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公開講座「戦国大名毛利氏と棟札」講義録

9月23日に安芸高田市歴史民俗博物館で開かれた
「戦国大名毛利氏と棟札 ~二つの神社の棟札の違い~」
を聴講して参りました。

講師は県立大学の松井輝昭先生。
「広島県の謎解き散歩」の編者をなされたり
厳島関係の研究等をされている先生です。

今回は清神社と厳島神社に残された棟札から
毛利氏の歴史と2つの神社との関係について講演されてでした。

結論いえば、
国家安泰<<<家族への愛
かなと。
まあ、家族か世界かと問われれば
一もニもなく家族を取るじゃろうなあ、元就さんは。
と妙に納得してしまいました。

(1)棟札について
まずは棟札について。
棟札とは神社の棟に取り付ける札のことで
保安3年(1122)年の中尊寺のものが日本最古のようです。

広島県の場合は14世紀のものが最古で
清神社の棟札もその一つで正中2年(1325)年のものがあるそうです。
棟札はその後、16世紀になって全国的に増え
特に戦国時代が一番増加したそうです
なぜ、戦国時代に増えたかというと
武将たちが戦の勝利祈願などで寺社を盛んに建てた。
そういうことが関係するのではと思いました。

次に上棟式について。
上棟式では棟木に棟札を打ちつけるのですが、
その際に盛大な式を行ったようです。
当時の上棟式の図の史料には
棟の端にかぶら矢を取り付け
屋根の左右に武者が弓を鳴らし
下では僧侶が読経をあげ
馬を引き立て、神官が祝詞を読み上げる。
その中で屋根の天辺に上った大工の棟梁が
棟札を棟に打ちつけるという流れが描かれており
かなり儀式ばったものであったことがわかります。

しかし、参考の図は京都のお寺のもの。
地方でも同じことをしていたのか?
少なくとも,周防の秋穂八幡宮に残された書から
15世紀の周防では同じような上棟式を行っていた。
なので中国地方でも都と似たような上棟式を行っていた可能性があるんだそうです。
・・・まあ大内さんとこなので一概に皆同じとははっきりいえないかなと。
ただ、文化圏を考えれば、周防だけでなく石見・安芸・筑前・長門でも
同じことをしていた可能性はありそうだなあと思いました。

で、先生も高田郡が実際に同じものを行っていたかどうかはわからないそうですが
同じ頃に厳島神社で上棟式を行おうとした際に
お金がないから酒だけで式を行ってはいけないか?
と吉田兼右に尋ねたら、
「駄目にきまっているでしょ!!」
とのお叱りの手紙を大工さんが貰ったようです。
なので、安芸でも式はきちんと行うのが原則だったのではないか。
と仰られていました。

そして棟札の変遷ですが
最初は材質は檜、厚さも結構分厚いのですが
後代になると材質は杉、厚さもカンナがけで薄い。
と時代によって違うんだそうです。
なので、伝えられている棟札も、年代が古い割に薄くて杉でできたものは
後代で写したものではないかと考えられるんだそうです。

(2)清神社の棟札
清神社の最古の棟札は正中2年(1325)年のもの。
しかし、この棟札にはまだ毛利氏の名はありません。
というのも、毛利氏が吉田に来るのは南北朝以降(1336年以降)のこと。
なので、まだ大工さんの名前しか書いていない。

2番目の棟札は応永7年(1400)年のもの。
ここに初めて毛利氏の名が出てきますが
地主として儀礼的に名前があるだけで
中心的人物とはなっていないそうです。

3番目の棟札は表に文明11年(1479)と書かれているそうですが
裏に応永3(1344)とあり、ここには毛利氏の名前がまだ出てきていない。
なので、順番的にはこの札が2番目に古いのではないかと
考えられるそうです。

ところが、明応3年(1494)のものは
檀那の名として棟札の中心に大江弘元とあり
願文も
「息災延命 武運長久 一門威勢 御子孫繁盛」
と自身の願いを盛り込んでいます。
また、今まで前面にあるのに大工や奉行の名は
後面に書いてあり、今までと異なるそうです。

で、続く明応9年(1500)と永正7年(1510)は
弘元と息子の興元の名はあり、願文もやはり自身の事を願ったもの。
しかし、裏面にあった奉行や神主の名が表に戻ってきていて
この2つの棟札は毛利氏の名はあるものの
神主側の方が主体的になっているのではないか?
と仰られてました。

・・・まあ時期的に、考えて対外的に忙しい時期だから
神主さん任せた!なのかもしれません。
特に永正の方は船岡山合戦のある永正8年の前だから
京都に上がる前ぐらいかなとも思うので
そりゃあじっくり練っている時間はなかったろうなあと。

で、続いて大永2年(1522)年。
当主の名は興元の息子の幸松丸の名があります。
奉行とあるのですが、作事奉行は誰がするというのは
まだ厳密に決まっていなかったのではないかと仰られてました。
それから、まだ6歳なので、大人が主体となってしたはず・・・。
数えだと七五三なので、それに合わせて元就叔父ちゃんか
高橋のお爺ちゃんの後見で棟上げ式したのかなと思います。
・・・願文に「息災延命」とあるのをみるとちょっと切ないです。

で、次のは大分開いて天文2年(1533)。
元就さんが家族の事を願ったもの。
神主の名はなく、大工のみ名を書いていて
先ほどとは違い、毛利氏というか元就さんの意思が強くでています。
先生はさらっと流してましたが、これって結構レアな願文だと以前
どこかで読んだのです。
まず、願文の「大旦越丁巳歳、嘉福増長、如意吉祥」の大旦は毛利元就のことで
ここまでは普通。
どうでもいいことですが、元就さんがへび歳だとわかります。
で、その後に
「並女大施主己未歳、息災延命 恒受恒楽 所生愛子等 所願成就」
と続きます。
女大施主は奥さんのこと
名前もわからない奥さんの生まれ年がわかる貴重な資料です。
ちなみに奥さん羊歳なので元就さんと2歳差です。
こんなふうに女の人が施主として名を残すのは珍しいと以前とどこかで聞きました。
で、この後の「所生愛子等」
天文2年は隆景が生まれた年で、恐らくこの願文は
隆景が無事に産まれますようにという祈願だったはず。
奥さんこの時35歳と当時からすれば高齢出産だったので
安産の願いも込めているのでは?と前に聞いた気がします。
とりあえず、家族みんなの幸せを祈ったそういう願文。
一応最後に「別者社頭安穏 威光自在 当所豊穣故也而已」
と土地の安穏も願ってはいます。
まあでも家族の事>領地の安寧っぽい気もします。

そして、天文17年(1548)のものは隆元が施主。
作事奉行が児玉木工允。
先のと比べるとかなりあっさりしています。
で、この頃寺社を作る作事奉行の役目が固定化されてきたのではないか。
と仰られてました。

次の永禄11年(1568)のものは輝元と元就が施主なのですが
作事奉行の名が増え、国司元相のほかに児玉氏等4名の名が書かれ
願文も「天地長久 御願円満 社頭安穏 威光自在」と
個人的な願いが消えている。というかできなくなったのではないかと
仰られていました。

感想としては清神社は毛利弘元の頃から
家運や自身の息災延命を願うものが増えたものの
時代が下って毛利氏が大きくなると
奉行が関わって、個人的な頼みがしにくくなってきた。
それと、もう一つ、勢力を拡大したのと比例して
今度は清神社から厳島神社に願いを託すようになったのも
あるのではないかと思いました。

(3)厳島神社
厳島神社は7世紀からある古い社ですが
元々棟札を打ちつける習慣はなかったようです。
というのも弥山にある求聞堂を吉川元春が再興したい
その時に棟札を打ちたいのだがと伊勢の村山家に打診した手紙があり
そこには厳島神社の棟札も元々はなかったが
父の元就が末世だからと打ったので自分も許可してくれないか。
と書きしるしてあるんだそうです。
結果は、厳島神社は国家安泰の場所だから
個人的な願いの含まれる棟札は打ってはいけない。
と言われたようで、求聞堂を再興する話は流れたようです。

一方で厳島神社のあちこちに棟札は残り
永禄年間は両川に挟まれて輝元の名があるのですが
天正5年から両川の名はなくなって輝元単独の名前が記されるようになっています。
両川のサポート期間終了が分かるのだなあと思いました。
ただ、不思議な事に厳島神社の渡り廊下の棟札が隆元のものがないそうです。
一般人のものはあるのに、元就さんのも写ししかない。
また、隆元が建てたとされる天満宮(連歌堂)の
残る棟札は形状から後世のものと推測できるそうで
確かに残っているのは反橋の凝宝珠や大願寺、大鳥居の棟札などなんだそうです。
一応、隆元の名は大黒天の棟札が残っているそうですが
これも写しで後世のもの。
ただ、棟札には毛利氏の願いが濃く反映されるようになっていて
慶長4年の棟札は関ヶ原合戦を控えた輝元
意気込んで作ったもの。
なので、大工たちの名は棟札から次第に消えていったようですが
梁などに残しているようです。

どうしてそこまで名を残すことにこだわるのか。
棟札に名を記すことで少しでも神の加護にすがろうとしていたのではないか?
と先生は仰られてました。
例えば、吉川元長は棟札に自分の名を書き加えていたようで
両川すら名を書けなくなったが、
それでもこっそり神の加護にあやかりたいとしているようです。
・・・、信仰心の高さといえばそうだなあ。

ただ、これらの棟札は近世になると紫の布でくるんだり
保存をきちんと行うようになり、ボロボロになっても捨てることはなかった。
貴重な史料として扱われるようになり、
長州藩が「辛未紀行」を書く時に、この棟札を調べることで
安芸での毛利家の足取りを掴もうとした。
棟札は史料として扱われるようになったのだ。
と結ばれていました。

結論としては寺社の立て直しや奉納を行うことで
神の加護を得たいという願い。
それはいつの世も変わらないことなんだなあと。
そして、毛利氏の場合、信仰心が高い分、
棟札を打つことによって自分の願いをより聞き届けてもらえられるようにした。
元就さんの場合、棟札禁止の厳島神社にあえて棟札を打ったのは
翻せば厳島神社を清神社と同じく重要で大切な所だと思ったからで
タブーを破っても冒涜をするつもりは毛頭なかったんだろうなあと思いました。

あと、厳島神社の棟札で一般人が残っているのに主要なものがないのは
福島さんが来た時に人心を一新させるためにとっぱらったんじゃないかと・・・。
お城の金シャチをわざわざ取って捨てるぐらいだから
それぐらいしそうだなあ・・・・と思いました。
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Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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