雄高山滞在日記~滝と大河と兄弟関係~
前回の多分日本初の慰安旅行の続き
雄高山滞在日記の後半。
「29日晴天 御両殿様御女中様へ御礼
御裏御座敷
竹原にし殿様 平賀殿(廣相)
御新造様 連花寺御相伴
東殿
元就様より 御女中様へ
薄板 4おもて 千ひ哉
厚板 1おもて 御榑十荷折三合
同東殿様へ
薄板 2おもて 千ひ哉
隆元様より 御女中様へ
厚板 2おもて 榑十荷折五合
同東殿様へ
薄板 2おもて 千ひ哉
30日晴天、梨子羽殿御一献、御座敷者
桂右左衛門大夫私宅にて催された。
御相伴・隆景様、平賀殿、保利殿、熊谷殿
このほか吉田からお伴の衆も一緒に行った。
閏3月1日晴天、御会所において
御湯漬 五三々膳別紙にあり
能初
脇 難波梅 田村 定家 鞍馬天狗 鈴木
皇帝(楊貴妃) 卒塔婆小町 杜若 白楽天
芝居へ樽折りを与える
贈り物のやりとり
2日晴天、高間において連歌の会
御連衆、元就様、隆元様、隆景様、渡邊、渋川、桂
粟屋、勝都勾當 宗俊、宗賢、松下、景順、
南三河守、寶吉上総介
御発句併せて脇第3
「何人」
若木より見ん世も久し花の春 元就
霞の月にかはく松が枝 隆元
嵐も長閑なる夜の明初て 隆景
同日、蹴鞠の会
同日、太平記の講義を隆元が常の御茶の湯のまにて行い
そのまま奥座敷に泊った
3日晴天、会所にて贈答品の交換
4日しのつく雨、巨眞寺にて隆景様とお供衆との顔合わせ
5日晴天、帰る前の顔合わせ
能初 厳島大夫御宇衆が出た
脇 老松 小か 誓願寺 ぬえ 三輪
羽衣 西行桜 呉羽
座敷に来られた人数50人
御湯漬 贈り物のやりとり
6日晴天、元就・隆元から隆景へ太刀の贈り物
隆元から隆景へ鷹を一頭渡す
栖眞寺で滝を観て元就・隆元は吉田へ帰った。
隆景も寺まで見送りに付き添い、
近従達も側につきそい、座敷には100人余りがいた。」
ええっと日付じゅんから行くと
29日は女中に贈り物をしているとあるんですが
ここは女中ではなく、身分的には奥方様だと思われます。
というのも、御新造様とは「奥様」という意味で
現在もよく耳にするので女中という意味が昔は違ったのだろうと思われます。
で、この御新造とは隆景妻と思われます。
次に竹原にし殿、東殿ですが
隆景は生涯側室を取らなかったのでこの二人は隆景の義母と思われます。
おそらく竹原にし殿は竹原と名がつくことから先代竹原小早川氏の正妻
小早川興景の妻で元就の姪と思われます。
で贈り物をみるに、姪よりも東殿に気をつかっているので
この東殿が隆景妻の母、沼田小早川家の先代の正妻だと思われます。
うん、相手方の姑さんには気を遣わないといけんですよね。
よいしょと持ち上げんといけんのをよう分かってです、元就さん。
で贈り物というか御世話になってます。
という意味でのプレゼントですが
・・・板?
本当にただの板?
とすごく疑問なのですが、厚板の下に榑(くれ)とあります。
榑とは板材や薪のことなのでやっぱり板なんだと思われます。
まあ閏3月1日の時には服も贈っているようなので
板以外も贈っているようですが
ううん板ってそんなに貴重品なのでしょうか?
すごく疑問です。
まあ煮焚きするなら確かに木材は有難いです。
食材は流石に持って行けないから焚きつけでもという感じだったのでしょうか。
閏3月1日ですが、能の演目がようわかりません。
多分定家は六歌仙の定家のことで
白楽天や杜若は古典でちらっと名を見た事があるんですが
卒塔婆小町とか田村とか鈴木とか名前?
という演目なのかどうかよく分からないのもあります。
そして役者さんへはおひねりとして樽を渡したあるので
お酒でも振舞ったのでしょう。
2日は連歌の会をしたようです。。
連歌は春霞集をまだ訳しきっていないのでまだ分からないのですが
「何人」という題で始まりそれぞれ句を詠んでいったようです。
「若木より 見ん世も久し花の春 元就」
歌意:まだこの木が小さい頃からよく見ていたが
久しぶりに見てみると立派に花をつけている。
それと同じように若木のように小さかったお前が
このように立派に成長していて父さん嬉しいなあと思う春。
「若木より 見ん世も久し 花の春
霞の月に かはく松が枝」(下の句・隆元)
歌意:久しぶりに見た若木が花をつけて春の盛りにある。
霞む月に照らされて松の枝の露が乾いていくように
弟のお前が立派にやっていて
お前を案じる気持ちが和らいだよ。
「若木より 見ん世も久し 花の春
嵐も長閑なる 夜の明初て」(下の句・隆景)
歌意:嵐のように戦で忙しい今だけど
こうして父さんと兄さんが来てくれたから
長閑な日々を過ごせることが出来ました。
これから困難な事があるかもしれませんが
辛い夜が明けてその先にはきっと何かが待っていると信じ
どんなことが起こっても頑張って行こうと思えます。
連歌ですが多分元就さんのが発句なんじゃないかと思われます。
で、続いて席順に詠んでいったのかなと思いました。
まず元就さんの部分ですが、
小さかったお前がこんなに立派になって
父さん感激!という感じの歌です。
まあ実際家中の重臣クラスを招いて恙無くこなしたので
さすが将来5大老として外様ながら豊臣政権のトップにつくだけの
有能ぶりです。
で、隆元お兄ちゃんですが、「かはく」の部分が
変態仮名のため正直自信はないのですが
隆元の歌を受けて隆景が嵐を詠んだとすれば
松の枝の上には露があるはずで
それが「乾く」であれば意味が通じます。
ここでの露は恐らく隆元の隆景に対する
弟に対するハラハラとした心配する気持ちだろうと思います。
というのも隆元は隆景が山口に行く際、
父やすぐ下の弟には何も言わなかったのに
末っ子の隆景だけには山口で粗相のないようにと
事こまかな注意書きを手紙で送るほど心配性でした。
まあ10歳離れていると
兄弟というより親子のような感覚だと
年の離れた妹・弟を持つ子が言っており
実際、隆景も父の元就でなく
兄の隆元に反抗期らしきことをしていた時期もあるので
2人の間柄は兄弟よりも親子に近い感覚だったのかもしれません。
で、最後の隆景の歌ですが
「嵐」というのは隆元の隠された露という言葉にかかっています。
この嵐ですが、現在北九州の西口と出雲・石見の北口の両面で
戦を行っている最中です。
そんな忙しい時期だからこそ、この一週間は世俗を忘れて
のんびりと過ごせた貴重な時間だったのだろうと思われます。
というか、戦国時代なのに家族旅行&慰安旅行に出かけたのは
多分毛利さん家ぐらいだと思われます。
で蹴鞠をしたようですが
元就さんもたしなんでいたようです。
さすがサンフレッチェの語源の方!
そうかこれが繋がっていくのかと変な深読みをしました。
それから隆元が太平記の一節を講義したようですが
元々毛利さん家は武士というより学者の家系なので
本好きな人が多かったようです。
元就の孫にあたる元春の長男・吉川元長においては
「今から急に戦に行く事になったんだけど本貸して!」
と友達に宛てた手紙が残っており、
まるで旅行準備をするように
本を戦場に持っていくぐらい本好きな一族だったようです。
でこの講義が行われたのが常の茶の間とあり
この時代に茶の間が城に存在していたのに驚きました。
雄高山城は、よく時代劇に出てくるような天守のある城ではなく
戦で攻め込まれても大丈夫なように防御重視、戦重視の
険しい山の上に立つ山城なのです。
茶の湯をもてはやした織田信長や跡を継いだ秀吉などが
持ちあげたために茶の湯は武家の必須のたしなみとして広まっていったと
思っていたのですがこの雄高山滞在はまだ永禄4年。
永禄3年が桶狭間の戦い。
つまり信長がようやく台頭した頃にすでに茶室のある城があった。
ということになり、千利休などの有名人が出る前から
脈々と受け継がれていた文化なのだなと思いました。
もっとも隆景の場合、新し物好きで凝り性なので
どうせ作るなら一番いいもので!
と最新鋭のものを作った可能性はありますが。
で、6日にいよいよ吉田に帰ります。
栖眞寺で滝を観たようですが、
滝。
ああ、そういえば「ひろしまにあ」で
大河の元就のオープニングの滝が本郷のそばにあったなあと
調べると「女王滝」(http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/mihara/spot/1027.html)
あ、三原だ!
ひょっとしてこの滝か?
だとしたら、大河のOPで本人も見た滝が使われていたらすごい!
と思って「栖眞寺」を調べると近くに「棲真寺」というお寺がありました。
「眞」は「真」の旧字です。
「栖」は辞書で調べると「棲みか」なので
見事に合致します。
また、「棲真寺」は寺の由来に小早川氏の開基した古寺とあり
読みも同じ「せいがんじ」なのでまず一緒のお寺と考えてよさそうです。
「栖眞寺」が「棲真寺」になった経緯はわかりませんが
江戸時代に荒廃したのでその後復興した時に
同じ意味と音にしたのかもしれません。
また、この寺は雄高山から5kmと隆景が見送りにいくのも
距離的に丁度良いです。
おお!これで女王滝に決定!
と思ったら、お寺のさらに近くに「瀑雪滝」なるものが・・・。
これも名所として知られているらしいです。
で道を見るとこの瀑雪滝は吉田へ帰る道からちょっと脇に行くだけ。
対して女王滝は沼田川沿いからあがると大変なようです。
60越えたおじいちゃん集団が滝見物するとなると
どう考えても瀑雪滝のほうがいいです。
ううん、惜しかったなあ。
しかし何でせっかく元就も見たと正式記録にある滝でなく
少し離れた女王滝なのかと調べると
姿は女王滝のほうが美しいようです。
パワフルなじいちゃん達なので
もっといいのが見れると知ったら
喜び勇んで行きそうなんですが
隆景の家臣と併せて数十人で動いているので
多分無理でしょうなあ。
ううん、おしい!
雄高山滞在日記の後半。
「29日晴天 御両殿様御女中様へ御礼
御裏御座敷
竹原にし殿様 平賀殿(廣相)
御新造様 連花寺御相伴
東殿
元就様より 御女中様へ
薄板 4おもて 千ひ哉
厚板 1おもて 御榑十荷折三合
同東殿様へ
薄板 2おもて 千ひ哉
隆元様より 御女中様へ
厚板 2おもて 榑十荷折五合
同東殿様へ
薄板 2おもて 千ひ哉
30日晴天、梨子羽殿御一献、御座敷者
桂右左衛門大夫私宅にて催された。
御相伴・隆景様、平賀殿、保利殿、熊谷殿
このほか吉田からお伴の衆も一緒に行った。
閏3月1日晴天、御会所において
御湯漬 五三々膳別紙にあり
能初
脇 難波梅 田村 定家 鞍馬天狗 鈴木
皇帝(楊貴妃) 卒塔婆小町 杜若 白楽天
芝居へ樽折りを与える
贈り物のやりとり
2日晴天、高間において連歌の会
御連衆、元就様、隆元様、隆景様、渡邊、渋川、桂
粟屋、勝都勾當 宗俊、宗賢、松下、景順、
南三河守、寶吉上総介
御発句併せて脇第3
「何人」
若木より見ん世も久し花の春 元就
霞の月にかはく松が枝 隆元
嵐も長閑なる夜の明初て 隆景
同日、蹴鞠の会
同日、太平記の講義を隆元が常の御茶の湯のまにて行い
そのまま奥座敷に泊った
3日晴天、会所にて贈答品の交換
4日しのつく雨、巨眞寺にて隆景様とお供衆との顔合わせ
5日晴天、帰る前の顔合わせ
能初 厳島大夫御宇衆が出た
脇 老松 小か 誓願寺 ぬえ 三輪
羽衣 西行桜 呉羽
座敷に来られた人数50人
御湯漬 贈り物のやりとり
6日晴天、元就・隆元から隆景へ太刀の贈り物
隆元から隆景へ鷹を一頭渡す
栖眞寺で滝を観て元就・隆元は吉田へ帰った。
隆景も寺まで見送りに付き添い、
近従達も側につきそい、座敷には100人余りがいた。」
ええっと日付じゅんから行くと
29日は女中に贈り物をしているとあるんですが
ここは女中ではなく、身分的には奥方様だと思われます。
というのも、御新造様とは「奥様」という意味で
現在もよく耳にするので女中という意味が昔は違ったのだろうと思われます。
で、この御新造とは隆景妻と思われます。
次に竹原にし殿、東殿ですが
隆景は生涯側室を取らなかったのでこの二人は隆景の義母と思われます。
おそらく竹原にし殿は竹原と名がつくことから先代竹原小早川氏の正妻
小早川興景の妻で元就の姪と思われます。
で贈り物をみるに、姪よりも東殿に気をつかっているので
この東殿が隆景妻の母、沼田小早川家の先代の正妻だと思われます。
うん、相手方の姑さんには気を遣わないといけんですよね。
よいしょと持ち上げんといけんのをよう分かってです、元就さん。
で贈り物というか御世話になってます。
という意味でのプレゼントですが
・・・板?
本当にただの板?
とすごく疑問なのですが、厚板の下に榑(くれ)とあります。
榑とは板材や薪のことなのでやっぱり板なんだと思われます。
まあ閏3月1日の時には服も贈っているようなので
板以外も贈っているようですが
ううん板ってそんなに貴重品なのでしょうか?
すごく疑問です。
まあ煮焚きするなら確かに木材は有難いです。
食材は流石に持って行けないから焚きつけでもという感じだったのでしょうか。
閏3月1日ですが、能の演目がようわかりません。
多分定家は六歌仙の定家のことで
白楽天や杜若は古典でちらっと名を見た事があるんですが
卒塔婆小町とか田村とか鈴木とか名前?
という演目なのかどうかよく分からないのもあります。
そして役者さんへはおひねりとして樽を渡したあるので
お酒でも振舞ったのでしょう。
2日は連歌の会をしたようです。。
連歌は春霞集をまだ訳しきっていないのでまだ分からないのですが
「何人」という題で始まりそれぞれ句を詠んでいったようです。
「若木より 見ん世も久し花の春 元就」
歌意:まだこの木が小さい頃からよく見ていたが
久しぶりに見てみると立派に花をつけている。
それと同じように若木のように小さかったお前が
このように立派に成長していて父さん嬉しいなあと思う春。
「若木より 見ん世も久し 花の春
霞の月に かはく松が枝」(下の句・隆元)
歌意:久しぶりに見た若木が花をつけて春の盛りにある。
霞む月に照らされて松の枝の露が乾いていくように
弟のお前が立派にやっていて
お前を案じる気持ちが和らいだよ。
「若木より 見ん世も久し 花の春
嵐も長閑なる 夜の明初て」(下の句・隆景)
歌意:嵐のように戦で忙しい今だけど
こうして父さんと兄さんが来てくれたから
長閑な日々を過ごせることが出来ました。
これから困難な事があるかもしれませんが
辛い夜が明けてその先にはきっと何かが待っていると信じ
どんなことが起こっても頑張って行こうと思えます。
連歌ですが多分元就さんのが発句なんじゃないかと思われます。
で、続いて席順に詠んでいったのかなと思いました。
まず元就さんの部分ですが、
小さかったお前がこんなに立派になって
父さん感激!という感じの歌です。
まあ実際家中の重臣クラスを招いて恙無くこなしたので
さすが将来5大老として外様ながら豊臣政権のトップにつくだけの
有能ぶりです。
で、隆元お兄ちゃんですが、「かはく」の部分が
変態仮名のため正直自信はないのですが
隆元の歌を受けて隆景が嵐を詠んだとすれば
松の枝の上には露があるはずで
それが「乾く」であれば意味が通じます。
ここでの露は恐らく隆元の隆景に対する
弟に対するハラハラとした心配する気持ちだろうと思います。
というのも隆元は隆景が山口に行く際、
父やすぐ下の弟には何も言わなかったのに
末っ子の隆景だけには山口で粗相のないようにと
事こまかな注意書きを手紙で送るほど心配性でした。
まあ10歳離れていると
兄弟というより親子のような感覚だと
年の離れた妹・弟を持つ子が言っており
実際、隆景も父の元就でなく
兄の隆元に反抗期らしきことをしていた時期もあるので
2人の間柄は兄弟よりも親子に近い感覚だったのかもしれません。
で、最後の隆景の歌ですが
「嵐」というのは隆元の隠された露という言葉にかかっています。
この嵐ですが、現在北九州の西口と出雲・石見の北口の両面で
戦を行っている最中です。
そんな忙しい時期だからこそ、この一週間は世俗を忘れて
のんびりと過ごせた貴重な時間だったのだろうと思われます。
というか、戦国時代なのに家族旅行&慰安旅行に出かけたのは
多分毛利さん家ぐらいだと思われます。
で蹴鞠をしたようですが
元就さんもたしなんでいたようです。
さすがサンフレッチェの語源の方!
そうかこれが繋がっていくのかと変な深読みをしました。
それから隆元が太平記の一節を講義したようですが
元々毛利さん家は武士というより学者の家系なので
本好きな人が多かったようです。
元就の孫にあたる元春の長男・吉川元長においては
「今から急に戦に行く事になったんだけど本貸して!」
と友達に宛てた手紙が残っており、
まるで旅行準備をするように
本を戦場に持っていくぐらい本好きな一族だったようです。
でこの講義が行われたのが常の茶の間とあり
この時代に茶の間が城に存在していたのに驚きました。
雄高山城は、よく時代劇に出てくるような天守のある城ではなく
戦で攻め込まれても大丈夫なように防御重視、戦重視の
険しい山の上に立つ山城なのです。
茶の湯をもてはやした織田信長や跡を継いだ秀吉などが
持ちあげたために茶の湯は武家の必須のたしなみとして広まっていったと
思っていたのですがこの雄高山滞在はまだ永禄4年。
永禄3年が桶狭間の戦い。
つまり信長がようやく台頭した頃にすでに茶室のある城があった。
ということになり、千利休などの有名人が出る前から
脈々と受け継がれていた文化なのだなと思いました。
もっとも隆景の場合、新し物好きで凝り性なので
どうせ作るなら一番いいもので!
と最新鋭のものを作った可能性はありますが。
で、6日にいよいよ吉田に帰ります。
栖眞寺で滝を観たようですが、
滝。
ああ、そういえば「ひろしまにあ」で
大河の元就のオープニングの滝が本郷のそばにあったなあと
調べると「女王滝」(http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/mihara/spot/1027.html)
あ、三原だ!
ひょっとしてこの滝か?
だとしたら、大河のOPで本人も見た滝が使われていたらすごい!
と思って「栖眞寺」を調べると近くに「棲真寺」というお寺がありました。
「眞」は「真」の旧字です。
「栖」は辞書で調べると「棲みか」なので
見事に合致します。
また、「棲真寺」は寺の由来に小早川氏の開基した古寺とあり
読みも同じ「せいがんじ」なのでまず一緒のお寺と考えてよさそうです。
「栖眞寺」が「棲真寺」になった経緯はわかりませんが
江戸時代に荒廃したのでその後復興した時に
同じ意味と音にしたのかもしれません。
また、この寺は雄高山から5kmと隆景が見送りにいくのも
距離的に丁度良いです。
おお!これで女王滝に決定!
と思ったら、お寺のさらに近くに「瀑雪滝」なるものが・・・。
これも名所として知られているらしいです。
で道を見るとこの瀑雪滝は吉田へ帰る道からちょっと脇に行くだけ。
対して女王滝は沼田川沿いからあがると大変なようです。
60越えたおじいちゃん集団が滝見物するとなると
どう考えても瀑雪滝のほうがいいです。
ううん、惜しかったなあ。
しかし何でせっかく元就も見たと正式記録にある滝でなく
少し離れた女王滝なのかと調べると
姿は女王滝のほうが美しいようです。
パワフルなじいちゃん達なので
もっといいのが見れると知ったら
喜び勇んで行きそうなんですが
隆景の家臣と併せて数十人で動いているので
多分無理でしょうなあ。
ううん、おしい!
スポンサーサイト