小早川隆景物語第2回の感想「元就父さんは養子反対派です。」
先週の日曜日に三原のリージョンプラザで三原市の主催する
三原城築城450年に関する講座、
『小早川隆景物語』の第二回目がありました。
毎回50名分の当日申し込みを用意しているようなので
当日申し込み可能の様です。
・・・知らんかった。
んで、今回は県立大学の秋山先生の御講義でした。
県立大学は、私が大学生の頃に3つの大学が合併したため
県内至るところにキャンパスがあり、三原にもあります。
何でも、後期から一般教養で三原の町を巡りながら
史跡の勉強をする講義があるようで、学生さんがぶち羨ましいです。
・・・聴講したいなあ。
そんな、貴方に朗報!
とばかりに広島市の市民講座の案内がありました。
・・・別口ですでに学芸員さんから頂いてはいたのですが、
毎度毎度、火曜の18時設定はほんまに社会人講座なのかこれ!!
せめて19時始まりならまだ行けるのに・・・!!!
と私がのたうちまわっている例のアレです。
それが今年、隆景さん関連なのです。
・・・うわあ、行きたい。
で、その講座と若干内容がかぶるのですが
秋山先生が講義されたのは「隆景の小早川家相続と毛利家」という題で
隆景の小早川家相続は最初から両川体制を意図していたわけではない。
という内容でした。
今回も資料集の販売の兼ね合いで感想だけにしておきますが、
大まかな印象だと
「小学生ぐらいの可愛い末っ子を
敵陣真っ只中の家に養子になんて出したくない!!
いくら大内の御屋形様の頼みとしても、嫌だ!」
というぐあいで、元就さんの父親としての悩みは相当なものだったんだなあと思いました。
よく、雪合戦の逸話を基に、隆景は最初から小早川家へ養子に出す。
という感じで、下2人は他家に養子に出す両川体制の構想は
早い段階から考えられていたと広く考えられています。
しかし、実際はそうではなく、小早川家に隆景をやるのは反対だった。
というのが史料から浮かび上がり、
通説とされているものは必ずしも正しいとは限らないんだあと
しみじみと思いました。
では、隆景を養子に送る事になったのはなぜか?
それは天文9~13年までの安芸の国内事情が大きく関係している。
という流れでお話されちゃってでした。
まず、竹原の小早川家ですが
古くから大内方についており、
当主の興景は元就の姪を正室にしているので
義理の叔父と甥の関係。
しかし、義理の関係とはいえ、
天文9年の郡山合戦では真っ先に吉田に援軍にかけつけ
最終合戦では本来指揮下に入るはずの陶軍ではなく
毛利軍と共に宮崎を攻めた。
なので、この2人は相当仲良しだったんだろうと思います。
姪が嫁いだのも、興景の事を良く知っていたから
今度こそ幸せになってほしいと嫁がせたのではないのかなと思います。
でも、同年興景は病死。
それで、大内義隆が元就さんに
「跡取りのいない竹原小早川家へ隆景を養子に出してはどうか?」
と何度か手紙を送った。
特に2回目のは、
「ええ加減、言うことききんさいね?」
という圧迫をかけたもの。
往来はこれらのやり取りは興景亡き後の天文10~11年と考えていましたが
先生曰く、安芸の情勢からするに天文12~13年ではないか。
とのことでした。
実際に先生の話を聞くと、確かに天文11年であの2度目の手紙を貰っているのに
天文13年での隆景の家督相続では遅すぎるなあと思いました。
それと義隆の深い思慮にも驚きました。
天文10年郡山合戦で、尼子方が敗退すると出雲攻めを思い立ち、
天文12年出雲遠征で、大敗して命からがら逃げたあとは
政治をあまり試みることはなかったと軍記物なのでは伝わりますが
隆景を小早川家に送りこむことで
親大内である毛利家の出を小早川家当主に据えることで尼子方に靡かないようにし
かつ、尼子方にほぼ靡いた備後からの攻撃を境目に近い竹原で食い止める。
そういう考えぬかれた発想があったんだなあと思いました。
ただ、竹原は吉田から南下して54km。
車だと1時間ちょいなので、馬で駆けると3時間ぐらいでしょうか。
とはいえ、竹原の木村城は、南北に延びる狭い谷間の土地で
北の街道からと南の海から挟撃されたらおしまいです。
そして、すぐ隣の沼田本家は詮平という名から察するに
尼子方に通じている感じです。
そこへ数えで10歳の息子を送る。
そりゃあ元就父さん反対するでしょ。
考えてみると、数えで10歳言うたらうちのクラスの子らぐらいですね・・・。
ううん、いや、無理だなあ。あの子らに当主とか・・・。
それに転校していった子のほうが、なんというか印象に残ってしまうんですよね。
あの子大丈夫かな、友達きちんとできたかなといらぬ心配をしてしまうのです。
しかも、末っ子。
末っ子って不思議なもので、甘え方をよく心得ていると言うか何と言うか
要領はものすごくいい。
長男とは10も違うし、ますます親としては離したくないだろうなあと。
それに本当は隆景の下に妹がいたようですが、
恐らく早産か何かで産まれてすぐに亡くなった感じですし、
余計に手放しがたかったろうなあと。
で、もう一つ、どうもこの頃の風習に末子相続っぽいところがあるなあと。
元就さんだけが兄や姉と離れて父親と一緒に猿掛城に移っていますが
それは末子相続であれば説明が容易です。
末子相続と言っても、本家を継ぐわけではなく、
本家は長男が継ぎ、老親の世話を末子がする。
老親の世話をする代わりに、両親亡き後の隠居分を貰う。
という相続方法です。
安芸では、昭和の初めまでこの風習が残っている地域もあったようです。
また、吉川元春が4男の松寿丸を亡くした悲嘆した手紙や
4男亡き後、広家に宛ててお前に世話を頼むという手紙からも
毛利家にはこの末子相続の風習があったのではないかと推測されます。
なので、老後が大分見えてきて、
「老後の世話はこの子に!」
と思っているぶんもあったんだろうなあと。
因みに、元春も最初、養子に出すつもりはなかったんだろうなと思います。
隆元から加冠させているのは、養子に出すつもりがなかったからかなと。
で、大内の御屋形様からまた別の養子縁組をされたら
断るために弟と養子縁組をさせたのかなと思います。
結局、元就さんがすぐに頷かず、反対意見で返したこともあり、
天文10~13年の間、竹原小早川家では当主の空白期間ができました。
っていうか飯田さんのファインプレー。
ええっ!!元就さんの意見握りつぶされてる!!
と驚愕でした。
あはは、そりゃあ御屋形様からええ加減返事せえと言われるわと・・・。
大内義隆が構想した隆景養子案が天文12~13年に詳細を詰めたとすると
その間、家臣団達はどうして何もしなかったのかなとちょいと気になりました。
おそらく、沼田小早川家の正平が率いていたので
その配下に付いていたのかなと思うのですが、
そこらがちょいと疑問です。
で、今度は沼田小早川家。
元就が竹原を継がせた隆景を使って強引に両家を統一した。
というのが通説ですが、実際は、
大内派の家臣団と西条代官・弘中隆兼が沼田小早川家を動かした。
そこには大内義隆の戦略があり、
彼はけして出雲攻めの後に腐ってはいなかった。
のかなと。
そもそも、元就さんに両川体制の意識が芽生えたのは結果ではないかなと。
例えば天文9~10年の椋梨さんが大内側に付くために行った内紛。
証拠となる手紙は天文10年正月と推定されています。
もし天文10年正月ならば、郡山合戦の最終戦が行われたわけで
元就さんが裏で糸を引く余裕はない。
どの道天文9~10年であれば興景は存命中でそんなことする意味はない。
なので、西条代官による何らかの交渉があったのだろうなあと思いました。
受け取った相手が隆元の義理の兄、内藤隆時なので
ひょっとしたら隆元と親しかったかもしれず、
一生懸命策略を練っていたのかもしれません。
で、よく隆景が沼田小早川家相続で反対派を粛清したという話。
元就父さんも家臣団を切る事はしてはいけないと止めていたし
そんなこと本当にしたのかな?と思ってました。
で、反対派の首謀者とされる田坂全慶。
彼は確か菩提寺に残る没年が天文16年。
隆景の沼田小早川家相続が天文20年なのでかなりずれているのです。
なので、この前後から家臣団内で内乱が起きていたのかなと思っていたら
天文10年から・・・。
相当根が深かったんだなあと・・・。
それから天文9~11年、沼田小早川家は大内氏の代官が派遣されていたので
実質占拠状態だったそうです。
この頃の当主はまだ小早川詮平で、親尼子派だった彼は
出雲出兵につれていかれた上、惨敗後に
殿をさせられた出雲の平田で亡くなっています。
・・・うわあ、捨て駒とか捨て石ってやつだ。
元々尼子派であった国衆はこぞって富田城に入ったということなので
小早川詮平は恐らくそういうグループからも相手にされないほど
もう力がなかったのかなあと思いました。
で、彼が亡くなった後に跡を継いだのが又鶴丸。
彼は3歳にして失明したため、隆景が入り婿として入ったと家系図にはあるそうですが、
いや、失明は恐らく嘘でしょ。
と先生おっしゃってました。
まあ、又鶴失明後付け説というのは前々からあるもので
例として又鶴丸が出した書状などが挙げられるのと
そんなら家臣団が担ごうとしないだろうと色々と根拠はあります。
ただ、父さんも監禁されているようなものだし
精神的な圧迫で気の弱い子は本当に急に視力落ちたりします。
心因性視力障害というもので、子どもの心因症の主なものです。
視力自体に異常はないのに視力が出ず、
眼鏡をかけていると安心感で視力が出ることもあり、
度なしのものをかけていることが多いです。
もし、本当にこの病気であったとしたら、
ストレスさえ解決されれば視力は元に戻るので
ひょっとして見える見えないはその場に応じたのかもしれません。
か、本当は何も異常がなかったのか?
宍戸隆家も幼少時に一時期失明したと伝わりますし
それも心因性視力障害であったのかなとも思います。
・・・子どもに関わっていると病気って色々あるんだなと思います。
で、大内氏にとってみれば、
尼子方についていた安芸の名家をものにするチャンス。
しかし手放せば恨みから再び尼子方に付く可能性は高い。
だから天文10年代の前半に
一旦、又鶴丸を城から追い出していたのかなあと。
因みに、又鶴丸が城を追い出されていた時期、
いくら大内氏側についたからといって
当主を追い出したかったわけではない椋梨さんは
元就さんに何とか又鶴丸を城に戻せないか相談したようで
その時の手紙に元就さんが
「又鶴丸を城に帰すには、
大内さんとこの重臣にいっぱい使いをやって相談してみんさい。
特に西条代官の2人を説得するのが肝要じゃけえ」
と書いており、沼田小早川家を事実上支配していたのは西条代官だと分かります。
行き過ぎた大内氏の対応に不安を覚えた家臣団の中で
もう一度内乱があり、田坂全慶らはその時に討たれた。
とするならば、天文16年でもおかしくないですし
椋梨さんから助力を頼まれて元就さんが出陣していてもおかしくない。
・・・ていうか西条代官から命令を受けていたのほうが正しいかもしれません。
しかし、天文18年には隆景が又鶴丸の代理として
西条代官とやり取りをするようになります。
そして天文19年に沼田小早川家を相続。
この時隆景17歳。
妻の問田大方は付録どおり妹であれば天文12年生まれの7歳。
でも、兄にあたる又鶴丸が天文11年生まれと伝わります。
尼子攻めが始まったのは天文11年1月で
1月中日には宮島で戦勝祈願を行っているので正月にはもう本郷にはいない。
そして4月には赤穴城を攻め、
翌天文12年5月に父は死去。
どう考えても天文12年生まれはありえない。
とすると本当は又鶴丸の姉。
考えられるので天文10年以前の生まれ。
一番考えられる説としては天文9年か10年。
というのも、この頃から始まる大内氏が干渉してくる時で
問田大内の母は大内方から嫁として嫁いだのではないかと。
じゃないと、天文18年まで大内氏の支配下である沼田小早川家を
切り盛りするような書状は出せない気がします。
そして天文9年生まれなら問田大方は10歳。
数えなら+1~2歳なので嫁に行ってもおかしくない時期です。
なので、天文19年に隆景が相続をした背景には
彼女の成人を待っていたのもあるのかなと思いました。
で、結果、沼田小早川の相続も元就の意向というよりも
やはり大内氏の意向が強い感じがします。
特に西条代官であった弘中隆兼が相当糸を引いているような感じです。
それに乗っかる形で元就さんも動いたのかなと。
加えて平賀氏の家督相続に大内の御屋形様が
首を突っ込んだのも天文18年頃だし
安芸の国人領主の家督相続は大内氏の手のひらでかなり転がっていたのではないかと。
まあ、元就さんが真っ白だとはいいません。
同じ年に吉川家を元春に継がせています。
まあ万年反抗期の甥っこをこの時はまだ隠居だけですましてます。
あれだけのことをしでかしてるのに・・・。
ただ、養子縁組はその家の家臣団の支持がやはり大切なんだなと思いました。
さて、最後にあれだけ養子反対だった元就さん。
結局杞憂に終わります。
隆景は天文16年、14歳で神辺城攻略に参加し、水軍をまとめて活躍。
戦後、褒美として貰った所領を家臣に与える等
家臣団を上手にまとめることができたようです。
最後に、今回の講座で一番意外だったのは大内の御屋形様。
義隆さん出雲出兵の後、全然腐ってない!
むしろ積極的に失地回復を狙っている感がして
本当に陶さんの謀叛は政治を放棄していたからなのか?と思いました。
ううん、でもあれも大内家臣団が賛成多数だからやっぱり何かあったんだろうとは思いますが、
独裁色が強くなっているからそれが原因かもなあと思いました。
三原城築城450年に関する講座、
『小早川隆景物語』の第二回目がありました。
毎回50名分の当日申し込みを用意しているようなので
当日申し込み可能の様です。
・・・知らんかった。
んで、今回は県立大学の秋山先生の御講義でした。
県立大学は、私が大学生の頃に3つの大学が合併したため
県内至るところにキャンパスがあり、三原にもあります。
何でも、後期から一般教養で三原の町を巡りながら
史跡の勉強をする講義があるようで、学生さんがぶち羨ましいです。
・・・聴講したいなあ。
そんな、貴方に朗報!
とばかりに広島市の市民講座の案内がありました。
・・・別口ですでに学芸員さんから頂いてはいたのですが、
毎度毎度、火曜の18時設定はほんまに社会人講座なのかこれ!!
せめて19時始まりならまだ行けるのに・・・!!!
と私がのたうちまわっている例のアレです。
それが今年、隆景さん関連なのです。
・・・うわあ、行きたい。
で、その講座と若干内容がかぶるのですが
秋山先生が講義されたのは「隆景の小早川家相続と毛利家」という題で
隆景の小早川家相続は最初から両川体制を意図していたわけではない。
という内容でした。
今回も資料集の販売の兼ね合いで感想だけにしておきますが、
大まかな印象だと
「小学生ぐらいの可愛い末っ子を
敵陣真っ只中の家に養子になんて出したくない!!
いくら大内の御屋形様の頼みとしても、嫌だ!」
というぐあいで、元就さんの父親としての悩みは相当なものだったんだなあと思いました。
よく、雪合戦の逸話を基に、隆景は最初から小早川家へ養子に出す。
という感じで、下2人は他家に養子に出す両川体制の構想は
早い段階から考えられていたと広く考えられています。
しかし、実際はそうではなく、小早川家に隆景をやるのは反対だった。
というのが史料から浮かび上がり、
通説とされているものは必ずしも正しいとは限らないんだあと
しみじみと思いました。
では、隆景を養子に送る事になったのはなぜか?
それは天文9~13年までの安芸の国内事情が大きく関係している。
という流れでお話されちゃってでした。
まず、竹原の小早川家ですが
古くから大内方についており、
当主の興景は元就の姪を正室にしているので
義理の叔父と甥の関係。
しかし、義理の関係とはいえ、
天文9年の郡山合戦では真っ先に吉田に援軍にかけつけ
最終合戦では本来指揮下に入るはずの陶軍ではなく
毛利軍と共に宮崎を攻めた。
なので、この2人は相当仲良しだったんだろうと思います。
姪が嫁いだのも、興景の事を良く知っていたから
今度こそ幸せになってほしいと嫁がせたのではないのかなと思います。
でも、同年興景は病死。
それで、大内義隆が元就さんに
「跡取りのいない竹原小早川家へ隆景を養子に出してはどうか?」
と何度か手紙を送った。
特に2回目のは、
「ええ加減、言うことききんさいね?」
という圧迫をかけたもの。
往来はこれらのやり取りは興景亡き後の天文10~11年と考えていましたが
先生曰く、安芸の情勢からするに天文12~13年ではないか。
とのことでした。
実際に先生の話を聞くと、確かに天文11年であの2度目の手紙を貰っているのに
天文13年での隆景の家督相続では遅すぎるなあと思いました。
それと義隆の深い思慮にも驚きました。
天文10年郡山合戦で、尼子方が敗退すると出雲攻めを思い立ち、
天文12年出雲遠征で、大敗して命からがら逃げたあとは
政治をあまり試みることはなかったと軍記物なのでは伝わりますが
隆景を小早川家に送りこむことで
親大内である毛利家の出を小早川家当主に据えることで尼子方に靡かないようにし
かつ、尼子方にほぼ靡いた備後からの攻撃を境目に近い竹原で食い止める。
そういう考えぬかれた発想があったんだなあと思いました。
ただ、竹原は吉田から南下して54km。
車だと1時間ちょいなので、馬で駆けると3時間ぐらいでしょうか。
とはいえ、竹原の木村城は、南北に延びる狭い谷間の土地で
北の街道からと南の海から挟撃されたらおしまいです。
そして、すぐ隣の沼田本家は詮平という名から察するに
尼子方に通じている感じです。
そこへ数えで10歳の息子を送る。
そりゃあ元就父さん反対するでしょ。
考えてみると、数えで10歳言うたらうちのクラスの子らぐらいですね・・・。
ううん、いや、無理だなあ。あの子らに当主とか・・・。
それに転校していった子のほうが、なんというか印象に残ってしまうんですよね。
あの子大丈夫かな、友達きちんとできたかなといらぬ心配をしてしまうのです。
しかも、末っ子。
末っ子って不思議なもので、甘え方をよく心得ていると言うか何と言うか
要領はものすごくいい。
長男とは10も違うし、ますます親としては離したくないだろうなあと。
それに本当は隆景の下に妹がいたようですが、
恐らく早産か何かで産まれてすぐに亡くなった感じですし、
余計に手放しがたかったろうなあと。
で、もう一つ、どうもこの頃の風習に末子相続っぽいところがあるなあと。
元就さんだけが兄や姉と離れて父親と一緒に猿掛城に移っていますが
それは末子相続であれば説明が容易です。
末子相続と言っても、本家を継ぐわけではなく、
本家は長男が継ぎ、老親の世話を末子がする。
老親の世話をする代わりに、両親亡き後の隠居分を貰う。
という相続方法です。
安芸では、昭和の初めまでこの風習が残っている地域もあったようです。
また、吉川元春が4男の松寿丸を亡くした悲嘆した手紙や
4男亡き後、広家に宛ててお前に世話を頼むという手紙からも
毛利家にはこの末子相続の風習があったのではないかと推測されます。
なので、老後が大分見えてきて、
「老後の世話はこの子に!」
と思っているぶんもあったんだろうなあと。
因みに、元春も最初、養子に出すつもりはなかったんだろうなと思います。
隆元から加冠させているのは、養子に出すつもりがなかったからかなと。
で、大内の御屋形様からまた別の養子縁組をされたら
断るために弟と養子縁組をさせたのかなと思います。
結局、元就さんがすぐに頷かず、反対意見で返したこともあり、
天文10~13年の間、竹原小早川家では当主の空白期間ができました。
っていうか飯田さんのファインプレー。
ええっ!!元就さんの意見握りつぶされてる!!
と驚愕でした。
あはは、そりゃあ御屋形様からええ加減返事せえと言われるわと・・・。
大内義隆が構想した隆景養子案が天文12~13年に詳細を詰めたとすると
その間、家臣団達はどうして何もしなかったのかなとちょいと気になりました。
おそらく、沼田小早川家の正平が率いていたので
その配下に付いていたのかなと思うのですが、
そこらがちょいと疑問です。
で、今度は沼田小早川家。
元就が竹原を継がせた隆景を使って強引に両家を統一した。
というのが通説ですが、実際は、
大内派の家臣団と西条代官・弘中隆兼が沼田小早川家を動かした。
そこには大内義隆の戦略があり、
彼はけして出雲攻めの後に腐ってはいなかった。
のかなと。
そもそも、元就さんに両川体制の意識が芽生えたのは結果ではないかなと。
例えば天文9~10年の椋梨さんが大内側に付くために行った内紛。
証拠となる手紙は天文10年正月と推定されています。
もし天文10年正月ならば、郡山合戦の最終戦が行われたわけで
元就さんが裏で糸を引く余裕はない。
どの道天文9~10年であれば興景は存命中でそんなことする意味はない。
なので、西条代官による何らかの交渉があったのだろうなあと思いました。
受け取った相手が隆元の義理の兄、内藤隆時なので
ひょっとしたら隆元と親しかったかもしれず、
一生懸命策略を練っていたのかもしれません。
で、よく隆景が沼田小早川家相続で反対派を粛清したという話。
元就父さんも家臣団を切る事はしてはいけないと止めていたし
そんなこと本当にしたのかな?と思ってました。
で、反対派の首謀者とされる田坂全慶。
彼は確か菩提寺に残る没年が天文16年。
隆景の沼田小早川家相続が天文20年なのでかなりずれているのです。
なので、この前後から家臣団内で内乱が起きていたのかなと思っていたら
天文10年から・・・。
相当根が深かったんだなあと・・・。
それから天文9~11年、沼田小早川家は大内氏の代官が派遣されていたので
実質占拠状態だったそうです。
この頃の当主はまだ小早川詮平で、親尼子派だった彼は
出雲出兵につれていかれた上、惨敗後に
殿をさせられた出雲の平田で亡くなっています。
・・・うわあ、捨て駒とか捨て石ってやつだ。
元々尼子派であった国衆はこぞって富田城に入ったということなので
小早川詮平は恐らくそういうグループからも相手にされないほど
もう力がなかったのかなあと思いました。
で、彼が亡くなった後に跡を継いだのが又鶴丸。
彼は3歳にして失明したため、隆景が入り婿として入ったと家系図にはあるそうですが、
いや、失明は恐らく嘘でしょ。
と先生おっしゃってました。
まあ、又鶴失明後付け説というのは前々からあるもので
例として又鶴丸が出した書状などが挙げられるのと
そんなら家臣団が担ごうとしないだろうと色々と根拠はあります。
ただ、父さんも監禁されているようなものだし
精神的な圧迫で気の弱い子は本当に急に視力落ちたりします。
心因性視力障害というもので、子どもの心因症の主なものです。
視力自体に異常はないのに視力が出ず、
眼鏡をかけていると安心感で視力が出ることもあり、
度なしのものをかけていることが多いです。
もし、本当にこの病気であったとしたら、
ストレスさえ解決されれば視力は元に戻るので
ひょっとして見える見えないはその場に応じたのかもしれません。
か、本当は何も異常がなかったのか?
宍戸隆家も幼少時に一時期失明したと伝わりますし
それも心因性視力障害であったのかなとも思います。
・・・子どもに関わっていると病気って色々あるんだなと思います。
で、大内氏にとってみれば、
尼子方についていた安芸の名家をものにするチャンス。
しかし手放せば恨みから再び尼子方に付く可能性は高い。
だから天文10年代の前半に
一旦、又鶴丸を城から追い出していたのかなあと。
因みに、又鶴丸が城を追い出されていた時期、
いくら大内氏側についたからといって
当主を追い出したかったわけではない椋梨さんは
元就さんに何とか又鶴丸を城に戻せないか相談したようで
その時の手紙に元就さんが
「又鶴丸を城に帰すには、
大内さんとこの重臣にいっぱい使いをやって相談してみんさい。
特に西条代官の2人を説得するのが肝要じゃけえ」
と書いており、沼田小早川家を事実上支配していたのは西条代官だと分かります。
行き過ぎた大内氏の対応に不安を覚えた家臣団の中で
もう一度内乱があり、田坂全慶らはその時に討たれた。
とするならば、天文16年でもおかしくないですし
椋梨さんから助力を頼まれて元就さんが出陣していてもおかしくない。
・・・ていうか西条代官から命令を受けていたのほうが正しいかもしれません。
しかし、天文18年には隆景が又鶴丸の代理として
西条代官とやり取りをするようになります。
そして天文19年に沼田小早川家を相続。
この時隆景17歳。
妻の問田大方は付録どおり妹であれば天文12年生まれの7歳。
でも、兄にあたる又鶴丸が天文11年生まれと伝わります。
尼子攻めが始まったのは天文11年1月で
1月中日には宮島で戦勝祈願を行っているので正月にはもう本郷にはいない。
そして4月には赤穴城を攻め、
翌天文12年5月に父は死去。
どう考えても天文12年生まれはありえない。
とすると本当は又鶴丸の姉。
考えられるので天文10年以前の生まれ。
一番考えられる説としては天文9年か10年。
というのも、この頃から始まる大内氏が干渉してくる時で
問田大内の母は大内方から嫁として嫁いだのではないかと。
じゃないと、天文18年まで大内氏の支配下である沼田小早川家を
切り盛りするような書状は出せない気がします。
そして天文9年生まれなら問田大方は10歳。
数えなら+1~2歳なので嫁に行ってもおかしくない時期です。
なので、天文19年に隆景が相続をした背景には
彼女の成人を待っていたのもあるのかなと思いました。
で、結果、沼田小早川の相続も元就の意向というよりも
やはり大内氏の意向が強い感じがします。
特に西条代官であった弘中隆兼が相当糸を引いているような感じです。
それに乗っかる形で元就さんも動いたのかなと。
加えて平賀氏の家督相続に大内の御屋形様が
首を突っ込んだのも天文18年頃だし
安芸の国人領主の家督相続は大内氏の手のひらでかなり転がっていたのではないかと。
まあ、元就さんが真っ白だとはいいません。
同じ年に吉川家を元春に継がせています。
まあ万年反抗期の甥っこをこの時はまだ隠居だけですましてます。
あれだけのことをしでかしてるのに・・・。
ただ、養子縁組はその家の家臣団の支持がやはり大切なんだなと思いました。
さて、最後にあれだけ養子反対だった元就さん。
結局杞憂に終わります。
隆景は天文16年、14歳で神辺城攻略に参加し、水軍をまとめて活躍。
戦後、褒美として貰った所領を家臣に与える等
家臣団を上手にまとめることができたようです。
最後に、今回の講座で一番意外だったのは大内の御屋形様。
義隆さん出雲出兵の後、全然腐ってない!
むしろ積極的に失地回復を狙っている感がして
本当に陶さんの謀叛は政治を放棄していたからなのか?と思いました。
ううん、でもあれも大内家臣団が賛成多数だからやっぱり何かあったんだろうとは思いますが、
独裁色が強くなっているからそれが原因かもなあと思いました。
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