FC2ブログ

「小早川隆景と乃美宗勝」講義録

6月8日に三原の市民福祉会館であった秋山先生の「小早川隆景と乃美宗勝」の講義録です。

1 小早川隆景と乃美宗勝の概要。

まずは2人の概要からでした。
「もう皆さん詳しく御存知でしょうからわざわざ言うまでもないのですが。」
と先生言われてましたが、まずは隆景の説明からでした。
小早川隆景は(1532~1597)で関ヶ原の3年前に死去しています。
織田信長は(1534~1582)、秀吉は(1537~1598)でほぼ同世代にあたるそうです。
毛利元就の3男で、毛利両川の1人、天正10年以降は豊臣大名として活躍しました。

隆景の家臣団は
   ①竹原小早川や沼田(ぬた)小早川の家臣
   ②毛利からつけられた家臣
   ③新参の家臣
など様々出自から成り立っています。
今回はその筆頭にあげられる乃美宗勝についても詳しく話をされてでした。

乃美宗勝ですが、天文16年、隆景がまだ徳寿丸と名乗っていた時代から仕えています。
忠海(ただのうみ)の賀儀城城主で菩提寺の勝運寺が今でも忠海にあります。

・・・豪雨で被害を受けた地区でもあり、寺社の復興が未だできていません。
何とかできれば良いのですが・・・。

乃美宗勝は浦宗勝とも呼ばれます。
地元の人は「浦」と呼ぶそうですが、史料で出てくるのは「乃美」だそうです。
ですから乃美が呼び名だろうと仰ってでした。
乃美宗勝と隆景は
「主従関係というよりも、二人三脚に近かったのではないか。
 宗勝には様々な顔があり,勇将であり智将であり交渉の名人であった。」
今回の講座はそういうわけで宗勝さんを中心に話が進みました。

今回の講座で使っている史料ですが、
宗勝の家は萩藩主に仕えた次男景継が浦家文書72通を持っており
それは「小早川文書」に附録で載っているんだそうです。
また、「閥閲録」には浦図書家が107通持っているものが載っているそうですが。
この2家は重複する文書もあって単純に足し算した数が書状数になるわけではないようです。
最後に景継の弟・景義が細川家に仕えた関係で「新熊本新史」に
「乃美文書」が収録されており上の2家と1通が重複しているのだそうです。

・・・・「新熊本市史」が時々出てくるので、何でじゃろうと思いよったんですが、
なるほど宗勝さんの子孫がおったけえ何ですね。知らんかったです。

次に乃美氏の複雑な系図のお話がありました。
乃美氏には大きく分けて3系統あるそうです。

まずは初期乃美家(乃美①)
豊栄町乃美(吉田に近い)を本拠にした沼田小早川の庶家で
嘉吉元(1441)年、乃美三郎が存在するのを書状で確認できるのだそうですが
小早川の誰の子から分かれたのかは不明なんだそうです。
後に乃美から浦と名をかえる原因ではないだろうかと仰ってでした。

次に「乃美大方」の実家の乃美家(乃美②)
初期乃美家は文正元(1466)年、乃美員平が総領に反抗し
領地は没収され没落します。
乃美の地は小早川煕平の子、是景に渡され、
彼が乃美を名乗ります。
是景の後、家氏→弘平→隆興と続き、
隆興の妹が毛利元就後室の乃美大方にあたります。

当然、初期乃美家(乃美①)の一族はこの扱いに納得できず、
長亨元(1487)年まで長いこと抵抗したそうです。
沼田小早川家と戦う員平の子「乃美家平」を大内政弘が応援していたようですが
家平は領土復帰することができず、政弘から熊毛80石をもらい、
竹原小早川家に親類扱いをしてもらったそうです。

それから「乃美宗勝」の乃美家(乃美③)
瀬戸(音戸の橋のあたり)に本拠を移した乃美で、
乃美の家が瀬戸の名を持つのはそのためなんだそうです。
宗勝はこの瀬戸の乃美家なので「瀬戸新四郎」と名乗った時期もあるそうです。

以上3つの乃美家があるのですが、
どうして乃美が浦を称するようになったのかは謎に包まれているんだそうです。
因みに、浦というのは三原から竹原までの海沿いの地域をさすんだそうです。
丁度、忠海もそこに含まれ、「浦」を領地にしていたのは間違いないようです。

そして乃美家には系図の謎があります。
1つ目は、宗勝祖父の家氏
彼は後世、寄組浦家の系図(乃美③)では、小早川宣平7男が浦を名乗ったとされ
浦家氏が乃美家の養子になって乃美を継いだとされています。
一方、寄組乃美家の系図(乃美②)では、家氏は是景の息子となっており
宗勝父の賢勝が浦の養子になったとあります。
  
2つの系図に食い違いがあるのですが、
「家氏は浦家出身で乃美を継いだほうが正しいのではないだろうか。」
と先生は仰ってでした。
というのも「氏」は浦家の通り名なんだそうです。
 
2つ目は宗勝の父・賢勝です。
寄組浦家(乃美③)では、賢勝は家氏の息子で浦の養子になっています。
しかし養子に入ったのに、養家の浦ではなく実父の乃美を名乗ったと系図には書いてあります。
「浦ではなく乃美を名乗ったとあるが、これはおかしいのではないか。
 賢勝が浦を相続した事実はないのでは?
 江戸時代に浦家が系図合わせのために作ったのでは?」
と先生仰ってでした。

というのも「浦興氏」という人物が存在するのです。
京都の下級貴族で鋳物師司の真継家文書にでてくる人物で
乃美③の系図には名前が出て来ないんだそうです。
沼田又鶴丸を巡る事件に巻き込まれ浦は隆景に討たれ断絶したのではないか。
「浦」の領地を宗勝が貰っており、そのせいで「浦」と混同したのではないか。
と仰ってでした。

・・・ううん、編諱からすると「興」は大内方のような気がするのですが
途中で尼子に鞍替えする方もいらっしゃったし・・・。

で、「浦」だった乃美③は宗勝の孫・元種から浦に戻っているんだそうです。
萩藩は早くから歴史編纂をしてきており
乃美家は小早川家から分かれているとは伝わっていても
系図で証明できなかったのですが、
先祖(賢勝)を浦の養子にすれば宣平7男まで繋がるので
「浦」と「乃美」の混同が起きたのではないかと仰ってでした。

乃美一族についてもう少し詳しく見ると
  ①家氏
    明応2(1493)年~天文5(1536)まで乃美備前守を名乗る。
    天文12(1543)~備前入道と名乗る
    ※天文11(1542)年段階では賢俊の名で出てくる。
      時期的に、興景の死を悼んで出家したのではないかと仰ってでした。
  ②賢勝
    小太郎
    備前守を名乗るのは父の出家後天文11年以降
    天文22年11月~天文23年9月の吉見攻めに参加し
    天文23年10月23日 大内義長から恩賞
           11月18日 石見での戦いで軍忠状を貰っている
    これを最後に書状から姿が消えているんだそうです。
    石見の戦いが最後の書状ですが、軍忠状が残っているので
    陶に殺されたわけではないだろうと仰ってでした。

  ③宗勝
    賢勝4男(大永7年~天正20年)隆景より6才年上
    幼名は「万菊丸」
      ※閏3月大内義隆の書状に「万菊丸」の名があります。
        閏3月があるのは天文11年。
        また、義隆花押も天文11年頃に使っていたものなので
        元服前の宗勝16歳のものと考えられるんだそうです。
    元服後、新四郎と名乗る。「瀬戸新四郎」の名でも見られる。
    「宗勝」の名は天文15年徳寿丸書状が初見
    天文18年「兵部丞」と官命を名乗る。
    ※備後南部で大内方として戦い、手柄を立てたので
      褒賞として官位が上がった。

[2]隆景の小早川相続
  ※元就が進んで小早川家を継がせたという風潮が強いがそうではない。
    むしろ望んでおらず、本当は嫌だった
    何度か断っているのはポーズともいわれるがそうではない。
    竹原小早川は大内と尼子の最前線であり
    10才になるかならないかの末っ子を送りだしたくはなかった。
    母親はもっと心配していたのでは。
    大内義隆は月山敗退後、弘中を安芸支配のトップとし
    隆景を竹原に送り元就の力を借りようとした。

  〈1〉相続から厳島合戦までの流れ
    天文10年 小早川興景の死
    天文12年 12歳の徳寿丸が竹原小早川相続     
    天文16年 徳寿丸初めての書状
            元服前なのでまだ感状は出せず花押もない
            鞆と手城を根拠とし、神辺の尼子方と戦っていた
            大内より竹原小早川は水軍としての機能を期待されていた。
    天文17年 10月以前  隆景と名乗る。
            神辺の戦いは大内から期待する以上の働きをした
            恩賞は家臣に分け与えられた
            →伝達は乃美宗勝
              恩賞を与えるのは軍事指揮権と同じ。
              宗勝は隆景の代わりを務めていた。
    天文23年 5月12日  防芸引分
            6月19日 吉見後巻として水軍200~300艘で富田若山城を攻撃
                   ※厳島から100kmぐらい。
                     攻撃後すぐに引き返す電撃作戦
            6月22日 晴賢は浅海(在番)に感状を出している。
    
    ※注目すべきは厳島合戦よりも前に富田若山城(周南)を攻めているところです。
      厳島合戦より前に宮島よりも西の海域にも攻撃を加えることはできないのでは?
      長いことそう思われていたので、 6月19日の攻撃は弘治2年以降のものとされてきたそうです。
      一応、天文23年に富田若山城を攻めたというのは「棚守房顕覚書」にも書いてあるのですが、
      房顕の記憶違いではないかと往来思われていたんだそうです。
      おじいちゃんなので記憶違いが時々ある。
      しかし、富田若山城は弘治3年3月8日に落城しており、
      浅海に宛てた陶晴賢感状には天文23年とあることから厳島合戦以前に
      毛利の水軍が富田若山城を攻めたということが証明できるそうです。
      
      富田若山城は陶の水軍基地でもあり、本拠です。
     厳島から100kmぐらい離れており、攻撃の後すぐに引き返しました。
      この電撃戦は宗勝の考えではないかと考えられるそうです。
      というのも弘治2年3月の閥閲録の赤川家の書状に
      富田若山城を海から攻めるべきだと提案があり
      「乃美物語子細候つる」とあることから、
      恐らく宗勝の考えだろうと仰ってでした。
    
    弘治元年 厳島合戦
            宗勝、来島水軍の来援に成功する。
            ※しかし村上武吉は来ていない
    弘治3年 須々万城攻め
           岩国から玖珂まで一気に攻め入れたが須々万城で足止めされる。
           弘治2年4月から攻めるが1年近く落とせなかった。

           3月 3日 落城
            隆元は隆景と乃兵の調略の結果だと述べている。(毛利家文書584)
            降伏した陶家臣の江良弾正忠はその後、山口攻めで大活躍した。
    
           3月 8日 山口進軍
           3月12日 義長、内藤隆世(隆元の義父)と共に長門へ
                  宗勝が追討。
           3月15日 下関・勝山城に義長立て籠るの報を宗勝が届ける。
           3月19日 元就、長府・赤間関の軍勢狼藉禁止を宗勝、志道、福原に命じる。
                  ※宗勝はいち早く赤間関に到着し、海峡を封鎖したのでは?
           4月 2日 内藤隆世自刀
           4月 3日 大内義長自刀
                  大内氏滅亡

・・・海峡封鎖や、海からの電撃作戦。
ちぎれたるもののふのイメージでしたが、
調略もできるしすごい人だったんですね、宗勝。

で、防芸引分で活躍した宗勝ですがその後も水軍の要として活躍します。
永禄年間になると中国地方だけではなく九州や四国とも戦になります。

門司城(古城山)は関門海峡を支配するために必須の城で
大友からしつこく攻められますが、そのたびに押し返しています。
残された感情は偽文書ではないかと疑いたくなるほど宗勝は大活躍をしました。

北九州が少し落ち着きかけた頃、今度は伊予・河野氏から救援依頼を受けます。
この時宗勝は門司城に在番しており、隆景は
「安芸に来て伊予の事を一緒に話したいが、
 あなたが門司から抜けることはできないし
 私からは絶対に来いとは言えない。」

と宗勝が大友の抑止力になっていることが分かります。

永禄7年に立花城を毛利が取ると
大友氏は尼子勝久、大内輝弘を中国地方に送りこみ
尼子・大内の残党軍を挙兵させます。
能島村上もこの時離反し、毛利は危機的状況に陥りますが
宗勝は殿を務め、長門まで無事に戻ることができました。

・・・立花城の戦いでの宗勝の活躍は知っていたのですが
門司城の在番も宗勝だったのですね。知らなかったです。
門司城含め北九州の攻防は本当に激しく、
最後までよく耐えきったなあと思っていたのですが
宗勝の活躍あってのものだったのだなあと改めて思いました。

結びに、
「海軍とは制海権と戦力を上陸させるためにあります。
 アメリカの場合でいえば空母などがそれに当たります。
 乃美の水軍は機動隊であり、
 例えるなら小早川警固打撃軍ではないでしょうか。」
と仰ってでした。

・・・毛利の場合、水軍は吸収合併して数を増やしているのですが
広島湾周辺だけでも川内水軍、白井水軍、野間氏、
多賀谷氏など中小規模の水軍がひしめいており、
それらの水軍は合図も隊形も異なっていたのではと思います。
なので弘治年間~永禄年間のわずか10年では
大軍を動かすよりも自軍の統率力の取れた水軍を使う方が効率が良いと
宗勝も思っていたのかもしれません。

それから最後に
大内が補強のために無理に組ませた隆景&宗勝のコンビが
大内を滅ぼしたのは歴史の皮肉のような気がしますと仰ってでした。
元就さんは隆景を養子に行かせるのは反対だったと伝え話ではきちんと残っています。
書状からも確認でき、よくある「雪合戦」の逸話は後世に作られたのだろうと思うのですが
そう思われるぐらい隆景は大活躍をし、
その活躍を支え続けたのが宗勝なんだなあと思いました。

水軍はやっぱり面白いです。
           
         
スポンサーサイト



プロフィール

トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
フリーエリア
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村 歴史ブログ 地方・郷土史へ
ブログ村の記事
ブログ村の歴史新着記事一覧です。 他所のサイトに飛びますのでご注意を。
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR