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織田と毛利の入魂~「元春殿!信長殿と一緒に来てください!by八木豊信」~

吉川家文書でぱらぱら読んでいたら
八木氏の出した書状がありました。
八木城は香川氏のはず・・・。
しかも、文中の若桜要害とかどこじゃろう?
でも信長さんのこと出てくるし・・・としばらく放置していたんですが
「竹田城と戦国時代の但馬国」の講座を受けて氷解しました。

八木は八木でも、
但馬国八木の国人領主・八木氏
今の兵庫県養父市八鹿町八木の方らしいです。

地図で調べてみると
・・・吉田から徒歩で308km、
安芸、備後、伯耆、因幡、但馬の5か国を
アップダウンの激しい山路を通って
最短でも3日はかかる距離です。
ぶち遠いのですが毛利方の国人だった方です。

吉川家文書93号
書き下し文(私訳)
「別紙御返礼拝見、快く然り候。
 頃日躰定めて従い方々申されるべく候といえども
 承り及び一書以て通り申せしむ候
 
1 御下に就き、若桜要害殊の外相■候、
  殊郷内百姓等依って罷り出、本意の様申し触れしこと
  御推量あるべく候、然りと雖も、御人数など残し置かれ候儀候はば
  珍しき行い無きの候、御心安くべく候
  
  当国の事、御下国に依って、宵田西下心持相替わり
  手前然る様取り成すべく存じ候、氷尾山通路の事
  あまりに度々申されと雖も候、以て申し談じ筋目において
  今差し留め候、最前の如く断り申し候
  この方手前方々に依って相い支え、覃行せず候、
  其の御意得預かるべく候

  信長江従う出石・竹田連々懇に望みしためによって
  惟任日向守丹波乱入至り候、
  即ち、萩悪竹田表より引き退かれ、黒井城立てこもられ候
  かの城の周りにおいては、12・3ヵ所陣あり置きつけられ候
  このうち近き城々は尾崎一陣取り固められ候
  兵糧等相続からざるべからず候はば
  来春は一途とすべく様風聞候、丹波国衆過半残る所なく惟日一味候

  信長去る月13日上洛候、大阪半ば相調い、
  今月13日帰国候
 
  武田四郎方飛騨を出勢する至り風聞候
  遠国の事候はば、■儀存じず候
  内々其れ聞こえ候

  播州の事、池田信濃守宗景兵糧少々差し籠められ候
  10月5日討ちいられ候、信長在京に付きて屋形龍野へ御着
  宗景・三木其のほか礼の為上洛候

  田結庄表において、垣駿一戦に及ばれ候
  勝利を得られ候はば、海老手の城、今に異議無くこれ持たれ候
  御気遣い有らざるべく候

  この方につかれては、山鹿は申すに及ばず
  宵田西下立源太存分これあるべく候、風聞と雖も候、
  只今までは、珍しき儀これ無き候
  然るにより必ず定めおいては、これより申すべく候

  当国無事取り扱うため、信長より朱印をもって
  惟日従い使い差しこされ候
  強いて申されるにおいては、宵田城崎田結庄西下背かれがたく候はば
  相整えるべく候や

  鹿介その方相捨てられず懇望のよし候
  如何御返答なられ候か。
  相替え御思案候は、預かり知り、その意なるべく候

  来春は、御上洛あるべく候かな
  それ分けおいては、若桜の儀程あるべからず候かな
  迚御懇ろの儀候はば、御心の底通い、
  御隔心無く仰せられ越すにおいては
  いよいよ本望たるべく候
  もっとも申し入れすべき様と雖も候
  以て好き便り啓令め候、かたがた御辺酬待ち奉り候
  恐々謹言

  11月24日     豊信
  吉川駿河守殿 御宿所」


・・・・長い。
まあ、遠国だから
手紙のやり取りも頻繁にはできないから
言いたいことを盛り込んだんでしょうなあ。

現代語訳(私訳)
「別紙で頂いた返礼を拝見し、
 快く思っています。
 常日ごろから覚悟を決めて従うと
 皆みな申されるようですが
 この手紙を以て我々の要望を聞いて頂きたいのです。

 貴方が向かわれたので、若桜要害は思ったよりも早く済みました。
 特に、郷内の百姓たちが出兵した時に
 百姓たちの望みを聞かれたことですが
 推し量られた通りのことでした。
 そうはいっても、毛利方から何人か残し置かれていますが
 取り立てて変わったことはありませんので
 ご安心ください。

 但馬国の事ですが、貴方が但馬国に来られたことで
 尼子方についている宵田や西下の垣屋氏も心変わりをし
 毛利方へ付くように私が交渉しにいこうと思っています。
 但馬境の氷尾山の通路の確保の事ですが
 何度も何度もしつこいぐらいに催促されても
 こちらでその問題について然るべき道理を話し合いますので
 今はとりあえずその問題は置いておいて
 この間も申したように、こちらがみんなで支えますので
 断行せずにいます。
 それについて貴方の同意を得たいのです。

 信長方の出石の山名韶煕、竹田城の太田垣輝延らが
 但馬に侵攻してきた丹波衆を追い払ってほしいと
 連れ連れと願いを出したので、
 明智光秀が丹波の国に乱入することになりました。
 そのため、但馬の竹田城を攻めていた萩野直正は退き
 黒井城に立てこもりました。
 城の周囲には12、3ヶ所も陣を取りつけられたそうです。
 それらの中で一番近くにある城は城の尾崎の陣を取って
 守りを固められたそうです。
 兵糧などが長くは持つことはないでしょうから
 来年の春には一気に攻めあげるという噂が流れています。
 丹波の国衆のほとんどは明智光秀に味方しました。

 信長は先月13日に上洛し、大阪の本願寺との和睦が整い
 今月の13日には帰国しました。

 武田勝頼ですが飛騨から出陣したという噂です。
 遠国のことなので、詳しいことは知りません。
 ひそやかに囁かれています。

 播磨のことですが、池田輝政が浦上宗景へ兵糧を少し運び入れ
 10月5日に城に討ち入ったそうです。
 信長が在京していたので、御屋形様の山名祐豊は龍野城へ戻られ
 浦上宗景と三木氏らがお礼のために上洛しました。

 田結庄(たいのしょう)氏の構えている城のあたりで
 垣屋豊続が一戦交えたそうです。
 合戦には勝利したので、海老手の城を救援することができ
 今も我等が持ち続けていますので心配なさらないでください。

 山中鹿之介についてですが、彼については我らが申さずともご存じとは思いますが
 宵田や西下の垣屋氏か、立原源太兵衛が匿っているのではないか
 そういう噂がありますが、今のところ変わった動きはありません。
 ですので、是非今から言う事を聞いて頂きたいのです。

 我ら但馬の国の兵乱を治めるために
 信長からの朱印状を持って明智光秀を使者として遣わし
 「尼子方として支援している宵田や城崎の田結庄、西下ですが
  毛利家と合わせて軍を動かしてくだされば易く降伏するでしょう。」
 と強く申しました。

 鹿之介について見捨てずに懇望していることですが
 どのように御返事されるつもりでしょうか。
 もしお気持ちが変わられたとのことでしたら
 我等にも知らせて頂ければ、意に沿うように致します。

 来春にはお出で下さりますでしょうか。
 もしお出で下さるようであれば
 若桜のようなことにはならないと思います。
 日本海側の国人衆も毛利方につかれたとのこと
 我等を疎略に扱うことではないという心の現れを示して頂き
 嬉しく思います。
 もっとも私たちが提案したことですが
 どうかよい返事をくださりますよう
 皆みな御返事を待ち望んでおります。
 
 11月24日    八木豊信
 吉川元春殿  御宿所」


長い・・・。
いや元春や隆元、元就さんの手紙に比べればまだ短いほうか・・・。

ええっと、端的に言えば
「明智光秀が丹波に来て尼子軍を追い払ってくれたけど
 織田信長と元春殿も来て頂きたい。
 そうすれば但馬の尼子勢力は降伏する!」

と元春の出陣を要請する手紙です。

で、出された年月日ですが
浦上宗景が毛利方に戻っているので天正元年以降
武田勝頼が信濃を出陣したので天正2年か3年・・・。
ただ、天正3年5月の長篠合戦で武田勢は大敗しており
信長がそれを喧伝しないはずはないので
天正2年11月ではないかなと思うんですが
注釈には天正3年
「遠国につき~」だし、風聞だから勝頼のことはとりあえずおいて
他の要素で観ると
山名氏は元就さんと最初仲良かったんですが
後でこじれて関係修復できたのは天正3年の1月14日。
それから本願寺との和睦が整っている。
天正3年の秋には本願寺の講和が整っているので
天正3年の注釈が正しいかなと思います。

とりあえずまだ信長さんとは同盟状態なので
出雲を追われた尼子氏の残党が
但馬の国衆を巻き込んで反尼子と、親尼子に分かれて争っている状態です。
ただ、反尼子も地理的な事もあって親毛利と親織田に分かれ
今は織田・毛利が入魂なんでいいんですが
この後、天正4年になると今度は毛利方と織田方に分かれて熾烈な争いが始まります。

まあ、とりあえず天正3年の但馬に戻って、
まずは
「頃日躰定従方々雖可被申候
 承及通以一書令申候」

基本但馬の国人衆の御屋形様は山名家。
山名氏は元々6分の1殿と呼ばれた大守護、
山名宗全といえば応仁・文明の乱を起こした片割れです。
備後守護として実行支配していた時期もあり
毛利家は昔は従う立場だった家。
なので、但馬の国人である八木氏も
俺たち元は同格だろ?的な文面ではあります。

で、まずは「就御下」
手紙の最後に「御宿所」とあるので
元春がどこかに出陣していたのは確かです。
で、
「殊郷内百姓等依罷出、
 本意之候被申触事
 可有御推量候」

元春は因幡の若桜要害あたりに出陣したのかなと思いますが
その時に百姓一揆があったようで
一揆勢の要求を聞いたところ思った通りであったので
要求を叶えて一揆は解散したものの
一応一揆が起こらないように在番おいたようです。
・・・百姓一揆、説得したですね。
すごいな元春。

ただ、若桜要害は因幡。
そこから但馬に入るには氷の山超えをせねばなりません。
なので
「氷尾山通路事、
 剰度々雖被申候」

と「氷尾山」(恐らく氷之山)の通路が確保されれば
但馬に行けると毛利方は国衆に言っていたようですが
「以申談筋目、于今差留候
 最前如申し理候、此方手前依方々相支、
 不断行候」
そんなことはこっちに来て下さるんであれば
どうにかしますから、とりあえず来るっていってください!

とかなり切羽詰まった感じです。
なんでそんなに焦っているのかというと
「信長江従出石竹田連々依為懇望
 惟任日向守至丹波乱入候」

同じ反尼子とはいえ、親織田派は大きな動きがあり、
明智光秀が丹波に入って丹波の国衆は皆光秀に従った。
このまま但馬の影響力が強くなれば
親毛利派の国人衆は親織田方の下につかなければいけなくなる。
なので元春が但馬に来れば、織田派に大きな顔をされずずに済むという
打算があったんだろうなと思います。

・・・・。
ううん、見知らぬ土地に行くのに
道中安全かどうかも分からないのに
そりゃあ安芸から行っちゃろうって言えんなあ。

なので順番変わりますが末文の
「沖御懇儀候間、御心底通、
 無御隔心於被仰越候者
 彌可為本望候」

の「沖」と懇ろにすることで
日本海側から但馬に行けるように手配をしている。
なので「氷尾山通路」以外の道を確保した。
そのことは但馬に来る準備だなと八木さん達も思ってくれて
「本望候」と答えてくれているんだなと思います。

で、信長や武田などの東国の様子。
それと池田輝政が浦上宗景に兵糧を渡したこと、
八木氏ら但馬国衆にとっては御屋形様の山名氏の動向。
最後まで毛利方として戦った垣屋豊続の今のところ優勢に戦っていることを告げてます。

なので、
「宵田城崎田結庄西下雖被背候間、可相整候哉」
ここらで信長と元春が来て下されば
背いている者たちもこちらに寝返られさせることができる。
と頼み込んだようです。
・・・・・。
・・・魔王と無敗の鬼が攻めてくる・・・・。
あ、うん降伏します!


気になるのが山中鹿之介。
「鹿介其方不被相捨懇望由候
 如何被成御返答候乎」

え?どういうことですか?
「捨てられずに懇望候よし」
敵ですよね?
しかも鹿之介さん、元は亀井氏の出で
亀井秀綱といえば元就さんの弟を策で操った方。
父の代からの仇敵です。

ううん、多分山中鹿之介を元春が家臣にしたがっていたという話があるので
それかなと思います。
山中鹿之介は出雲で破れた時に元春につかまっているのですが
勇猛さにほれ込んで家臣にしたいと思ったらしく
連れ帰ろうとしたら途中でトイレから脱出されたという経緯があるのです。
・・・元就さんか元春か、一度捕まえたときにきちんと始末しとけば
こんなに泥沼かすることもなかったんですが。
でも、三度目の上月城の時も生け捕りにしてたから
あの時も本当は連れ帰るつもりだったのかもしれません。
さすがに家臣が手を下しましたが・・・・。

ただ、尼子氏残党を匿って半分に分かれた但馬国内
その中でも反尼子で、親毛利と親織田で分かれている・・・。
以上、きな臭くなった但馬でした。

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