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「山城を語る」シンポジウム録

11月23日に開かれた「山城を語るシンポジウムへ参加してきました。
毎月発行される市報の裏にカラーで載っている山城攻城記
・・・全国広しといえども、安芸高田市のみの独自の取り組みでしょうなあ。
というか、5年かけてもまだまだ紹介されていない城があるのもすごいなあと思います。

まずは、学芸員の秋本さんが
まさかのシャツ・オン・鎧でご登場です。
・・・スーツのジャケット代わりに鎧。
新鮮でした。
で、そのままのお姿で、
これまでの経緯や山城を巡る時の苦労話をされてでした。
熊、ノミ、ブッシュ・・・
そして迫りくる日暮れ。
あらゆる危険と戦いながら、
緻密な城域図を書かれているのだなあと思うと
もっと丁寧に等高線もしっかり読んで立体地形で考えようと思いました。

で、秋本さんの次に滋賀県立大学の中井均先生の講話がありました。
題して「郡山城の実像を探る」。

【1】はじめに
山城というのは従来、緊急時の城であり、
普段は麓の居館で暮らしていたと考えられてきたが、
近年の発掘調査等から必ずしもそうではない。
麓だけでなく、山上にも生活していた痕跡が出てきた。
例えば、畠山氏の飯盛城。
麓には館の伝承記録がなく、
記録や発掘結果から、山城で政治や連歌の会などが催されている。
よって、山城=緊急時の城でjはなく
麓と山の2元的な構造で捉えるべき
ではないか。

→うん、山の上=不便ではないと思うんですよね。
 生まれてこの方山城の郭とほぼ同じ高さで坂道を毎日上り下りしていたら、
 別に不便とか思わんですし、むしろ平地が怖い・・・。
 四方八方から簡単に入って来られることや
 高低差がないので無防備な感じで落ち着きません・・・。
 戦の頃でしたら尚更そう感じそうです。

【2】郡山城
(1)郡山城の特徴
 ①本城からの移転
   本城は村を守る権固の城であった。
   元々、戦国初期の城はそういう傾向にあり、
   例えば、近江の朝倉氏の場合、
   初期は村の中に居館を設けていたが
   身代が大きくなるにつれ、山の方へと移っていった。
   やがて国主レベルになると山頂へと上がり
   領国全てが見渡せる高さになった。
   毛利氏の場合も本城から高い位置に城が移り
   盆地全域を見渡すことができ、同様のことがいえる。
 
 →まあこれはよく言われることで
  信長の岐阜城は濃美平野を一望できる高さにありますなあ。
 
 ②郭の形成
   郡山城の郭は尾根から下に向かって階段状に郭が作られている。
   しかし、この作り方は郡山城独特
   普通時代が下れば、より郭から侵入を防ぐために
   郭同士の間に土塁や堀切を設けていくのだが
   郡山城にはそれがない。

 →以前、他の地域との城との比較をした講座で
   そもそも郡山城って、玄関口にあたる虎口らしき遺構が
   いっそ見当たらなくて、かなり防御力の低い城だと言われましたが
   まあ、そもそも城が落ちても領地が増えることなんてほぼないし、
   大内方か尼子方に変わるだけだし、
   そんなに必死に守らんでもよくない?
   という考えがもろに出ているんだと思います。
   まあ、その分、頭脳戦が繰り広げられているんですけど。

 ③お寺が多い
   弘元の菩提寺である妙寿寺や洞春寺、妙玖庵など
   郡山城には寺社が多くある。
   これだけ城内に寺が多くあるのは毛利氏独自のもので
   聖武天皇の時に創建とされる満願寺は
   毛利氏よりも古くから吉田にあるのにも関わらず
   萩移行時には城下町ではなく、やはり城内に移転された。
   このように信仰と戦いの場は一緒にあるのが郡山城の特徴であり
   毛利氏独自のものである。
   
  ※ただし満願寺のように山岳寺院が先にあり
    城が後からできるという事例は他にもある。
    普通、山岳寺院は8合目付近に作り
    頂上は神の降り立つ神聖な場、修行場として
    建て物をつくることはない。
    というかできない。
    しかし、城の持つ力のほうが寺院よりも強くなると
    本城が上に移ったり、寺院が下がったりする事例がある。
    例えば、観音寺城の場合も推古天皇の代から
    城名となっている観音正寺が先にあったため
    城は尾根しか作ることができなかったが
    六角氏が勢力を拡大すると、寺は下に移転された。
    これは、観音正寺が西国霊場の一つとして賑わっており
    軍事施設である城の中腹まで参詣人がくるのを嫌ったのではないか
    と思われる。
    が、六角氏滅亡後に寺は元の位置に戻り
    現在に至る。

    これらから、政治と宗教を一致することが統治をするうえで重要であり
    寺社よりも領主権力が強くなれば、山上の修行場を城にすることができ
    領国を一目で見渡せる高さへと上がれる。

    →普通、城にお寺や神社ってないんですね・・・。
      あれ?でも武田銀山城は、中腹に神社やお寺があって
      滅亡後に色々と麓に移ったはずなんですが。
      毛利氏というか、安芸の特徴だったのかなとも思います。
      あ、でも月山富田城も古くからの社がそのまま山頂にあるか・・・。    

  ④郡山城の石垣
    郡山城の石垣は全山ではなく、本丸と二の丸だけが石垣だったのではないか。
    全山に施さなかった理由として、城域内での権威差を付けるためだったのでは。
    そもそも、石垣を作ることによって防衛力が強くなるわけではない。
    はらんだり、崩壊することもあり、石垣は権威としての見せ方が大きい。
    全域に石垣を巡らしたのは安土城が初だが
    大手門の通り沿いに作っており、これもまた見せる意図が感じられる。

    なお、全ての城は近世に改変されていることが多く
    例えば、井伊直政は彦根城に入る前に佐和山城に入っており
    現在佐和山城に残る石垣はその時のもので、石田三成時のものとはいえない。
    同じく、毛利氏も輝元が秀吉に従った後も郡山城を整備しており
    石垣を城に巡らしたのは広島城築城以降ではないか。
    元就の頃からあったのかどうかは分からない。

    ただ、郡山城の石垣は穴太衆のものではなく
    毛利氏独自の「石つきのものども」と呼ばれる石組専門集団であった可能性もある。
    そもそも「穴太衆」は戦国期の文献には出て来ず、
    江戸時代になってから史料に出てくるので
    この時期に石垣の専門集団がいたとはっきり断定できるのは
    「石つきのものども」だけである。
    よって、郡山城の石垣はこの「石つきのものども」かもしれない。

    なぜ、きっぱりと郡山城の石垣が断定できないかというと
    破壊されているからである。
    一国一城令の時に石垣は徹底して壊され
    組み方もあまりわからない。
    大手らしき所に「石つきものども」の特徴である
    縦長の石があるが、それだけでは何ともいえない。
    遺物でいえば、広島城と郡山城で同じ軒丸瓦が出土しているので
    同時期に城の手入れをしていたのは確認できる。

    酉谷という地点で以前、石垣の跡が出てきた。
    地層でいえば16c前半から中頃であるが
    山崩れで上から落ちてきた可能性もあるので断定できない。

    郡山城を全山総石垣にしたのかどうかは分からないが
    慶長5年の関ヶ原に向けて、毛利氏一族の城は総石垣にした城もある。
    例えば、吉川広家の米子城や富田城
    宍戸氏が構えていた備中・鬼身城など
    よって、郡山城の整備もこの頃までしていた可能性もある。

    →石垣は防御よりも、見た目の威圧感。
      石垣って防御力そこまでないんですね・・・。
      まあ、大砲で天守閣ぶっ飛ばせば無意味というのは
      大阪冬の陣で実証済みですしな・・・。
      郡山城の石垣が結局謎なのは一国一城令の破却が大きい・・・。
      まあ、一揆起きたら絶対籠ってそうだから
      壊しとかないといけないと思ったんでしょうが。
      でも、城にこもらなくて農民一揆勝ってるんだな、安芸って・・・。
      安芸の一揆は強い。
      国人だろうが農民だろうがカープだろうが、
      団結すると厄介なんだぜと思う。

      あと、穴太衆。
      戦国時代の書には出て来ないんですなあ。
      まあ、織田さん所結構史料残ってないイメージだしなあ。
      あ、なので石つきものどもって結構すごいことなんですよと
      言われて嬉しかったです!
      ・・・ただ、あれも技術継承者が1人だけになられて
      このままでは消滅しかねないんですよね。
      鍛冶屋さんみたいに誰かが継いでくれればいいんですが。      
      
【3】毛利氏の城郭
(1)広島城
   ①築城の動機
     往来、輝元が大阪城を見て、広島城の着想を思いついたとされるが
     直前まで郡山城の修理をしており、移る気はそもそもなかったのではないか。
     というよりも、広島城築城は秀吉に命じられたのではないか?

   ②同時期の築城
     そもそも、先祖伝来の城を離れることは自主的にはしない。
     広島城築城時の天正19年は他の大名たちも祖先の城から新たに城を築いており
     例えば、
     長曽我部氏の場合は天正19年に岡豊城から浦戸城に移っている。
     毛利氏同様、山間部から海沿いに移っており、
     肥後でもはやり海沿いに麦島城が築城されている。
     以上から、広島城も大陸派遣を考えて、
     海沿いに作るように秀吉が命じたのではないか。

     しかし、吉田も岡豊も先祖代々の城として神格化され
     手入れされ続けてきた。
   
   →ふむふむ。この時期に城動かしたのは他もあったのですね。
     まあ、だから官兵衛が広島城の築城に口をはさんだのか・・・。

(2)日山城
 ①隠居所
   日山城は吉川興経が隠居の國経亡き跡に移った城。
   それまでは小倉山城に住んでいた。
   隠居所は三重の上様とあることから同じ城内に住んでいたことがわかる。
   この様に、隠居と当主が住む例もある。
   例えば、
   小田原城では本丸ではないところに大規模な庭園の跡が発掘され
   隠居所ではなかったのかと推測される。
   また、福岡城には御鷹屋敷という場所があり官兵衛が隠居に使っていた。
   長政は書状で隠居の話は聞くなと書いており、
   隠居は隠居していても有る程度の権威を持っていたようである。
   他にも、松江城は本丸と谷を隔てて北の丸があり
   隠居の屋敷跡が残っている。
 
   このように隠居と当主が同じ城にいる場合
   郭の高さは同じことが多い。
   しかしながら、戦国時代に隠居と当主が同じ城にいる例は少ない。

(3)山城と平城のセット
  ①三原城の築城後に、新高山城は廃城となったとされるが
   石垣にたがねで割った跡が残る。
   たがねが出回るのは戦国後期であり
   三原城が出来た後も、新高山城は手入れされていたことがわかる。
   なお、瓦吹きの建物は城の遺構では見られないが
   匡真寺の周辺のみ出てくる。
   寺だけ瓦吹きだったか?

→隠居が当主と一緒・・・。
  まあ、元就の場合、父さんが隠居したから
  姉さんと兄さんと本城から分かれて暮らしたわけで
  隠居所は本家と確かに離れているか
  同じ敷地でも納屋のようにちょいとこじんまりとありますな。
  そもそも、長政さんのように隠居した親父の権力って
  割とでかくて苦労するのが目に見えているし・・・。

(4)山城に住んでいた
 ①伊勢の御師の記録
   伊勢の御師の檀那帳によれば、郡山城の山部分にも人が住んでおり
   名が残っている。
   このことから、山城は詰めの城ではなく、人が日常的に住んでいるとわかる。

→以上が尾崎先生の講演内容。
  で次にシンポジウムがありました。
  結構無茶ぶりされてだったけどこたえる先生方が素晴らしい。

■シンポジウム
 ①郡山合戦時の郡山城
  郡山合戦時には全山要害化していたのではないか。
  というのも、宮崎城での戦いを元就は重視しており
  宮崎城の尾根を越えて敵が攻めてくるのを警戒していたふしがある。
  ただし、多重堀切やうね状竪堀などは見当たらない。
  戦国後期になると安芸にも見られ、天文8年には入ってきているのにない。
  普通、合戦前にはそういう防御面を増やす。
  例えば、朝倉・浅井の場合、織田との手切れ後
  多重堀切などがいっきに増えた。
  しかし郡山城には見られない。

 ②郭の配置等
  急な斜面があればそれは人工的なもので山城か自然地形かで見分けることができる。
  郭は南側に中小のものが集中しており、あまり大きなものがない。
  堀切や虎口が郡山に見られないのは、広域支配を目的にした城で
  戦う城ではなかった?

 ③尼子・大内の付け城
  織田の場合、
  付け城は石垣・土塁で周囲にぐるっと360度包囲するように付ける。
  大内の場合、
  山田中山城があるが、郭も堀切もそこまではっきりと残っていない。
  意外とおおざっぱだった?
  尼子の場合、
  青山城は大内をおびき寄せるための城なのか郭しかない。
  が、もはや陣城ではなく山城の規模。
  一夜城的な感じで、戦意喪失を狙っていたのではないか。
  一方で風越山の陣所はジグザグに堀を作っており郭が無い。
  織田の包囲陣と似ており、時代的にここまで複雑な堀も珍しく
  レベルが高い。
  城の歴史を見直すべきほどのものかもしれない。

  ただ、郡山城もたて堀はある。
  大通院谷から出てきており、一緒にでてきた青磁のかけらから
  16c中頃から後半と推測される。
  実際、天文20年に興禅寺前に堀を作る命令が書状にあり
  郡山城が全く無防備であったわけではない。

→以上がシンポジウムの大まかな流れでした。
  いやあ、1か月?前の事なので完全に思いだしてないかも。
  ただ、日山城の石垣といい、風越山の堀切といい、
  安芸の山城も防備弱いと言われながらも
  他所にはない、あっと驚くような貴重な部分もある。
  守りが堅いのかどうなのか。
  ・・・まあ風越山は尼子方ですけど。

  今月で山城攻城記お終いだそうで
  さみしくありますが、引き続き安芸高田市の広報誌は取り続けたいと思います。
  従弟が8月に載るまでは確実にとろうかなと。
  従妹のは永久保存ファイルに入れましたけどね!
  ・・・後ろ山城ですけど

  ただ、毎年成人式の人数がめっさ減っている・・・。
  従弟は夏休み市内の塾に通っていたんですが
  「出身小学校全校児童13人って言ったら
   過疎ってるって言われた・・・あはは。」
  と言ってましたが、ああ、うん、少子化どころの話じゃないからなあ。
  「一つの市の山城だけでこれだけの
   シンポジウムが開けるのも珍しいし、特色ですね。」
  と仰ってましたが、もっと市の魅力を広げて
  人口減少食い止める方策に繋がればと思います。
  まじで。       
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トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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