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隆景講座「小早川隆景の伊予支配」感想

三原で開かれた平成29年度の第一回の隆景講座に行って参りました。
今年が築城450年ということで今年度は最後の講演会・・・・。
どうせなら吉田の博物館のように毎年開いて欲しいなあと思います。
隆景さんはぼちぼち人気が出ているようで、
京都の黄梅院のついったーは隆景の名前が入ってから
りついーとが伸びているのでこういう講座も継続して頂ければと思います。

で、今回の先生は藤田達生先生
三重大学教育学部の先生で
荘園や村落の研究が主だったそうですが
藩の成立や地元の諸大名の研究もされているそうです。
著書も色々と出されており、
私も先生の「秀吉と海賊大名」を以前購入したのですが
分かりやすい本だったので友にも薦めました。
先生は講座前に伊予出身なので領土拡張で被害にあった
その感情が多少入ることはあるかもと仰られてましたが、

・・・・ええ、先生の本にもばっちし入っていたので覚悟しております。

ううん、というか、
戦争で被害を受けたら普通はそうやって根に持つものなんでしょうが、
今一その感覚がわからんのです。
ヒロシマですから色々とあるのですが、
オバマさん来る時に、謝れとか言っていたのは他県の人で
地元新聞の投書などを見る限りは誰も恨みなんか述べていなかった。
そもそも、安芸は大内と幕府、大内と尼子の境目だったので
小競り合いが何十年も繰り返されているのですがあまり恨みは聞きません。
むしろ、大内とか尼子とか攻め返したところでぶつぶつ言われるんですが
「先にしてきたのはそっちなんじゃけど・・・・、
 まあこらえて聞こうか。」
となります。安芸門徒の性質なんかなあと。
あと、戦国時代に攻められて・・・と恨み節を言われるとこって
太平洋戦争で空襲受けていないところが多いのかなあと。
京都なみに先の戦による被害が戦国時代で止まっているからかもとは思います。

で、先生曰く、歴史観にも地域性があるのではないかと。
九州などは歴史を傍観されている方が多いのでは?
逆に中部の人は全国を席巻しているので日本史に関しては
地元などが出てくることもあり興味関心が高い。
四国などは蚊帳の外で、時々酷い目にあっている。
江戸時代に至っては全て外様の殿さまに治められていて植民地だ。
と述べられてました。

・・・・ううん、まあ確かに私が歴史が面白いと思ったのは
やはり地元が関係するところからスタートでしたし、
常に大きな転換期に安芸は必ず関係する。
それに気付いて面白いなと歴史再発見だったので。

あ、あと気になったのが
「隆景は伊予を拝領して独立した大名となった。」
と先生言われちゃったんですが、
ううん、隆景って独立してたんでしょうか?
一応輝元から分けてから伊予貰っているのと
生涯三原を本拠として動く気がない・・・。
でも輝元政権を見ると決定権がある奉行人には隆景は属さない。
むしろ恵瓊のほうに輝元政権の決定権があります。
とすると、隆景はやはり独立とみなすべきなんでしょうか?
ううん。

あ、あと、先生は
「長曽我部元親の四国統一はありえない。
 河野氏が服属はしていないから。」

と述べられてました。
根拠としては3つ。
まず1つ目は土佐側の記述に天正10年春、
長曽我部元親は伊予を手に入れたとされ、
南予と東予が長曽我部に服属したので
中予の河野氏も降伏した。とされているが、
そもそも東予は細川氏の影響力が強く、
西予は西園寺氏や宇都宮氏が強く、
元々河野氏の支配下とは言いづらいので
南予と東予が服属したからと言って
河野氏が降伏したとはならない。

2つ目に、天正12年、中予の新居郡に長曽我部が攻めてきたとあるが
そもそもの史料解釈が違い、この時期新居郡で戦が起こっているのは
来島通総が河野に反乱していたためである。

3つ目に、天正13年春に河野通直が長曽我部に降伏と
「土佐物語」にはあるが、降伏したというのは大きな出来事
それなのにはっきりした年月ではなく、春という曖昧な記述
そもそも「土佐物語」は長曽我部方が書いているもので、
河野氏の降伏時期について他の資料や史料にはない。
むしろ、河野道直は毛利輝元の姪と縁組をするなど
毛利氏との関係を強め、毛利家臣にも礼状も送っていて
毛利と一体化しているので毛利の許可なく
河野氏の降伏はありえない。

よって、河野氏が長曽我部氏に降伏はしていない。

・・・まあ、河野通直は元就さんのひ孫
隆景の義理の孫にあたるので、毛利氏の縁戚。
家族意識の強い毛利家なので河野を見捨てることはないですし、
通直の母のゆづきは五竜の娘だけあって、強いですからなあ。
来島通総の反乱も多分ゆづきが原因っぽいですし・・・。
勝手な予想ですが、河野を見捨てそうなもんなら
ゆづきが毛利本家に殴りこむか、
毛利家陰の当主景様に怒鳴りこむことすらしそうなので、
河野が長曽我部に降伏は毛利側から見てもないかと・・・。

では、毛利と河野と長曽我部の三家の関係はどうであったのか。
石谷(いしがい)家文書の発見により、近年詳しく分かるようになったそうです。

時系列としては天正9年12月
石谷頼辰が長曽我部元親の所へやってきます。
長曽我部元親は明智光秀の縁戚である斎藤家の娘を娶っており、
信長の意を借りて領土拡大をしていました。
信長から四国は切り取り次第と許可を貰っていた元親は
阿波・讃岐と領土を拡大していたのですが、
急に信長から「土佐一国以外は返せ」と言われます。
石谷頼辰は「短慮は起こさないように」と釘をさしに四国へ渡ったようです。

信長の急な方針転換には
織田家の家の拡大に踏み切ったことと派閥争い。
阿波の三好氏は秀吉と手を組み、
信長3男の信孝を養子にする話も出し、
秀吉も信長4男の秀勝を養子にしていました。
信長は信孝を四国三か国の国守に、
秀勝は秀吉の跡を継ぐようにと家の拡大を謀ります。
そのため、元親の土佐以外の返還を求めました。

・・・・。信長さん、大きくなると(?)保守的になっている気がします。
で、元親はどうしたのか。

天正9年12月23日、元親は鞆の義昭の所に使者を送ります。
ここから先生脇道にそれ・・・いえ、背景を詳しく解説して下さいました。
先生のお話はずばっと分かりやすいので、
さきほどの長曽我部元親の四国統一話も然りですが
伊予の統治以外の話も結構面白かったです。
四国から歴史を見ているからか、
一般的な歴史観を本当にそうだろうかと再見していくので
もっと他のお話も聞いてみたいなと思いました。

で、この時の足利将軍は義昭。
室町幕府は織田信長が足利義昭を京から追放したことで滅びた。
と通説ではなっていたが、それは間違いである。
京を追い出された方と言って室町幕府は滅びていない。
と先生は仰られてました。
義昭以前の将軍はほとんど京にいないが、
だからといって幕府は滅びてはいなかった。
また、京を追放されていても五山の僧の任命権限を持っており、
これは信長も手だしする事が出来なかった。
将軍の権威を利用して諸国の大名に決起を呼びかけたり
天正7年までは京での出来事を調停しているので
追放されていても力を持っており、鞆幕府といっても良いぐらい。
加えて信長も将軍家を潰すつもりはなく、
義昭の息子を大切にしていた。
以上から義昭はまだまだ将軍として力を持っている。
ので、織田信長と対立した長曽我部から使者が来たようです。

・・・義昭さん、五山の僧の任名権限とか持っていたのですね。
知らんかったです。
ああ、だから毛利の僧ばっかりが最近五山のトップになっていて
ちょっとよく考えて下さいという手紙があったんですね・・・。

で、義昭と毛利で、河野と長曽我部の和解を試みます。

天正10年5月、
信長は四国国分を提示するなど
信長はこの頃絶頂だったとされるが、
義昭の側近もこちらが勝っている!と言っている。
本当に信長は勝っていたのでしょうか?
と、先生は疑問を投げてでした。
実際には、毛利と長曽我部の同盟は強くなっており
両家で将軍を京へ案内するつもりだったという話もあったようです。

・・・・。
ああ、確かに備中高松攻めは毛利の負け戦とよく小説で書かれますが
何かの歴史書読んだ時に、史料を読み解くと毛利も決して劣勢ではなく、
宇喜多や秀吉とほぼ互角で、ケリをつけようとしていたが、
宇喜多も秀吉もなかなかしぶとくケリがつかない状態だったとあったので
まあ、互角ぐらいが正しい評価かなあと。

で、天正10年6月に本能寺の変。
明智光秀は石谷氏と長曽我部氏と縁戚関係があり、
そもそも天正10年6月の明智光秀が雑賀衆に送った手紙
義昭の命で起こしたと書いているそうです。
なので、本能寺の変の命令者は義昭。

で、毛利と長曽我部の連携は本能寺の後も続きます。
天正10年7月
芸土入魂の仲介者である香川氏の下へ義昭の家臣が来ています。
ところが、
天正10年12月
東予の石川氏の家臣であった金子元宅宛ての隆景文書に
「伊予・土佐は中郡で線引きしようとしたはずなのに
 宇和郡で戦になったらしい。困ったことだ。」

とあり、長曽我部元親が毛利と定めた河野領域を侵犯
結局宇和郡の北之川氏は翌月長曽我部に滅ぼされてしまいます。

・・・うわぁあ、隆景、激怒してそう・・・。

で、第3章伊予国主小早川隆景の章。
天正13年1月
毛利と秀吉は天正10年の仮約束から最終的な中国国分を提示します。
中四国同盟の盟主として毛利は強気の国分けをしようとしますが
色々と押し切られ、紀州攻めに協力をすれば
伊予・紀州を与えると秀吉から約束を貰います。
天正13年5月
秀吉は毛利・長曽我部と四国国分交渉を行います。
天正13年6月
長曽我部の領分は土佐と伊予(領有分)を認めます。
が、この交渉は秀吉と元親だけで隆景抜き。
交渉内容を知った隆景は・・・・。

6月20日の河野氏家臣の平岡さんのところに残る秀吉書状には
「長曽我部のこと、先に申し遣わし候つるは、
 土佐一国予只今長曽我部かたへ進退候分候て
 毛利方小早川方へ安国寺を以て相談しむる。
 もっとも予内に候て、右の通りに予宥免べく申し聞き候ところ
 聞き違い候て、安国寺此方へ罷り上がり、
 伊予円に給わず候はば、外聞迷惑候予小早川申すよし候条」

と、一旦終わっていた和平交渉がもつれます。
結局、勝敗がつかず四国攻めが決定。
伊予一国は毛利氏が攻め取り、
四国攻めの後に輝元から隆景へと渡されます。

ここで先生は伊予は全く関係ないのに
勝手に攻められて領地も分けられて御先祖様は苦労された。
その話をずっと昔から聞かされてきた。
とようちゃったです。

・・・ううん、でもこれって隆景が怒るのも当然かと・・・。
秀吉は伊予を渡すと紀州攻めで約束しながら結局約束を反故
加えて長曽我部も本来毛利と決めた国分を超えて
攻めてきているのに、その領有権を主張。これも約束を反故
まあ、長曽我部としては宇和郡の領主は謀叛を企てた一族の縁戚なので
滅ぼしたのは当然なんでしょうが場所が悪かったんじゃろうなあと。
加えて金子氏のように長曽我部に属する国人も中にはいたから
彼らのためにも譲るわけにはいかんかったんでしょうが・・・・。
ただ、隆景も隆景で長曽我部に滅ぼされた
あるいは毛利方についていた国人衆も守らねばならないわけで
そう考えると伊予も全く無関係ではない気も・・・。
そもそも、河野氏は分郡守護ではなく国主なので
念願の国主に戻れる、一国支配に戻れる!となっていたのに
やっぱり分郡でという事になるそりゃあはぶてるでしょう・・・・。
隆景が外聞が悪いと言ったのは
こういう河野家中の事もあるんじゃないのかなあ
と。

それから来島氏。
秀吉は来島氏にも離反したら伊予一国を約束していたはず・・・。
そもそも来島氏は河野氏に謀叛を企ててますから
河野氏としては許せないはず。
隆景が国分で難色を示したのはもっと複雑な背景がありそうな気もします。

・・・こうしてついつい隆景擁護に走るのは
毛利史観だなあと思います。

で、隆景の伊予統治ですが、秀吉の政策に沿って行われました。
天正13年8月14日
黒田官兵衛と蜂須賀小六が城や人質を取り、隆景へと渡します。
武士は一所懸命が座右の銘。
先祖から引き継いだ私有地を守るために戦う者ですが
城を預かって再編するのは在地性を否定し、
集公、国有地化していることになります。
全国の私有地を公有地にすること、
信長らの目指したのはそれであり、
江戸時代の殿さまというものは領地領民は幕府から預かったもの。
ゆえに、城は個人の持ち物ではないので、国替の時には
城が借りたときと同じかどうかを確認しなければいけなかったそうです。
また、城だけではなく家臣の屋敷も調査範囲に含まれ、
風呂桶の状態など細かく確認されていたそうです。
そもそも家臣の屋敷は個人の家ではなく、
役目によって移っていく、いわば公務員住宅。
豊臣政権は全国を統一することで
私有から公有へと地域社会を変革させたことが大きい。
隆景は伊予にとっては「おうりょう」と評するものもいたが、
伊予の近世化には大きく携わっていたことがいえるそうです。

とはいえ、伊予が豊臣政権下になり隆景の支配を受けていたのですが
隆景の領地替えが行われる天正15年までは河野も西園寺
自分の城に在城していました。
隆景が庇護をしていたからだそうです。
しかし、隆景が移動になると両者は殺害され、滅亡。

・・・その点では、隆景は自分が伊予を手に入れることで
豊臣秀吉の革新的な旧領主のすげ替えから守っていたのではないかなと。

先生にお聞きすると、
東予は長曽我部か毛利かどちらとも関係が深いので
彼らはどっちの下になっていても問題はなかったでしょう。と。
ただ、南予は長曽我部方に降伏していたので
長曽我部方が強かったのではないかと仰られていました。
伊予一国は外聞云々とあったように隆景はどうしても取りたかったが
ここで無理を言ったために九州・関東・朝鮮へと出兵せざるおえなかったのでは
としめられていました。

・・・ううん、なるほど。
でも隆景の庇護した西園寺って南予の国人じゃし、
南予では昔は子どもを脅す文句として
「ちょーそ(長曽我部)がくる」と言われたという話も読んだことがあるので
南予も完全に服属していたのかははっきりしないなあと。
降伏したら、九州と違って四国はまず反乱しません。
その代わり、ずっとくすぶっていくのかなあと思いました。

中央に対して
納得できなかったら勝つ見込みがなくても戦うのが九州
表面だっては従うが心の中までは従っていないのが四国なのかなと。
肝心の中国は・・・・ううん、やねこいです。
意外と自分たちのことってわかりにくいなあと思います。
なので、今回の様に他所から見られた歴史観というのも
大いに勉強になりました。
先生のお話も面白かったので今度は別のテーマでも聞きたいです。
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Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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