「江戸時代の天文学」展感想
「江戸時代の天文学」
という天文&歴史という私の関心を思いっきり揺さぶる企画展を広島城でやっているのでお正月に行って参りました。
広島城。
外国人観光客が以前よりも増えていて驚きです。
英語表示がないので日本人が体験しているのを見て真似されてそこそこ楽しんでるようなので、
体験の所だけでも英語表示があるとよいかもなあと思いました。
それと、お正月休みだったので里帰り民や親戚の付き合いで来られたような方が多く、
「初めて来たけど、意外と広島城楽しいね。」
「久しぶりに来たけど、広島城すごいね。」
と他所の城と比べても面白いと言っていらっしゃる方が多くて嬉しかったです。
歴史にあまり興味無いけど他に行くとこないからとりあえず来てみた方が多かったです。
さて4階企画展示のフロアです。
まず目に着いたのがでっかい星図。「天文分野の図」
全天の星を描いたものですが、これ江戸時代前半のもの。
良く見ると星座名や星座線が全然違っていて何が何やらよくわからないことになっています。
一等星も二等星もごっちゃだから見えにくいんだろうなあと思います。
所蔵は山口県立山口博物館・・・・・。
ええ!こんなんあったんじゃ!知らんかったです。
書かれた方は渋川春海1639年生まれ。
・・・おおう、幕府が出来てまだ30年ぐらいの頃かあ。
ううん、でもこの名前どこかで聞いた気がするんじゃけど。
説明には
「幕府の囲碁指南役の安井算哲の息子として生まれ・・・」
あ、確かこれ小説で読んだ!そうじゃ「天地明察」じゃ!!
この小説面白いよ!と碁会所で薦められて一気読みしたんですが確かに面白かったです。
そして私が「初手天元の元祖の御方!!」と尊敬した方でした。
最近天元打たなくなったから忘れてました。
そうだ、初手天元で始まる打ち方を宇宙流というのはこの方から来ているんじゃった。
その隣には「天文成象」、これは横にびらんと星座を並べたもので、
天の川付近のサソリ座やいて座の南斗六星はみつけやすかったです。
星座線がこれは変わらないのだなあと思いました。
そして江戸時代に出された天文書「天文瓊統」も展示されていたんですがこれぶちすごい!!
太陽と月の位置や、月の満ち欠けは公転によるものだと説明してあって、
これが江戸時代前半!!1600年代!!
と驚きました。というのも、「春霞集」が編さんされた1570年頃、
元就さんが
「地上は曇りだが雲の上に行けば月が煌々と明るいのだろうな」
と詠んだ和歌を三条西さんは
「月が見えない時は雲のどこかに宿っているからでしょうに、不思議な歌ですね」
と批評しているのです。
つまり三条西さんは月は雲と同じ高さにあるものと思っていたようで
当時の都人ですら天文知識は平安時代となんら変わることがなかったようです。
ところが、その100年後には月は雲どころか宇宙に浮いていて、
丸い地球の周りを周っていると西洋や中国の天文学を交えてそこまで理解できるようになった。
ガリレオガリレイが月が天体であると発見したのが1609年。
渋川さんのわずか一世代前なのでガリレオにつけられた異端者の烙印はまだ消えていません。
1737年まで葬儀が行われなかったことからそこまで禁書に近い扱いだったはず・・・。
しかも当時は鎖国により西洋の書物は手に入りにくかった時代。
そんな中、奇跡的にもガリレオの「天文対話」を手に入れることができたのはすごいなと思います。
ただ、この「天文対話」は地動説を唱えてはいけないと言われた後に書きあげたものなので
「天文瓊統」は太陽系の図が妙なことになっています。
太陽を中心に地球以外の全ての惑星が公転し、月も地球の周りを公転してるのに
地球だけが公転せずに書かれています。
ガリレオが泣く泣く削った箇所がそのまんま出ているのだろうなあと思うと切ないです。
その横には出ました伊能忠敬の日本地図。
広島に伊能忠敬が来て測量した時の様子を描いた絵巻が残っています。
海沿いを渡ってきたので、三津浜、竹原、鹿老渡となど風待ちの港の名前があります。
宮島では大願寺に泊ったようで、勝海舟も大願寺で講和会談をしていますし、
当時幕府の関係者は大願寺が宿所になったのかなと思いました。
何故測量が天文に関係あるかというと、星の見える位置は緯度によって変わります。
見えている星の高度が1度変わった場合、その間に南北に移動した距離が分かれば
地球全体の1周の距離が分かることになり、正確な地図を作ることができます。
なので伊能忠敬も天文学を学んでおり、その関係で今回展示されているようです。
・・・一般の方はこの日本地図は「わあすごいね」と見てましたがあとのは素通りしていて、ああ勿体ない!
「そこに宮島の地名があるんですよ。」「ほらここにおり姫星ってありますよ。」
と言いたくてうずうずしましたが我慢しました。
会期が2月まであったらお子様達を連れてきたかった・・・。絶対楽しいと思うんですが・・・。
翻刻文が多いのでまた主任に却下されそうだなと。
あと象限儀の説明で萩の明倫館所蔵のものは鹿老渡の人が作ったものらしいです。
写真撮っとけば良かった・・・。
明倫館のは写真撮り放題なんです。
で、何で倉橋島の突端の小さな町の鹿老渡の人が象限儀を作ったかというと
伊能さんが立ちよった場所だというのもあるそうですが
色んな交流から生まれたもののようです。
天文学に限らず研究は色んな意見を交えることで深まります。
だからなのか測量図の次に伊能忠敬と研究者との交流ということで
頼春水とのやりとりの手紙がありました。
伊能さん元の身分もあって純朴な人柄がにじみ出る字でした。
他にも伊能忠敬の師、高橋之至やその息子の景保、
月のクレーターに名を残している麻田剛流や
計測機器を開発した間重富ら天文の歴史学で出てくる方がいっぱい。
大学でちらっと本で見たなあというレベルだったので
解説が分かりやすくて助かりました。
ただそれらは主に大阪の話。
広島はどうであったかというとわずかに資料に残るのが武田さんらしいです。
彼は大阪の書店でふらっと立ち寄ったときに間さんに出会い、
話が弾んで他の研究者仲間に紹介してもらったそうです。
師としても慕われていて私が探していた厳島神社の算額は
彼の功績を伝えるために弟子らが奉納したようです。
算額!!
図形問題じゃ!!
と解こうと思ったんですが字が小さいのと薄れて私は読めませんでした・・・。
あと桑原卯之助さんも彼の弟子らしく、通りでベルヌーイの定理を理解しているはずだと納得しました。
八木用水は取水口と用水路の幅が均等ではないのです。
水の流れをよくするために出口を細く設計していて
一介の大工(先祖は武田家臣?)にしてはすごいと思っていました。
あと気になったのが月面スケッチ。
妙なんです。これ。
月の裏側は細かなクレーターに覆われ、海のような大きなものはありません。
通常、月の裏側は見ることはできないのですが、江戸時代にスケッチされた2枚のは
真ん中に細かなクレーターの山脈があり、片側はのっぺらでもう片側は海が見えます。
江戸時代の月も裏側は見えるはずないのですが、裏側が半分見えているような図で
いなげじゃなあと思いました。
江戸時代の天文学すごいなあ!!
と感動していた私を最後にがっくりさせてくれたのが三球儀。
ペリーから送られたものではないかとされるものですが、
これ、理科室にある!全く同じじゃん!
ろうそくを電球に変えただけじゃろ!!
200年も教具が変わっとらんってどういうこと!?
しかもこれ月の満ち欠け分かりにくくてうちよう使わんやつ。
と科学技術の進歩と教具の進歩のなさに愕然としました。
まあそうですよね。
この時代に未だにカセットCDラジカセが現役、
図書カードも未だ記入式、理科室にエアコンないですから。
うん・・・。
という天文&歴史という私の関心を思いっきり揺さぶる企画展を広島城でやっているのでお正月に行って参りました。
広島城。
外国人観光客が以前よりも増えていて驚きです。
英語表示がないので日本人が体験しているのを見て真似されてそこそこ楽しんでるようなので、
体験の所だけでも英語表示があるとよいかもなあと思いました。
それと、お正月休みだったので里帰り民や親戚の付き合いで来られたような方が多く、
「初めて来たけど、意外と広島城楽しいね。」
「久しぶりに来たけど、広島城すごいね。」
と他所の城と比べても面白いと言っていらっしゃる方が多くて嬉しかったです。
歴史にあまり興味無いけど他に行くとこないからとりあえず来てみた方が多かったです。
さて4階企画展示のフロアです。
まず目に着いたのがでっかい星図。「天文分野の図」
全天の星を描いたものですが、これ江戸時代前半のもの。
良く見ると星座名や星座線が全然違っていて何が何やらよくわからないことになっています。
一等星も二等星もごっちゃだから見えにくいんだろうなあと思います。
所蔵は山口県立山口博物館・・・・・。
ええ!こんなんあったんじゃ!知らんかったです。
書かれた方は渋川春海1639年生まれ。
・・・おおう、幕府が出来てまだ30年ぐらいの頃かあ。
ううん、でもこの名前どこかで聞いた気がするんじゃけど。
説明には
「幕府の囲碁指南役の安井算哲の息子として生まれ・・・」
あ、確かこれ小説で読んだ!そうじゃ「天地明察」じゃ!!
この小説面白いよ!と碁会所で薦められて一気読みしたんですが確かに面白かったです。
そして私が「初手天元の元祖の御方!!」と尊敬した方でした。
最近天元打たなくなったから忘れてました。
そうだ、初手天元で始まる打ち方を宇宙流というのはこの方から来ているんじゃった。
その隣には「天文成象」、これは横にびらんと星座を並べたもので、
天の川付近のサソリ座やいて座の南斗六星はみつけやすかったです。
星座線がこれは変わらないのだなあと思いました。
そして江戸時代に出された天文書「天文瓊統」も展示されていたんですがこれぶちすごい!!
太陽と月の位置や、月の満ち欠けは公転によるものだと説明してあって、
これが江戸時代前半!!1600年代!!
と驚きました。というのも、「春霞集」が編さんされた1570年頃、
元就さんが
「地上は曇りだが雲の上に行けば月が煌々と明るいのだろうな」
と詠んだ和歌を三条西さんは
「月が見えない時は雲のどこかに宿っているからでしょうに、不思議な歌ですね」
と批評しているのです。
つまり三条西さんは月は雲と同じ高さにあるものと思っていたようで
当時の都人ですら天文知識は平安時代となんら変わることがなかったようです。
ところが、その100年後には月は雲どころか宇宙に浮いていて、
丸い地球の周りを周っていると西洋や中国の天文学を交えてそこまで理解できるようになった。
ガリレオガリレイが月が天体であると発見したのが1609年。
渋川さんのわずか一世代前なのでガリレオにつけられた異端者の烙印はまだ消えていません。
1737年まで葬儀が行われなかったことからそこまで禁書に近い扱いだったはず・・・。
しかも当時は鎖国により西洋の書物は手に入りにくかった時代。
そんな中、奇跡的にもガリレオの「天文対話」を手に入れることができたのはすごいなと思います。
ただ、この「天文対話」は地動説を唱えてはいけないと言われた後に書きあげたものなので
「天文瓊統」は太陽系の図が妙なことになっています。
太陽を中心に地球以外の全ての惑星が公転し、月も地球の周りを公転してるのに
地球だけが公転せずに書かれています。
ガリレオが泣く泣く削った箇所がそのまんま出ているのだろうなあと思うと切ないです。
その横には出ました伊能忠敬の日本地図。
広島に伊能忠敬が来て測量した時の様子を描いた絵巻が残っています。
海沿いを渡ってきたので、三津浜、竹原、鹿老渡となど風待ちの港の名前があります。
宮島では大願寺に泊ったようで、勝海舟も大願寺で講和会談をしていますし、
当時幕府の関係者は大願寺が宿所になったのかなと思いました。
何故測量が天文に関係あるかというと、星の見える位置は緯度によって変わります。
見えている星の高度が1度変わった場合、その間に南北に移動した距離が分かれば
地球全体の1周の距離が分かることになり、正確な地図を作ることができます。
なので伊能忠敬も天文学を学んでおり、その関係で今回展示されているようです。
・・・一般の方はこの日本地図は「わあすごいね」と見てましたがあとのは素通りしていて、ああ勿体ない!
「そこに宮島の地名があるんですよ。」「ほらここにおり姫星ってありますよ。」
と言いたくてうずうずしましたが我慢しました。
会期が2月まであったらお子様達を連れてきたかった・・・。絶対楽しいと思うんですが・・・。
翻刻文が多いのでまた主任に却下されそうだなと。
あと象限儀の説明で萩の明倫館所蔵のものは鹿老渡の人が作ったものらしいです。
写真撮っとけば良かった・・・。
明倫館のは写真撮り放題なんです。
で、何で倉橋島の突端の小さな町の鹿老渡の人が象限儀を作ったかというと
伊能さんが立ちよった場所だというのもあるそうですが
色んな交流から生まれたもののようです。
天文学に限らず研究は色んな意見を交えることで深まります。
だからなのか測量図の次に伊能忠敬と研究者との交流ということで
頼春水とのやりとりの手紙がありました。
伊能さん元の身分もあって純朴な人柄がにじみ出る字でした。
他にも伊能忠敬の師、高橋之至やその息子の景保、
月のクレーターに名を残している麻田剛流や
計測機器を開発した間重富ら天文の歴史学で出てくる方がいっぱい。
大学でちらっと本で見たなあというレベルだったので
解説が分かりやすくて助かりました。
ただそれらは主に大阪の話。
広島はどうであったかというとわずかに資料に残るのが武田さんらしいです。
彼は大阪の書店でふらっと立ち寄ったときに間さんに出会い、
話が弾んで他の研究者仲間に紹介してもらったそうです。
師としても慕われていて私が探していた厳島神社の算額は
彼の功績を伝えるために弟子らが奉納したようです。
算額!!
図形問題じゃ!!
と解こうと思ったんですが字が小さいのと薄れて私は読めませんでした・・・。
あと桑原卯之助さんも彼の弟子らしく、通りでベルヌーイの定理を理解しているはずだと納得しました。
八木用水は取水口と用水路の幅が均等ではないのです。
水の流れをよくするために出口を細く設計していて
一介の大工(先祖は武田家臣?)にしてはすごいと思っていました。
あと気になったのが月面スケッチ。
妙なんです。これ。
月の裏側は細かなクレーターに覆われ、海のような大きなものはありません。
通常、月の裏側は見ることはできないのですが、江戸時代にスケッチされた2枚のは
真ん中に細かなクレーターの山脈があり、片側はのっぺらでもう片側は海が見えます。
江戸時代の月も裏側は見えるはずないのですが、裏側が半分見えているような図で
いなげじゃなあと思いました。
江戸時代の天文学すごいなあ!!
と感動していた私を最後にがっくりさせてくれたのが三球儀。
ペリーから送られたものではないかとされるものですが、
これ、理科室にある!全く同じじゃん!
ろうそくを電球に変えただけじゃろ!!
200年も教具が変わっとらんってどういうこと!?
しかもこれ月の満ち欠け分かりにくくてうちよう使わんやつ。
と科学技術の進歩と教具の進歩のなさに愕然としました。
まあそうですよね。
この時代に未だにカセットCDラジカセが現役、
図書カードも未だ記入式、理科室にエアコンないですから。
うん・・・。
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