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厳島合戦の起点・第2章「平賀氏の加勢その1」

厳島合戦に至るきっかけ、
防芸引き分けの一端に
平賀氏の決起催促があったとされます。

平賀家文書84号
書き下し文
「御礼御使者畏まり入り候、
 彼方従うに就きの儀、則蒙仰候。
 殊書状など数通見せ給い候。
 御入魂の段、更に言語儀に及ばず候
 無二の御心底申し尽くし難し候
 具の儀御使者申し候、
 辺々此の如きの段、御頼敷存ばかり候
 是従い申し入れるべく候、恐々謹言
   二月廿九日       隆元
                  元就
   平賀新九郎殿 

           御辺報」

現代意訳
「お礼と使者を使わして頂いて恐縮しております。
 陶に従うかどうかの去就ですが、すぐに返事を下さりありがとうございます。
 特に陶から届いた書状を数通見せて頂いたこと
 我等との同盟を維持して下さり
 言葉に尽くせないほど感謝しております。
 私のこの言葉に嘘偽りのの無いことをどうやって伝えればよいのか
 とても難しいのですが、詳しいことは遣わして頂きました使者が申しますでしょう。
 何度も申すのですが陶氏と戦うことに関しては貴方に頼るほかありません。
 どうか我等について来て下さい。お願い致します。
     2月29日   隆元
              元就
     平賀廣相殿
            御返事」


以前の流れをまとめると
天文22年
   12月24日 隆元、桂元澄と父・元就を陶晴賢の援軍に参加させないために
           どうしたらいいのか相談。

   12月29日 話し合いでも結局父の意見が変わらないため
           もう一回桂元澄に相談。

天文23年
   1月2日  末っ子の隆景に、父の説得を一緒にしたい、吉田に来るようにと手紙で催促。
          元春は5日に来るのが確定済み。
          兄弟と福原貞俊、桂元澄など父の側近も合わせて
          陶氏の援軍に行かないよう相談する場を設けた。

   2月     平賀氏から陶ではなく毛利に味方するとの書状が届く。
   2月29日 隆元・元就、平賀氏の入魂に感謝する手紙を出す。←今これ

までが今までの流れです。
父さんが行くと絶対晴賢が父さんを人質に取る!
だから絶対行かせたくないのに、父さんが納得せん!
皆、父さんを助ける&説得させるために手子してつかあさい!!

という悲痛な隆元。
そこへ平賀氏からの手紙が。
「っしゃああ!!父さんも友達の後押しあるなら聞くじゃろ!!」
と多分隆元ktkr!状態。

この書状は返事なのですが
内容から、平賀氏が陶に従うかどうかと問われ
すぐに毛利に付くと答えたようです。

平賀氏は毛利氏と一緒に大内方として動いていますが
元就との接点は鏡山合戦からと思われます。

平賀家文書61号
書き下し文
「今度西条之事退治加わり候
 寂前御現形、祝着候
 久芳四百貫、寺町の中弐百拾六貫百五十
 御知行なすべく仰せ付け候
 しからば向後等閑有るべからず之事簡要候
 恐々謹言
       7月14日  経久
       平賀尾張守殿
       これ進め候」

現代意訳
「今回、西条の鏡山攻めに加わり
 事前にこちら側についたことは喜ばしいことです。
 久芳の400貫と寺町の216貫の中の150の
 知行をしてよいと使者に仰せつけています。
 これからはお互い此の関係をなおざりにしないように
 仲を深めることが大切かと思います。
      7月14日   経久
      平賀弘保殿」


尼子氏による鏡山合戦は
大永3(1523)年の6月28日に最終決戦が行われました。
尼子氏の勝利に終わったこの合戦に「寂前」で「現形」。
平賀氏はどうやらギリギリで味方したようです。
平賀氏は坂氏と縁組を結んでおり、毛利氏とは縁戚になります。
この頃はまだ元就の舅にあたる吉川国径が実権を握っているので
弘保→元就→国径→径久
という伝達ルートで尼子氏方についたのかもしれません。

ところが、大永5(1525)年、大内氏は安芸奪回に向けて動き
平賀氏は陶氏に攻められ、元就の仲介で降伏を許されました。
しかし、父・弘保は大内方に転向したものの
子・興貞は尼子氏につき、家は2分化。
そこで天文9年に元就が興貞の籠る頭崎城を攻め落城。
興貞は出家し、家督を興貞の息子・隆宗が継ぐことで
親子の戦いに終止符が打たれました。

ところが、隆宗は天文18年の神辺合戦中に病死
弘保は隆宗の弟、広相に継がせたかったのですが
大内義隆の意向により、小早川扶平の三男が平賀氏を継ぎ
平賀隆保となります。
・・・・、天文19年に大内氏の意向を受けて
隆景が両小早川を統一しているのですが
何で小早川家本家の子をわざわざ平賀氏に・・・?

と物凄く謎なことを強引にされています、大内の御屋形様。

当然、弘保は納得いかなかったようで
大寧寺の変の時に、陶晴賢が元就に平賀隆保討伐を命じた時に
本来は当主の隆保を助けなければいけないのに見殺しにしています。
結果、広相が家督を相続。
とういう背景もあって、平賀弘保&広相は元就に非常に恩を感じていたようで
この書状にあるように陶氏と決別するならば毛利氏に絶対味方する。
とその証拠に陶氏からの書状も全て渡しています。
ただし、この時点ではまだ臣下ではなく
あくまで対等の国人でした。
それが証拠に79号では

平賀家文書79号
書き下し文
「            毛利右馬頭
  平賀尾州  御宿所      元就」
「先度は廣相御出、畏れ入り候
 此方毎度無沙汰、本意の外候、
 殊以次三家別して申し談じ候
 長久の儀、本望此事候
 従って備中守御礼なす所
 以て使者申し令候、尚此者申しべく候
 恐々謹言
      2月20日    元就
    平賀尾州 御宿所」

現代意訳
「この間は広相自身がこちらに来られて恐縮しております。
 毎回、なかなか連絡ができず御無沙汰しています。
 ことに毛利、小早川、平賀の三家でこれ以降
 何事も相談し、協力して、今後末永く続くことが私の望みです。
 本来は隆元がお礼を言うべきところですが
 使者によくよく礼を申すように言っております。
 なお、この者が詳しく述べると思います。
 恐々謹言
     (天文22年)2月20日     元就
     平賀尾州 御宿所」


三家で相談とあるのは、脚注では小早川、平賀、毛利となっています。
平賀氏は賀茂の国衆なので竹原とはお隣さん。
なので小早川を継いだ隆景とも同盟を組んだようです。
ですが、手紙の書式から上下関係は一目瞭然。
日付よりも名前が上に来ている。
これは相手を敬っている証拠。
なので、ここではまだまだ平賀氏と対等の関係だとわかります。

さて、では平賀氏から渡された書状とは・・・
前 第1章 隆元の反抗期
続 平賀家文書55・57・58・86・87
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主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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