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公開講座「月山富田城とその城下町」講義録とその感想

公開講座に行って参りました。
今回は月山富田城の城下町の発掘調査を元にした講座で
石見銀山文化センターの方のお話でした。

講義の前にお知らせがありました。
何でも10月26日から出雲大社の横の博物館で
「尼子氏」の企画展をするんだそうです。
何でも尼子氏だけでなく
鰐淵寺の元就さんの寿像や
尼子氏の子孫の方が持ってた晴久の肖像等
出雲の戦国時代の企画展らしく
ものすごく興味を惹かれました。

あと、9月30日の郡山城清掃ツアー。
史跡巡って普段は行けない竪堀付近とかの草を刈る。
うわ、ぶちいきたい!
と思ったんですが、その日は宮島で囲碁合宿。
ううん、行きたかったなあ・・・。

あ、で講座ですが
月山富田城は尼子氏が拠点とした城で
堀尾氏が1611年に城を松江に移すまで
出雲の県庁のような機能をはたしていた城です。

その城下町ですが、堀尾氏が松江に移った後も
大きな町であったようですが、寛文6年の大水で町は水没し
辛うじて残った5町を初代・広瀬藩藩主が対岸の広瀬に移し
現在の広瀬の町ができたようです。
水没した町は川の底になり、
たたら製鉄で出る膨大な砂に埋もれたわけですが
製鉄も衰え、川岸を工事していると中世の町の跡がでてきたので
発掘調査を行ったそうです。

その時に町の区割りや磁器などの当時の生活を伺わせるものが多数発掘され
当時の城下町の様子がわかったそうです。

例えば、町屋。
当時はまだ礎石なしの地面に柱を直接建てた掘立小屋で
居間の板じきの場所には床下に直接石を並べて
其の上に板を並べるといった簡素なもの。
一応うなぎの寝床のように間口3間(もしくは6間)、奥12間となっていたようですが
道路に面した表の家の後ろはほぼ空き地で
庭木などはあったようですが
現在のように奥まで建物があるわけではなく
広い庭だったようです。

庭にはトイレがあって、一応植え込みで囲われていたようです。
お隣とは雨落溝という排水溝で区切られていて
排水も考えられた区割りだったようです。

町は主要道の道幅が6間と広く
貸家もあるほど町として賑わっていたようです。

出てきた出土物の中には
青花・青磁・白磁といった中国の焼き物
蕎麦茶碗といわれる朝鮮焼き物
などが出てきており、海外との活発な交流が見られるそうです。
因みに青花は景徳鎮、青磁は乾隆窯と
何でも鑑定団でよく聞く名前のものばかり。
加えて蕎麦茶碗の他にも天目茶碗と
頭の中で一、十、百、というカウンターが勝手に回るほど
現在でも高価な品ばかりです。
もっともかけているからそこまで価値はあがらんと思いますが。

珍しいのは白磁のお皿だそうで
中国で焼かれたのに天文の銘があり
注文して焼いたのではないかと仰られてでした。

いずれも茶で使うもので
富田の城下町でも茶の文化が入っていたことを証明するものなんだそうです。

あと興味深かったのが
一度富田の町は江戸の前に水没している事。
時代は不明らしいのですが
沈む前の江戸の遺構と町の区画がずれているところがあるんだそうです。
まあ第一次の月山富田合戦で元就さんが
味方助けるために増水した川に大将一人でつっこんだので
富田川自体が暴れ川だったのかもしれません。

次に富田城のほうですが
山中御殿と呼ばれる広い敷地があり
そこには現在も立派な石垣が残っているそうです。
といっても元はかなり崩れていたらしく
大河の元就をした時に地元の方が整備しちゃったんだそうです。
大河万歳!
まあ、経久役の緒方さんかっこよかったもんなあと思います。
ヒールだけど嬉しがってましたなあ尼子先生。

あ、で菅谷口というところが大手の跡らしく
そこからは李氏朝鮮の瓦が出ているんだそうです。
朝鮮出兵の後、吉川広家が朝鮮の陶工を何人か連れて帰っているので
その人が焼いたものかどうかわからないんですが
そういう背景から多分広家の時代のものだろうと仰ってでした。

それと月山富田城の最も上には
神社があるんだそうです。
勝日高守神社といって出雲風土記にも出てくる式内社という
大変由緒正しい神社だそうです。

月山自体が巫に見建てられやすい地形なので
その関係もあったのではないかと言われちゃってでしたが
城に城より古い寺や神社があるのって
郡山城のみかと思っていたんですが
宮島も宮尾の城や勝山城あったんだから
案外城と信仰の場所は共存したいたのかなと思いました。

あ、で城跡ではなく
晴久の叔父のいた新宮谷の館跡から
将棋の駒がみつかったとそういえば昔大ニュースになっていたなあ
と講義聞きながら思いだしました。
駒は王将のみがみつかっていて
現在より一回り大きいんだそうです。
将棋盤は見つからなかったようですが
塩治のほうでみつかったので
さすが島根と思いました。

その後質疑応答になったんですが
ううん・・・。
質問がみなさん発掘調査外の事を聞かれる方もいちゃって
講義の先生も少し困ってでした。

あ、でも答えて頂いた解答は分かりやすかったです。
例えば、石垣は1580年代になるまで
芸備石では築かれなかったから
2の丸・3の丸の石垣は尼子氏の後だとか
勝山城や経羅木山に登る時のコースとか。

特に山城は現在のように木が茂っていたのか
それとも綺麗に刈り取っていたのか
はいい質問だなあと思いました。
木が茂っていると上から矢を射たりしづらいですし
逆に木がないと雨がふると土が崩れて大変です。
だから山城ってどんな姿だったのか
というのは非常に気になります。
もっとも、江戸時代の城は斜面に生えている木は
そのまま生やしていたようなので
刈らずにいた可能性もあるんだそうです。

よく考えたら清神社の杉なんてそのままだし
丸裸ってわけではない気がします。
それに神社があったのなら社叢はあるんですから
月山富田城も上に神社があったのなら
丸裸ってわけではなかっただろうなあと思いました。

それに元就さんの詩を見ている限り
藤を観賞したり、桜が生えていたりと
城の中にも普通に庭木があるようですし
木がまったくないというわけではなさそうです。

あとやたら佐々木氏が尼子氏と関係あるのかないか
つっこんで方がいましたが
尼子氏は佐々木氏です。
佐々木氏は宇多天皇の流れを組む源氏で
六角氏、京極氏はこの流れです。
よって京極氏の支族である尼子氏は佐々木氏の流れであり
まったくの無関係ではありません。
なので子孫の方が憚って佐々木を名乗ったのは
こじつけでも何でもなく
本姓は源氏でも佐々木が名だからです。

あ、でも尼子晴久の肖像の大紋が塗りつぶされたものとは知りませんでした。
最初から白い服だったのかなと思っていたんですが
子孫の方がやはり主家を気にして塗りつぶしたんだろうと
おっしゃってでした。

元就・輝元共に尼子氏を降した後も
丁重に扱っていたんですが
尼子氏は尼子氏で毛利氏を主君と仰ぐからにはと
覚悟を決めて生きていったんだなあと思います。
色々なエピソード見る限り。

あと、尼子氏は山陽進出したのになぜ広瀬のまま拠点を山陽に動かさなかったんだ。
という質問がありましたが
ううん、その方には是非鎌倉時代の島根の地図を見て欲しいです。
多分あれと同じ感覚だと思われます。
すなわち出雲中心、
安芸や備後、備中は上にある感じのあれです。
なので南に向かおうというよりは
とりあえず周辺の国をくだしていったという気がします。

先生もようちゃってでしたが
尼子経久は美保関や木築など水軍を重視していました。
そこを押さえる事で交易の拠点を握って
軍事費などに充てていたふしがあります。
発掘調査で出てきた遺物はそれを十分に裏付けています。
よって広瀬は出雲にしては東に偏り過ぎてはいるのですが
城から中海を望める等、防備するには一番最適だったと思われます。

とはいえ、戦の世が終わると不便なことは確かで
松江に城が移されてはしまうんですが
それでも広瀬藩の中心として栄えた広瀬。
尼子氏のつかった鷺の湯温泉もあるし、
一度行ってみたいものです。
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合戦における戦術について⑫第一次月山富田城の合戦

皆さんこんばんは。今回は「合戦における戦術について」シリーズの第12弾ということで「月山富田城の合戦」について書きます。『歴史と旅』増刊「日本合戦総覧(昭和63年1/10臨時増刊、秋田書店)」の作家の祖田浩一氏の記事を参考にしています。参考第1弾 勝弦峠の合戦第2

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