毛利家文書289号「郡山合戦報告書の注進について」
四国を考える前にちょいと気になるものを見つけたので。
毛利家文書
書き下し文
「去る2月14日御状、委細拝見申し候
尼子陣退散の由御注進よりて則披露申し候
それにつき、毛利右馬頭方働き比類無き由
それ隠れ無き候。木左かたへ懇ろに注進候
其趣披露仕り候の所、御書成られ候
長政かた、巨細申されるべく
はたまた貴所今度御忠節比類無し旨、まずもって珍重候
この表事も、赤松殿仰せ合われ、近日其働き有るべく候
大内殿よりも、御懇使僧以て御申す儀に候
則御返事申され候、次爰元に相之御用の儀承る
疎意あるべからず候、猶委曲御同名甲斐守方申されるべく候
巨細あたわず候、恐々謹言
卯月21日 宍戸安芸守殿
御返報」
私訳
「2月14日の手紙ですが、つぶさに拝見しました。
尼子方が退散した報告をすぐに披露しました。
郡山合戦で尼子方を追い払ったことについて
毛利元就方の働きが比類ないことは隠しようもなく明らかなことで
木澤長政方に特に詳しく報告するように注進しました。
そのことについて披露された所、お手紙を書かれることとなりました。
長政方が大小のことを申されるでしょう
それからまた貴方がたの御忠節も比類なく、
まずもって素晴らしいことです。
こちらの戦も、赤松殿が参戦されると仰られたので
近日中に動きがあるだろうと思います。
大内殿よりも、使いの僧が丁寧に申しましたことについて
すぐに御返事をされました。
次にこちらに御用向きに合われるとのこと承ります。
疎意などありませんので、なお詳しくは同族の甲斐守から申すようにしています。
くどくど言わなくてもよいかと思います。恐々謹言
4月21日 宍戸安芸守殿
御返事」
毛利元就が郡山籠城日記をつけたのは有名ですが
その日記は幕府への提出用。
で、大内さん経由で幕府に提出していたのかなと思ったんですが
どうもこの書状を読む限り宍戸さん経由のようです。
宍戸元源は毛利元就の娘の婿のおじいちゃん。
・・・姻戚関係としては遠いんですが、
戦国武将には珍しくパジャマパーティーを元就さんとした逸話あるぐらいで
「水魚の交わり」と元就さんが手紙に記述したほど2人とも仲良しです。
今回の郡山合戦の活躍も、
「毛利元就の大活躍で尼子を追っ払ったんです!!」
と幕府に注進してくれたみたいで、
この手紙の書き手が木澤長政にそれを報告し、
手ずから御手紙を書かれたようです。
それが次の290号なのでまずはこの手紙の背景から。
「此表事」はおそらく手紙を出したほうでの戦。
赤松殿が援軍を待っているので播磨ではないかと思います。
そして赤松氏の敵とは尼子晴久。
当時の尼子さんは最大領土を抱え、全国でみても最大級の大名でした。
出雲・因幡・伯耆・隠岐・美作・備前・備後・備中・播磨・石見・安芸
の計11カ国に影響を及ぼすほどの大勢力です。
対する赤松晴政。
赤松氏は播磨守護で幕府要職者として山名さんとよくもめている家です。
この頃、赤松晴政は守護代浦上さんの下剋上により苦戦中。
そこへ尼子晴久が播磨に侵攻し、瞬く間に赤松氏を追い詰め
ついには追い出してしまいます。
天文6年から8年まで尼子氏に押されて赤松氏は勢力を回復できず、
播磨を離れることになりました。
なので、赤松さんとしては郡山城合戦の尼子敗退は千載一遇の機会。
播磨奪回に向けて動くことになったようです。
大内殿からも使者がきたというので、恐らくこの手紙の差出人は幕府関係者。
「相之御用」はよくわからなかったのですが何か用事があるんだろうと思います。
「不可有疎意候」なので少し頼みにくいことだったのかもしれません。
で、何故大内傘下のはずの宍戸さんが大内さん素っとばして手紙を書いているのか。
というか幕府のトップ官僚に取り次ぎができたのか。
幕府へのパイプは簡単です。
宍戸元源の弟とされる司箭院興仙は細川政元の側近のような扱いだったので
幕府管領細川氏と対立していた大内氏よりも宍戸氏のほうが幕府に近いです。
ただ、政元は永正4(1507)年に御風呂場で暗殺されているので
この天文10(1541)年時期の興仙が何をしていたかは不明です。
ただ、遣わされた僧の名前が堯仙なので興仙の弟子かと思われます。
そして「同名甲斐守」。普通は名字を書くはずで直前にも名が無いので
この同名とは宍戸のことかもしれません。
すると宍戸甲斐守は興仙かその息子の可能性があります。
政元亡き後も幕府要職者に近い位置で仕えていたのかもしれません。
ただ、何故宍戸元源が毛利元就の働きを注進したのか。
大内さんを通してないところがミソだろうと思います。
大内はまだ筑前・周防・長門・石見・安芸・備後に影響力があり、
大局的に見れば郡山合戦は大内VS尼子の局地戦に過ぎません。
勝ったのは大内と世間は見るでしょう。
命がけで戦って勝っても手柄は大内。
毛利も宍戸も安芸国人は大内の傘下であっても家臣ではありません。
大内から報告がある前に郡山合戦について報告したかった。
それも元就さんのことについて。
天文11年、この手紙書いた年に元源は亡くなっています。
かなりの高齢だったのではと思われます。
大内と尼子の狭間をいつまでも揺れ動く安芸国人の立場をどうにかしたい。
その打開策として幕府に毛利元就という人物をしってもらいたい。
幕府に届けられた手紙には強い思いが籠っていたのかもしれません。
さて、郡山合戦は安芸で起こった戦いですが、
その勝敗は播磨や京まで大きな影響を及ぼしたことが分かります。
290号「土佐・播磨・周防の殿さまたちと郡山合戦」
毛利家文書
書き下し文
「去る2月14日御状、委細拝見申し候
尼子陣退散の由御注進よりて則披露申し候
それにつき、毛利右馬頭方働き比類無き由
それ隠れ無き候。木左かたへ懇ろに注進候
其趣披露仕り候の所、御書成られ候
長政かた、巨細申されるべく
はたまた貴所今度御忠節比類無し旨、まずもって珍重候
この表事も、赤松殿仰せ合われ、近日其働き有るべく候
大内殿よりも、御懇使僧以て御申す儀に候
則御返事申され候、次爰元に相之御用の儀承る
疎意あるべからず候、猶委曲御同名甲斐守方申されるべく候
巨細あたわず候、恐々謹言
卯月21日 宍戸安芸守殿
御返報」
私訳
「2月14日の手紙ですが、つぶさに拝見しました。
尼子方が退散した報告をすぐに披露しました。
郡山合戦で尼子方を追い払ったことについて
毛利元就方の働きが比類ないことは隠しようもなく明らかなことで
木澤長政方に特に詳しく報告するように注進しました。
そのことについて披露された所、お手紙を書かれることとなりました。
長政方が大小のことを申されるでしょう
それからまた貴方がたの御忠節も比類なく、
まずもって素晴らしいことです。
こちらの戦も、赤松殿が参戦されると仰られたので
近日中に動きがあるだろうと思います。
大内殿よりも、使いの僧が丁寧に申しましたことについて
すぐに御返事をされました。
次にこちらに御用向きに合われるとのこと承ります。
疎意などありませんので、なお詳しくは同族の甲斐守から申すようにしています。
くどくど言わなくてもよいかと思います。恐々謹言
4月21日 宍戸安芸守殿
御返事」
毛利元就が郡山籠城日記をつけたのは有名ですが
その日記は幕府への提出用。
で、大内さん経由で幕府に提出していたのかなと思ったんですが
どうもこの書状を読む限り宍戸さん経由のようです。
宍戸元源は毛利元就の娘の婿のおじいちゃん。
・・・姻戚関係としては遠いんですが、
戦国武将には珍しくパジャマパーティーを元就さんとした逸話あるぐらいで
「水魚の交わり」と元就さんが手紙に記述したほど2人とも仲良しです。
今回の郡山合戦の活躍も、
「毛利元就の大活躍で尼子を追っ払ったんです!!」
と幕府に注進してくれたみたいで、
この手紙の書き手が木澤長政にそれを報告し、
手ずから御手紙を書かれたようです。
それが次の290号なのでまずはこの手紙の背景から。
「此表事」はおそらく手紙を出したほうでの戦。
赤松殿が援軍を待っているので播磨ではないかと思います。
そして赤松氏の敵とは尼子晴久。
当時の尼子さんは最大領土を抱え、全国でみても最大級の大名でした。
出雲・因幡・伯耆・隠岐・美作・備前・備後・備中・播磨・石見・安芸
の計11カ国に影響を及ぼすほどの大勢力です。
対する赤松晴政。
赤松氏は播磨守護で幕府要職者として山名さんとよくもめている家です。
この頃、赤松晴政は守護代浦上さんの下剋上により苦戦中。
そこへ尼子晴久が播磨に侵攻し、瞬く間に赤松氏を追い詰め
ついには追い出してしまいます。
天文6年から8年まで尼子氏に押されて赤松氏は勢力を回復できず、
播磨を離れることになりました。
なので、赤松さんとしては郡山城合戦の尼子敗退は千載一遇の機会。
播磨奪回に向けて動くことになったようです。
大内殿からも使者がきたというので、恐らくこの手紙の差出人は幕府関係者。
「相之御用」はよくわからなかったのですが何か用事があるんだろうと思います。
「不可有疎意候」なので少し頼みにくいことだったのかもしれません。
で、何故大内傘下のはずの宍戸さんが大内さん素っとばして手紙を書いているのか。
というか幕府のトップ官僚に取り次ぎができたのか。
幕府へのパイプは簡単です。
宍戸元源の弟とされる司箭院興仙は細川政元の側近のような扱いだったので
幕府管領細川氏と対立していた大内氏よりも宍戸氏のほうが幕府に近いです。
ただ、政元は永正4(1507)年に御風呂場で暗殺されているので
この天文10(1541)年時期の興仙が何をしていたかは不明です。
ただ、遣わされた僧の名前が堯仙なので興仙の弟子かと思われます。
そして「同名甲斐守」。普通は名字を書くはずで直前にも名が無いので
この同名とは宍戸のことかもしれません。
すると宍戸甲斐守は興仙かその息子の可能性があります。
政元亡き後も幕府要職者に近い位置で仕えていたのかもしれません。
ただ、何故宍戸元源が毛利元就の働きを注進したのか。
大内さんを通してないところがミソだろうと思います。
大内はまだ筑前・周防・長門・石見・安芸・備後に影響力があり、
大局的に見れば郡山合戦は大内VS尼子の局地戦に過ぎません。
勝ったのは大内と世間は見るでしょう。
命がけで戦って勝っても手柄は大内。
毛利も宍戸も安芸国人は大内の傘下であっても家臣ではありません。
大内から報告がある前に郡山合戦について報告したかった。
それも元就さんのことについて。
天文11年、この手紙書いた年に元源は亡くなっています。
かなりの高齢だったのではと思われます。
大内と尼子の狭間をいつまでも揺れ動く安芸国人の立場をどうにかしたい。
その打開策として幕府に毛利元就という人物をしってもらいたい。
幕府に届けられた手紙には強い思いが籠っていたのかもしれません。
さて、郡山合戦は安芸で起こった戦いですが、
その勝敗は播磨や京まで大きな影響を及ぼしたことが分かります。
290号「土佐・播磨・周防の殿さまたちと郡山合戦」
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