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銀山城支城?麦田八幡神社

昨年の夏にそういえばと大町まで
ぶらぶら歩いた時に麦田八幡神社によりました。
場所はアトムと山陽道が交差する所で
マックの裏にひっそりと建っている神社です。

mugita3.jpg

神楽殿の後ろに本殿のある典型的な
安芸の神社です。
しかし、この神社驚く事に見事な絵馬がたくさんありました。

mugita2.jpg

古いのは明治くらいかもしれませんが
いずれも保存が悪いためせっかくの絵馬の
色もはがれ、墨も薄くなって読みにくかったです。

この神社は銀山城を治めていた武田氏配下の支城であったそうです。
といっても話を聞いたか、どこかの文献かに載っていたのか
根拠がはっきりしないため、城名や城主名は不明なのですが、
まあ城跡なのは確かだろうなというこん跡はしっかりあります。

例えば
mugita.jpg
この2段構えの作り。
これは以前の土井泉城とまったく同じ作りで
恐らく、下が2の丸、上が本丸だったのだと思われます。
また、写真には写してないのですが
この神社を挟んで住宅地があるのですが
そこの住宅地と神社の道路が凹んでおり、
おそらく堀切りがあったのではないかと
思われるこん跡もありました。

加えて、この神社の周りには不自然なほどぴったりと
水が流れています。
P7210401.jpg
P7210402.jpg

これはおそらく堀の跡と考えられます。


で、この神社の由来は武田氏の一族であった麦田氏が
一族の氏神として天文年間に祀ったのが始まりで
その後武田氏と共に滅亡し、神社として村の鎮守様になった
というのがあさみなみ探索マップの安川ルートに載っていた話の大体なんですが、
天文年間に武田氏氏族が建ててその後滅びたというのがかなり疑問です。
武田氏が滅びたのは天文10年で
武田家衰亡の一途を辿っていた頃に
城の一部を神社にする意味が分かりません。

むしろ飯室と同じように
武田氏一族が滅亡後に城跡に神社を建てたが
その後一族は移転したと考える方がすっきりします。
というのも、この神社が麦田になった別の由来に
元は武田の紋所の”菱”を祭っていたのが
後世村人達が「麦」と誤って伝えたため
という説もあるのです。
実際「麦」の字の旧字は「麥」という字らしく
非常に「菱」に近いようです。
しかし、「麦」と「菱」は字は似ていても音が違うため
語る時に間違えたとは思えず。意図的に隠した感じがします。
また伴や武田など武田氏一族の姓は未だ多く残っているのですが
今まで私が出会ってきた何千人という中に麦田という名を
まだ聞いたことはありません。
よって、これは武田一族の生き残りがわざと伝承をはぐらかして
村の鎮守として祀っていたのではないかなと思いますが
資料が少ないのであくまでも私見です。

で、この神社の下、2の丸部分には地蔵尊があり
お助け地蔵尊と縁結び地蔵尊の2体が
祭られています。

「縁結び地蔵尊の由来
 
 伝説、縁結び地蔵尊は西暦1580年頃よりこの土地の人々に尊敬され
 親しまれきたと言い伝えられています。当時の善男善女は結婚式の当日
 地域から選ばれた2人の若者が三三九度の盃の最中、新郎新婦の前にこの
 地蔵尊を持ち運びました。選ばれた若者は手拭いで顔を隠し、
 「おめでとうございます。末永く幸せになってください」
 と言って地蔵尊を据えて置き、その式場を立退くという習慣がこの地方に受け伝えられ
 西暦1950年頃までとりおこなわれていました。(以下中略)

 お助け地蔵尊の由来

 伝説、古来より当地には勢力のある一族が住まい、
 地域には民家が3~4家であったといわれます。
 当時この地方周辺は海に面していたと言い伝えられています。
 また、麦田山八幡神社裏道は各地への分岐点にあたり
 東は備前・備中・備後路へ、西は周防の国山口、津和野方面へ
 南は海上を利用し九州路へ、北は出雲の国山陰路方面への別れ道となり
 行き交う人々が多かったといわれます。
 (中略)
 当時の僧侶、善導法師、またはご坊とも云っていたそうであります。
 その僧侶が亡くなられた時、住民の手により手厚く葬られ
 通行人の通る山裾に地蔵尊として祭られ日夜灯明の絶え間はなかったといわれています。
 (以下略)」

まず、縁結び地蔵尊ですが
おもしろい風習を残していたんだなと思いました。
惜しむらくは500年近く続いたのに
近年になって宅地化が進んだせいで地域のコミュニティが壊れ
その風習も廃れてしまったことです。

でお助け地蔵ですが
気になるのがかつてここが海であった。
という一文です。
ここの場所ですが現在は海から10kmも離れた場所で
佐東川のように大きな川もなく
いったいいつの時代まで海と称していたのか非常に疑問です。
もっとも、昔は船でいけるところまでは
全て海と言っていたようですし、
明治時代の写真をみると長束のあたりまで
大きな帆船が上がっていたこと、
祇園の周辺に今津、帆立という地名があることから
祇園まで海というか船の航行は可能であったのは
確実だと思います。
まあ更に奥の沼田で鯛が釣れたという話もあるぐらいなので
正真正銘の海だったのかもしれませんが・・・。
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Re: No title

上安に鯛の迫という字があったのですね。知りませんでした。
鶏頭原薬師堂の側なんでしょうか。
長楽寺付近の安川に皆が「主」と呼んでいた大きな鯉がいるのは
何度も見ているんですが、鯛はさすがに想像しにくいです。
もう少し地名の由来を調べればどこまで海と思っていたのか
分かりそうな気がします。

No title

以前私が住んでいた上安のすぐ近くに「鯛の迫」という地区があり、やはり鯛が取れていたことからできた地名と聞いていたので、あんな山間も昔は海だったんでしょうね。
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主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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