小早川隆景の誕生日
戦国武将の場合は多く、生没年月日が不明なことが多いです。
生没年まではわかっていても、誕生日がはっきりしていることは少ないです。
毛利家の場合、なぜか元就さんだけが3月14日とされますが
その根拠にあたるものは不明です。
長生きをしたので長寿の祝いは何度か催しており
その際の記録によるものなのかもしれませんが。
ただ、三男隆景だけはおよその検討をつけることができます。
天文2年、隆景が生まれたときに毛利元就は清神社を改修しました。
その時に棟上げをした際に、札を残しています。
書き下し文
「棟上上葺を奉る その意趣は
一天泰平 四海安全 奉じるため
殊には護持大旦那丁巳歳
壽福増長 如意吉祥
並びに女大施主己未歳
息災延命 恒受恒楽 所生愛子等 所願成就
別には社頭安穏 威光自在 当所豊穣故也而巳
天文二年 癸巳 大工藤原朝臣 六月吉日」
私訳
「清神社の瓦ぶきを奉ります。
その意趣は、天下泰平、四海安全を奉じるためですが
特に今回大旦那として多くの喜捨をなされた
丁巳(ひのとみ)生まれの毛利元就の
幸せがます増すこと 吉祥が意のままにあることを護持すること
同じく女大施主である己未(つちのとび)生まれの
無事と命が長らえること その人生が常に楽しみを受けるものであること
愛し子が我等の所に生まれた事など
諸々の祈願が成就するよう祈るものである。
これも偏にこのお社が安穏と御威光をもち
この吉田の地が豊穣であるが故である。
天文二年 癸巳 大工藤原朝臣 六月吉日」
戦国武将の生年はこのように神社の棟札や祈祷書の類から分かります。
例えば、丁巳は1497年なので毛利元就は明応6年生まれ
女大施主とあるのはこの場合、元就さんの正室妙玖。
己未は1499年なので明応8年生まれ。
この棟札は天文2年(1533)なので、
毛利元就、36歳、その妻34歳。
普通、神社は国家安泰などの国規模の大きな願い事をするのですが
時代が下ると地元の有力者と結びつき、神前の願いも個人的なものになっていきます。
ただ、棟札に名前が載るのは当主のみのことが多いです。
時々熱心な女性がいる場合は女大施主として残りますが
清神社の棟札で女性の祈願をしているのはこれだけ。
奥さんを大事にしていた隆元の時の棟札にも
女大施主のことはありません。
女大施主に願う一番のことが「息災延命」ということは
逆に言えば「息災延命」を願わなければいけない危ぶまれる状況があったと言えます。
この棟札より前のものは「幸松 息災延命」「弘元 息災延命」とあり、
いずれも病弱で早くになくなった当主の延命祈願でした。
妙玖さんはこの後天文14年まで生きますので病弱であったというよりも
「所生愛子」とあることから、生命の危機が出産がらみであったと考えられます。
因みに「所生愛子」とあるのは天文2年生まれの徳寿丸(後の隆景)のこと。
「所生」とは「生まれる所」という意味ですし、女大施主の願かけが「安産」ではないことから
この棟札が奉じられた6月吉日までには隆景は生まれていたことになり、
6月か5月頃の誕生ではないかと考えられます。
因みに「愛」という字を現代のような意味で使うようになったのは明治時代、
外国から「LOVE」という概念が入ってきてから使われるようになったと言われます。
例えば有名な「月がきれいですね。」は「Ⅰlove you」を
当時の日本人が理解できるようにした名訳と言われています。
それまでは「愛」という言葉は仏教用語の中で執着のように人間の業の一つとして
あまり良い意味では使われていなかったとされます。
実際、文書を読んでいて「愛」の字は見たことありません。
しかし、「愛子」という意味は「愛しい子ども」以外には意味が取れませんので
戦国時代からも「愛」という字は現代と同じ意味でも使われていたのではないか。
と思いました。
生没年まではわかっていても、誕生日がはっきりしていることは少ないです。
毛利家の場合、なぜか元就さんだけが3月14日とされますが
その根拠にあたるものは不明です。
長生きをしたので長寿の祝いは何度か催しており
その際の記録によるものなのかもしれませんが。
ただ、三男隆景だけはおよその検討をつけることができます。
天文2年、隆景が生まれたときに毛利元就は清神社を改修しました。
その時に棟上げをした際に、札を残しています。
書き下し文
「棟上上葺を奉る その意趣は
一天泰平 四海安全 奉じるため
殊には護持大旦那丁巳歳
壽福増長 如意吉祥
並びに女大施主己未歳
息災延命 恒受恒楽 所生愛子等 所願成就
別には社頭安穏 威光自在 当所豊穣故也而巳
天文二年 癸巳 大工藤原朝臣 六月吉日」
私訳
「清神社の瓦ぶきを奉ります。
その意趣は、天下泰平、四海安全を奉じるためですが
特に今回大旦那として多くの喜捨をなされた
丁巳(ひのとみ)生まれの毛利元就の
幸せがます増すこと 吉祥が意のままにあることを護持すること
同じく女大施主である己未(つちのとび)生まれの
無事と命が長らえること その人生が常に楽しみを受けるものであること
愛し子が我等の所に生まれた事など
諸々の祈願が成就するよう祈るものである。
これも偏にこのお社が安穏と御威光をもち
この吉田の地が豊穣であるが故である。
天文二年 癸巳 大工藤原朝臣 六月吉日」
戦国武将の生年はこのように神社の棟札や祈祷書の類から分かります。
例えば、丁巳は1497年なので毛利元就は明応6年生まれ
女大施主とあるのはこの場合、元就さんの正室妙玖。
己未は1499年なので明応8年生まれ。
この棟札は天文2年(1533)なので、
毛利元就、36歳、その妻34歳。
普通、神社は国家安泰などの国規模の大きな願い事をするのですが
時代が下ると地元の有力者と結びつき、神前の願いも個人的なものになっていきます。
ただ、棟札に名前が載るのは当主のみのことが多いです。
時々熱心な女性がいる場合は女大施主として残りますが
清神社の棟札で女性の祈願をしているのはこれだけ。
奥さんを大事にしていた隆元の時の棟札にも
女大施主のことはありません。
女大施主に願う一番のことが「息災延命」ということは
逆に言えば「息災延命」を願わなければいけない危ぶまれる状況があったと言えます。
この棟札より前のものは「幸松 息災延命」「弘元 息災延命」とあり、
いずれも病弱で早くになくなった当主の延命祈願でした。
妙玖さんはこの後天文14年まで生きますので病弱であったというよりも
「所生愛子」とあることから、生命の危機が出産がらみであったと考えられます。
因みに「所生愛子」とあるのは天文2年生まれの徳寿丸(後の隆景)のこと。
「所生」とは「生まれる所」という意味ですし、女大施主の願かけが「安産」ではないことから
この棟札が奉じられた6月吉日までには隆景は生まれていたことになり、
6月か5月頃の誕生ではないかと考えられます。
因みに「愛」という字を現代のような意味で使うようになったのは明治時代、
外国から「LOVE」という概念が入ってきてから使われるようになったと言われます。
例えば有名な「月がきれいですね。」は「Ⅰlove you」を
当時の日本人が理解できるようにした名訳と言われています。
それまでは「愛」という言葉は仏教用語の中で執着のように人間の業の一つとして
あまり良い意味では使われていなかったとされます。
実際、文書を読んでいて「愛」の字は見たことありません。
しかし、「愛子」という意味は「愛しい子ども」以外には意味が取れませんので
戦国時代からも「愛」という字は現代と同じ意味でも使われていたのではないか。
と思いました。
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