FC2ブログ

長曽我部氏と毛利氏の入魂その3「備中高松戦後」


「今話題の石谷家文書の中に、
 隆景さんの新出書状があった!!」


と4月の中国新聞に大きく
しかも写真付きで出たのです。

・・お寺から口羽氏の新出の書状が!!毛利家領国経営がより詳しく知れる?
とか、
戦国時代のおもてなし料理の再現を石見でしますよ~
とか、いつも歴史のニッチな情報をありがとう!!

愛しとるよ~!!中国新聞!!

某大手新聞から、1年前に中国新聞に切り替えたんですが
時々載る地元ならではの歴史ニュースとか、イベントとか
見つけた時にはほんまに仕事疲れぶっとぶほどテンション一気にあがります!!
この間は家康生誕400年ということで東照宮(広島)で
50年に一度の江戸時代初期の御神輿が出る!!
だったんですが、まあ家康さんでもやっぱり歴史記事見つけると嬉しいです。
やっぱ中国新聞のもんじゃね~。
と思いよります。はい。

は!話がそれましたが、
実は今調べている織田と毛利の入魂に今回見つかった隆景さんの書状が
深く関係あるのです。

えっと、さすがに新聞記事の原文をさらせないのと
古文書を解析するだけの力がないので
写真記事を大体読みとったのをさらします。
・・・なので鵜呑みにはされんといてつかあさい。
確か吉川弘文館から石谷家文書の解説本が発行されているので
詳しくはそちらを御覧くださればと思います。
因みに私はまだ見てません・・・・。

超意訳文
石谷家文書収録・天正11年5月22日隆景書状
「急ぎ申したいことがあり
 使者2人に言付けて瀬戸内海を渡らせました。
 毎度のことですが、そちらとの入魂をとても大切に思っています。
 この度は長曽我部氏の使いの僧に吉田郡山城まで来ていただき
 御意を輝元らに伝えました。
 これからのことをよくよく考えていきましょう。」


・・・・かな?
一番最初のは「先度」、佛みたいな時は「御」
小なんとかや何とか寺は恐らく使者の名前。
「渡海」はさすがに読めたんですが
最後が「言書き」か「言付け」か。
この宛先人の石谷頼辰は、元は足利将軍家に仕えていたのですが
明智光秀の家臣で斉藤家の出身、その縁から妹が長曽我部元親に嫁ぎ
自身の娘も元親の息子の信親に嫁ぎます。
明智氏滅亡後は長曽我部氏を頼って四国に落ちのびていたらしく
将軍近習であった実績を活かして外交を担当していたようです。
よって、石谷さん宛てですが、
当時の慣習(というか、礼儀にうるさい毛利さんとこは必ず)
正式な手紙は直接相手を名指しして手紙をやり取りすることはなく
部下宛てに送ることで本人に披露するという形式で伝達していたようです。
・・・まどろっこしいなあ。
というわけで、この手紙は本当は長曽我部元親に宛てたもの。

「毎事」「御□成」「入魂」から
毎回入魂にして頂いてありがとうございます!!
ということが書いてあるのかなあと読めん漢字から推量してます。
そもそも、長曽我部氏と毛利氏の入魂は「芸土入魂」というのですが
これは天正9年の金子家文書からその名がつけられています。
両者とも織田信長と最初は良好な関係を築いていたのに
毛利氏は天正4年に英賀で起きた一戦でこじれ、
長曽我部氏は天正7年に秀吉が三好氏と縁戚になったことでこじれ出しました。
よって両者とも対織田氏から手を組んだのですが、
織田方に押され気味になった両者は危機感からより結束を強めた。
というのがここの一文から何となく感じました。

因みに一番ピンチだったのが本能寺の変の前。
毛利氏は備中高松城で秀吉と講和を何とかできないか談話中
長曽我部氏は同じく「石谷家文書」から織田信長とパイプを持つ
石谷家=斉藤家=明智家の伝手を頼って
信長による四国攻めを何とか思いとどまらせようとしたということが分かっています。
しかし、交渉は失敗。
信長は難波に兵を集め、四国渡海を目前に控えて絶体絶命のピンチ。
せっかく海を挟んだ近距離同盟を結んでいるのに、
どちらもお互い助けに行ける状態ではなかったです。
・・・秀吉が講和しようとしたのは、やはり信長の御動座とやらを待つため
一旦講和して四国攻め完了後に改めて信長を誘うつもりであったのかなとは思います。

で、本能寺の変を明智のみっちゃんが起こしてくれたので
両者とも首がつながります。
が、信長亡き後の織田家がどう出るか。
織田家の家督争い、柴田勝家VS豊臣秀吉の権力争いなど
情勢をしっかり見極める必要がありました。
そういう状態であったためか、天正11年という日付から両者とも本能寺の変後も
「どうする?どうする?」
と両者とも相談しながら混沌とした状況を乗り切ろうとしたことが伺えます。
・・・ううん、織田家に継ぐ10カ国以上の国持ちなのに、
そこらの意識はまだまだ国衆の一揆時代のままだなあと思います。

で、使者が来たのが「吉田」
「輝元」の名が出てきてます。

本来外交担当は隆景なので、外交僧などの対外使節は
新高山城あるいはより海に近い三原城(まだ要害?)で面会していたのかな。
と思っていたのですが、吉田の本拠地まで使者がわざわざ来ていることがわかります。
しかも文面からするに「遣わし」ているので、
これまでにも吉田まで何度か行っている感じです。

織田家との入魂時には輝元や吉田などの本拠地に関する話が出てきません。
・・・まあ、織田家に出した文書が全ては残っていないこともあるので一概には言えませんが、
わざわざ本拠地まで来て棟梁や直臣達と会合している分
同じ入魂状態でも、長曽我部氏との連携ぐあいの方が強かったのかなと思いました。
まあ、お互い、一度滅亡の一歩間際までいっているから
一蓮托生の同盟意識が強くなったのだろうとは思いますが。

で、この書状、の出された日
「天正11年5月22日」
天正11年4月21日「賤ヶ岳の合戦」で柴田勝家は大敗し
         24日に北の庄陥落。
         26日に隆景宛てに秀吉が戦勝報告を送る。
26日書状から5月10日は秀吉上洛。

なので5月10日までには4月26日付の秀吉書状が隆景に送られていたはずです。
織田家の対抗馬を倒し、北陸・近畿を手中におさめ、
「越刕儀者不及申、賀州能州越中迄、
 悉任存分候條、」

と、一気に覇者となった秀吉。
その秀吉からの手紙を読んで同盟者の長曽我部氏と今後どうするか
話し合わなければいけない必要性が前回記事の手紙から生じたのではないかなと思います。

でも、実は毛利さんとこにはもう一枚、
秀吉から届けられた手紙があります。
26日付にあるように追って詳しく書いた秀吉書状。
この手紙の方が毛利氏と長曽我部氏に衝撃を与えたのではないか?
と思われます。

次:織田の毛利の入魂番外「わしに逆らった者はこうなったで。で、境目どうするよ?」by秀吉
                 (毛利家文書980号 天正11年5月15日)
前:毛利氏と長曽我部氏の入魂その2
前:入魂番外「柴田勝家倒したぜ!隆景殿!」
スポンサーサイト



プロフィール

トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
ブログ村の記事
ブログ村の歴史新着記事一覧です。 他所のサイトに飛びますのでご注意を。
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR