榎本武揚のご先祖?安那郡の細川氏①
幕末、幕府軍として最後の五稜郭の戦いまで戦い抜いた榎本武陽は
明治維新の後、赦されて政府の中心的人物となりました。
彼のお父さんは箱田良助といい、備後安那郡箱田村の出身でした。
家は代々、箱田村の庄屋で今でもお屋敷が残っています。
箱田良助は兄と共に伊能忠敬の弟子となり、
天文方へ出仕、日本地図製作に携わります。
詳細は「かさおか遊歩」さんをご覧ください
で、この箱田さん、箱田ではなく細川が実名。
ひょっとして毛利家臣になった備中細川家の流れではないかなあと常々思っていました。
というのも、備中細川は浅口の鴨山城主で神辺とかなり距離が近いのです。
徳川の謀略に負けて防長封じにあった際に多くの家は次男以下が残って帰農、
家を継ぐものは山口へ移りました。
県北では
「いつか幕府を倒す時がきたら一緒に戦おう。」
と言って今生の別れを惜しんだと言い伝えられています。
なので、もし箱田良助がそのまま備後に残っていたら
榎本武揚も長州側だったんじゃないかなととりとめもないことを考えてたのです。
で、県史中世資料編Ⅴを冬休みに読んでいた時に面白い書状を見つけました。
書き下し文
「足利義政袖判宛行状
備後国安那郡 山名兵部少輔同親類被官以下跡所
細川下野守教春宛行なり
応仁2年 5月6日」
応仁・文明の乱と呼ばれる大規模な戦が始まったのは応仁元年。
なのですでに戦が始まっています。
山名兵部少輔は伯耆・備前守護だった山名教之。
山名氏は6分の1衆として強力な力を持っており
西軍の主力として東軍の細川と激しく対立します。
この書状は細川から見れば敵の山名教之の親類衆の家来が戦死したので
持っていた土地「跡所」が細川下野守教春に上げますよという書状です。
教春は備中浅口と伊予宇摩の分郡守護を務めており
備後はすぐ隣り町。
備後は敵の山名氏が守護なので橋頭保としても使えますし
海沿いは港町もあるので交易の権限もゲットできる
二重においしい場所です。
因みに、備中細川氏は宗家の吉兆家に何度か養子を出すなど
中央と密接に結びついていました。
なのでおいしい報償ももらいやすかったのかもしれません。
しかし次第に没落し、伊予に逃れていた一派が再び備中細川氏として
浅口に戻りますが、その後は毛利氏の家臣として秀吉と戦い
長門下関の長府藩家老として代々続いていきます。
で、次に備後安那郡の位置を確認です。
現在でいう神辺や加茂、駅家の辺りでした。
明治の時点では備後福山藩27村と豊前中津藩の飛び領であった2村を合わせて
安那郡としていますが、恐らく安那郡自体は戦国時代から大きさを変えていないと思われます。
この備後福山藩27村の中に箱田村が含まれます。
安芸や備後で庄屋や島名主をしているのは大体が元国人衆です。
没落しない限り自分の領地をそのままもっている場合が多いです。
・・・と考えると、榎本武揚はこの備中細川氏の末裔である可能性が
かなり濃いいのではないかなと思いました。
推論なのでまだまだ今後も研究の余地があると思いますので
調べていきたいと思います。
すみません吉兆ではなく京兆でした。ご指摘ありがとうございます。
明治維新の後、赦されて政府の中心的人物となりました。
彼のお父さんは箱田良助といい、備後安那郡箱田村の出身でした。
家は代々、箱田村の庄屋で今でもお屋敷が残っています。
箱田良助は兄と共に伊能忠敬の弟子となり、
天文方へ出仕、日本地図製作に携わります。
詳細は「かさおか遊歩」さんをご覧ください
で、この箱田さん、箱田ではなく細川が実名。
ひょっとして毛利家臣になった備中細川家の流れではないかなあと常々思っていました。
というのも、備中細川は浅口の鴨山城主で神辺とかなり距離が近いのです。
徳川の謀略に負けて防長封じにあった際に多くの家は次男以下が残って帰農、
家を継ぐものは山口へ移りました。
県北では
「いつか幕府を倒す時がきたら一緒に戦おう。」
と言って今生の別れを惜しんだと言い伝えられています。
なので、もし箱田良助がそのまま備後に残っていたら
榎本武揚も長州側だったんじゃないかなととりとめもないことを考えてたのです。
で、県史中世資料編Ⅴを冬休みに読んでいた時に面白い書状を見つけました。
書き下し文
「足利義政袖判宛行状
備後国安那郡 山名兵部少輔同親類被官以下跡所
細川下野守教春宛行なり
応仁2年 5月6日」
応仁・文明の乱と呼ばれる大規模な戦が始まったのは応仁元年。
なのですでに戦が始まっています。
山名兵部少輔は伯耆・備前守護だった山名教之。
山名氏は6分の1衆として強力な力を持っており
西軍の主力として東軍の細川と激しく対立します。
この書状は細川から見れば敵の山名教之の親類衆の家来が戦死したので
持っていた土地「跡所」が細川下野守教春に上げますよという書状です。
教春は備中浅口と伊予宇摩の分郡守護を務めており
備後はすぐ隣り町。
備後は敵の山名氏が守護なので橋頭保としても使えますし
海沿いは港町もあるので交易の権限もゲットできる
二重においしい場所です。
因みに、備中細川氏は宗家の吉兆家に何度か養子を出すなど
中央と密接に結びついていました。
なのでおいしい報償ももらいやすかったのかもしれません。
しかし次第に没落し、伊予に逃れていた一派が再び備中細川氏として
浅口に戻りますが、その後は毛利氏の家臣として秀吉と戦い
長門下関の長府藩家老として代々続いていきます。
で、次に備後安那郡の位置を確認です。
現在でいう神辺や加茂、駅家の辺りでした。
明治の時点では備後福山藩27村と豊前中津藩の飛び領であった2村を合わせて
安那郡としていますが、恐らく安那郡自体は戦国時代から大きさを変えていないと思われます。
この備後福山藩27村の中に箱田村が含まれます。
安芸や備後で庄屋や島名主をしているのは大体が元国人衆です。
没落しない限り自分の領地をそのままもっている場合が多いです。
・・・と考えると、榎本武揚はこの備中細川氏の末裔である可能性が
かなり濃いいのではないかなと思いました。
推論なのでまだまだ今後も研究の余地があると思いますので
調べていきたいと思います。
すみません吉兆ではなく京兆でした。ご指摘ありがとうございます。
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