牛田山と戸坂入道のお墓
今日は山城攻城記を書かれている方が戸坂公民館で講座をされるので参加してきました。
戸坂氏は、武田氏の一族出身の家臣であり、
府中から祇園へ至る旧山陽道の要所を守っていたらしいです。
戸坂と書いて(へさか)と読むのですが、
この戸坂氏の子孫は山口の宇部に移り、
戸坂と書いて(とさか)と読んだり、部坂など字を替えたりはしているそうですが、
脈々と続いているそうです。
さて、実地講座だったので山登りしました。
山の尾根をひたすら上がって、戸坂入道道海のお墓に到着です。

石が崩れて並べられていますが、昔盗掘にあったそうです。
その時、結局何も出て来なかったらしいです。
ちなみに、その後調査のために掘った方がいたそうですが、
やっぱり何も出てこなかったそうです。
武田氏に攻められて自刀したのは麓の寺なので、
これは供養塔ではないかと仰られていました。
戸坂入道って誰?
と思われる方がほとんどだと思いますが、
実はこの戸坂入道がいなければ日本の歴史が変わっています。
彼がいなければ、関ヶ原の戦いが起こらなかったかもしれません。
戸坂入道道海は、銀山城落城の際に安国寺恵瓊を助け、
その後安国寺に入れたそうです。
安国寺恵瓊は、小早川隆景の腹心で毛利の外交僧として活躍し、
関ヶ原の戦いでは、大谷吉継や小西行長と謀って、
毛利輝元を西軍の総大将に担ぎあげることに成功します。
最も、最近では輝元は運良ければ天下が転がり込むかもと、
「天下を競望するなかれ」という祖父の遺訓を
「天下が勝手に転がり込むなら遺訓を破ることにはならない」
と解釈して、恵瓊の言葉に輝元自身が乗り気であったともされています。
結局、吉川広家が徳川に内通していたので戦わずして切り抜けることになり、
安国寺恵瓊は首謀者の一人として斬首されます。
と考えるともっと本格的な調査をしてもいいんじゃないかと思うのですが・・・。
さて、この道海の墓のすぐ側の斜面を登ると戸坂城の本丸、
牛田山の頂上です。
まず北西側には主家である安芸武田氏の本城・銀山城が見えます。
※赤い矢印が本丸です。

今日はとっても天気がよくて、
遠くの山が春霞に覆われてうららかでした。
思わず元就の
「春はただ 野山を覆う霞かな」
の句が浮かびました。
しかし、よく見ると奥の方の山には雪が積もって白かったです。
雪なんてもう一カ月以上こっちではふっていないのに、
芸北の方はまだまだ残っているみたいです。
陰陽分岐嶺を挟むと同じ安芸でも随分違うんだなと思いました。
また、南側は瀬戸内海が広がり、
西側は宮島、そして安芸と周防の境が見えます。
※赤い矢印が宮島です。

輝元が作るまで、この眼下に見える広島という地はなかったので、
戦国時代はもっと手前まで海があったと考えられます。
そして、東南に広がる景色も

ところどころに点在する小さな山は全て島であったと考えられます。
因みに赤い線を引いたのは城跡と思われる場所です。
手前の赤いのは多々万比山城、
奥の赤いのは黄金山といい、仁保山城という城がありました。
多々万比山城は大内方の建てたものとされ、
仁保山城の方は白井氏の建てたものとされますが、
武田氏配下の茶臼山城(戸坂城)と似保山城に
サンドイッチされる状態で大内氏が城を建てるのか?という疑問があります。
まあ、広島湾は割と大内氏が攻めてくるとすぐに大内方に寝返ったので
広島湾内が大内側にあったときに支配を強化するために城を建てた可能性もあります。
そのため、大内方が不利になると城代も撤退したので、
多々比山城主が誰かはっきりしないのかもしれません。
こうして自分の眼で確かめると
「そうか!だからここを攻めたんだ!」
と歴史を感じられてとってもよかったです。
戸坂氏は、武田氏の一族出身の家臣であり、
府中から祇園へ至る旧山陽道の要所を守っていたらしいです。
戸坂と書いて(へさか)と読むのですが、
この戸坂氏の子孫は山口の宇部に移り、
戸坂と書いて(とさか)と読んだり、部坂など字を替えたりはしているそうですが、
脈々と続いているそうです。
さて、実地講座だったので山登りしました。
山の尾根をひたすら上がって、戸坂入道道海のお墓に到着です。

石が崩れて並べられていますが、昔盗掘にあったそうです。
その時、結局何も出て来なかったらしいです。
ちなみに、その後調査のために掘った方がいたそうですが、
やっぱり何も出てこなかったそうです。
武田氏に攻められて自刀したのは麓の寺なので、
これは供養塔ではないかと仰られていました。
戸坂入道って誰?
と思われる方がほとんどだと思いますが、
実はこの戸坂入道がいなければ日本の歴史が変わっています。
彼がいなければ、関ヶ原の戦いが起こらなかったかもしれません。
戸坂入道道海は、銀山城落城の際に安国寺恵瓊を助け、
その後安国寺に入れたそうです。
安国寺恵瓊は、小早川隆景の腹心で毛利の外交僧として活躍し、
関ヶ原の戦いでは、大谷吉継や小西行長と謀って、
毛利輝元を西軍の総大将に担ぎあげることに成功します。
最も、最近では輝元は運良ければ天下が転がり込むかもと、
「天下を競望するなかれ」という祖父の遺訓を
「天下が勝手に転がり込むなら遺訓を破ることにはならない」
と解釈して、恵瓊の言葉に輝元自身が乗り気であったともされています。
結局、吉川広家が徳川に内通していたので戦わずして切り抜けることになり、
安国寺恵瓊は首謀者の一人として斬首されます。
と考えるともっと本格的な調査をしてもいいんじゃないかと思うのですが・・・。
さて、この道海の墓のすぐ側の斜面を登ると戸坂城の本丸、
牛田山の頂上です。
まず北西側には主家である安芸武田氏の本城・銀山城が見えます。
※赤い矢印が本丸です。

今日はとっても天気がよくて、
遠くの山が春霞に覆われてうららかでした。
思わず元就の
「春はただ 野山を覆う霞かな」
の句が浮かびました。
しかし、よく見ると奥の方の山には雪が積もって白かったです。
雪なんてもう一カ月以上こっちではふっていないのに、
芸北の方はまだまだ残っているみたいです。
陰陽分岐嶺を挟むと同じ安芸でも随分違うんだなと思いました。
また、南側は瀬戸内海が広がり、
西側は宮島、そして安芸と周防の境が見えます。
※赤い矢印が宮島です。

輝元が作るまで、この眼下に見える広島という地はなかったので、
戦国時代はもっと手前まで海があったと考えられます。
そして、東南に広がる景色も

ところどころに点在する小さな山は全て島であったと考えられます。
因みに赤い線を引いたのは城跡と思われる場所です。
手前の赤いのは多々万比山城、
奥の赤いのは黄金山といい、仁保山城という城がありました。
多々万比山城は大内方の建てたものとされ、
仁保山城の方は白井氏の建てたものとされますが、
武田氏配下の茶臼山城(戸坂城)と似保山城に
サンドイッチされる状態で大内氏が城を建てるのか?という疑問があります。
まあ、広島湾は割と大内氏が攻めてくるとすぐに大内方に寝返ったので
広島湾内が大内側にあったときに支配を強化するために城を建てた可能性もあります。
そのため、大内方が不利になると城代も撤退したので、
多々比山城主が誰かはっきりしないのかもしれません。
こうして自分の眼で確かめると
「そうか!だからここを攻めたんだ!」
と歴史を感じられてとってもよかったです。
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