応永の銀山城合戦2(熊谷軍の陣所について)

さて、陰徳太平記によれば大内氏が銀山城を囲んだこの時は、
安芸のかなり内陸まで侵攻していたらしく、
大内義隆が陶興房をつれて根の谷にある次休蔵主庵跡を尋ねたとしています。

また、
大内勢に囲まれた銀山城を救出するために
熊谷や香川氏など武田家の家臣達が集まり、
銀山城に籠れば手薄になった城に残された家族が心配だし、
かといって自城に籠っていては恩知らずな奴らだと言われると悩みぬき、
とりあえずは大内氏が陣取っている坂の上に行ってみてそれから考えようということになった。
そこで可部の三入に1100騎ほどが集った。
これを知った杉氏らは佐東衆が根の山上に押し掛けて武田の後詰めをし、
銀山城へ合流しようとしているしているようだと陶興房に伝えた。
興房は、
「1000騎ぐらいなら合流されても大したことはない。
 むしろもぬけの殻になった彼らの城を攻めて妻子を人質にすれば、
 彼らは降服するだろうから、十中八九城は落ちる。
 そうでなくとも、坂の上に陣を取ったり、この陣の側に寄せてきても
 1・2千騎なら恐れることはない。もうしばらく様子をみよう。
 地理の不案内な根の谷におり、下手に攻めれば土地勘のある相手方に負ける。
 相手が少数だからと油断してつまらない戦をするのは感心できない。
 明日、寅の刻に軍を出し、3里離れた根の谷へ追いあげれば一時もせずに
 熊谷らは崩れるだろう。私が出るのはそれからでよいのだから明後日に延期しても構わない。
 とりあえず明日は青影、似保の3人の武将を根の山へ上がらせ、陣を築き、
 翌日は坂の上近くに陣を替え、そのあと本道口から攻め寄せれば敵は一たまりもなく
 逃げて行く熊谷らを追って可部や三入を焼き打ちすればよい。
 これは軍法書通りにもある定石だ。」
杉氏らはこれを聞いて成るほどと一旦は納得した。
しかし杉氏らは興房長子(後の隆房)の初陣の手柄にしようとして、
興房が積極的でないのだという噂に惑わされ、
杉氏らは勝手に軍兵を集め、6月26日の未明に坂の上、根の谷に攻めようとしたが、
一里もいかないうちに夜が明け、朝掛けを企てていることが可部の熊谷氏らに伝わった。
熊谷氏当主の信直は未だ幼いので香川吉景が後見として
坂の上を7、8町ばかり下り、一段と高くなった山の崖に立ち、
味方の600騎のうち、山中・飯田・福島・遠藤ら280騎を囮として
数十町離れた所へ向かわせ、敵が追ってきたら挟みうちにしようと尾崎に陣を構えた。
久村玄蕃や山縣の一族は側にある樫の林に弓を持って籠り、
三入や可部の土豪や熊谷氏の郎党は3~5騎ずつに固まらせて藪に潜ませ、
時が来たら一斉に声を挙げて大勢に見せようとする作戦であった。

27日の卯の刻に杉氏らが1500騎を率いて来た。
坂の上に上がると向かいの尾に熊谷氏らの旗が300ほど翻っている。
杉氏らはそれをみて熊谷氏を討って手柄にしようと勇んで、
謀があるとも知らずに、囮の山中氏らを追って30余町ほど進んだ。
そして香川氏の陣の側に来ると反転し、矢をさんざんに討った。
杉氏らは2・3町ほど下がったが、香川氏らは追わずに本陣に戻り、
弓を整然と並べて対抗しようとした。
杉氏はそれを見て敵は少勢、引きさがってなるものかと再び攻めた。
2陣まで攻め寄せた所で、向かいの尾根からほら貝が響き、
それまで潜んでいた伏兵が一斉に出てきた。
狼狽した杉氏らは首を150も取られた。
ようやく杉氏らが勝手に攻めた事をしった陶興房が援軍に江良を向かわせたが、
時すでに遅く、さんざんに打ち破られた後であった。

以上が陰徳太平記の記述です。
これによれば、熊谷氏ら武田恩顧の家臣達は根の谷に陣をはり、
坂の上というところが陶氏と熊谷氏の争いの場になったようです。
根の谷という地名は今もあり、
広島から吉田へ行く時に通る重要な峠です。
ただし、本当に熊谷氏らが根の谷に陣を張っていたのかは疑問です。


まず上の図ですが、縮尺は大体1cmが2kmぐらいで、は武田方の城です。
因みに一番下が銀山城、真ん中が香川氏の居城の八木城、上が熊谷氏の高松城です。
そして、赤紫の↑が根の谷です。
地名通りに根の谷に陣を張っていたのなら、あまりに奥過ぎます。
八木城も高松城もとっくに大内方に落ちています。
しかも、陰徳太平記では援軍に行かないと名折れ出し、
かといって妻子の事を考えると城を空けるのはちょっと・・
と迷っているので、少なくとも根の谷に陣を張ってする会話ではありません。
とすれば、考えられるのが橙→です。
これは「根の谷川」といい、可部から三篠川、佐東川(太田川)に注ぎこむ川です。
この川の河口付近が合戦に出てくる「根の谷」ではないのか
と考えられます。

理由として、坂の上という地名が度々出てくることです。
この「坂の上」という地名はなく、
これが形通り、坂の上に陣所を築いたということであれば、
根の谷川周辺にそのような地形は三篠川を挟んだ対岸の
地図の薄緑の台地部分に相当するのではないかと思います。
ここは現在高陽町のある辺りで、山と言うほど高くもなく、
小高い丘の上で見晴らしもよいので陣を張るには丁度良い場所です。
よって地図上のが熊谷氏らが本陣を構えたと考えられます。
ここであれば、可部を守れますし、八木は対岸なので何かあれば川を渡れば済みます。
おそらく河内(川内)水軍も一緒に行動しているはずですから、
佐東川(太田川)を渡るのはさして大変なことではなかったはずです。
また、香川氏が切り立った山の崖から見晴らしてとあるのですが、
この高陽町のある山は川沿いは浸食によってかなり削られ、崖のようになっている場所もあります。
また、大内軍が向かいの尾根に香川氏らの陣所を見たという記述があり、
高陽町ならば台地とはいえ、小山が幾つも連なっている場所なので、
大内軍、熊谷軍の両軍がいてもおかしくはありません。
また、坂の上の近辺に樫の森があったとされますが、
高陽町であれば、丘と丘の間に平地もあり、当時森があっても不思議ではありません。
よって、熊谷氏らはこの時可部の奥の「根の谷」ではなく、
現在高陽町になっている根谷川河口のあたりに陣を取ったと考えられます。

また、それに対応する大内方の陣はとなりますが、
ここなら銀山城も睨め、義隆が可部の方にこっそり遊びに行くことも可能ですが、
佐東川(太田川)を挟んで囲むのはかなり緩い包囲網だと思います。
まあ、当時の海岸線はかなり奥まで入っていたようなので、
祇園の真正面に陣を取るよりも対岸の高陽に陣を張っていたとしても不思議ではありませんし、
山伝いに香川氏らが銀山城へ援軍として入ったら・・と杉氏らが言っていたように、
安川を渡れば銀山城へすぐ入れるのでこのような布陣図になると思います。

ただ、それならそれで、このの側には
恵下山城という城があり、そこに籠ったほうが防御もしやすいはずなのに、
その城の名前が出てきません。
まあ陰徳太平記なので、全てを鵜呑みにはしませんが・・・
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