小早川隆景ものがたり第4回「小早川隆景の城閣普請」感想
先週末に今年度最後の「隆景ものがたり」があったので
三原に行きました。
その前に尾道の松江道発掘調査で出てきた遺物を見たんですが
え?水晶の矢じり??
と驚いて出土物を見ると
本来石器なので石を砕いて作る矢じりなどが
ほぼ水晶とメノウ・・・。
ううん、こんな綺麗な石は普通装飾に使うんじゃない?
と思うほど透明度の高いものがごろごろしてました。
で、時代が下がるにつれて、何だかくすんだ石を使って
工芸品を作っている・・・。
・・・いやいや、なんで??
とかなり謎な文明発達してました。
恐らく中国から「玉」を尊ぶ文化が入ってくる中で
元々使い捨ての矢じりに使う水晶など
ますます顧みられなくなったのかなあというのが
友との推論です。
余談ですが、この展示館の尾道歴史博物館。
大河の毛利元就のガイド本がある!!
・・いやあじっくり読みたかったけど時間なかったのでまた今度読みに行こう!
まあそれからも寄り道してハモ天付きのお昼のランチに惹かれて
お店に入ったら・・・・酒メニューがありまして・・・・。
「おおおお「獺祭」全種類!!
ええ!!「鳳凰酔心」って何これ!!初めてみた!!
果実酒の中で最高峰と皆で思っている「白いラ・フランス」まである!」
と酒メニューに狂喜乱舞してたんです。
講座前だから飲みませんでしたが、
料理もまた酒に合うような感じのもので、
太刀魚のさしみなんて今が旬なものですから
脂ものっていて、こってりしているんです。
「あ、これ絶対日本酒にあう・・・。」
と思うぐらい意識はお酒モードでした・・・。
あ、ちなみに写真はこちら。
980円でこれは安かった。

酒びん、めっさならんでますが
・・・お昼です。うう・・・。
そんなこんなで後ろ髪を引かれる思いで三原へ。
今年の回は最後なんですが
来年の公開講座の案内が一緒に入っていました。
勿論来年も行きますよ!!
まずは今年度の資料が届くのを楽しみにしてます。
で、講座ですが、講師の先生は佐賀大学の宮武正登先生。
元就さんとこの家族関係をよく理解されていて
語り口も「もう、お兄ちゃんが頑固でね。」等など、
親しみやすい感じで面白かったです。
んで、感想ですが、結論
隆景は常に最新の技術を導入した城を作っていた。
それも一度作ったら満足するのではなく
もっとよりよくなるように何個も作っていた。
とても柔軟な考え方をしていたのだろうと仰られてましたが
まあ、それもあるとは思うのですが
・・・・これ、絶対、城作りが趣味じゃろ。
と思いました。
何というか安芸の国民性をよく体現しているなあと・・・。
一般に、広島人はよく新し物好きだと言われますが
実際iPhoneなどの最新機種が出た時に
東京だと若い人やお金持ちの人が買う事が多いのに
広島の場合、老若問わずに誰でも買っている。
という購買結果になったらしく、
他県から来た人が不思議がってました。
まあ、誰でもというのはかなり語弊があって、
機械が大好きで、趣味というぐらいはまっている人が
年齢を問わずに買っているからというのが真実だろうなあと。
実際、iPhone出たてで買っていた人ってばりばり使いこなしていて
私の周りでは50代男性が一番よく使いこなしてです。
「iPhone使うとさ、ノートでいいのがあったら
写真で撮ってテレビに飛ばして説明するとかできて楽だよ?」
とかもうどこぞの未来の話ですか的なことを彼らはやってますから・・・。
なので、
最新技術を次々に取り入れて
城を2~3年置きに作っていった。
・・・iPhone=穴太衆
と考えると
最新機種が出るたびに買い変えて
新機能を次々にカスタマイズしている。
ってわけで、
物凄く身近にこういう人いるいる。
と思いました。
それとそういう機械いじりとか物作りにはまる人間ってのも
安芸には昔からよくいるんです・・・。
江戸時代には内職で作り始めた鍔細工にのめりこみ
武士をやめて職人に弟子入りしたという人もいたそうで
はまればとことん技術を極めていきたがる。
そういう土壌があるようです。
なので、隆景が移動するたんびに城を作っていったのは
一つにはそういう設計とかがとても好きだったんだろうなあと思いました。
それに隆景の生きた時代は丁度城の移行期。
山城から平山城へ移っていく時でもあり
数年で技術が格段に変わっていく。
そんな技術革新もあって余計に城を作るのが面白かっただろうなあと思いました。
で、隆景の作った城から読みとれること。
まず1つめが国人時代の時から城を4回も変わっていること。
中央政権と関わる前から城造りを積極的に行っていた。
これは結構珍しいらしいです。
特に隆景の場合、沼田を継いだ時も引っ越す必要はなかった。
普通ならそのまま竹原の城に合併した家臣達を連れてくればいいのに
わざわざ沼田に移って、しかもその後新しい城作りを行っている。
封建領主は普通土地から離れるのを嫌うのにこれもまた珍しいことだ。
と仰ってでした。
2つめ、城の郭の配置。
従来の山城は平城のように本丸の次に2の丸、
というような機能ではなく、尾根などに並列な郭を作ることが多いため
どこが2の丸、3の丸とはっきりいえないものが多いそうです。
それは郭に詰める家臣と主人の関係そのものにあたり
主人と家臣の力の差があまりない、並列の関係だったからだと読み解けるそうです。
しかし、隆景が作った新高山城は主の郭を中心としてブロックごとに機能性を持たせている。
往来の並列だった関係を縦への関係に変えていっている。
そういうところから革新的な人物だったと伺えると仰ってでした。
・・・まあ、信長さんとの書状みる限り相性よいですし、
信長さんの要請通り上京してたら歴史はかなり違ったことになっていただろうなと思います。
次に石垣。
基本、中世の山城は面加工していない自然石を積み上げていく。
野面積み。
でこぼこして、高さも出ない、旧タイプだと散々言われてましたが
まあ、郡山城の場合はしょうがないかなと。
言い伝えでは、お正月の時には郡山城を地元民にも開放して
見学料として石を持ってきてねと触れていたようなので
そりゃあ雑多な石で人の手で持ってこれるようなもので作っていただろうなあと。
それと、戦、戦に追われる日々なので戦国末期の様に
石を加工してできるだけ大きく作る時間よりも
まずは身の安全。
そういう、いっぱいいっぱいの生活をしていたら
そりゃああまり技術も発達しなかっただろうなあと思います。
散々持ち上げられていた穴太衆の石組も
最初はけっこうでこぼこしていて
一応横から見たらでっぱっている面は一定のようですが
筑前・立花山城の石垣見ても
従来の石積みのほうが綺麗に見える・・・。
まあ結局、穴太衆も石を平らにして
かつ、石の角と角が全て面で接するように組むようになった。
そこには今までの技術との組み合わせがあって
進化していったんだろうなあと思いました。
それから算木積み。
近畿地方から波及してと従来考えられていますが
地方でも同じように算木積みのようなものが発達していて
毛利氏の場合も山陽地方で発達していた算木積みの方法を使っていた。
特に元春兄ちゃんの日置山城は高さ2mを超える独自の算木積を使っていたそうで
写真見ても相当立派なものでした。
ただ、大雨で周辺がえぐれているので早々に補修したほうがいいですよ。
と仰られていたんですが、今回の台風で結構雨が降ったみたいで心配です。
戦国時代には絶対考えられないような雨量が降っているんだろうなあと思います。
で、元春兄ちゃん。
弟の隆景が豊臣氏に従ってから、最新技術を導入して
どんどん新しい技術を用いて高山城や三原城の改修していくのに
兄ちゃんの城には一切導入が見られない。
むしろ、元春館のように独自の技術の石組みで建てている・・・。
先生は「相当、頑固だったんでしょうね。」と仰ってましたが
ううん、頑固というよりも郷土愛が強かったのかもと思いました。
時々、そういうことをやるんです。安芸民。
現代に置き換えると
穴太衆=トヨタのプリウス
石組者=マツダのRX8
マツダは広島の代表的な車メーカーですが
でも割とトヨタのプリウスとか走ってます。
新しい技術で良いものだと認めたら結構そこらに抵抗ありません。
しかし、中には
広島じゃったらマツダじゃろ!?
とマツダに愛着持ってとことんこだわって方もいます。
多分、元春さん後者だったんじゃないかなと。
他所の技術も素晴らしいかも知れんが
自分とこの技術も捨てたものじゃない。
実際、元春館の石垣は、今までみた城のどの石垣よりも
一番幅があって、重厚な作りにみえます。
なので、まあ、地元愛が強かったんだろうなあと。
それと、散々頭が固いと言われた元春兄ちゃんですが
でも、風呂だけは最新技術を取り入れてるんです。
多分、
石垣<<<<風呂
という優先順位だったんだろうなあと。
なので、まあ秀吉嫌いってのもあるんでしょうが
優先順位も違ったのかもと思いました。
最後に、名島城と三原城。
両方とも遺構がかなり破壊されているんですが
それでも両城の図から
三原と名島はよく似ている作りなんだそうです。
三原は詰城として新高山城を配し
名島は立花城を配していた。
また、本丸と二の丸が縦に配置されている。
侍町が海と反対方向に縦長に配置等など
共通点がかなりあるので
三原城の原型は隆景が完成しており
福島正則が手を加えたといっても少しではないかと仰られてでした。
私としては、
え?福島がなんでそこで出てくるの?
と不思議でした。
で、質問したかったけど質問できなかったんですが
「久留米城はどうだったのだろう」
です。
久留米城は隆景の居城ではないですが
実弟で息子の城ですし、絶対隆景さん絡んでいるだろうと。
それに久留米城の見取り図を見た時に
あれ?三原に似ているなあと思ったのです。
郭の縦配置もそうですが、水路が各郭の周りを覆っている等
よく似ているのです。
なので久留米城はどうなのかなと聞きたかったんですが
時間が迫っているのでできませんでした。
ううん、聞いとけばよかったかな。
最後に、隆景が一番手をかけた三原城の石垣。

一番下に縦石を2つ配置してます。
これは名護屋城にもある配置で
本当は危ないのに、見栄好きな秀吉が取り入れて流行ったそうです。
で、上にいくと算木積。
なんですが、上に行くほどさいころ状の石。
これは山陽地方の積み方。
なんでここだけ山陽地方の積み方なのか不思議でしたが
隆景がこうして色々と手を加えて作ったこの組み方は
「あぶり積」という特殊な積み方。
江戸時代に地震で東側だけ崩れたそうですが
その時にあまりに特殊過ぎて直すのに相当大変だったそうです。
先生はあまりそこんとこつっこんでなかったですが
隆景は結局、秀吉・信長の安土系の石垣から
自分独自の石垣を作ろうとした。のではないのかなと。
ふと思いました。
三原に行きました。
その前に尾道の松江道発掘調査で出てきた遺物を見たんですが
え?水晶の矢じり??
と驚いて出土物を見ると
本来石器なので石を砕いて作る矢じりなどが
ほぼ水晶とメノウ・・・。
ううん、こんな綺麗な石は普通装飾に使うんじゃない?
と思うほど透明度の高いものがごろごろしてました。
で、時代が下がるにつれて、何だかくすんだ石を使って
工芸品を作っている・・・。
・・・いやいや、なんで??
とかなり謎な文明発達してました。
恐らく中国から「玉」を尊ぶ文化が入ってくる中で
元々使い捨ての矢じりに使う水晶など
ますます顧みられなくなったのかなあというのが
友との推論です。
余談ですが、この展示館の尾道歴史博物館。
大河の毛利元就のガイド本がある!!
・・いやあじっくり読みたかったけど時間なかったのでまた今度読みに行こう!
まあそれからも寄り道してハモ天付きのお昼のランチに惹かれて
お店に入ったら・・・・酒メニューがありまして・・・・。
「おおおお「獺祭」全種類!!
ええ!!「鳳凰酔心」って何これ!!初めてみた!!
果実酒の中で最高峰と皆で思っている「白いラ・フランス」まである!」
と酒メニューに狂喜乱舞してたんです。
講座前だから飲みませんでしたが、
料理もまた酒に合うような感じのもので、
太刀魚のさしみなんて今が旬なものですから
脂ものっていて、こってりしているんです。
「あ、これ絶対日本酒にあう・・・。」
と思うぐらい意識はお酒モードでした・・・。
あ、ちなみに写真はこちら。
980円でこれは安かった。

酒びん、めっさならんでますが
・・・お昼です。うう・・・。
そんなこんなで後ろ髪を引かれる思いで三原へ。
今年の回は最後なんですが
来年の公開講座の案内が一緒に入っていました。
勿論来年も行きますよ!!
まずは今年度の資料が届くのを楽しみにしてます。
で、講座ですが、講師の先生は佐賀大学の宮武正登先生。
元就さんとこの家族関係をよく理解されていて
語り口も「もう、お兄ちゃんが頑固でね。」等など、
親しみやすい感じで面白かったです。
んで、感想ですが、結論
隆景は常に最新の技術を導入した城を作っていた。
それも一度作ったら満足するのではなく
もっとよりよくなるように何個も作っていた。
とても柔軟な考え方をしていたのだろうと仰られてましたが
まあ、それもあるとは思うのですが
・・・・これ、絶対、城作りが趣味じゃろ。
と思いました。
何というか安芸の国民性をよく体現しているなあと・・・。
一般に、広島人はよく新し物好きだと言われますが
実際iPhoneなどの最新機種が出た時に
東京だと若い人やお金持ちの人が買う事が多いのに
広島の場合、老若問わずに誰でも買っている。
という購買結果になったらしく、
他県から来た人が不思議がってました。
まあ、誰でもというのはかなり語弊があって、
機械が大好きで、趣味というぐらいはまっている人が
年齢を問わずに買っているからというのが真実だろうなあと。
実際、iPhone出たてで買っていた人ってばりばり使いこなしていて
私の周りでは50代男性が一番よく使いこなしてです。
「iPhone使うとさ、ノートでいいのがあったら
写真で撮ってテレビに飛ばして説明するとかできて楽だよ?」
とかもうどこぞの未来の話ですか的なことを彼らはやってますから・・・。
なので、
最新技術を次々に取り入れて
城を2~3年置きに作っていった。
・・・iPhone=穴太衆
と考えると
最新機種が出るたびに買い変えて
新機能を次々にカスタマイズしている。
ってわけで、
物凄く身近にこういう人いるいる。
と思いました。
それとそういう機械いじりとか物作りにはまる人間ってのも
安芸には昔からよくいるんです・・・。
江戸時代には内職で作り始めた鍔細工にのめりこみ
武士をやめて職人に弟子入りしたという人もいたそうで
はまればとことん技術を極めていきたがる。
そういう土壌があるようです。
なので、隆景が移動するたんびに城を作っていったのは
一つにはそういう設計とかがとても好きだったんだろうなあと思いました。
それに隆景の生きた時代は丁度城の移行期。
山城から平山城へ移っていく時でもあり
数年で技術が格段に変わっていく。
そんな技術革新もあって余計に城を作るのが面白かっただろうなあと思いました。
で、隆景の作った城から読みとれること。
まず1つめが国人時代の時から城を4回も変わっていること。
中央政権と関わる前から城造りを積極的に行っていた。
これは結構珍しいらしいです。
特に隆景の場合、沼田を継いだ時も引っ越す必要はなかった。
普通ならそのまま竹原の城に合併した家臣達を連れてくればいいのに
わざわざ沼田に移って、しかもその後新しい城作りを行っている。
封建領主は普通土地から離れるのを嫌うのにこれもまた珍しいことだ。
と仰ってでした。
2つめ、城の郭の配置。
従来の山城は平城のように本丸の次に2の丸、
というような機能ではなく、尾根などに並列な郭を作ることが多いため
どこが2の丸、3の丸とはっきりいえないものが多いそうです。
それは郭に詰める家臣と主人の関係そのものにあたり
主人と家臣の力の差があまりない、並列の関係だったからだと読み解けるそうです。
しかし、隆景が作った新高山城は主の郭を中心としてブロックごとに機能性を持たせている。
往来の並列だった関係を縦への関係に変えていっている。
そういうところから革新的な人物だったと伺えると仰ってでした。
・・・まあ、信長さんとの書状みる限り相性よいですし、
信長さんの要請通り上京してたら歴史はかなり違ったことになっていただろうなと思います。
次に石垣。
基本、中世の山城は面加工していない自然石を積み上げていく。
野面積み。
でこぼこして、高さも出ない、旧タイプだと散々言われてましたが
まあ、郡山城の場合はしょうがないかなと。
言い伝えでは、お正月の時には郡山城を地元民にも開放して
見学料として石を持ってきてねと触れていたようなので
そりゃあ雑多な石で人の手で持ってこれるようなもので作っていただろうなあと。
それと、戦、戦に追われる日々なので戦国末期の様に
石を加工してできるだけ大きく作る時間よりも
まずは身の安全。
そういう、いっぱいいっぱいの生活をしていたら
そりゃああまり技術も発達しなかっただろうなあと思います。
散々持ち上げられていた穴太衆の石組も
最初はけっこうでこぼこしていて
一応横から見たらでっぱっている面は一定のようですが
筑前・立花山城の石垣見ても
従来の石積みのほうが綺麗に見える・・・。
まあ結局、穴太衆も石を平らにして
かつ、石の角と角が全て面で接するように組むようになった。
そこには今までの技術との組み合わせがあって
進化していったんだろうなあと思いました。
それから算木積み。
近畿地方から波及してと従来考えられていますが
地方でも同じように算木積みのようなものが発達していて
毛利氏の場合も山陽地方で発達していた算木積みの方法を使っていた。
特に元春兄ちゃんの日置山城は高さ2mを超える独自の算木積を使っていたそうで
写真見ても相当立派なものでした。
ただ、大雨で周辺がえぐれているので早々に補修したほうがいいですよ。
と仰られていたんですが、今回の台風で結構雨が降ったみたいで心配です。
戦国時代には絶対考えられないような雨量が降っているんだろうなあと思います。
で、元春兄ちゃん。
弟の隆景が豊臣氏に従ってから、最新技術を導入して
どんどん新しい技術を用いて高山城や三原城の改修していくのに
兄ちゃんの城には一切導入が見られない。
むしろ、元春館のように独自の技術の石組みで建てている・・・。
先生は「相当、頑固だったんでしょうね。」と仰ってましたが
ううん、頑固というよりも郷土愛が強かったのかもと思いました。
時々、そういうことをやるんです。安芸民。
現代に置き換えると
穴太衆=トヨタのプリウス
石組者=マツダのRX8
マツダは広島の代表的な車メーカーですが
でも割とトヨタのプリウスとか走ってます。
新しい技術で良いものだと認めたら結構そこらに抵抗ありません。
しかし、中には
広島じゃったらマツダじゃろ!?
とマツダに愛着持ってとことんこだわって方もいます。
多分、元春さん後者だったんじゃないかなと。
他所の技術も素晴らしいかも知れんが
自分とこの技術も捨てたものじゃない。
実際、元春館の石垣は、今までみた城のどの石垣よりも
一番幅があって、重厚な作りにみえます。
なので、まあ、地元愛が強かったんだろうなあと。
それと、散々頭が固いと言われた元春兄ちゃんですが
でも、風呂だけは最新技術を取り入れてるんです。
多分、
石垣<<<<風呂
という優先順位だったんだろうなあと。
なので、まあ秀吉嫌いってのもあるんでしょうが
優先順位も違ったのかもと思いました。
最後に、名島城と三原城。
両方とも遺構がかなり破壊されているんですが
それでも両城の図から
三原と名島はよく似ている作りなんだそうです。
三原は詰城として新高山城を配し
名島は立花城を配していた。
また、本丸と二の丸が縦に配置されている。
侍町が海と反対方向に縦長に配置等など
共通点がかなりあるので
三原城の原型は隆景が完成しており
福島正則が手を加えたといっても少しではないかと仰られてでした。
私としては、
え?福島がなんでそこで出てくるの?
と不思議でした。
で、質問したかったけど質問できなかったんですが
「久留米城はどうだったのだろう」
です。
久留米城は隆景の居城ではないですが
実弟で息子の城ですし、絶対隆景さん絡んでいるだろうと。
それに久留米城の見取り図を見た時に
あれ?三原に似ているなあと思ったのです。
郭の縦配置もそうですが、水路が各郭の周りを覆っている等
よく似ているのです。
なので久留米城はどうなのかなと聞きたかったんですが
時間が迫っているのでできませんでした。
ううん、聞いとけばよかったかな。
最後に、隆景が一番手をかけた三原城の石垣。

一番下に縦石を2つ配置してます。
これは名護屋城にもある配置で
本当は危ないのに、見栄好きな秀吉が取り入れて流行ったそうです。
で、上にいくと算木積。
なんですが、上に行くほどさいころ状の石。
これは山陽地方の積み方。
なんでここだけ山陽地方の積み方なのか不思議でしたが
隆景がこうして色々と手を加えて作ったこの組み方は
「あぶり積」という特殊な積み方。
江戸時代に地震で東側だけ崩れたそうですが
その時にあまりに特殊過ぎて直すのに相当大変だったそうです。
先生はあまりそこんとこつっこんでなかったですが
隆景は結局、秀吉・信長の安土系の石垣から
自分独自の石垣を作ろうとした。のではないのかなと。
ふと思いました。
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