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「小早川隆景と名島城・博多」感想

隆景講座、第2回は九州での隆景の動向について
主に名島城を軸にお話がありました。
講師は福岡市埋蔵文化財センターの大庭康時さん。
九州で大庭さん!と思ったんですが御出身は静岡・・・。
残念ながらあの大庭さんのご子孫関係ではなさそうでしたが
前回が四国、今回は九州と時系列的に繋がっているお話だったので
大変面白かったです。

考古学的な観点からすれば隆景が博多に入ったのは
中世というよりも近世への過渡期。
また、隆景の築いた名島城は歴史に埋もれて
地元の人ですら知らないが、とても大きな城であった。
今回は地元九州の人ですら知らないようなお話をするので
面白いなと思った方は是非九州へ
という感じで講座スタートでした。

まず、隆景と北部九州の関係ですが、
隆景が伊予を拝領した後、筑前へ入国して統治しますが
それ以前から北部九州と関係がありました。

天文23年 両川、門司城を攻めるが柳ヵ原の戦いで大友に敗北
天文24年 厳島合戦
永禄元年  門司城毛利方へ
永禄2年  大友軍門司城を攻めるも奪還ならず
永禄4年       上に同じ
永禄12年 立花山城の戦い


・・・?あれ?厳島合戦前に門司城攻めるなんて無理では??
だってまだ呉衆ですら服属してないのに??
あ、でも周防富田までは出兵できたのか・・・。
大友の記録なんでしょうか?初めて聞きました。
因みに詳細は
門司城を巡る大友と毛利の詳細は以前まとめていますのでこちらをどうぞ。

と、隆景は20代の頃から九州に関わりを持っていました。
が、永禄12年の戦いで一旦九州から手を引きます。
以上が毛利時代。
続いて豊臣時代。

天正14年6月 島津氏攻め決定

先生曰く、島津氏はかなり遅れてきた戦国大名で
1552年にようやく三家が1つにまとまり急拡大した家で
1572年 日向 木崎原の戦いで伊東に勝利
1577年      伊東氏を日向から追放
1578年 日向 耳川の戦いで大友に勝利
1582年 肥後 竜造寺と戦う
1584年 肥後 沖田畷の戦いで竜造寺に勝利
1586年 筑前侵攻 大友宗麟が秀吉に泣きつく


・・・大友宗麟が泣きつく・・・。まあそうですな。
私、子どもの頃はキリシタン大名興味あったんで
昔は好きだったんですがね、宗麟・・・・。

秀吉は大友宗麟の要請を受け九州攻めを決定。
天正14年
7月27日  岩屋城の戦い 島津勝利だが重臣が多く討たれた
8月24日  立花山城を攻めていた島津撤退。
10月4日  毛利勢小倉城攻略、勝利
12月12日 四国勢大敗、島津豊後府内まで攻め入る。

天正15年
秀吉九州入り。宇喜多と一緒に筑前から薩摩攻め
弟・秀長は豊後・日向攻め

6月7日   筥崎八幡宮にて九州国分け
        隆景は筑前1国、筑後2郡の37万石の領主に。

伊予拝領時よりも一挙に2倍近い37万石もの国高になった背景には
秀吉政権の重鎮として期待されていたからではないかと仰られていました。
九州で何か反乱があった時には隆景を大将として
中国の軍事力で鎮圧することを秀吉は考えていたのではないか。
実際、九州で反乱が起きた時には隆景の養子の秀包が大将として
鎮圧していったということがあると言われてでした。

・・・秀吉に睨まれていた様に前回の講座の話はなっていましたが、
うん、秀吉から話があっても温泉でのんびり湯治する子ですし、
どちらかというと秀吉に重用されているイメージだから
今回のはすんなり腑に落ちました。

(2)名島城
九州に入った隆景は立花山城にまず入りますが
立花山城は標高が高く、山城なので町から遠い。
そこで天正16年2月25日に名島城を築き、
立花山城には乃美宗勝を置きます。

名島城は「名島引け」といって、福岡城を作る際に
名島城のものは全て福岡城の材料にされたので
名島には何も残っていないと思われていたそうですが、
平成2年の調査で一段目の石垣を発見。
たった一段ですが、それでもすごいと驚かれたんだそうです。

・・・長政、ほぼ全て持っていったんじゃろうなあ。
福岡城の在りし写真があれば、
船叉木とかで分かりそうなもんですが。
   
他にも海に面した切りの塁線や角櫓の礎石、
大手口の登り口などが出てきたんだそうです。
ただ、切りの塁線の石垣も壊されており
一国一城令で破壊されたのか、
名島引けで持っていくために破壊されたのか、
どの道壊された城なんだそうです。

ですが、ここから出土した瓦に黒田の家紋である
藤巴紋が出てくるので黒田時代に改築した遺構も混じっているかもしれない。
という見解もあるんだそうです。
ただ、黒田が名島にいたのは1年間。
1年間でこれだけ大きな石垣を作れるだろうか?
と考えると隆景時代の可能性が高い。
と仰られてました。

現在では名島城の発掘調査をした場所は公園となっており、
本丸、隅櫓、大手口の遺構がそれぞれ残っているそうです。
また、二の丸公園の下にある崖は当時のままの崖。
三の丸団地は名の通り三の丸ですが跡形もなく、碑が立つのみ。
堀は現在は埋め立てられており、道路になっています。
そして城下町は大名町と呼ばれる筋が残っており、
講談で有名な石見重太郎の碑があるんだそうです。

石見重太郎は隆景の剣の師匠の息子とされ、
仇討で有名なんだそうです。

・・・・講談、聞いたことがないので聞いてみたいんですが
上方にいけば今でもしているんでしょうか?


で、福岡市で復元した名島城図
海に突き出た半島を活かし、
半島と島とを繋いだ海城。
ただし城下町は狭く、充分な広さはありませんでした。
長政が福岡城を築いた背景には城下町が狭いから
とも言われているんだそうです。

・・・・まあ、毛利さんとこの城は基本、
城下町は侍町が広く、商店街は小さいです。
商人中心で町づくりはしているのですが・・・・。

では、隆景は城下町にあまり力をいれていなかったのか?
名島ではなく、少し離れた場所にある箱崎を
城下町として構想していたのではないか?
というのも、隆景の時代、九州には
太閤道という秀吉遠征時に作られた道があるが
その道から外れた道が名島にはあるんだそうです。
名島と箱崎の間には大きな川が2つ流れており、
その河口には砂州が伸びていました。
川幅は200間、約360m。
当然当時の技術では不可能で、
ここに名島から箱崎間の橋をかける申請をした時に
黒田長政や毛利勝信、築城の名手である加藤清正ら三人から
あまりに川幅が広くて無理と判断
それを聞いた秀吉から直々に、
「川幅は広くて無理だし、普請も続いているから
 無理してかけなくていいよ。」

とまで言われたのですが。
・・・建築魂に火をつけられたのか、
無理だと言われれば言われるほどやってしまう性質なのか、
秀吉の気遣いなんて意にも介さず
「川幅広くて無理なら、両側から土橋を作り、
 川幅狭めればいいじゃないか。」

と1カ月で工事終了。
・・・。
で、隆景がそこまでして城と箱崎と結びたかったのは
当時の箱崎は戦災にあっていないため博多よりも栄えており、
秀吉も箱崎の浜でたびたび茶会を催した記録があるのだそうです。
なので、隆景としては名島ではなく箱崎を城下町扱いしていたから
難工事だと言われても、橋を渡す必要があったのではないか。
とまとめておられました。

隆景が色々と構想を練った名島城ですが、
先に述べたように現代ではほぼ痕跡がありません。
ですが、名島城の遺構と伝わる建物がいくつか残っております。
1つめが福岡城の名島門。
林家が持っていたものを後に平岡家が継ぎ、
戦後に福岡城に移されたもの。
2つ目は祟福寺の唐門
御殿の門だと伝わるのですが・・・・。
因みに祟福寺は黒田家の菩提寺。
3つ目は宗生寺の山門。
搦手門と伝わるんだそうですが、
名島城に搦手が見当たらない・・・・。
4つ目は正定寺の書院。
名島の御殿の一部と伝わり、
改装されて一部残っているそうですが
残された柱の間隔では畳を敷けないので
江戸時代以前の建築だと推測できるんだそうです。

・・・あとは福岡城の「梅に鴉図」でしょうか。
名島城のものと伝わるものの、
雲谷等顔の息子の作ではないかという説もありますし、
引き手は江戸初期に一度貼りかえられている痕跡もあって・・・。
と謎の尽きぬものではあります。

(3)博多復興と隆景
①朝鮮出兵に向けて
秀吉は朝鮮出兵を九州攻めの前から練っており、
九州平定後に早速、伝馬や飛脚を整備し、
兵糧の運びこみを行います。
これらは博多の商人に命じますが、
当時の博多は戦乱で焼かれ、荒廃し、
戦乱の被害の無い箱崎の方が栄えていました。
どれだけ戦禍に見まわれたかと言うと

天正6年 秋月氏らが博多侵攻・戦火で焼ける
   7年 すでに7000戸が復旧
   8年 竜造寺侵攻・戦火で焼ける
   9年 イエズス会の報告によれば、徹底的に破壊され
       次に島津が立花城を攻めたときも焼かれている。

そのため、博多の商人たちは箱崎などに疎開し、
有名な博多商人・神屋宗湛は唐津に逃げ、
秀吉に博多復興の支援を求めます。

因みに、竜造寺の時に博多は一番酷く破壊され、
イエズス会の報告によれば、先年の戦で焼け野原になり、
灰しか残っていないと表記されているそうです。
灰燼に帰す前の博多の町は、
沖の浜と本町(博多浜)という2つの町に分かれていたのですが
復興にあたり秀吉は2つの町を1つにまとめました。
この時に秀吉は道路を新しく付け替え、
太閤町割と呼ばれる都市計画で博多を復興します。

この計画はかなり細かく、東西を道できっちり区分けし
町屋の道路面は2間半、
上手は山側を向き、半間の通り間
を作る。
と規格化された町づくりを行いました。
この博多復興計画もやはり九州出兵前から考えられており、
九州攻めのすぐ後に博多の廃墟に生えていた草を刈り取り、
翌年11月には町割りを図を作らせるなど
大急ぎで進められました。
この時、筑前国主の隆景は町割りには参画していないものの
博多の町での乱暴狼藉を禁止したり、
分限は瓦拭きの家にするようになど細かい指示を出しています。
瓦拭きにこだわったのは秀吉の指示なのかもわかりませんが
指示は隆景、実行は博多商人と仕事を分担して
博多の復興は進められていきました。
因みにこの博多復興中に、隆景は名島の普請も行っていたそうです。



・・・・ああ、だから名島と箱崎の間に
無理して橋をかけなくていいよと言われたんですね。
それでも意地でもかけるあたりに隆景の建築マニアっぷりが伺えます。

因みに秀吉の指示ですが、商人のために経済優先の政策をとります。
このため博多に徳政を出さないなど商人を優遇していたのですが
朝鮮出兵を重視していたために博多には結構厳しい指示を出していたようです。
しかし、中央からの高飛車な指示は現場にそくしたものではなく、
隆景もそれをわかっていたので、秀吉の判断を鵜呑みにはせず
差出検地など緩めの判断を行い、まずは復興を優先に指示しています。
このため、隆景時代の頃は上手く行っていたのですが
次の秀俊の時代になると一変します。
秀吉は秀俊の下に自身の息のかかった側近・山口玄蕃を送りこみます。
玄蕃は秀吉の意に従い検地を行うのですが、厳しすぎたので反感をかいます。
この後、秀俊は筑前から越前に国替えになるのですが、
再び筑前に戻ってきた時に、全て隆景時代の統治に戻します。
玄蕃の厳しすぎる対応はもうやめ、隆景のした方法で行うと
神屋に書状で申し渡しているんだそうです。
隆景は中央からの高圧的な方法では上手くいかないことをよく分かっており
地元重視の領国経営を行ったのですが、それをわかって踏襲しようとした秀俊は
決して暗愚ではなかったのではいかと仰られていました。

・・・・まあ、東国ほど上から下への集権体制敷いていますが、
西国ほど横の関係重視な体制は現代でも感じるので
その違いが分かっているからこそ
隆景は統治をよくこなせていたのではないかなと思います。
上からの圧迫統治はまず西では通じません。
特に九州は・・・・。

さて、その後、秀俊は秀秋と名を変え、
関ヶ原の功により岡山へ移転すると黒田家が入ってきます。
黒田長政は名島城を引いて福岡城を作り、
この時名島の城下町もついてきたので
名島町という地名が残っているんだそうです。
そして、博多の町を堀で囲み、出入り口を4か所のみに絞ります。
また元々あった寺社地なども堀内の隅に置き、
郭の一部に利用し、町を城の中に囲いこみます。
こうすることで城としての機能を高める半面、
貿易で自由な気風の商人達の監視を強めました。
また、鎖国が始まったことにより国際貿易都市としての隆盛は失われ
形式的な自治は残るものの、博多は商人による自治都市としての気概を失い、
地方の1都市となってしまいます。

・・・・今でこそ博多は大きな町ですが
鎖国の時代に相当苦労したのか
明治時代の初期の人口は
熊本や鹿児島よりも少ないです。
外国との貿易都市として栄える町だというのが
統計上からもよくわかります。

(4)まとめ
①博多と隆景の統治の時代
隆景時代は大きな転換期。
博多の町は太閤町割りによる埋め立てなどで今までも町とがらっと変わる。
それは朝鮮出兵をにらんだ秀吉の意図。
その町割りの伝達は
秀吉→隆景→名島留守居衆→博多の町衆
となっており、名島留守居衆が
博多の商人らのトップである島井や神屋らに伝えられ
町づくりを実行したのは博多の町衆。
時には厳しすぎる秀吉の指示を隆景は現場裁量にして
博多は復興していった。

②名島城
中世的な城から近世への移行期。
筑前では中世城下町はなかったが、
名島は規模が小さいながら存在した。
ただし、近くに箱崎、博多のような商人町があり
名島の城下よりも箱崎や博多を城下町のような商業地の中心にした。
また、名島の城下町はメインストリート一本。
一本道を中心に両側に町が伸びるタイプの城下町は
長曽我部氏の岡豊城のような中世要素が強い町。
対して博多は碁盤目の近世的な面の町。
名島は同時代であるのになぜ中世の要素が強いのか?
土地が狭いから手を入れなかったのか?
商業地としての要素は博多や名島に任せていたからなのか?
なお、名島城から変わった瓦がでている。
中央の宝珠に挟まれた丸の中に「小」の字が篆刻されており
類例がない。

③地元優先の復興
隆景は寺社の保護に努めたり、
差出検地による申告制のゆるめの統治を行い、
町の経済復興を優先させた。
隆景が復興した寺社建築は
 ・大宰府本殿
 ・宗像大社拝殿
 ・筥崎宮楼門
→筥崎宮には名島城のしゃちほこと伝わるものがあったが現在行方不明
・・・・是非探して頂きたい。

因みに、寺社への崇敬が篤かったためか
聖福寺、宗生寺に隆景の墓と伝わるものがある。
家臣・乃美宗勝が立てた宗勝寺もある。

④博多の華やかな時期
鎖国前の国際都市として栄えていた時代だったが
江戸時代になると1商業都市に転落。
町も城に取り込まれ、自由のない平和へ。

という感じでした。
伊予から筑前へと前回から話が繋がっていたので
すんなり理解できたのですが、
伊予にしろ、筑前にしろ、
数年足らずの統治で寺社や城、町の復興など
常に働きづめだったことが分かりました。
それでもあえて困難な建築をしていたり、
独自の瓦や町、城など建築マニア魂がちらりと見えます。
何より、宣教師が
「隆景の統治は反乱がない。珍しいことだ。」
と評していたのは、現地優先の統治を博多に限らず
色々な所で行っていたからではないか。
そして現地優先のその統治はお父さんの元就の統治を
よく見ていたからではないかなと思いました。

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Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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