣の手記には、
聚楽第にも劣らぬ城だという感想が書かれてあるそうです。

ところが、城が完成してわずかな後に
広島を追われ、今度は福島正則が入ってきます。
福島正則は広島城に入るなり、重臣共々普請工事を行ったようです。
石組で有名なあのう衆を呼び寄せてまで大規模な普請を行ったのですが
洪水で崩れてしまいます。
・・・・。
まあ広島城の石垣は野面積みっぽい部分も残っていて
多分、輝元の時に組んだ場所が崩れたんじゃないかなと思います。
・・・・全力で石垣工事を始めたかった気持ちがよく分かります。
ただ、吉川元春館の様に安芸にも独自の石垣組み者がいて、
巨石を組み合わせる技術はありました。
しかし、隆景叔父ちゃん曰く、
「秀吉に毛利は野心がないと思わせる城にしときんさい。」
なので、そもそも防御面よりも見た目重視。
かつ防備は弱そうな城にしとかんといけんかったのもあるんかなと思います。
で、幕府に改修を申し出たのに無断改修扱い。
加えて幕府からは、無断改修部分を破壊しろと命令され、
確かに石垣を崩したのに、きっちり壊してないじゃないかといちゃもん付けられて左遷。
でも、おばちゃんの話によれば
「まあ仕方ないなあ。」
という感じで家臣団も解散したようですし
広島城を明け渡す時には徹底的に掃除して綺麗に渡したみたいなので
正則もある程度覚悟されていたのかなと思います。
因みにこの崩した部分は今でも崩れたままで残っているんだそうです。

で、代わって入ってきた浅野さんは
先輩の事を重々承知していたので
極力修理に徹し、幕府にもきちんと届を出した。
なので、浅野氏時代の時には全然城の形が変わってないんだそうです。

そして時代は流れて昭和に入り
地下工事によって発掘調査が行われました。
発掘調査の結果、ぽっぷら通りの所に福島時代の櫓跡や
城北駅の上の堀が昔は川を用いたものであったことなどが証明され、
萩藩に伝わる広島城図は案外正しいのではないか、
と仰られてでした。

そしてシャレオのそごう前の地下。
ここに面白い遺構がみつかったんだそうです。
まず、外堀にあたる石垣と大手に繋がる土橋が発見されたそうですが
さらにその土橋をとっぱらうと下に別の石垣が見つかった。
どうも外堀の石垣は輝元が作った石垣の上を覆い隠す様に
後からきた福島正則が工事をして石垣を築いたようです。
・・・・ううん、輝元時代の金シャチを井戸に捨てたり、隠す様に石垣を設置したり
正則なりに自分色を出したかったのかなと思います。

それから学芸員さんの仮説も面白かったです。
広島城は微妙に南北がずれているんだそうです。
で、なんで微妙なずれ方をしているかというと
お城を作る時に決めた基準線。
これが南北ではないからではないか?
と思って、広島城の南北線と平行の所を探すと
阿武山と平和公園の中島を結んだ線。
これがちょうどぴったり重なるので
この線を基準に区画割りを行ったのではないかと仰られてでした。



参考までに平和の時計塔の先が中島の先端です。
で、この中島阿武さん平行線は、
実は平和公園の中心、慰霊碑から延びる池と平行。
丸い屋根から丁度真ん中に山が見えますが
それが阿武さんです。
だから、戦国時代の干潟だった時代に北の目印にするなら確かにぴったりです。
それと、中島に渡る橋。
これは元康が作った、あるいは周辺に屋敷があったか元康橋。
と名付けられたという逸話が残っています。
元康は就辰と共に広島城普請を行った叔父さん。
なので、阿武さんが広島城の基準点になったというのも
十分ありえるのではないかなと思いました。

発掘調査の写真など、貴重な写真も多くみれて
なかなか興味深かったです。
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Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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