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毛利家文書290号「室町幕府の内部事情?」

毛利家文書290号
書き下し文
「堯仙書状

 はたまた軽妙候と雖も、折節現つ来たり候はば、油煙5挺進み入り候。
 いよいよ御満足の儀共遊ばれるべく候
 久河興見苦しき所に留まり申し候、面目失い候かな。
 さりながら、別して申し承るべき候はば、一世御縁よ存じばかり候。
 屋形より太刀参られ候、木左進み入り候、
 太刀馬代御使いへ渡し申し候

 未だ申し承らず候と雖も、先年別所方より申し伝え
 ただ今の御使い相越され候き、以てその筋目、
 河内興三次郎寄り御尋ね候の間、
 木澤長政方へ御音信の趣、慥申し聞き、
 御要害に於いて、毎度軍利得られ
 殊去る正月13日の雲州衆敗北せしめる由
 以て御一書御注進の旨、公儀奉り始め、
 右京兆、右金吾、佐々木霜台へ披露せしめ候の條
 比類なき御高名、末代の御名誉、天下静謐の基、
 珍重の由、もって直書き申され候はば、
 拙身迄も大慶に候。随分長政馳走致し候。
 それに就き、義隆の儀も別して申し談じ候。
 土州一條殿儀、これまた我々子細有り、入魂の御事共候。
 久しく御使い此方逗留候はば、御覧及ぶ義は、定めて演説申されるべく候。
 次播州の儀、赤松殿働き、家中衆の覚悟依って相揃わず
 今において然々敷き無くの候、涯分此方自り力相副え、
 異見申す儀に候、いよいよ其の方の儀示し合わされ
 戦功励むられるべき事、専ら用に存じ候。
 近日義隆、同陶五、杉民以下へ、使者以て申し入るべき用意候
 彼方より京都に至り差し上げられ候使い衆も、
 悉く此方へ案内在るの儀共候、
 向後は、差したる義無しと雖も候、
 宍戸方合い仰がれ、左京亮より御入魂あるべく候
 似合いの儀は、疎略に存ぜず馳走申し候様に、取り成し致すべく候
 我々方迄も、相應の儀は承るべく候。
 近国の儀は大略相談候て、何方の儀も届け申すべく候
 心の底残らず申し入る義、憚り入り候。
 去りながら、遠路の儀候はば、具さに啓せしめ候
 必ず深重奉り申すべく候。御同心本望為すべく候。
 猶河内興三次郎殿へ、申し候はば、省略しめ候
 恐々謹言

       5月20日        堯仙
       毛利右馬頭殿 
               御宿所」

私訳
「堯仙書状
 
 これまた丁度良い具合にとでも言いましょうか。
 そうは言ってもこれも時節到来というわけなのでしょう、油煙墨を5挺送ります。
 欲しがっていらっしゃったものですのでご存分にお使い下さればと思います。
 長い間、河内興三次郎殿のような狭くるしい所に
 使者を引きとどめてしまい、申し訳ありませんでした。
 そうは言いましても、一言申し上げさせていただくならば
 これも何かのご縁と思います。
 屋形様より太刀が届きましたので、木澤が受け取りました。
 太刀と馬は使者へ渡しました。

 こちらから初めて御手紙をさしあげることになりましたが、
 そうは言いましても、昨年別所氏から貴方の事を申し伝えてきたので、
 現在、使者の方が伝えに来らるより前に既に知っていました。
 ですので、河内興三次郎に
 木澤長政へ御報告があったことをしっかりと聞き、
 吉田郡山城にて、毎回勝利を得られ
 特に1月13日に出雲の尼子衆を敗北させたとのこと
 その報告を披露し、将軍・義晴は元より
 細川晴元、畠山在氏、佐々木定頼へも披露しました。
 比べることもできないほどの高名。末代までの御名誉となるでしょう。
 天下が静謐になる基となることですので、将軍自らが書を認めると
 これまた特異なことになりましたので、披露した私まで喜んでいます。
 詳しいことは木澤長政が駆け付けて述べるでしょう。
 
 そういうわけですので、大内義隆の事ですが、
 別件で話し合いを行い、土佐の一条殿の儀について
 これまた私たちに子細を説明下さり、同盟の事もありますし
 久しく使者を此方に留めておいたので
 お会いになる場合はきっと演説申し上げようと思います。

 次に播州のことですが、赤松殿の戦は家中衆の覚悟が揃わず
 はかばかしい動きができておりません。
 こちらからも援軍を出し、意見を申そうとは思いますが
 尼子を追い返したそちらとも連携しいきたいので、
 戦功に励むことが一番大事なのではないかと思います。
 
 近々、大内義隆、陶晴賢、杉民部少輔らへ使者を使わせて用意させます。
 山口から京都に在中していた使者からも
 ことごとくこちらへ案内がありました。
 今後は大した義理もないとはいえ
 宍戸氏と一緒に相談し合い、木澤長政とも同盟を組んでください。
 顔合わせなどのことはこちらでも疎かにはしませんので。
 我々のほうでも相応のことを行いましょう。

 近畿地方の状況については大まかなことについては
 どんなことについても知らせようと思います。
 本当に心底残らず申します。
 ただそうは言いましても遠いので詳しいことを知らせるのは
 間違いなどないように慎重にしなければいけないと思います。
 この事に賛成して頂きましたら本望にございます。
 なお、河内どのが申しますので詳しいことは省きます。
 恐々謹言
         5月20日        堯仙
       毛利右馬頭殿 
               御宿所」


「郡山城籠城日記」を提出した先は幕府で、
大内氏を通さずに宍戸氏が直接持ち込んだ。
というのが前回の書状からわかったことです。

なので、この書状は天文10年5月の事。
御宿所なので元就さんは戦中。
恐らく武田銀山城を攻めている頃です。

で、差出人の堯仙さん。
石清水八幡宮の狭山郷に関する書状が数点残るので
恐らく幕府の中枢にいる人だとは思いますが、
名からして宍戸興仙の弟子。畠山義堯からの偏諱だと思われます。

今回出てくる人物があまり安芸に馴染みのない人たちなので
簡単にまとめてみます。


木沢長政
河内畠山氏の家臣でありながら、管領細川家に取り入り
主家畠山を影から操った人。
乱世をとても巧みに生きていらっしゃる。
ただし、天文10年頃には畠山家中は遊佐氏が優勢で
10月には将軍義晴を擁立しようとして失敗。
天文11年3月の大平寺の戦いで没。

河内興三次郎
河内の畠山氏の一族かもしれない。

細川晴元、
細川吉兆家当主の座を細川高国と争った。
室町幕府の最後の管領だったかもしれない人。
晴元は阿波を拠点に近畿の高国を攻め入った。
分家の野洲家は尼子晴久に敗れ、備中から追い出されている。
播磨の赤松氏は高国を一緒に討った仲間。
近江の六角氏は山科本願寺を攻めた仲間だけど微妙。
家臣の三好は下剋上するのでおちおちしていられない。
この頃は三好同士で争っている。

畠山在氏、
畠山義堯の次代。畠山総州家当主。
三管領家の一つであったが内紛が勃発。
応仁の乱の引き金にもなった家。
越中・河内・紀伊守護。
家臣の木澤長政に傀儡政権にされているが
最近遊佐氏も台頭してきて家中は分裂気味。

六角(佐々木)定頼
近江守護。
尼子氏の本家筋にあたるが
尼子経久が本家より独立した動きを取ったため
仲は微妙。
永正4年、細川政元暗殺時に
大内氏に匿われていた義植が上京し将軍に復職。
定頼は政元に推戴されていた将軍・義澄を匿った。
その時に後に将軍となる義晴が生まれている。
天文3年、対立していた細川晴元と将軍義晴を仲介。
天文6年、晴元に猶子を嫁がせ義父となる。

将軍・義晴
近江で生まれ、播磨で育つ。
最初は赤松氏に養育されていたが、
赤松氏がライバル浦上氏との戦いに敗れ、
浦上氏の元へと渡る。
永正18年、前将軍義晴が京都を出奔したため
高国に呼び寄せられ、11歳で将軍に就任する。
大永7年、高国が晴元(この頃まだ六郎)に敗れる。
晴元は義晴の弟の義維を将軍に擁立していたため
朽木へ逃れ、若狭武田氏の武力を背景に対立
天文3年に晴元と和解し、京へ戻る。
天文10年秋の晴元と長政の戦いは中立。



・・・・えええと。何この魔窟?
元就さん謀が上手とか言われますが、
いや京都には遥かに及びません。
ていうか、宍戸のおじいちゃん(元源)の行動が分からない。
なんでこんなところに手紙を送らせようとしたのか。

とりあえず、分かるのは敵の敵は味方です。
六角氏は尼子の本家筋ですが、
勝手に独立されてあまりよく思っていない。
そもそも経久を一度追放してます。
細川氏は親しい分家が所領を追われている。
将軍義晴も縁ある播磨が荒らされている。
よって幕府の中枢の三人はあまり尼子氏を快く思っていない。
木澤さんが取り次ぎをしていたようですが
木澤さんはこの頃、家中で台頭してきた遊佐氏に追いおとされそう。
できるだけ味方を増やしておきたいところでしょう。

ということで、郡山城で尼子を敗退させたことは
幕府にとっても有意義なことだった。
幕府っていっても、義晴、晴元、定頼、長政だけで
動いているような状況なのでほぼ総意かと。
・・・まあ、そうは言ってもこの時期に尼子詮久に
「晴久」の偏諱を上げているので上手にやっているなと思います。

とはいえ、地方で起こった戦の1つに過ぎず、
本来一々幕府に報告しなくてもよいものなので
この4人に披露されたというだけで名誉。
加えて、将軍自ら親書をしたしめたので
破格の栄誉だと述べています。

・・・・。
まあ、細川高国なんて船岡山合戦を引き起こした当事者。
元就さんが城から追い出されて困窮することになったのも
安芸の国人達も京都遠征させられたのもこの人が関わっています。
一介の国人の次男坊からしたら天上人。
その高国と争い、討ち取った政元なんて声もかけれないほど
身分差が有ります。
なので将軍など恐れ多いでしょうに今回は特別に親書まで
したためるほどお喜びですよと言われてもしようがない。
・・・まあ、本来、大内氏を通さなければ奏上できないので
それは仕様がないんですが、
畿内しか掌握してないのに幕府かなり上から目線じゃな。

そして唐突に出てくる「土佐一條殿」。
大内氏と一條氏は親戚関係。
この頃の土佐一條氏は一条房冬。
天文10年11月に病気で亡くなるので、
病床から幕府との連携を強め、家中を統率しようとしたのかもしれません。
実際、天文11年に謀反が起きてるようですし。
ただ、この入魂が毛利氏なのか大内氏なのか幕府なのか。
そこがよくわからないです。
大内氏とはこの時、房冬の息子が時期当主なので
入魂を改めて申すまでもない。
ですが、大内氏に従っている毛利氏と入魂するような家格でもないので、
ここはやはり幕府、讃岐・阿波を治める細川氏
と考えるのが筋かなと。

なので、四国は土佐と阿波・讃岐が結びつき、
播磨は赤松氏が苦戦中。
安芸と播磨から挟撃して尼子を追い払うべき、
そのことは大内氏や陶、杉にも伝えるので
これからも宍戸氏と木澤長政を通じて
幕府とやり取りをしてほしいというのが本音でしょう。

既に全国を治めるほどの実力もなければ
近畿すら同族争いで分裂。
少しでも権威をつけようと必死なのかもしれません。

で、毛利側のメリット・・・。
現況は武田銀山城を攻めて・・・。
ああ、なるほど、若狭武田か!

若狭武田氏の武田元光は足利義晴の懐刀で
六角定頼と一緒に近畿を戦場として動き回り
将軍からの信頼も厚い人物
その息子の信実は安芸武田の光和亡き後
最後の当主として安芸に入ります。
この書状が出た時には出雲に逃れていますが
武田金山城は元々若狭に移る前に武田が本領を置いていた地。
それを無断で攻め滅ぼすのはまずい。

大内氏経由で伝えるよりもより早く確実な
宍戸さん経由のほうが奏上しやすい。
元源さんは元就さんと「水魚の交わり」ですので
幕府を背後に背負う武田に対抗するため、
わざわざ元就さんに一筆書かせたのかもしれません。

畿内情勢は疎いのでどこまであっているかはわかりませんが
郡山籠城日記とされる記録集は
将軍に披露する目的で作られたのだなあと思いました。
その割には事務的で、もっと話を盛ればいいのにと思いますが。
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トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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