永禄聞書「毛利元就の謀」
私が毛利元就を好きになった、惚れたきっかけは
その戦略の手際良さです。
丁度、碁を習い始めた頃でした。
最初はどんな地も殺したくなくて必死に打って石を助けようとしていました。
でも、アテられた1目を助けようと石を置けばおくほど、大石が取られて投了。
そういうことを繰り返すうちに、盤面の全ての石を救う事は無理で、
諦めなければいけないこともあると学びました。
株の世界でも何でも人は損をすればするほど
損を取り戻そうとのめり込んで引き際を見誤ってしまいがちです。
「小を殺して大を活かす。」
というのは勝負の世界の格言ですが、実行するのは至難の業です。
そもそも小を殺すと言っても、
本当に見捨ててよいものか、
無駄死にさせるのではないか
後々使えるように手をいれるべきか、
その見極めがとても難しいのです。
それにタイミングを逃せば小だけでなく大が死ぬことにもなりかねない。
生き死にの大切さを知ったぐらいに、ちょうど大河の毛利元就があり、
その戦略の凄さに戦慄してはまったのが最初です。
まだ中学生だったので今の様に専門書をかじることもできず
簡単な本しか読んでいませんでしたが、
できるだけ多くの国衆を味方に取り込んで穏便に進んでいく一方で
本城常光の誅殺による石見勢の進退の見極めなど
「小を殺して大を活かす」を実に鮮やかに行っていて
ああ、凄いなと真田幸村並みに感嘆しました。
当時は戦略とはいわずに謀と言っていたようですが、
謀という字は今ではあまりいい意味ではありません。
しかし、本来、政治も戦略も全てひっくるめた意味であったんだろうと思います。
だから、この書を残した隆景もこの部分を一番他人に知られてはいけないと思っていたのではないかと思います。
そして、これを手に入れようとした黒田官兵衛はここが一番知りたかったのではないか。
そう思います。
永禄聞書
小早川隆景が父・毛利元就の言葉を書き遺した書より
書き下し文
「敵国の謀
敵国へ交わりを結ぶものは我が国に引き成す手立て肝要也
敵国譜代の臣下にはあらず唯時の威に従ひ旗下に属する時自他ともに多し
皆時を得ては立身せん心掛け也
弓箭有りて末々頼もしき家に従ふ者也
味方に引き成す謀有るべし
敵国の臣下其の君を恨み或いは君臣下るを疑ひ
或いは臣下と和ならず謀をかこすへし
右三ヶ条人を使う者に非ずんば如何そ他国を我謀に従へんや」
私訳
「敵国への戦略
敵国へと通じているものをわが国に引きこむことはとても大事である。
敵国の譜代の家臣ではなく、権勢がある家だからただその下についているだけ
というのは自分もそうだし、みんな大抵はそういうものだ。
そういう者達は戦などで時を得ればそういう状態から抜け出したいと思っている。
そして戦があったときに先々まで頼れそうな家に従うものである。
だから味方に引き入れる調略を練るべきなのだ。
敵国の家臣で主君を恨んでいる者や
主君から疑われている者、
家臣と家臣で仲が悪い時も調略を画すべきである。
この3つの条件は人を使ってどうこうできるものではないから
どうやって他国を私の戦略通りに従えるというのだろうか。
そういうことでもない限り、私の思う通りにはいかない。」
国人衆の多くは境目なので、強き者に従うだけで
忠誠心はあまり高くはありません。
そもそも、大内にしろ尼子にしろ、他所の国。
ですから本来仕える筋合いはないのですが、
どっちかに従ってないと潰されるかもしれない。
そう思って傘下に加わっているだけであって
機会があれば今の状況を脱したいと思っている。
それは自分も他の国衆もそうだ。
と元就さんは言ってます。
・・・まあ狭間で苦労してますからね安芸国人。
それこそ南北朝から厳島合戦まで200年近く
二つの勢力のどっちに属するか常にニ者択一迫られてますから
そりゃあそんな状況から抜け出したくなるだろうなあと。
で、「弓箭有りて末々頼もしき家に従ふ」
戦国の世の習い、守護とか守護代のように力を持たない国衆は
ここぞというときに頼れるところに従う。
当たり前の事ですが、逆にこういう国衆は
駄目だと思ったら手のひらを返す様に離反します。
でも、こういう離反しやすいものたちを引き入れるべきだと
元就さんは言っています。
権威も血筋も特に秀でたものがない場合、数がものを言います。
一揆のように、みんなで力を合わせれば幕府にも対抗できる。
だから、離反しやすい国衆こそ味方につけて数を増やす。
「敵国へ交わりを結ぶものは我が国に引き成す手立て肝要也」
というのはそういう意図であるかなと思います。
元就さんの場合、分郡守護武田、守護大内、守護尼子という
国単位の相手が敵で、数倍の兵力差で戦うことが多かったのですが
いずれも勝っています。
兵力差がたった2倍でも2対1になるわけですから、
よっぽど優れた武芸者でもなければ勝てません。
「毛利が剛弓」という言葉が残っているように
弓兵が異様に強かった可能性もありますが、
元就さんが指揮していない時は布野崩れのように大概大敗していて
兵士が抜きんでて強かったというわけでもなさそうです。
よって数倍の兵力差を少しでも削り、
敵を同等かそれ以下の兵力にするためには
敵同士が潰し合いしてくれれば一番良いのです。
「孫子の兵法」にあるように本来城攻めは一番愚策。
攻めずに敵を滅ぼすのが上策。
よって、主君と家臣の間や家臣同士の不和というのは
内部崩壊を起こすためのよい切り口となります。
が、そもそもそういう諍いは人同士の関係なので
「人を使う者に非ずんば如何そ他国を我謀に従へんや」
人を使ってできるようなことではないので
他国を自分の戦略通りに動かすことはどうにも難しい。
と言っています。
離間の策は一番用いれば効果的であるけれど
それを自分から始めることはできない。
綻びがなければ攻める隙はない。
逆に、自分が守る時には綻びがないように
主君と家臣の間、家臣同士の間、
それぞれが上手に行くように心を砕いていた。
だから、宍戸隆家が見た毛利元就は
こまめに筆を取って、気遣いを怠らない
細やかな人間に見えたのだろうなと思います。
あ、だからといってそういう風にわざわざ振る舞ったというのではなく
細やかな気遣いこそ国を守るものだという信条として行ったのではないかなと。
こう書くとまるで元就さんが人心掌握のために気遣いある人間に見せかけたように感じるかもしれませんが
ううん、何と言うか本当にその人を思って気遣いは行わないと
却って不信感を招きます。心の底から本気で思って気遣うよう心がけた。のかなと。
人と関わる時に一番難しいのは褒めること、良好な関係を築くことです。
特に大人で微妙な上下関係だと尚更・・・。
相手は大人ですから、下手なおべっかは見透かしますので
本当にタイミングを見極めて、心の底から褒めないといけないので
本当に難しい・・・。駄目出しする方がはるかに簡単です。
あと、元就さん離間の策をここぞという時に使っていますが
積極的に使って相手を滅ぼそうとしていたわけではないです。
そんなわけではないけれど、そうせざる得ないんだ。
と言い訳じみてますが、それが本心だったろうなと。
余談ですが、仕事モードと素の自分って分けない場合もあるのですね。
割と周りは仕事は仕事、自分は自分ときっちり分ける人ばかりなので
てっきり普通かと思ってたんですが・・・。県民性?なのでしょうか?
私も職場の自分と素の自分ではかなり差があります。
上に立つ者としての職責職務を果たせるほど
素の自分なんて偉くもなければ立派な人間でもありません。
でも、陣頭指揮するからには自分の振る舞いこそ正すべきですし
感情も極力コントロールして何が相手にとって最適なのか
一言一言考えて話しているので性格もかなり違います。
ううん、仮面かぶるわけではなく、そのものになる感じ?でしょうか。
そうでもしなければ、「戦場並みのストレス」と評された中で
まともな神経では働くことができませんでした。
戦国時代のストレスが全く同じとは思いませんが
似たようなストレスを抱えているならば
オンオフ切り替えないとやってはいけないだろうなと思います。
内面を書いた手紙も史料も豊富に残っているのに
昔から研究者に元就さんはよくわからん性格だと評価されてますが
オンオフ切り替えて仕事していたと思えば
分かりやすいのではないかなと思いました。
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