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小早川家文書「黄梅院からの手紙」

そういえば文書の中に
黄梅院の書状があったなあと
調べると秀吉書状の間にありました。

小早川家文書215号
書き下し文(私訳)
「てんきのとき ここもとかもなど 御らんしあるへく候
 
 せん日御いてにいろいろもたせ
 御ねんころの御事におもひし候
 仍一折、すすしのかたひら二、えちこのかたひら一し候
 しはらく御とうりゅう候て、御やうしやうあるへく候
 くわしく此のつかひ申し候
    わうはいいん きよくちう」

現代文(私訳)
「天気が良い時には、こちらへお出でになられて
 庭でも見に来て下さいね。

 先日は、お出で下さったときに、色々と土産を下さりまして
 御親愛の情を有り難く思いました。
 ですので、こちらからは
 紙一折、生絹の帷子2着、越後の帷子1着を送ります。
 しばらく、御逗留されて、御養生してくださいね。
 詳しくはこの使いが申します。
               黄梅院 玉沖」


ううん、仮名文字の手紙なので
ちょいと崩し字の部分は自信ないです。
多分「し候」だと思うのですが・・・。

それから差出人。
「黄梅院某書状」となっているので
「わうはいゐん」は「黄梅院」で間違いなし。
名は、最初の一字は「き」で途中「ち」だし、
どう考えても「きよくちう」=「玉沖」和尚かなと。

次に文面ですが
玉沖和尚が、贈り物を貰ったことに対する返礼。
「一折」は多分、紙。
「すずしの帷子」は「生絹」の帷子のこと。
夏に着る裏地のない着物のこと。
ですので、この手紙は夏に出されたと推測されます。
「えちごかたびら」は越後の小地谷で織られた
縮や上布を使った着物らしいです。
コトバンクで調べると
「室町時代を通じて、権力者への贈り物として越後布は欠かせない品であった。
 1560年(永禄3年)には上杉謙信が朝廷へ越後の麻布を献上し、
 1586年(天正14年)には上杉景勝が300端もの越後布を豊臣秀吉に贈っている。」

らしいです。

まあいくら秀吉でも300端も使いこなすなんて無理ですから
関係者に下賜したのかなと思います。
天正14年は秀吉が本堂などを建て直した頃なので
その頃に黄梅院が拝領していてもおかしくはないです。
幕府の公服として使われた布のようなので
寺院では使わずに保管していたのかなと。
で、それを隆景さんに贈ったのかなと。

「御逗留候て、御養生あるべく候」
とあるのですが
天正16年に隆景は玉沖和尚から法名を貰ったとされます。
恐らく、高野山で逆修墓を建てる準備。
で、隆景が京都から高野山に上ったのが10月。
で、高野山に上った後に体調を崩し
養生のために有馬温泉に行った。

ので、天正16年の頃かなと。

また、隆景が秀吉の下を訪れたのは天正13年冬。
天正14年夏から15年春は九州平定。
天正15年夏は肥後国人一揆。
天正16年7月に秀吉から豊臣姓を下賜。
天正17年4月に隆景監督の下、黄梅院の表門・庫裏が落成。

という流れから
これは天正16年の夏
法名を貰った前後と考えられ、
恐らく高野山で体調を崩した後に
京都か大阪に戻った時に送られてきた手紙ではないかと思います。

全体的に、親身で、
相手を気遣う感じが伝わり、
玉沖和尚が心から隆景の身を案じており、
仲の良さが窺えます。

こうして時系列にすると
天正16年に庫裏の工事に入ったことと
高野山に逆修墓を建てたこと、法名を貰ったこと。
全て繋がっているのだなあと思いました。
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