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「安国寺こと瑶甫恵瓊 恵瓊は大名になったのか」感想

次の学習指導要領の改訂で強調されているのは
「深い学び」であり、自身が興味関心を持って問題解決することで
理解を深め、生涯学習へと繋げる・・・。
っていうのはさておいて、
現在、様々な大学で地域連携や生涯学習プログラムの一環として
公開講座が開かれています。
この間、比治山大学で開かれた、
「安国寺こと瑶甫恵瓊 恵瓊は大名になったのか」
という公開講座も、比治山大学で地域と協力して行っている
「不動院と安国寺恵瓊に関する研究」に関連して開かれたそうです。

この「不動院と安国寺恵瓊に関する研究」では、
比治山大学の先生が、
地域の方と一緒に全国にある安国寺恵瓊の書状を集め
それをまとめられているそうで、
・・・完成したら是非とも出版してほしい!!!
です。
言い値で買います。
いや、恵瓊さん、活動範囲が広すぎて、
個人で追うには結構大変なんです。
特に、京都の寺院に残っている書状なんて
閥閲録すら読み切ってない私には無理!
なので、是非とも読んでみたいです。

で、今回の講座、
「安国寺こと瑶甫恵瓊 恵瓊は大名になったのか」
講師は高知大学の津野倫明先生。
主に豊臣期の政治システム、
毛利氏や長宗我部氏の研究をされているそうで
今回の講座でも両家の比較も時々出てきました。

さて、恵瓊ですが、「ぶっちゃけ寺」では
お坊さんの選ぶ戦国武将ランキング第10位という
現代でも僧界では有名な方。
彼は、羽柴秀吉と毛利氏の交渉役を務め、
秀吉に気に入られて、外交役として取り立てられ、
伊予に所領を貰います。
今までは、所領を貰っていることから豊臣大名として思われていましたが、
果たして本当に恵瓊は大名だったのか?

講師の先生は、恵瓊は大名否定説の方です。
先生曰く、恵瓊が大名かどうかは毛利氏研究者ほど
やんわり否定説を取られていると仰られてましたが、

・・・そういえばそうだなあ
と、過去の講座を振り返って思いました。
毛利氏の場合、史料が豊富すぎて
元就さんの子ども全員を追うだけでも大変・・・。
なので恵瓊をそこまで掘り下げて考えたことはないなあと。
どちらかというと景様の下で社畜している感じがあり、
大名としてどどんと構えているイメージは確かにないです。

そもそも、恵瓊は臨済宗の僧侶。
僧侶なのになぜ大名とされるのかというと

① 所領を持っている。(6万石のちに筑前の一部も)
② 軍を率いていた。
③ 家臣がいた。


の3点を満たしており、大名と比肩してもおかしくない。
しかし、先生曰く、
①の所領は廃絶録が主で本当かは怪しい。
②の軍を率いていたのも確かに与力を率い、
かつ恵瓊作成の首注文もあるが、
毛利氏の場合、軍役や普請役を課せられた時に「組」を作っており、
首注文を見る限り、恵瓊の直属の家臣というよりも
恵瓊用に編成された「組」であり、家臣とは言い切れない。
③の家臣として、肥後国人一揆で処刑された
辺春親行の息子、北村五朗左衛門がいる。
彼は湯原元綱の書状にも名が出てくるので
実在はし、彼は確かに家臣だったかもしれないが
彼一人だけである。

特に、①の大名領は廃絶録以外では
「長元物語」「黒田家譜」「陰徳太平記」に
天正13年の四国国分の段階で
「伊予一国中 23000石の内を分与」とされている。
が、いずれも長宗我部氏・黒田氏・毛利氏の軍記物であり、
100パーセント信頼できるものではない。
一番確実なのは天正15年の秀吉朱印知行目録。
これには伊予の5000石に
隆景の筑前から3000石など
計11500石の知行が記されています。
確かに領地を貰っているが、
果たして領地なのか?
寺領の可能性もある。
と仰っていました。

また、豊臣大名であれば、軍役を課されます。
恵瓊が伊予の領地を持っていたならば
そこにも軍役が課されるはず。
ところが、文禄慶長の役では、四国の大名たちは
四国衆として動員記録の「陣立書」に記載がきちんとあるのに
恵瓊が四国から率いた軍勢はない。
一応、慶長の役では朝鮮に渡海し、軍を率いているが
それは毛利氏一門組の次に安国寺組として
主に益田氏の血縁関係者で変遷された組である。
また、益田氏は渡海後に分かれており、
恵瓊が率いていた組も熊谷組というように国衆毎に分かれていった。
関ヶ原でも同じように益田と熊谷を中心とした兵を恵瓊は指揮しており
軍はあくまで毛利からそれように変遷された組。
よって与えられた領地は、大名としてのものではなく、
寺領ではないか?

そもそも大名が一番に考えるのは「イエ」。
概念としての「イエ」を続けることが大事なので
血が繋がらなくても、名前さえ残ればいい。
恵瓊の場合は、臨済宗のため妻帯不可。
とはいえ、養子を取って後継を作ることはできたのに
それをしていない。
よって、恵瓊は大名としての行動に乏しく
大名とはいえない。
とくくられてました。

・・・・濃い!内容がとっても濃い!
濃い過ぎてメモを取るのが追いつかないぐらいです。
わあ、すごいなあと圧倒されながら
必死にメモを取りました。

・・・・で、恵瓊さんに家臣がいたのは知っていましたが
軍役を課せられた時に与力を率いてたのは知りませんでした。
北村さん一人では、1万石の「イエ」を管理できるはずもなく
家来はいたけど、家臣までは行かないのだろうなあと。
武士は御恩と奉公が基本なことは室町期も同様なので
主人から知行を認められる=主人への軍役や段銭が課せられる。
その理論に基づけば、恵瓊が大名領として、
伊予を貰っていれば軍役が発生するはず。
なので、軍を編成するために、
伊予であれば没落した家から家臣を募ることもできたのに
それさえしていないのであれば、確かに領地とは言い難いなあと。

・・・ただ、寺領だけで11500石。
安芸というか、毛利氏の場合は寺社の保護に物凄く力を入れていて、
滅ぼした家の菩提寺すら、修理してるぐらいなので
寺領も300石とかぽんぽん与えてしまうのですが
それでも1万石超えは無いはず・・・。
ああ、でも厳島神社とかはあり得るかもしれません・・・。
しかし、いくら気前のいい秀吉とはいえ、さすがに多いなと。
東福寺と安芸安国寺の2寺でそんなにいらないのでは?
とも思います。

・・・ううん、考えられるのがこの膨大な寺領は
京都や筑前の寺社修繕費用も込みだったのかなと。
隆景は京都の寺社奉行に任じられたと大徳寺黄梅院の説明に
書いてあったので、当然恵瓊もその下でこまごま動いていたはず。
よって、隆景領から恵瓊分がねん出されているのは
軍役としての知行は隆景分から出し、
寺社の復興費用は恵瓊分から出す、
と分けていたのであれば、
秀吉からわざわざ恵瓊に分与されていたのも道理かなと。
とすると秀吉は大名として恵瓊を取り立てたのではなく
恵瓊大名説は成り立たない。
のかなと。

で、続き、
恵瓊大名説のもう一つの確証が「取次」
「取次」とは、公的な職制で、
各地の大名が秀吉に伺いを立てる時には
側近を介して通信を行っており、
例えば秀吉政権では石田三成などがその役にあたっていた。

恵瓊はというと、高松城の講和で秀吉に取り立てられ、
その後、九州攻めを行った際には
島津氏に対して石田治部少輔と一緒に降伏勧告を行わせている。
よって、恵瓊は秀吉の取次となり、
豊臣政権に組み込まれた。
とされるが本当にそうなのか?

確かに恵瓊は三成と同じ役割をしている。
しかし、肥後国人一揆では「小早川・其方両人一左右次第」
とあり、九州取次に準ずる扱いを受けている。
また、別の書状では、
朝鮮出兵の委細は寺沢と恵瓊に委細申し含めとある。
これは輝元宛てなので毛利氏との間だから恵瓊が名指しされたのかというと
そうではなく、福島・島津などの西国大名の書状にも恵瓊の名がある。
よって秀吉と九州やその他西国大名の間を取り持っていたが
豊臣政権の取次ではない。

・・・ううん、ここが私は一番混乱しました。
え?え?取次と同じことをしてるのに取次ではないの?
と。
特に後半、書状で連名の場合は同等の地位であるというのを聞いて
石田三成や寺沢忠次郎が取次として認められているならば
それと同列に名が挙がっているのに何故だろう?と。
恵瓊が毛利氏と秀吉の間だけのやり取りで行き来していれば、
毛利氏の取次とも考えられるのですが、
西国大名と秀吉との間も持っていたとなると家を超えるなあと。
家を超えたらそれは中央政権に組み込まれた
とはならないのかなと・・・。

・・・それから、肥後国人一揆の「小早川・其方」の
小早川は隆景ではなく、秀包ではないか。
と仰られてましたが、そこも何で秀包なんだろう?と。
秀包は大友宗麟の娘婿&毛利元就の息子なので
旧大友・旧大内の九州北部の国人衆の両派とも
推戴しやすいことは推戴しやすいです。
が、まだ二十歳。
「両人一左右次第」と判断を任せられるぐらいだったのか。
いやでも秀包も秀吉のお気に入りだったし、
隆景がいなければそれぐらいの責任を持つこともできたのかなと。

・・・・と悩んでいたら、ちゃんと先生説明してくださってました。
そうか!と今気付きました。
すみません先生・・・・。

講話の続きにちゃんとありました。
恵瓊は自身のことをどう思っていたかというと
天正13年、大友氏のもとに赴く時に島津氏に
「近年羽筑・芸州和睦之儀相調、上下仕候故
 筑州被相雇候之条」

と自身で「私は秀吉に雇われている。」と言っています。
この「雇」とは、現在のように雇用するではなく
一時的な意味。
「雇われ仕事」のような短期間の関係なので
秀吉と主従関係ではないと恵瓊自身が言っています。

・・・講義の終わりの章だったので結びつかなかっただけで
ちゃんと筋が通っていました。
そうか、そういうことかと納得できました。

では、毛利氏の中での恵瓊の立場はどうだったのか。
豊臣期の毛利氏の行政機構は、
秀吉に従うために中央集権体制が強化され、
輝元を主君とし、年寄や奉行中心で動くようになりました。
これは、毛利氏だけではなく、豊臣期の大名に見られる現象で
秀吉から課せられる軍役などにスムーズに対応するためと考えられるそうです。

毛利氏の場合、
天正19年に実施された惣国検地で打渡状の発行人を見ると
国衆や寺社などの元・同格か格上など気を使う相手には
 穂田元清・福原広俊・渡辺長・恵瓊
 内藤元栄・佐世元嘉・二宮就辰・林就長

ら8名が連署で対応しているのに対し、
譜代や外様は、
 内藤元栄・佐世元嘉・二宮就辰・林就長
らの4名でしか名がない。

上の4人衆は、いずれも毛利氏の古くからの重臣で
穂田元清は元就の4男・輝元の叔父
福原広俊は毛利氏譜代の家臣
渡辺長は毛利氏譜代の家臣

一方で、
内藤元栄は父の代になって毛利氏に仕え始めた中郡衆
佐世元嘉は出雲尼子の旧臣で、輝元の右筆
二宮就辰は元就の隠し子
林就長は肥後菊池氏の一族?
と譜代や外様だけに連署したメンバーは
古くからの家柄出身とはいえず、割と新しく抜擢された者達。

上4人は「年寄」、下4人は「奉行」
と往来分けているのですが、
恵瓊によれば就長や就辰も年寄だと書いているので
年寄に入れてもよさそうだが、明らかに上4人と下4人は
立場も職責も差があるのでここでは
古くからの家柄出身を「年寄」
新しい抜擢者を「奉行」と位置付けておくしか
いい呼び分けようがないんですよねと仰ってでした。

奉行のうち特に二宮就辰、佐世元嘉などは
「なりあかり」と恵瓊が評していたように
特に異例の出世だったようで
大多和さんに手紙を出した時に
「お前も頑張って出世しなさい、
 二宮や佐世のように成りあがってみんさい。
 わしが引き立ててやるから。」

とはっぱかけていたようです。

・・・ああ、あんまり二宮君を
成りあがりって言ってあげんといて恵瓊さん。
彼、「吉田物語」の逸話見る限り、
異例出世したことに陰口相当叩かれたのか
朝は誰よりも早くから出仕し、遅くまで残って・・・
必死に認められようと安土桃山時代に社畜してるんですよ。
とちょいとフォローしたくなりました。
ううん、中の丸は輝元に就辰が元就の子であると
元就さんの遺言通りきちんと伝えたようですが
家臣団までは伝わってなかったんでしょうかね・・・。
ていうか、そもそも隆景達は知って・・・、
あ、輝元口が軽いから絶対知ってますね。うん。
ていうか、あの時代正妻がいるからといって
側室とらなかった方が珍しいわけで
身籠ったのを側室としてとらなかった理由も
正妻が病気だから・・・。
奥さん亡くなった後でもカミングアウトすればいいのに
中の丸だけに伝えたってことは隆景や元春にも言いにくかったのだろうなあと。
いや、でもあの時代軽蔑されることはないかと思うんですけどね。
むしろ、誰も側室取らない毛利家のほうが珍しいというか・・・。

で、「なりあがり」とまで恵瓊に言われた奉行衆。
この奉行衆は元々は元就から輝元の側近になったもの。
特に渡辺と林は天正16年の上洛の時に豊臣姓を与えられます。
佐世と二宮も上洛には付いて行ったようですが
輝元の側近中の側近だったために豊臣姓はもらわなかったようです。
この豊臣姓を貰った者達は、豊臣政権との連絡役として活躍。
では、恵瓊はどうだったのか。
恵瓊は立場としては「年寄」で、事実、
年寄衆の元清とペアで動いていることが多いんだそうです。
元清がサインしていない時は恵瓊というように
仕事を分担、同等の立場として働いていたようです。
よって恵瓊は
・惣国検知の連名を奥か日下の決定者ポジションで多く署名
・家臣の吹挙ができる
・人掃令などの中央政権の命令を伝達

などから毛利氏の年寄として動いており
地位も元清と同列とかなり高かった。
事実、慶長の役では一門衆の次に安国寺組の名前があり
率いていたのも益田や熊谷などで
一門と重臣の中間の位置であり、
年寄で譜代家臣の広俊よりも上であった。
よって秀吉政権の大名ではない。

では、恵瓊はどういう立場であったのか。
恵瓊自身も「毛利家の参謀僧」と思っており、
「当代記」にも「森輝元帰依之僧」とあり、
朝鮮の儒学者・姜沆が記した「看羊録」にも
石田三成襲撃事件で輝元が三成側として動こうとしたら
恵瓊が諫言して止めたとあり、
毛利家の参謀僧として活躍していたことは
他家も外国人もみんな知っていた!

・・・・、ここの3段活用じわじわ来ました。
本人も!他家も!外国人も!
ってのがツボでした。

では、恵瓊の立場は何だったのか。
それは出頭人ではないか。
出頭人とは主人の側に仕え家臣に伝達する役割。
地位が高い人間ほど直接会話をせずに
取り次ぎを介して話を行う。
例えば、毛利氏の場合は親子でも
手紙のやり取りは取り次ぎ役を介している。

・・・・あ、はい確かに取次通してるので
織田さんとこの手紙のやり取りみると
相当差があるなあとは思いました。
あ、でも気軽には会ってるんですよね。元就さん親子。
手紙をよく見ると、また直に話そうと書いてあって、
家臣の前ではそう振る舞っているけど、
こっそり話し合いはよくしているのかなと。
まあ、織田さんとこほどストレートっぽくはないですが。

で、出頭人は主人の側に常時控えており
それこそ恵瓊が二宮さんの如く側に控えてこそ
出世の糸口が開けると諭したように
「イエ」ではなく、大名個人に尽くす人物が出頭人。
例えば、秀吉の場合は石田三成。
出頭人は主人の代わりに言葉を伝えるので
そのうち出頭人の言葉があたかも主人の如く聞こえることもあり
絶大な力を持つ。
そのため非世襲制で、主人一代限りに付き
所属集団がないことが条件となる。
所属集団、つまり「イエ」を持っていると
親戚やらなんやらがからんできて大変。
くわえて、一代限りのことが多いので
追腹切るのもこの出頭人なんだそうです。
例外は徳川家の本多正信と正純。
珍しく親子で出頭人になった珍しいパターンなんだそうです。

所属する「イエ」がないとなると
僧侶がなることも多く、
例えば、毛利の場合は恵瓊であるが
長曽我部氏の場合は非有斎、
徳川氏は以心崇伝、

ということで他家でも参謀僧が活躍していた。
特に非有斎は朝鮮出兵で長曽我部家の当主が居ない時には
土佐の行政を一手に行っていたほど力があった。

毛利氏と長曽我部氏はよく似ており
豊臣政権下になってから中央集権が強くなってきたこと
帰依する僧が権力の中心にいたなど共通する点がある。
そうです。

・・・ああ、石田三成が結局秀吉の後に
矢面に立たせられたのはそういうことなんですね。
出頭人として秀吉の代わりのように振る舞って見えたし
本人もいつの間にか皆が従うのが当たり前だと思っていたんだろうなと。
・・・それから、豊臣政権期に限らず
毛利氏と長曽我部氏は領地の拡大の仕方や
行政機構などもよく似ているなあ
と何かの本を読んで思っていたのですが
参謀僧の話を聞くとそう思いました。
が、微妙に違うところが親戚の力の違いかなと。

で、恵瓊は輝元が帰依する参謀僧であった。
しかし、秀吉に服属した後、
権力の中枢に加わるようになった。
秀吉の取次には元々黒田官兵衛、蜂須賀などがいて
広家が出雲を領地としたいという願いも
黒田官兵衛が秀吉に吹挙している。
しかし、黒田官兵衛は石田三成らと対立するようになり、
黒田官兵衛は失脚。
新しく石田三成と増田長盛が取次となった。
石田三成は養子から外され別家を建てる秀元の領地を
広家領にしてはどうかと指南したとされ
他にも娘の御目見えや御成を承諾しなかったと
広家に対して冷遇したとされます。

恵瓊は石田三成ら新取次との仲を取り持ち、
それによって朝鮮出兵で蔚山で敗北した時も
秀吉が情報を聞き知っていたのに
恵瓊が送った書状を増田が披露したことによって
お咎めなしとした。
一方で、黒田長政らは失脚。
これが七将襲撃事件となり、
三成が失脚したことで、家康が台頭し、
再び黒田・広家らが表舞台へ。
特に広家は秀元領が長門に決定したことで出雲を安堵されます。

この対立が関ヶ原に繋がり、
恵瓊は輝元とともに三成支持。
広家は黒田とともに家康支持。

恵瓊は輝元が三成に加担するといった旨を
黒田家政に伝えて牽制します。
広家は取次であった黒田長政に家康との間を取り持ってもらい
「輝元は関与しておらず、恵瓊一人の考え」だと伝えます。

事前に家政に輝元の三成賛同を伝えたことから
恵瓊はそもそも広家の寝返り工作を知っていたのではないか。
という説もあるそうですが
その可能性は低いかもしれませんとのことでした。

結果、関ヶ原の後、恵瓊は首謀者として
石田三成・小西行長らと引きまわしの後、斬首、晒し首。
毛利氏としては恵瓊を差し出すことで家の滅亡を回避したのですが
そもそも恵瓊に全く力が無ければそんな交換も成り立たないわけで
恵瓊は西軍の重要人物とされるだけの政治的な権力があった。
本来、使僧は中立的であるが、
恵瓊の場合は秀吉や毛利氏の権力内に取りこまれていった。
豊臣期を体現する人物であり、
最期は謀叛人として不名誉な最期を遂げたが、
それによって毛利家を救うことはできた。

・・・うん、恵瓊さんの辞世の句は
風が吹いたように月がさっと照らして
何の迷いもない歌だなあと以前思いました。
首謀者として生贄にされたようなものだけど
悟りの境地だったのかなと・・・。

・・・で、広家と恵瓊の対立。
この背景には、
内部では広家・福原ら譜代の重臣・一門衆
中央集権化を図る輝元と新しく取り立てられた恵瓊ら
外部では黒田・広家VS石田・恵瓊という
二重の対立が絡んでいた。
とっても複雑なもんだったんじゃなあと・・・。

・・・あ、あと黒田・広家と恵瓊・輝元
この対立を治められるというか
さらにそのトップにいる隆景。
結局恵瓊にとって隆景はどういう立場であったのかなと。
なぜ輝元帰依なのに、隆景の領地からも領地を割いているのか?
隆景は惣国検地に関わっていないのは
毛利ではなく小早川だからだろうからでしょうが
でも、トップの元清と恵瓊は
「景様!」状態ではなかったのかなと・・・。
少なくとも元清は。
恵瓊は割と書状からばしばし言うタイプなので
それはそれで隆景と気があったんだろうし
元々秀吉との取次は隆景だったので
取次役の交替も何かあったのかなと。
うん、色々と調べたいことが増えました。

先生の話はとても濃くて
論理立っているので面白かったです。
ただ、2時間では短かったので
もう少し長く聞きたかったなあと思いました。
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トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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