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山口・洞春寺~足利義満が最も恐れた人物~

今は元就さんの菩提寺になっている洞春寺ですが
元々は大内盛見さんのお寺でした。
裏に行くと今でもお墓があります。

kokuseiji1.jpg

毛利氏が関ヶ原後に防長移封された時、
輝元の両親である隆元夫妻は
なぜか萩ではなく山口のお寺をそれぞれ菩提寺にしたようです。
新たに作るお金もないのもあると思いますが
内藤氏も隆元も山口に縁があったからというのもあるかもしれません。

さて、ここに眠っていらっしゃる盛見さんは大内義弘さんの弟です。
瑠璃光寺の五重塔は盛見が兄・義弘の菩提を弔うために建てたもので
現・不動院もそれに付随する建て物でした。

看板では兄・義弘は戦死となっていますが
討った相手は室町幕府3代将軍・足利義満です。
義満とえいば、日明貿易により多額の財を持ち
金閣を建てたり、花の御所を建てたりと
室町幕府歴代将軍の中で最も権力を握っていたように
教科書では説明されていますが、
その義満が恐れた相手が大内義弘でした。

彼は、義満に臣従して6カ国の守護と九州探題を任じられ
九州を平定。
祖先は朝鮮王朝の王子であるという事あり
朝鮮との貿易により財をなしました。
しかし、勢力が強くなれば疑うのが人の常。
それに加えて
「何で金ピカの寺なんか建てんといけんのんじゃ!!
 あんた一人で作っちょれ!!」

と金閣の造営の拒否などで次第に義満との関係が悪化。
堺にいた義弘は追い込まれて義満に反乱しますが
そもそもが仕組まれていたものですから
多勢に無勢で戦死してしまいます。
この出来事が起こった応永6(1399)年の元号をとって
応永の乱と言います。

この応永の乱は安芸にも大きな影響を与えました。

大内義弘・盛見の父である弘世は
安芸守護ではないにも関わらず、
安芸の国人達の調停や領地の分配を行ったり、
安芸守護であった武田氏との戦いで
切りとった東西条の地を拠点にしたり、
と本来の安芸守護(といっても分郡)をさし置いて国人達に影響力を及ぼしていました。
そのため、義弘が反逆者として敗れると
幕府から新たに派遣されてきた新・守護と対立。
国人衆で同盟を組んだのが
「応永の国人一揆」
「安芸国人一揆」の元となりました。

一方、反逆者である大内氏の家督を継いだのが
ここにいらっしゃる盛見さん。
そもそも反逆者なので守護職を解かれてもおかしくないのですが、
彼は武力を持って勢力を回復し、剥奪された石見等を奪還、
ついには将軍・義満も認めざるをえない状況になり、
大内家の家督を正式に継ぎ、周防・長門・豊前・石見守護に任じられます。

・・・自力で家督に着いた、大内さん家で一番強い方です。

彼の菩提寺として作られた国清寺には
その権勢を表す物がわずかに残っています。

kokuseiji2.jpg

「 この礎石は、国清寺の経蔵の内部にあった八角輪蔵の中心柱の礎石です。
 安山岩の自然石で、中央が深く盃状に削られ、穴の端から
 中央部に向けてY字型に溝が刻まれています。
  現在の洞春寺の境内には、もともと大内氏第26代当主大内盛見の
 菩提寺である国清寺が建立されていました。この礎石のあった場所
 にはその国清寺の経蔵が建てられ、大内氏によって高麗版一切経が
 保管されていましたが、慶長7年(1602)に毛利輝元により園城寺
 (滋賀県大津市の三井寺)に寄進されました。
  礎石は昭和15(1940)年にこの地を開墾している時に発見された
 もので、発見場所が古くから経蔵跡と呼ばれていたことや、昭和4年
 (1929)に園城寺の経蔵の天井裏板から発見された墨書から、この
 経蔵の輪蔵の礎石であると考えられます。
                    (看板説明より 以下略)」

この場所は今は墓地で、状況としては墓地として開墾していた時に
発見されたっぽいです。
慶長7年に三井寺に寄進・・・。
関ヶ原の後でお寺に寄進したとこいうことは
敗戦処理でお世話になったお坊さんでもいらっしゃったのでしょうか。
輝もっちゃんは石田三成に刀を上げたりとか
気前よくポンポンお宝あげてるんですが
経蔵も同様に渡しちゃったんでしょうなあ。

で、これがその礎石

kokuseiji3.jpg

石がいびつで妙です。
写真で見る限り大きなものですから
のっけると傾きそうで怖いです。
中央部にきれいな円があり、それを削る技術があれば
きれいに加工できるはずなので
この礎石は割れてしまったからこんな形なのかなと思います。

それから国清寺の遺物、本堂前にある観音堂。

kokuseiji4.jpg

takinokannn1.jpg

これもまた屋根の先がきゅっとなっていて優美な曲線です。
看板説明にある珍しい軒がこれです。

takinokannn4.jpg


普通は室町時代の建て物の屋根と軒は

垂木

こんなふうに垂木が突きでていて
その上に板を重ねたのが屋根です。
なので相当最先端の技術を用いていることがわかります。
他にも

takinokannn2.jpg

扉の回転軸を受けるものや

takinokannn3.jpg

柱の下を算盤の目のように加工したものなど
細部にわたり、唐風の意匠に凝ってます。
かつて西の京と言われた山口。
しかし当時の京都と比べると唐風がふんだんに用いられ、
より華やかだったのではないかと思いました。


大内のお屋形様
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Re: 素晴らしい~

ああ、いえいえ、
どんな記事でもどんとこいです!
私も、あ、そういう記事があったなあと思いだせますし。

三井寺に行かれたのですね!
うう、羨ましいです。
大津もなかなか周辺をのんびりと見たことないので
来年あたり琵琶湖一周できたらなあと思います。

国清寺への移築は関ヶ原前からだったのですね。
ほうほう。
記事も拝見しました。
確かに観音堂とよく似てますね!
内部の細やかな装飾もまた見事ですね。
いいなあ、見に行きたいです、

・・・しかし、総大将敗北しているのに
移築する予算があったのか?輝!
とちょっと思いました。
迷惑かけてごめんなさいならまだ分かりますが
ううむ・・・。

素晴らしい~

こんばんは。いつもお世話になっております。
過去記事にごめんください。

週末、三井寺へ行ってきました。
でー、輝元さんの一切経蔵を堪能したんですが、国清寺ってどこだー?あ、毛利さんならトロロヅキ様のとこねっと。

お友達になって戴いた喜びを噛み締めております。
何てわかりやすく簡潔に教えて下さっているんでしょ。
大内さん巡りも行かないともったいないなーと思いましたわ。

一切経蔵を移築した時期ですが、
秀吉が三井寺に「闕所」の命を下し、三年後の亡くなる前日に三井寺を許しています。
直後から、皆で再建・移築ラッシュ!が始まり。
三井寺はさながら古刹のテーマパークになりました。

輝元さんの着手は1599年、関ヶ原を挟んで1602年に完工したようです。

画像の観音堂を見て、一切経蔵と瓜二つだなぁと驚きました。
周知の通り三井寺は天台宗なので、禅宗様の一切経蔵は異彩を放っておりますし、内部は装飾が残ってとても見事でした。

国清寺の歴史を教えていただき、ありがとうございました。
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トロロヅキ

Author:トロロヅキ
主に毛利元就から浅野長勲までの安芸の歴史に関するブログです。初めての方は目次へどうぞ。

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