「親父の言うことを聞いてくれ」吉川元春の教訓状
毛利元就の書状で一番長いのは俗にいう三子教訓状ですが、
子は親の鏡というか何と言うか元春も隆元も輝元も同様に
息子達に教訓状や諌め文を書き残しています。
中でも元春は父・元就超えの7m近く。
元就さんの手紙は長いとよく言われ、
読む側の息子も大変だったろうとされますが、
その息子達も自分の息子達に同様のことをしています。
なので、大儀いとは思わずに素直に言うことを聞ける方法だと
認識していたのかもしれません。
以下、がんぼったれの広家(元棟)とよく喧嘩している兄の元棟への教訓状を
長兄元資(元長)へ送った手紙。
吉川家文書1221号 240p
書き下し文
元春の状
「もと資御返 申給へ
もと春
返す返す、失念も候はんと存じ候。御すいりやう候て御よみ候へく
此の状御返し候へく候
少しの儀付きてこれ承る通り、その心得候
その御事我等彼のものに何共申す儀も之無く候
御方内々御存知のように、物毎気任に仕候て
餘公儀も内儀も従者一理罷りなり候やうに候間
その段然るべからず之通り申す事候、
早17・8に罷りなり時は、
思案遠慮もこれ有るべきの程候ところ
心なし様に人も申し沙汰し、
吉田などにもさよう思し召し候へば
何を申し候て曲無き候、
我等童部の時は、
寔主人にもまた親にも日頼をおそろしく存じ
何事も仰せ候ようにとばかり存じ候
輝元はさようには仰せ聞き候ましく候
時にはふきようの親にて候へはとて
申すべきことは縦心にはあたわぬ分別事
おかしきように候共、
君臣親子師弟のさほうまで候あひだ、
さのみあなくり候事は有るまじき事候
この間中も、我等よりてを入り候て
分別なき者に申し候べき事は一向あるましく候
彼者我等申し候こと余儀無く存じ
致し納得申し候は、尤もしかるべく候
我等目のまへえ罷り出まじく共申し聞かず
彼者心のまま次第に候
何となりともなり次第に仕るべくとの我等心事候
異見立ても申しまじく候と執り置き候
かように存じ候事も、
子候へはよきようにとこそ存じ候から
笑止にさの事に付きの申し事候
少しの事我等何をかとにくみ候はん事もこれ無き候
その身きすがたわにもうまれつき候へは
我等心中にはうれしくこそ存じ候。
その心持悪しき候事は、
我等せつとく申し候はては、
他人に申すべき事候か、
親の目にさへせうしと見候からは
他人のためにはさそと申し候事も
かように申し候事を
我等へみひかみ候て申すようにとりさた候はんと存候
只今社さように申し候共
元棟為には以て連々当存ずべく候はん思し候
彼者以て後まで涯分心持直し候はんと申し候ように
仰せおとされ候て然るべき候
この間中も、我等存じ候所は一向いたます候て
なお以ていたつら者になりふし候
我等せっかん候て置き候ところ
侍ども存ぜず、まり共けありき候て
一段心安く身持ちのように心得候かな
是非に及ばず候と存じ居り候
かように申し聞き候事も、
彼の身退きよく候ようにと申し事候
次第別には誰申すべく候やと存じ申しこと候
以てこの上於いては御方承り候ように
我等事其の心得なし候へく候
くわしく申したく候へども
てふるひ候てかかれす候まま
さり乍ら次申したくこと共、申し得ず候。吉事。
卯月九日 もと春
もと資ら御返し申したまへ」
私訳
「元資へ返却するように伝えてください
元春」
「返す返す、忘れてはいけないと思ってください。
私の心中を察して読んでほしいと思います。
この手紙は私まで返してください。
ちょっとしたことだがこれから言うことをよくよく心得てほしい。
例の件だが、元棟にも何度もいっているのだが、ちっとも良くならない。
お前もよく知っているように、あいつは物事を気ままに考えている。
あげく、公の事も内々の事も、1つの事を知ったら
それしか基準にせずに判断するようになってしまったが
そういうことではいけないと私も言っている。
もう17・8歳になるのだから、
思案遠慮ということもできるようになるべきであるのに、
いつまでもそのような具合なので
先行き心配だと人の噂にもなっている。
吉田の本家からもそう思われてしまっては、
いくら親戚だからといっても
何を言っても、もうどうにもならなくなるだろう。
私が子どもの頃は、
城主として父親として父・元就のことを畏れていた。
何事も仰ったようにしなければいけないとばかり思っていた。
輝元は父・元就の事をその様に思ってはいなかっただろうが。
時には親として力不足だから
私の言っていることが
例え心の中では納得できずおかしいと思うこともあるかもしれないが
主君と家来、親と子、師匠と弟子の作法なのだから
何を訳のわからないことを言っているのだと
侮るようなことは決してしてはいけない。
このように、私がわざわざ手をかけて手紙を送っているのは
分別のない愚かな者に言いたい事は全くないからで
お前がそうではないと思っているからなのだ。
元棟は私から言いたい事を十分にわかったようで
納得したと言ってきたが当然のことだろう。
私の目の前に出頭しにくいとかそんなことを
言ってきても私は聞かない。
あいつの心に任せることにする。
どうなろうとなるようにしかならないかもしれないが
きちんとできるはずだと私は思っている。
異論は申すべきではないと言い伝えている。
こんなことを言うのもお前が私の子どもだからこそ
良くなって欲しいと思っているからなのだ。
だから今回のことを笑止千万と言うことが無いように
少なくとも私を憎むようなことは無いように。
あなたが五体満足で生まれてきたので
私は心より嬉しく思っているのだ。
だから人として間違ったことをすれば
私はお前たちを説得したりするのだ。
そんなことを赤の他人にしたりするものだろうか。
しないということはわかるだろう。
親の目にもおかしいと思うようなことなのだから
他人からみたらもっと変だと思うようなことも
このように小言をいったりすることも
私が貴方を僻んでいるから言っているのだと
そう受け取らないようにと思っている。
今、社(?)がこんな風に言ってるのも
元棟の為にも、もっとたくさん戒めなければいけないと思うからなのだ。
あいつは今ここで身分にあった相応しい心持ちを直さないといけない
と威しつけられても当然の行いをしている。
このあいだも、私が知っている所では一向に堪えておらず
もっといたずら者になっているようだ。
私が説教していたのに、
侍には相応しくない蹴鞠などもしていたようで
前よりもいっそう酷く身分のことなど軽く心得ているようだ。
もうどうにも仕様がないと思っているところだが
こんなふうに悪いことを色々と聞くが
あいつ自身が物事を弁えて一歩退くようにと言っている。
次第に言いたくなくなってくるが、それでも私の他に
誰があいつに注意をするのかと思うとそうも言ってられない。
そんな状態だから、この上はお前にもあいつに注意をしてほしい。
わたしには上手く説得する心得がないのだが
詳しく申したくても、手が震えて書くことができないので
まだ言いたいことがあってもいうことができない。
4月9日 元春」
・・・長い
「くわしく申度候へ共、てふるひ候てかかれず候まま」
とあるので腱鞘炎になったのもむべなるかなです。
現物は何メートルあるのか今度吉川史料館で見てみようと思います。
そしてこんだけ長いのにほとんど話題が次男元棟のこと。
宛名は長男元資なんじゃけど・・・。
元春は元棟(のちの元氏)に手を焼いていたらしく
他にも色々と説教状が残ってます。
まあ、律儀に残している広家も広家ですが・・・。
で、元棟が17・18才ぐらいなので天正4~5年ぐらい。
織田との戦争が始まりそう、あるいは開始しているぐらいの時期です。
この頃は毛利有利で戦況が進んでおり,
天正4年の木津川合戦は大勝利でした。
しかし、そうはいっても戦で大忙し。
長男の元長に次男の教育を頼んだようです。
こんな時期に説教くらうようなことするって
元棟はいったい何をやらかしたんでしょうか・・・・。
元春曰く「物毎気任に仕候」らしいです。
「餘公儀も内儀も従者一理に罷成候やうに候間」
・・・何とかの一つ覚えという諺がありますが、うん。
他にも
「いたずら者になりふし」
「侍共不存、まり共けありき候て」
と元棟の行動を歎いています。
・・・武士はサッカー禁止
広家の場合は蹴鞠の最高位の免状貰ってるので将来役に立ちます。
元棟がしていたということは広家も一緒に兄弟でしていたんでしょうか。
元春は館造りに見られるように伝統的なことにこだわるタイプ。
よって武士らしくあるべきという考えが強かったようです。
ですので元春は自分は至らない親かもしれないが
「君臣親子師弟のさほうにて」
説教を聞いて欲しいと説いています。
「我等童部の時は、真に主人にもまた親にも
日頼をおそろそく存、何事も仰候ようにとはかり候」
「わしだって、子どもの頃には父上をおそれていたんだぞ!
言われたことは何でも言うこと聞かなければと思っていたんだ。」
・・・・・えええ!ほんまに!?
いやいや,熊谷さんとの結婚話とか益田さんの件とか
結構自分勝手に動いて父上から怒られてますよね??
いや、元春的には父上のお役に立つと信じてたのかもしれません。
・・・大分空回りしている感ありますけど。
「輝元はさようには被仰聞候ましく候」とあり
「同じように父・元就と一緒に暮らしていても
輝元はそんなふうには思っていないだろう。」
とわざわざ書いています。
ようは「昔の父上は厳しかったんだぞ!」と言いたいんだと思います。
逆に言えば、今は孫に優しいおじいちゃんになっている。
ということでしょう。
元棟はあまりおじいちゃん大好きエピソードが残っていないのですが
広家は祖父・元就のことが大好きだったようで、
和歌で祖父を偲んだり,関ヶ原の時には祖父から貰ったお守りを持って行ったりと
おじいちゃんっ子だったようです。
元春もそれがよく分かっていたようで他の説教状にも
事あるごとに父・元就の名を出して説教しています。
あと元春口下手だったんでしょうか。
書状なのに所々話がつながってない感じです。
頭で思いつくままにばばっと書き尽くしている感じで
相当広家のことが心配だったのだなあとわかります。
今回訳しにくかった言葉が
「きすかたわ」。
「傷」と「かたわ」という意味であれば
障害という意味なのかと思うのですが
「其身きすがたわにもうまれつき候へは
我等心中にはうれしくこそ存候」
否定する言葉が無いので妙なことになります。
なので五体満足という言葉で濁しました。
それから「折檻」。
そのままの「折檻」で意味を捉えるとおかしいのです。
「我等折檻候て置候」
このまま訳せば、
折檻している最中に蹴鞠したということになり
とんでもなく大物になりますが、多分そうではない。
とすると折檻は「きびしく意見すること」(古語辞典より)
の意味のほうで「説教」と訳するほうがよいのかなと思います。
・・とすれば輝元の手紙に出てくる「せっかん」も「説教」
になるのではないかなと思います。
「折檻」は今では叩くなどの体罰を伴うものですが
そもそも体罰するような家だったらこんなに長い手紙なんか書きません。
・・・色んなご家庭を知っているだけにそれは保証できるかと。
力技ではなく言葉で心を動かそうというのは書状の中からも読みとれます。
「我等よりてを入り候て、分別無き者に申し候へき事は一向あるましく候」
「こんなふうに手をいっぱいかけているのはどうしてだと思う。
何を言っても理解できない愚かな子にはこんなことは絶対に言わない。
できる子だと信じているから言うのだ。。」
「かように存候事も、子候へはよきようにとこそ存じ候から」
「こんなことを言うのも、あなたが私の子どもだから言うのだよ。」
「かように申候事を我等へみひかみ候て申しようにとりさた候はんと存候」
「お前のことが憎くて叱っているわけじゃないんだ。それはわかってくれ。」
・・・わりと現代でも親が子を叱る時に言うセリフだなあと思います。
元春の親として一生懸命な気持ちがひしひしと伝わってくる書状だなと思います。
しかし、親の心子知らず。
この手紙を以てしても元棟はなかなか改心せず、
すぐ下の弟の広家と喧嘩をしょっちゅうしていました。
困った元春は父・元就のように「三子教訓状」を作ることを思い立ちました。
次・元春の三子教訓状
子は親の鏡というか何と言うか元春も隆元も輝元も同様に
息子達に教訓状や諌め文を書き残しています。
中でも元春は父・元就超えの7m近く。
元就さんの手紙は長いとよく言われ、
読む側の息子も大変だったろうとされますが、
その息子達も自分の息子達に同様のことをしています。
なので、大儀いとは思わずに素直に言うことを聞ける方法だと
認識していたのかもしれません。
以下、がんぼったれの広家(元棟)とよく喧嘩している兄の元棟への教訓状を
長兄元資(元長)へ送った手紙。
吉川家文書1221号 240p
書き下し文
元春の状
「もと資御返 申給へ
もと春
返す返す、失念も候はんと存じ候。御すいりやう候て御よみ候へく
此の状御返し候へく候
少しの儀付きてこれ承る通り、その心得候
その御事我等彼のものに何共申す儀も之無く候
御方内々御存知のように、物毎気任に仕候て
餘公儀も内儀も従者一理罷りなり候やうに候間
その段然るべからず之通り申す事候、
早17・8に罷りなり時は、
思案遠慮もこれ有るべきの程候ところ
心なし様に人も申し沙汰し、
吉田などにもさよう思し召し候へば
何を申し候て曲無き候、
我等童部の時は、
寔主人にもまた親にも日頼をおそろしく存じ
何事も仰せ候ようにとばかり存じ候
輝元はさようには仰せ聞き候ましく候
時にはふきようの親にて候へはとて
申すべきことは縦心にはあたわぬ分別事
おかしきように候共、
君臣親子師弟のさほうまで候あひだ、
さのみあなくり候事は有るまじき事候
この間中も、我等よりてを入り候て
分別なき者に申し候べき事は一向あるましく候
彼者我等申し候こと余儀無く存じ
致し納得申し候は、尤もしかるべく候
我等目のまへえ罷り出まじく共申し聞かず
彼者心のまま次第に候
何となりともなり次第に仕るべくとの我等心事候
異見立ても申しまじく候と執り置き候
かように存じ候事も、
子候へはよきようにとこそ存じ候から
笑止にさの事に付きの申し事候
少しの事我等何をかとにくみ候はん事もこれ無き候
その身きすがたわにもうまれつき候へは
我等心中にはうれしくこそ存じ候。
その心持悪しき候事は、
我等せつとく申し候はては、
他人に申すべき事候か、
親の目にさへせうしと見候からは
他人のためにはさそと申し候事も
かように申し候事を
我等へみひかみ候て申すようにとりさた候はんと存候
只今社さように申し候共
元棟為には以て連々当存ずべく候はん思し候
彼者以て後まで涯分心持直し候はんと申し候ように
仰せおとされ候て然るべき候
この間中も、我等存じ候所は一向いたます候て
なお以ていたつら者になりふし候
我等せっかん候て置き候ところ
侍ども存ぜず、まり共けありき候て
一段心安く身持ちのように心得候かな
是非に及ばず候と存じ居り候
かように申し聞き候事も、
彼の身退きよく候ようにと申し事候
次第別には誰申すべく候やと存じ申しこと候
以てこの上於いては御方承り候ように
我等事其の心得なし候へく候
くわしく申したく候へども
てふるひ候てかかれす候まま
さり乍ら次申したくこと共、申し得ず候。吉事。
卯月九日 もと春
もと資ら御返し申したまへ」
私訳
「元資へ返却するように伝えてください
元春」
「返す返す、忘れてはいけないと思ってください。
私の心中を察して読んでほしいと思います。
この手紙は私まで返してください。
ちょっとしたことだがこれから言うことをよくよく心得てほしい。
例の件だが、元棟にも何度もいっているのだが、ちっとも良くならない。
お前もよく知っているように、あいつは物事を気ままに考えている。
あげく、公の事も内々の事も、1つの事を知ったら
それしか基準にせずに判断するようになってしまったが
そういうことではいけないと私も言っている。
もう17・8歳になるのだから、
思案遠慮ということもできるようになるべきであるのに、
いつまでもそのような具合なので
先行き心配だと人の噂にもなっている。
吉田の本家からもそう思われてしまっては、
いくら親戚だからといっても
何を言っても、もうどうにもならなくなるだろう。
私が子どもの頃は、
城主として父親として父・元就のことを畏れていた。
何事も仰ったようにしなければいけないとばかり思っていた。
輝元は父・元就の事をその様に思ってはいなかっただろうが。
時には親として力不足だから
私の言っていることが
例え心の中では納得できずおかしいと思うこともあるかもしれないが
主君と家来、親と子、師匠と弟子の作法なのだから
何を訳のわからないことを言っているのだと
侮るようなことは決してしてはいけない。
このように、私がわざわざ手をかけて手紙を送っているのは
分別のない愚かな者に言いたい事は全くないからで
お前がそうではないと思っているからなのだ。
元棟は私から言いたい事を十分にわかったようで
納得したと言ってきたが当然のことだろう。
私の目の前に出頭しにくいとかそんなことを
言ってきても私は聞かない。
あいつの心に任せることにする。
どうなろうとなるようにしかならないかもしれないが
きちんとできるはずだと私は思っている。
異論は申すべきではないと言い伝えている。
こんなことを言うのもお前が私の子どもだからこそ
良くなって欲しいと思っているからなのだ。
だから今回のことを笑止千万と言うことが無いように
少なくとも私を憎むようなことは無いように。
あなたが五体満足で生まれてきたので
私は心より嬉しく思っているのだ。
だから人として間違ったことをすれば
私はお前たちを説得したりするのだ。
そんなことを赤の他人にしたりするものだろうか。
しないということはわかるだろう。
親の目にもおかしいと思うようなことなのだから
他人からみたらもっと変だと思うようなことも
このように小言をいったりすることも
私が貴方を僻んでいるから言っているのだと
そう受け取らないようにと思っている。
今、社(?)がこんな風に言ってるのも
元棟の為にも、もっとたくさん戒めなければいけないと思うからなのだ。
あいつは今ここで身分にあった相応しい心持ちを直さないといけない
と威しつけられても当然の行いをしている。
このあいだも、私が知っている所では一向に堪えておらず
もっといたずら者になっているようだ。
私が説教していたのに、
侍には相応しくない蹴鞠などもしていたようで
前よりもいっそう酷く身分のことなど軽く心得ているようだ。
もうどうにも仕様がないと思っているところだが
こんなふうに悪いことを色々と聞くが
あいつ自身が物事を弁えて一歩退くようにと言っている。
次第に言いたくなくなってくるが、それでも私の他に
誰があいつに注意をするのかと思うとそうも言ってられない。
そんな状態だから、この上はお前にもあいつに注意をしてほしい。
わたしには上手く説得する心得がないのだが
詳しく申したくても、手が震えて書くことができないので
まだ言いたいことがあってもいうことができない。
4月9日 元春」
・・・長い
「くわしく申度候へ共、てふるひ候てかかれず候まま」
とあるので腱鞘炎になったのもむべなるかなです。
現物は何メートルあるのか今度吉川史料館で見てみようと思います。
そしてこんだけ長いのにほとんど話題が次男元棟のこと。
宛名は長男元資なんじゃけど・・・。
元春は元棟(のちの元氏)に手を焼いていたらしく
他にも色々と説教状が残ってます。
まあ、律儀に残している広家も広家ですが・・・。
で、元棟が17・18才ぐらいなので天正4~5年ぐらい。
織田との戦争が始まりそう、あるいは開始しているぐらいの時期です。
この頃は毛利有利で戦況が進んでおり,
天正4年の木津川合戦は大勝利でした。
しかし、そうはいっても戦で大忙し。
長男の元長に次男の教育を頼んだようです。
こんな時期に説教くらうようなことするって
元棟はいったい何をやらかしたんでしょうか・・・・。
元春曰く「物毎気任に仕候」らしいです。
「餘公儀も内儀も従者一理に罷成候やうに候間」
・・・何とかの一つ覚えという諺がありますが、うん。
他にも
「いたずら者になりふし」
「侍共不存、まり共けありき候て」
と元棟の行動を歎いています。
・・・武士はサッカー禁止
広家の場合は蹴鞠の最高位の免状貰ってるので将来役に立ちます。
元棟がしていたということは広家も一緒に兄弟でしていたんでしょうか。
元春は館造りに見られるように伝統的なことにこだわるタイプ。
よって武士らしくあるべきという考えが強かったようです。
ですので元春は自分は至らない親かもしれないが
「君臣親子師弟のさほうにて」
説教を聞いて欲しいと説いています。
「我等童部の時は、真に主人にもまた親にも
日頼をおそろそく存、何事も仰候ようにとはかり候」
「わしだって、子どもの頃には父上をおそれていたんだぞ!
言われたことは何でも言うこと聞かなければと思っていたんだ。」
・・・・・えええ!ほんまに!?
いやいや,熊谷さんとの結婚話とか益田さんの件とか
結構自分勝手に動いて父上から怒られてますよね??
いや、元春的には父上のお役に立つと信じてたのかもしれません。
・・・大分空回りしている感ありますけど。
「輝元はさようには被仰聞候ましく候」とあり
「同じように父・元就と一緒に暮らしていても
輝元はそんなふうには思っていないだろう。」
とわざわざ書いています。
ようは「昔の父上は厳しかったんだぞ!」と言いたいんだと思います。
逆に言えば、今は孫に優しいおじいちゃんになっている。
ということでしょう。
元棟はあまりおじいちゃん大好きエピソードが残っていないのですが
広家は祖父・元就のことが大好きだったようで、
和歌で祖父を偲んだり,関ヶ原の時には祖父から貰ったお守りを持って行ったりと
おじいちゃんっ子だったようです。
元春もそれがよく分かっていたようで他の説教状にも
事あるごとに父・元就の名を出して説教しています。
あと元春口下手だったんでしょうか。
書状なのに所々話がつながってない感じです。
頭で思いつくままにばばっと書き尽くしている感じで
相当広家のことが心配だったのだなあとわかります。
今回訳しにくかった言葉が
「きすかたわ」。
「傷」と「かたわ」という意味であれば
障害という意味なのかと思うのですが
「其身きすがたわにもうまれつき候へは
我等心中にはうれしくこそ存候」
否定する言葉が無いので妙なことになります。
なので五体満足という言葉で濁しました。
それから「折檻」。
そのままの「折檻」で意味を捉えるとおかしいのです。
「我等折檻候て置候」
このまま訳せば、
折檻している最中に蹴鞠したということになり
とんでもなく大物になりますが、多分そうではない。
とすると折檻は「きびしく意見すること」(古語辞典より)
の意味のほうで「説教」と訳するほうがよいのかなと思います。
・・とすれば輝元の手紙に出てくる「せっかん」も「説教」
になるのではないかなと思います。
「折檻」は今では叩くなどの体罰を伴うものですが
そもそも体罰するような家だったらこんなに長い手紙なんか書きません。
・・・色んなご家庭を知っているだけにそれは保証できるかと。
力技ではなく言葉で心を動かそうというのは書状の中からも読みとれます。
「我等よりてを入り候て、分別無き者に申し候へき事は一向あるましく候」
「こんなふうに手をいっぱいかけているのはどうしてだと思う。
何を言っても理解できない愚かな子にはこんなことは絶対に言わない。
できる子だと信じているから言うのだ。。」
「かように存候事も、子候へはよきようにとこそ存じ候から」
「こんなことを言うのも、あなたが私の子どもだから言うのだよ。」
「かように申候事を我等へみひかみ候て申しようにとりさた候はんと存候」
「お前のことが憎くて叱っているわけじゃないんだ。それはわかってくれ。」
・・・わりと現代でも親が子を叱る時に言うセリフだなあと思います。
元春の親として一生懸命な気持ちがひしひしと伝わってくる書状だなと思います。
しかし、親の心子知らず。
この手紙を以てしても元棟はなかなか改心せず、
すぐ下の弟の広家と喧嘩をしょっちゅうしていました。
困った元春は父・元就のように「三子教訓状」を作ることを思い立ちました。
次・元春の三子教訓状
スポンサーサイト