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元就さんを巡る出雲旅行~満願寺の椿~

元就さんが御手植えしたのは
温泉津の梅と満願寺の椿というのが分かってます。
・・・とは言うても
北の森の弟の墓標とか隆元の墓標は手植えしてそうじゃし、
月山富田の周りの柿の木の一本ぐらい接ぎ木してそうじゃし、
そもそも、あの時代に珍しい樹木葬しとって方ですし
「木を植えた男」を異名にしてもおかしうないぐらい
植樹しとるので他にもあるのかもしれんです。

で、温泉津の梅は1代目が枯れたので2代が側に
満願寺の椿のみ元就さんの御手植えとして残っています。
よっぽどこの椿を植えたことに思い入れがあるのか

春霞集にも
「まんくはん寺にて椿を見侍りて

 俤は 深山木なからはなそとも けさ白露の玉椿かな

 梓弓 春の光の玉椿 八千代もおなし盛りをやみゆ」


の2首あります。 
最も満願寺は吉田郡山城にもあったので、
2首ともが出雲のほうか安芸の方かは分からないのですが
玉椿~の方は広家も和歌で詠んでいるので出雲の方で間違いないようです。

で、行き方ですが、車ないので公共交通機関。
松江駅から授産センター行きのバスに乗って約30分。
本数は1時間に1本なので行き帰り時間も要確認しました。
「満願寺前」というバス停で降りればすぐです。

ローソンの奥に見える小高い丘。
そこに満願寺があります。

2まんがんじ

おお、さすが!椿がころんころんと出迎えてくれました。

まんがんじ

お寺の名前は金亀山。
・・・金亀って元清の幼名候補じゃなかったっけ?
まあそこは置いといて、階段てくてく上がるとお寺に着きました。

まんがんじ3

境内も椿の鉢植えが隙間なく並べてあり、お寺ですがとても華やかな感じです。
奥に大きな木があります。

まんがんじ10

まんがんじ4

ありました!
ぴょこんと一部伸びて見えていますが、これは途中で幹が折れてるから。
そんな状態でも元気に花を咲かせています。
恐らく第二次月山富田攻めの永禄5年~6年に植えたので
樹齢は約460年。

まんがんじ7

花をたくさん付けていました。
卯月になって行ったので若干花が色褪せてきていましたが
春の青い空に赤い椿の花が鮮やかに見えました。
お寺の方にお話を聞くと、やはり一番綺麗なのは冬。
「雪の降っている時が一番綺麗ですよ。」
と言われました。
・・・うん、綺麗じゃろうけど無理。冬の赤名峠は無理。
なので想像だけで楽しみました。
雪がしんしんと降る中、赤い椿と常緑の葉がさぞや美しかろうと。

きちんと句碑もあります。

まんがんじ5

「梓弓 春の光の玉椿 八千代もおなじ盛りをや見ゆ」

この椿が植わわっている満願寺は満願寺城という宍道湖の湖畔。
湖岸沿いに白鹿城があり、更に奥の山並みの中に月山富田城があります。
それを踏まえて歌意を取れば
「弓を鳴らし、今から敵に攻め入る。
 春の光の中で光る玉椿よ、
 私はこの戦に勝ち、何百年何千先年も
 この地で花が満開と咲くような平和な世をつくりに行く。」

と読めます。

元就さんにとって尼子は当主になった時から苦しめられた相手。
「俤は 深山木なからはなそとも けさ白露の玉椿かな」
歌が景色の通りであれば

「湖畔に植えたまだ若い椿だが、
 まるで深い山の中に生えているような花に見える。
 明朝の白露が付いている玉椿だなあ。」


ですが、「俤」「深山」「白露」を深読みすれば

「椿を見ていると弟の面影と重なる。
 深い山奥で大国の狭間で苦しんだあの時代。
 私の涙が夜の内に露となったのだろうか。
 植えた椿に今朝は白い露が落ちている。」

となるかなと。
三子教訓状を書き、兄弟の仲をおろそかにはしないようにと散々言っているのは
弟の元綱のことが響いているからとも言われますが、
30年近く経とうと心の中で引き摺っていたのが歌から分かります。
そして今から因縁の相手を倒しに行く。
だから「梓弓~」という珍しく武張った歌を詠ったのかもしれません。

更に近づくとお花が落ちていました。

まんがんじ9

まんがんじ8

意外にも八重咲きのかわいい椿でした。

で、玉椿という品種名になっているのですが、椿図鑑をネットで見た限りない。
しかも八重咲き・・・。
多分新品種?というよりも希少な原木の一種かなと思います。

西日本に多く自生するのはヤブツバキの品種で一重のすっきりした花です。
椿に限らず、園芸分野は江戸時代に盛んになったので
戦国時代の八重咲きはあまり例がないはず・・・。
でも、樹齢や寺社の由来からこの木が戦国時代なのは間違いありません。
とすると、この八重咲きの椿はどこから来たのか?
1種類目の椿図鑑を見ていると「龍門」という品種があります。
これは赤の八重咲きで、花弁の巻き方もほぼ同じ。
説明を見ると
「中国昆明植物研究所との学術提携 により、
 舞鶴自然文化園に導入され た唐椿」
ということは、昆明あたりの原生椿なのかもしれません。
で、調べると玉峰寺という1661年建立のチベット系寺院
天下一とされる椿があり、その写真を見ると花は八重咲き。
花をたくさんつける所もよく似ています。
枝の張り具合は世羅の椿に似ていて
太い幹から細い枝がいくつも分かれて派生しています。

んーでも、世羅の椿は一重・・・。
500年近くなった椿はみんな同じような樹勢になるのか?
でも、龍安寺の椿は樹高が高くひょろっと伸びるタイプの様ですし
そもそもが侘助なので一重。

ううん、考えられるのが途中で幹が折れたことにより
昆明や世羅のように円形にならなかった。
あるいは昆明の唐椿と日本のヤブツバキが混じって実生し、
ヤブツバキの樹高の高さ、唐椿の八重の特徴を備えたか。
残念ながら世羅の椿は枯れてしまったので検証のしようがないです。
枯れ始めるとあっという間だったらしいです・・・。
満願寺の椿も所々枯れてきている箇所がありました。
加えて今年は猛暑。
貴重な種だと思うので、できるだけ増やした方がよいと思うのですが・・・。
ううん。

あ、でもこの椿が昆明産もしくはヤブツバキとの混血種というのは十分ありえます。
元就さんの墓標のハリイブキも崑崙山脈が原種の木で日本には自生しません。
毛利氏は大内氏の跡を継いで勘合符を元に明との交易を開始しようとしたものの、
明の衰退や宗氏の妨害などにより上手くできなかったとされていますが、
江戸時代初期に輝元が太泥国(パタニ王国)との通商を求めていることを考えると
大内氏が交易していた寧波よりもさらに南の昆明や太泥まで足を伸ばしており、
大陸交易との交流を行っていたことと、元就さんの時代に少なくとも
昆明までは航路と通商路ができていたと思われます。

・・・毛利家あんまり物欲ないのか、南蛮渡来品がそんなにないんですよね。
「お城に行くなら浴衣で上がれ、お城は皆浴衣」
という歌が吉田に伝わるぐらいですし。
それに美術館で講演を聞いた時にも
歴代の藩主に熱狂的なコレクターがいなかった
と聞いたので血筋なんだろうと思います。

なので品が残ってないので南蛮交易をどの程度していたのかが分かりにくい。
一応厳島神社には、襟ぐりにレースをつけた陣羽織とか
孔雀の羽根をつけた甲冑とか、ビロードの鎧とかあるんですが
なんせ吉田郡山城が未発掘なので物も出てない。
でも、こうやって植物を見て行くと交流の証は残っているものだなと思います。
隆景のソテツも父の代から植物の輸入をしていたから扱いにも慣れており
秀吉から頼まれたのかもしれません。

・・・食糧になる柿を植えつつ出雲へ進軍し、
平和になったら花見ができるように輸入した椿を進軍前に植える・・・。
ある意味本当に「木を植えた男」だなあと。



参考サイト様
椿の図鑑
なごみの庭様
日本の椿リスト様
世羅の椿
和風景様
写真紀行風に吹かれて様
昆明の椿
年に一度は海外旅行様
アリヤン様
昆明の椿の花
中国バックパッカ―観光旅行記様


前 鰐淵寺の投げ入れ堂
続 満願寺城跡
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Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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