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四国攻めと隆景

秀吉の四国攻めの契機は、
長宗我部元親が土佐と伊予の2カ国を安堵してもらうことに
「異議あり!!」
唱えた隆景のせいで始まったんじゃないのか。
前にそうおっしゃられていた先生がいらっしゃって
どうなんだろうと疑問に思っていたのです。
まあ、道直時代から実質隆景領に近い状態なのと
休戦協定破って攻めてきたのは長宗我部の方なので
そりゃあ普通は激怒するだろうとは思うんですが・・・。

小早川家文書214号
書き下し文
「尚々、予州城々念を入り請け取らせ候て
 則渡らしこれ進めるべく候はば、この旨隆景へ御心得候て
 下されるべく候、別して向後馳走抽すべく候 以上

 佛殿表御陣替え就き、隆景より御懇札拝見候
 その表仰せの如く程近くに罷り成り候の条
 切々御意を得るべく候
 仍長宗我部事、種々御詫び言候はば、
 土佐一国にて御赦免成られ候
 それに就き予州の儀は御理もっとも候
 
 随分馳走致すべく候はば、御心安かるべく候
 先度は此の表杳々御越、御辛苦の至り候
 閑談において今本望候、委細隆景御報せに申し入り候の条
 然るべく御意預かり得るべく候、尚追って申し述べるべく候
 恐々謹言

 閏7月6日         秀長
 安国寺  御報」


私訳
「なおなお、伊予の城々は念入りに請け取り
 すぐにでも渡海して四国入りを進めるようにすべきですので
 隆景殿にもその心得をされるようにして下さるようにお願いします。
 今後も格別な忠をされるように 以上

 伊予の仏殿城周囲の戦いで陣替えをされたこと
 隆景殿からとても丁寧な手紙が届きましたので拝見しました。
 仏殿城周辺は仰られるように近くになっていますので
 どうか早く御意向を得るようにしてください。
 
 長宗我部のことについてですが、 
 色々と御詫び言を申してきましたので
 土佐一国にてご赦免されました。
 そういうわけですので伊予の事は隆景殿が言われたようにされるのが
 もっとも筋目が通っていると思われます。
 何とか言い分が通るように一生懸命努力しますので
 件のことはご安心ください。
 先だってはこちらの戦場まではるばるお越し下さり、
 さぞや御心労、御苦労なされたと思います。
 今回、ゆっくりと閑談できまして誠に嬉しく思います。
 詳しいことにつきましては隆景殿への御報せの中に
 申しておくようにしていますので
 よいように取り計らって頂き隆景殿から同意を得られるようしてください。
 なお、追って使者が申し述べることがあります。
 恐れながら謹み言上つかまつります。

 閏7月6日          羽柴秀長
 安国寺恵瓊  御報せ」


大和大納言こと羽柴秀長は秀吉の異父弟で
内政・外交面で活躍し、秀吉の右腕となった人物です。
兄を支えるために奔走する秀長と
甥を支える隆景。
両者は通じあうものがあったのか
有馬温泉で一緒に湯治したり
秀長危篤の時に大和までかけつけたりと
仲は良かったようです。

さて、今回の書状。
四国攻めのあった天正13年のもの。
四国攻めは7月17日に開始され
長宗我部氏が降伏したのは7月25日。
日付は閏7月6日なので長宗我部氏が降伏した報告と
降伏条件についての報せのようです。
この時毛利方は仏殿城を攻めていました。
仏殿城は四国中央市、伊予の中では最も東端。

ここを攻める前に金子氏を滅ぼしています。
芸土入魂を仲介した人物です。
狭間の国人だからこそ最後に一花咲かせて散った。
隆景も思うところがあったのか
「討つも夢 討たれるも夢 早くも冷めたり汝らが夢。」
と歌までおくり手厚く葬ったと伝えられています。

そしてそのまま東まで破竹の勢いで進撃。
仏殿城を攻めている時に長宗我部氏が降伏したため
陣を替えて今度は伊予の西へと向かいます。
西には義理の娘の「ゆづき」がおり、
隆景としては一国も早く進みたいところ。
秀長が「御懇札拝見候」と述べているので
手紙で西に向かうことを伝えていたようです。
讃岐に秀長が着陣しているので、
仏殿表まで攻めれば「其の表程近罷成候」
互いの陣が近くなるので「切々可得御意候」
この「御意」は最初秀吉かと思っていたのですが
後に「就其予州之儀御理尤候」から隆景のことではないかと訳しています。

「長宗我部事」の横に注釈で「曽×元親」とあるのですが
あれ?長宗我部が正しいんじゃないかって津野先生論じていらっしゃったけど
宗が間違い扱いにされてます。
まあ、それは置いといて「種々御詫事申上候間」
長宗我部元親は秀吉の四国攻めに対し、低姿勢で臨んだようで
斡旋叶って停戦命令が出されたようです。
なので長宗我部VS秀吉&毛利の戦いは一旦終結。
長宗我部氏は土佐一国で赦免。
伊予については「御理」、隆景の言い分が通り領有を認めることになった。
「随分可致馳走之間」「随分」「できるかぎり」の意味。
「馳走」は毛利家周辺では「戦の助力」ですが、
この場合は戦も終わっているので「奔走する」で訳しました。
秀長が伊予一国を隆景所有にするために奔走するので
安心して西へ向かって下さいとの意味合いではないかと思います。

最後に
「先度者此表沓々御越、御辛労之至候
 閑談於于今本望候」

「此表」が讃岐の秀長陣営なのか、それとも「四国攻め」をさすのか。
仏殿表が讃岐に一番近い陣なので、秀長に会いに行くとしたら
そこを落とした後なら可能でしょう。
ただ、仏殿表が終わってから西へ向かうという手紙を出しているので
仏殿表攻めの最中に会ったか、その前に会ったかになります。
恐らく圧倒的な兵力差だったと思いますので
攻めている最中でも余裕だったはずですが
さすがに大将が陣を離れるのは・・・・。
あー、でも多極戦が多かったので十分考えられるか・・・。
で、そこで「閑談」
「今本望候」は「今」が今一つわかりにくいのですが
あって話ができて楽しかったよ~。ぐらいの感覚だと思います。

「委細隆景御報に申入候之条
 可然御預御意得候」

この手紙は安国寺恵瓊宛て。
別の手紙(小早川家文書217号)に隆景宛ての秀長書状があります。

ううん、対長宗我部戦が終わっているのに
何で隆景は道後に向かったのか?
四国攻めの時点で伊予河野は長宗我部に与していたんでしょうか?
湯築城は結局、降伏勧告だけで済んでいます。
人質は・・・。あれ?取ったのでしょうか??
取るなら誰だろう・・・。
道直の妻矢野姫は輝元の姪。道直の母は輝元の従姉。
子どもはいませんので家族から人質が取れない・・・。
ううん、謎が深まりました。

他にも書状がこの時期の前後であります。
281号両川宛て、282号安国寺宛てに
秀長と対談して相談しろと書いてあるので秀吉の命で一旦合流したようです。
陣替えに関するのは390号の元春から年未詳8月7日経言宛て。
ううん、広家16歳ですから初陣だったのでしょうか?
それから401号秀吉書状に伊予国の諸城受け取りとあります。
・・・後の402号や403号は物凄く低頭な秀吉書状。
なんでこんな所に・・・?

470号に黒官&蜂須賀さん宛ての同様の手紙。
482号に秀次による金子攻めの感状。
465号に秀長による四国攻めの最終書状。
「長宗我部事(中略)悉可討果雖念願候」
長宗我部を悉く討ち果たすのが念願だったのに!!
・・・何したんですかい、長宗我部さん
  温和で知られる秀長さんを怒らすとは・・・。

で、今回のに一番近いのが551号。
天正13年6月18日と明記されています。

ううん、結構書状があちこち散乱しています。
この感じだと吉川家文書にもありそうですし、
たちまち順番を並べてみようと思います。
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主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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