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公開講座録「毛利元就と井上元兼」

日曜は今年度最後の公開講座に行って参りました。
元就さん関係だからか、若い方もようけえおっちゃって
随分賑やかでした。
声をかけたら友達になれるかなあと思いながらもそんな勇気がなかった・・・・。

あと週間天気予報は雪で、
しかも吉田の友に、
雪の勢いすごいから早めに出んさいと忠告を受け
不安に思いながら行ったんですが
幸いにも吉田では雪が舞うぐらいで
交通機関に影響もなく無事着けました。
清神社よったりもできたし、
早めに行って正解でした。

で講座。
井上元兼率いる井上一族について、
元就研究の第一人者、広島県立大学の秋山先生がお話されました。

まず、歴史を学ぶ時に考えさせられるのが人生の節目です。
今までと違う大きな人生の転換点。
その節目でどう行動して変わるのかを学ぶのが歴史のめあてだと私は思うのですが
元就さんの場合、結構たくさんの節目があります。
合戦でいえば初陣の有田合戦に厳島合戦、
外交でいえば尼子氏から大内氏への転換
政治面でいえば家督相続から国人一揆の締結など
様々な大きな節目があります。
しかし、秋山先生は天文19年が一番大きな節目であったのではないか
とおっしゃられてました。
天文19年は元春が吉川家の城に移り、隆景が沼田小早川を相続、
両川体制と呼ばれる本家を補佐する仕組みを作り上げた年です。
また、もう一つ、井上一族の誅伐がありました。

まず井上一族ですが
彼らは福原氏や桂氏などのように親族から派生した家臣でもなければ
代々が毛利家に仕えていた家臣の家ではありません。
元々は信州の源氏だったらしく
正式名では源を名乗っています。
では、何時ごろから毛利家に仕えだしたか。
一応、井上一族は誅伐されても何人かは生き残ってそのまま仕えているので
井上氏関連の書状も多数残っており、
その中で一番古く毛利家から感状を貰っているのが
明応4年に弘元が出した書状なんだそうです。
ただし、美文すぎてこれは怪しいんじゃないかと先生がおっしゃってでした。
「首42を打ち捕って・・・・」
と感状にあるのは毛利家の戦の規模を考えると大きすぎて変。
なんだそうです。
その感状に併せて井上家が三星に上という家紋を頂いたとあるのも妙だとおっしゃってでした。

なので、一番確実なのは明応8年の国司有相に
井上元兼が出したとされる書状なんだそうです。
閥閲禄巻の93の書状には、
「行永の地を頂いたので近従として奉公します。」
という文があり、これが毛利家の家臣として仕えたという文献ではないかと仰ってでした。
よって井上家が臣下になったのは明応年間と特定できるそうです。
もっとも、惣領の元兼が従ったのが明応年間ということであり、
もっと下の井上一族の中にはもっと早くから臣従していたのではないか
と仰ってでした。

では、家臣として仕える前の井上一族は何をしていたのか?
彼らは毛利氏と同様の国人領主であった。
と先生は仰ってでした。
理由は2つあり、まず一つ目は閥閲禄の壬生氏の書状。
壬生氏は武田氏が攻めてきた時に武田方になったのですが
後に吉川・毛利の国人一揆側に戻ります。
勿論、味方だったのに敵が攻めてきたからと翻ったわけなので
ただでは許されないのですが、
この時、間に三田氏と井上氏が仲介に入ったとあります。
三田氏は安佐北区白木の三田を本拠とする
中郡衆(なかごおりしゅう)と呼ばれる国人衆の一人です。
この三田氏と同列に井上氏の名が挙げられており、
毛利家の家臣ではなく、三田氏と同じ国人衆であったと考えられるそうです。

また、井上氏が毛利氏に完全に臣従していなかった証拠として
元就の異母妹が井上氏に嫁いでいることが挙げられるそうです。
元就の同母姉は武田氏の一族に嫁ぎ、
異母妹は吉川氏、渋川氏、井原氏、井上氏に嫁ぎました。
いずれも同じ国人層に嫁いでいます。
そもそも惣領の娘は家内には嫁がずに
同盟の強化や家同士の結びつきを考えて行われます。
よって、井上氏に弘元の娘が嫁いでいるのは
井上氏が井原氏・吉川氏と同様、
国人層であったからではないかと仰ってでした。

加えて、井上氏は中郡衆の国人であったのではないか
とも推測されてでした。
理由として、壬生氏の書状に三田氏と一緒に出てくること、
もう一つが中郡の市川氏が井上一族の誅伐の時にやはり誅伐されているから
だと仰ってでした。
この市川氏は白木の西条へ抜ける交差点のちょっと奥にある場所で
ここを本拠にしていたそうです。
そしてこの市川氏が誅伐されたのは井上一族と血縁関係、
というより市川氏が本家で、
だから井上氏の誅伐に際して一緒に討ったのではないかと言われてでした。

そう言われると確かに、井原氏と井上氏に弘元が娘を嫁がせたのは
吉田の入り口にあたる白木の中郡衆との連携を深めるため
と考えるとすっきり納得できます。

また、吉川氏一族で元春の家督相続に助力した吉川経好。
彼はその後、吉川の名を憚って市川に改名して市川経好と名を改めたとされます。
この時に市川の地を元就より貰ったことに由来するようですが
では何故中郡の市川を与えられたかというと
闕所補充であったと考えられるそうです。

では譜代家臣ではない井上一族。
彼らを何故誅伐したか?

それは井上一族が譜代でもないのに
毛利家家内で非常に大きな勢力を築いていたからなんだそうです。
まず、弘元が亡くなり、興元・幸松丸と当主が相次いで亡くなったため
次の当主を誰にするかで家臣団がもめました。
この時、元就は次男で正妻腹という有利な条件があったのですが
分家していたため、家督相続には少しひっかかる所がありました。
協議の結果、元就が当主となったのですが、
元就は意見が割れた事もあり、
家臣団に連署状を出させます。
この時、主だった家臣の15人中、5名が井上の名を名乗っています。
譜代を押さえての井上一族の数もさることながら、
享禄の起請文では32人中9人を占めていました。
享禄年間は中郡の国人衆も入れての数なので
その内9名ということは井上氏の勢力は増加していると考えられるんだそうです。
元就はこの井上氏の支持があったからこそ家督を相続できました。
では井上氏が元就を選んだのはなぜか。
井上氏は元就の母方の実家の福原氏と懇ろであり、
母方の福原氏と井上氏、そして執権の志道広良の支援あっての
選挙結果でした。

なので元就さんは井上一族には大きな借りがありました。
しかし、この井上一族はかなりの大勢力。
厳島合戦前の毛利家は3000人ぐらいの動員数しかないのに
元就の書状によれば井上氏は主だったもので200~300人、
雑兵などを入れれば500~1000人と3分の1を誇る軍事力を持っていました。
それが協力してくれればいいのですが
元就の書状によると評定には出ない、段銭などもきちんと払わない、
座る場所で無理を言う、家臣のケンカで勝手に人を斬る等々
井上氏には相当我慢していたようです。
興元兄さんが亡くなってから40年間ずっと我慢していた!
井上一族に仕えるようにしていた悔しさといったら

と息子に訴えるぐらい根深いものだったようです。

特に、田畑の横領。

その項目には昔自分の領地も横領したことを挙げています。
兄が京都へ行っている間に井上元盛が横領して困窮したが
元兼が亡くなったのでようやく土地を返してもらえたと手紙にも記しています。
一般的には井上元兼は元就の家督相続にも記名しており
これは元就の記憶違いではないかと言われることもあるのですが
先生によると多治比を横領したのは元兼の父の元兼ではないかと仰られてでした。
というのも大永3年の井上元兼は源三郎を名乗っており
享禄5年は中務丞元盛と名乗っています。
そして弘元時代の元盛は中務丞を名乗っており、
これから多治比を横領した元盛は元就の家督相続を支持した元盛をは違うのではないか
と言えるそうです。

元就じいちゃんの記憶違い、
というわけではないようです。
しかし積年の我慢はかなり限界だったようで
天文19年7月12・13日。
井上一族の誅伐を決行しました。

一族の主だったものが討たれたようで
井上与三郎、与四郎、井上元重父子、井上河内守元兼、源五郎就兼、市川父子
が討たれたとされます。
この内、井上与三郎だけなぜか12日に「たかはら」で討たれたとされています。
一人だけ日にちが違うのと、
「たかはら」は竹原ではないかと憶測されることが多いため
隆景が手を降したように書かれている本が多いです。
しかし、先生によればこの「たかはら」は吉田の「たかはら」ではないかと仰られていて、
それを聞いた地元のじいちゃん達もはあと納得しとってでした。
なので「たかはら」は地名ミスではないようです。

ここまでの誅伐に踏み切ったのは
自分の土地を小さい頃に横領されたから斬った
だけではないようです。
元就さん自身は井上一族を討った後手紙で
「その家の主人が家臣を失うことは手足を斬るようなことだ。
 これ以上悪いことはない。」
と隆景に言っています。
それでも井上一族を討ったのは
「ひとへに自分の器量がないせいだ。
 自分の力不足なんだ。」
とネガティブ反省をしています。

よって井上一族の誅伐は
したいけどでも倫理的にしちゃいけないと
自覚していたようです。

実際、粛清といいながらも結構井上一族は生き残っていました。
まず、井上助十郎。
かれは元兼の息子だったのですが、忠実に仕えていたようで、
隆元から事前に元春の所へ逃げておけ、
元春があとは何とかするだろうからと
実行の10日前に新庄へ行っていました。
次に、井上光俊。
彼も忠実に仕えていたため、助けられ、
粛清の後、元就と隆元の両名から
大切に扱えと言われたから何かあった私に言って欲しい。
と児玉就忠から手紙を貰っています。
そして井上弥四郎就正。
彼は事件の時には大阪の堺にいたのですが
吉田にいた井上一族で生き延びた親類の女性の「あはい」から手紙を受け取り
吉田にはしばらく戻らず、ほとぼりの冷めた頃に帰参して再び仕えたそうです。
この「あはい」という女性の手紙によれば
他にも虎法師や赤法師といった子どもらは何事もなく助かったから
安心してほしいと書いてあります。
この子どもらも後に元就に仕えています。
そのうち虎法師は元就落胤だとされ
だから助けられたとされるのですが、
名前が合わないと言うちゃってでした。
こうして結構助けられているんですが
大きな事件であったため、
助けられた井上一族の中には佐藤や三上と名を変えた人もいるそうです。
そして井上氏の家督は井上氏にいた元就の甥が継ぎました。

では井上一族が譜代でもないのに
大きな力を持っていたのはなぜか?

それは経済を握っていたからだと先生は言うてでした。
まず助かった井上一族の「あはい」。
彼女が送った弥四郎は大阪の堺にいました。
堺と言えば商人の町。
おそらく商売関係で堺に出向いていたと考えられます。
また、同じく商人がらみで志道広良の手紙が残っています。
「石見銀山の商人が吉田を通るのに三か所も関銭を取られ
 その高さに商人が吉田に出入りをするのを止めるのではないか、
 すぐに何とかしなければいけない。」
と訴えています。
商人の言葉だと三日市で井上元兼に取られ、
北を抜ける時には就勝に取られ
さらに吉田の関所でもとられた。
とあり、井上氏が家臣にも関わらず吉田の町内で関銭を稼いでいたことがわかります。

そもそも井上一族は中河原という地を持っていました。
ここは多治比川沿いで、船を使った水運が盛んだった当時は
三日市などの市が立つほど商業地として栄えていたようです。
そのため商人達は井上氏の勢力を無下にはできず
元就は商人達が井上氏を頼って自分は無力だったと嘆いています。
また、町も仕切っていたらしく、井上氏誅伐のあとに
井上氏の跡を継いだ児玉就秋が商業や城下町の町役人の仕事を受け継いだことから
井上一族は吉田城下町に商業を中心として
強い勢力を築いていたと考えられます。

城下町が一部の家臣のに牛耳られ統治できない。
しかも独自に関を設けていても注意できないほどの大勢力。
厄介ですが家督を相続させてもらった恩義があります。
元就さん義理固いところがあるから
なかなか強くいえなかったんではないでしょうか。
天文19年よりも随分前からいつかやってやる!
とじっと我慢をしていたようですが
両川体制を作る時にようやっと実現させた。
これにより吉田の城下をようやく手にいれることができたのと
大内氏のような下剋上を未然に防いだ。
それは元就さん本人はやったという思いと後悔と色々と思う事があったんでしょうが
結果は大内氏の言うように「為御一家長久之基候」だったのではないかなあと思いました。

あ、で恒例の質問タイム。
今回よう勉強しちゃっての方がおって
すごいなあと思いました。
で、企画展の監修が先生だったので
それに関していくつか質問がありました。

まず三吉夫人。
三吉氏は三次の名族でありながら史料がないためようわからん一族です。
この三吉氏で元就の継室あるいは側室になった女性がいるのですが
彼女は元就死後、他の家来に嫁ぎます。
子どもも産んでいたし、乃美大方のように別に毛利家に残っていてもよかったんですが
彼女は再嫁しました。
まあでも別に驚くことではありません。
この頃はまだ夫と死に別れたら子どもを置いて
実家に戻って再婚というのも当たり前でした。
ただ、中国地方の主よりもいい嫁ぎ先なんてありません。
だから
「彼女はどうして再嫁したのか?」
と質問がでていたのですが
ううん、年齢がまだ若かったかなあとも思うんですが
まあ乃美大方かなり強かったようだし
合わんかったのもあるのかもしれないです。

あとお歯黒。
元就さんの手紙でお歯黒を戦地だからつけてなくて
正月にはつけたいから寄こしてもらえないか
とかなり切実に訴えている手紙があったんですが
「お歯黒をつけていたのか?」
今川義元はつけていて、貴族趣味だと揶揄されるんですが
どうも戦国時代の身分が高い武将はお歯黒をつけていたようです。
しるしが上がった時にもお歯黒で身分が判明していたようです。
ちなみにお歯黒は虫歯予防になります。

今回も色々と勉強になりました。
また次年度が楽しみです。
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Re: No title

すみません私も浅学でして井上衆に関してはそこまで詳しくないのです。
そもそも井上衆は単独で本なども刊行されておらず、論文になるのですが
個人というよりも歴史の流れとして出てくることが多いです。
毛利関連の講座ではよく出てくる名前なので市民講座などに参加されるのが
一番井上さんのことを知りやすいかと思います。

一番有名な井上さんは井上元兼ですが
三原が隆景の講座をしていることが多かったので三原の「小早川隆景物語」という
講座論文集に井上春忠が出てきていました。
もし家系図などを御知りなられたいのであれば
山口県の文書館などの方が調べやすいかと思います。

No title

私は、井上元兼の末裔と親から聞いております。そこで、井上元兼の事を詳しく知りたいと思ったのですが、研究者はいらっしゃいませんでしょうか?もしご存じでしたら教えてくださいませんか?

Re: No title

井上氏に限らず三吉氏や高橋氏など
没落した一族は本当に難しいです。
族滅したわけではないのに記録があいまいなのは
福島さんがきちんと寺領を保護せず
多くの寺院が由緒書きを散逸したせいだと地元では憤っています。

それでもこうして文献を探して行って
その手がかりから発見される先生がいらっしゃるから
有難いです。

元盛別人説はとしさんの推測された通りで大丈夫のようです。
俊の名が井上一族にあるのは福原氏からの編諱らしいです。
だから家督時に元就を推したんだと先生が言われてでした。
これは推測ですが、
弘元継室や興元正室の高橋氏が入りこむ中、
福原氏が挽回をかけて新たに家臣となった井上氏と手を組み
再び本家への影響力を高めようとした。
と考えると一門の福原氏と力はあっても他所から来たばかりの井上氏が結びついた。
というのもありえることだなあと思います。
よって元就家督相続は
毛利一門の坂氏・譜代家臣の渡辺氏
毛利一門の福原氏・外様家臣の井上氏
という対立構造があったのではないかなあと思います。
志道さんは元就方だったとされますが
彼は執権という立場から中立を貫いていたのではないかとも私は思います。
なので坂氏が元綱を引き合いに出したのは
福原氏の対抗馬だったのではないかなあとも思いました。

2月にも秋山先生の講座があるそうなので
またブログにアップしますね。
山城の秋山さんなら先生と直接アドレス交換されているみたいなので
一度聞いてみてはどうですか?
淡々とした柔らかな方なので多分大丈夫だと思うんですが・・・。

No title

面白いですね~。

井上氏については、僕も小説書くのに結構困ったんですよ。
吉田から見て南西の地域に大きな勢力をもった独立した国人領主であったろうと想像してるのですが、族人が多すぎて、誰が本家だか庶流だかさっぱりわからないし。

井上元盛については、多治比を横領したのと連署状に名を記したのは別人だろうとは思っていたのですが、それを裏付けることができなくて、でも、物語上は「わからない」とするわけにもいかないので。。。
結局、福原氏が広俊―貞俊―広俊と続くように、父の名前を子に継がせる形が良いかな~と思って、多治比を横領したのは、連署状に名を記した元盛の祖父、ということにして話を進めました。

元就研究の第一人者の方からお話が聞けるという、その環境が羨ましいです(泣
プロフィール

トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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